ひめごと 〜彼と彼女
酔っているようです。彼女は言った。自分に。そしてうっそりと呟く。
俺はがっくり体勢を崩して、冷たい机になついた。お前なあ…。べたべたやねん。
すると彼女はどうだろう、いつにない、とても優しい眼差しをこちらへ向けて、晴れやかに笑うのだ。
「こんな風に、あなたを困らせることができるのは、わたし1人だ」
だから酔ってしまうんです。再び呟いて、ワイングラスを口元へと運ぶ。
「言っていませんでしたっけ?」
…何を。こうやって俺をいじめるのが好きだってことなら、言われるまでもなく知ってるが。
つっぷした体を起こして、頬杖をつく。彼女の思わせぶりな態度はいつものことだ。
信じて俺は馬鹿をみる。そういうことは日常茶飯事で、ポーズだけでもやさぐれて見せたくなる。
「わたしは、あなたが好きなんです」
ガタ、ガタ、ガタタンッ。
椅子から崩れ落ちて、俺は今度は床になつくことになった。
あきれた一瞥をこちらに向けて、おや、と彼女は暢気に言った。
ちびりとワインを舐めて、そしてもうひとたびの呟き。
「あなたも酔ってしまったんですか」
そしてそして、晴れやかな笑み。
ひめごと 〜クルスとユリカ
―――SIDE:Yurika
たとえば私が、こんな風に言うとする。
「私、あのひと嫌いだな」
すると、彼はこんな風に返す。
「だれ?」
たぶん、100パーセントの確率で。
クルちゃんは、ちょっと頭の足りていないひとのようにみんなに思われている。
意味も無くおんなじ動きを繰り返したり、何度言って聞かせてもすぐにすっかり忘れてしまったり、いやみを言われても気づかないでありがとうと笑ったりするからだ。
でも違う。ぜんぜん違う。クルちゃんはとても頭がいいし、目もきれいだ。
クルちゃんの動きに意味を見つけられないひとの方がぜんぜん分かっていなくて、ウンと言ってうなずけないことばかり言うから彼は全部忘れるのだし、お礼を言うのだって本当はすごく自然なことだもの。
とても頭がよくて、きれいで、やさしいクルちゃん。
そんなクルちゃんに、今日も私はひとを殺させている。
「さっき、話していたでしょう? 笠木さん――」
笠木さん。すぐそこの廊下で、クルちゃんと仲がよさそうに話していた子。
今日のターゲットは彼女で、司令官は私、クルちゃんは凄腕のエージェント。
司令官は依頼者も兼ねていて、エージェントへの秘密の依頼はたった五文字。
「――私、嫌いだな」
きらいだな。そういう風に言うだけで、彼の前と私の前とにあっという間に死体が出来上がる。
ううん、クルちゃんはとても頭がいいうえに、仕事もはやいから、あっといわない間にでも終わってる。
「うん。だれ?」
ほら、こんな風に。
殺すとか、死ぬとかいうのは、もちろん本当にナイフで刺したり銃で撃ったりすることとは違う。
クルちゃんの手はすべすべだし、ナイフや銃なんて持たせたらもったいない。
それに私たちはまだ子供で、つかまってひどい罰を受けたりはしないのかもしれないけど、怖いから、そんなことはしない。
知ってるかな。人に忘れられた時にそのひとは二度目に死ぬんだって作家の誰かが書いてた。
その作家の名前は私は覚えていないし、クルちゃんなんか、作家の名前だけじゃなくてそういう話のことも、100パーセント知らない。
きらいだなの呪文で100パーセント殺してしまったから。
「ねえ、それよりユリカ、すごいんだよ。にんげんはにかいしぬんだって。
いっかいめはほんとうにしんだときで、にかいめはすっかりわすれられたときだって。
すごいねえ、ぼくら、いまもふたつでいきてるんだ。すごいねえ」
すごいすごい、すごいキラキラまっくろの目でクルちゃん。
「ぼくかみにかいてきたんだよ。ユリカにあげたいんだ。ユリカこれもらってくれる?」
「うん。ありがとう」
クルちゃんがポケットから出した一枚のしわくちゃの紙を、受け取って机の上に広げる。
クルちゃんはいつでもニコニコしている。すごいっていうことをたくさん知っているから、きっと幸せなんだ。
「私はひとりっきりがいい。ひとりだけのクルちゃんがいい。だから私、その話はきらいだな」
私もポケットからアルファベットのチョコをひとつ出してクルちゃんにあげた。
机の硬い平らな上にすりつけてしわくちゃ加減の少し減った紙を、ポケットに納める。
「ねえユリカ、それなあに? そのしろいかみなあに?」
「白い紙よ。チョコのかわりにポケットに詰めたの」
「ふうん。じゃあ、ポケットはまんぱいだね。よかったね」
「うん」
「ぼく、うれしいよ」
私のポケットは、二度死ぬひとの話でいっぱいよ。
―――SIDE:Kurusu
人に忘れられた時、そのひとは二度目の完全な死を迎えるのだって、作家の誰かが書いていた。
ぼくはその話を何度も知る。ユリカがきらいだなと言うからすぐに忘れる。
100パーセント忘れて、でもぼくは、それからもう一度その記述を見つけ出してユリカに差し出す。
ねえ、それよりユリカ、すごいんだよ。
ぼくはこの台詞とこの作家のこの話だけは、しつこく何度だって覚え直す。
ユリカの嫌いなひとなんて、僕がこういう風に何度でも殺してあげるからって、ユリカを誘うんだ。
犯罪者になって警察に行ったら、ふたりが離れ離れになてしまうのくらい、ぼくは知っている。
だからポケットの中のくしゃくしゃの紙をユリカに差し出して、契約を交わす。
ぼくがユリカのためにできるのは、100パーセント忘れることだけだ。
今日もさようなら、もう僕の知らないひと。
ああ神様。
ぼくは今日もまたひとを殺してしまいました。
十字架の名前を持っているのに、つみぶかい子供です。
でもぼくはユリカが好きだから。
懺悔にもならないんだ。
「ねえクルちゃん。私、わたしが嫌いだな」
「うん」
「きらいだな」
「うん」
「…………………」
「ねえユリカ」
「うん」
「でもぼくはユリカがきらいでもユリカがすきなんだ」
ぼくのあげた白い紙がユリカのポケットを隙間無く埋めつくしたら。
ぼくのお腹はユリカのくれたちょっと甘いチョコレートで満杯になる。
それは僕にとって当たり前のことなんだ。
「ぼくはユリカに二度生きてほしいよ」
そうしたら、二倍のひとを殺しながら、ぼくの満腹も二倍になるんだから。