あの夏の日々、この冬の夜
7月末。
亮子には最近、気になる人ができた。
と言っても言葉の意味そのままにただ気になるだけの人物で、名前も知らないし家も知らないし、言葉を交わしたこともない。
それどころか半径5メートル以内に近づいたこともない上、大通り沿いにある手押し信号のボタンを押して、青になるまでの短い時間、亮子の方が一方的に見ているというだけの関係だ。
その人は、たいてい、黒いシャツを来て黒いズボンを穿いて店の前に立っている。
実年齢は分からないがひどく落ち着いた雰囲気をしていて、身長は亮子よりも高くて、男にしては髪が長い。
姿勢が良くて礼儀正しそうな印象で、鋭い瞳は、いつも、人波の中に何かを探すように真っ直ぐ前を向いていた。
亮子は始め、誰かと待ち合わせをしているのかな、くらいに思っていた。
だが次にその場所を通りかかった時も同じように立っていたので、店の宣伝か何かなのだろうと思い始めた。
通りかかる人にティッシュを配ったり話し掛けたりはしなかったけれど、彼がそこに立っているだけで充分人目を引いていたからだ。
亮子の話を聞いた友達は、もしかすると何かのスカウトマンかもしれないだとか、絶対ナンパだよとか、いろいろな名推理を聞かせてくれた。
その推理のどれが真実なのか、それとも全く見当違いのものばかりなのか、彼については目に見えること以外の全てが謎だった。
別に無理をして知りたいわけではなかったけれど、今では、彼を見られるその道が、亮子の標準帰宅コースとなっている。
しゃん。
澄んだ音を聞いた気がした。
あ、あの人だ。
と、亮子は思った。
今日もいる。
今日というのは、太陽が照りに照って、アスファルトから立ち上る熱気に蜃気楼を見るくらい暑い、真夏のある日だ。
亮子にしてみれば8月に入ってから初めての登校日で、久しぶりに彼を見られる大通りを歩いて帰ったその日だ。
昨日も一昨日もそうしていたのか、それとも亮子が通る日に限ってタイミングよくそこに立つのか、彼は相変わらず店の前に立っていた。
真っ直ぐ前に向けられた彼の視界を、何人もの人が遮っては通り過ぎる。
ピンクのド派手なスーツが横切る。
茶色い大きなハンカチが、せかせか汗を拭う手の中で皺を作る。
逆プリン頭はギャハハハばっかでーと言いながら歩き去って、黒い携帯電話は少し前から見なくなったCMの曲を流していた。
信号が青になる。
亮子は横断歩道を足早に渡った。家に帰るには店の横の道を真っ直ぐ行くのが正しかったが、横断歩道を渡った先ですぐに右に折れた。
それは、いつも前だけを見ている彼の視線が、ふいに揺らぎを見せたからだ。
店の大きなウィンドウに映る自分を横目で確認して、バッグを背負い直す。
気合を入れるように息を吸うと、亮子はそれを吐き出した。言葉と共に。
「ね、大丈夫ですか?気分が悪いならもっと日陰に行くとかして座った方がいいと思います」
すると、声をかけられた青年は酷く驚いたように亮子の方を見た。
街じゅうに散らばっていた視線を亮子の上に集める感じで、ゆっくりと焦点を合わせてきた。
それを真っ直ぐ見返しながら、亮子はにんまり笑って続ける。
「それとも機嫌が悪いんだったら、あたし、グチ聞きマシーンになりますけど」
………………、妙な間があった。
あ、と言いかけたのだろう口の形をそのままに、青年はとても苦しそうに息を継ぐ。
「…話すことは、ないが」
やっと返って来たのは、肺から無理やり搾り出したような掠れた声だった。
何かに怯えているようだ、と、亮子は思ったが、何に怯えているのかは分からなかった。
彼の首筋を、汗の雫が伝い落ちていく。
「気分は悪くないんだ?」
亮子が確認すると、少し顎を引く仕草で青年が答える。
「機嫌も?」
「そうだ」と、青年は言ったようだった。「悪くはない」
あたしは目を閉じる。
全部を逃がしたくなかったから、急いで目を閉じる。
「…名前?」
俺の?と、まず確認してから、青年は答えた。
「アクツ、という」
上の名前、下の名前?
亮子が聞くと、「上の」という簡潔な答えが返ってきた。
じゃあ下の名前はと聞いたが、これには答えがなく、答えられない理由があるのかと思って見上げてみると、やはり彼は困ったように視線を逸らした。
「アクツって、どんな字書くの?」仕方がないので、亮子は質問を切り替えた。「阿久津?」
手のひらを突き出して書いてみせると、彼は頷いて、それから遠慮がちに伸ばした手で亮子の手のひらに「亜」と書いた。亜久津というのが、彼の苗字らしい。
「あ、あたし姫ノ木亮子。プリンセス・ノ・木の、なべぶたで足が生えてる亮子。16歳で、高校生。今日はね、うーんと、部活帰りみたいなモンです。部活って言うとうーちゃんは怒るけど。ちなみにあたし、シンセね」
シンセ?
という疑問の篭った目を向けられて、亮子はウンと頷いた。
「シンセサイザー。バンドやってるの、あたし。Mysterious Dolls」
亜久津が何も言わないので、亮子は少し様子を見てから話しつづけることにした。
「他のメンバーはね、うーちゃん、かなちゃん、ちーちゃん。高校の一年先輩で。あたしを選んで誘ってくれたから、一緒にやってる。みんなすっごい上手いんだよー、もうファンもついてるんだから。まだ始めたばっかりだけど、今度テープも作ろうって言ってるとこ」
「順風満帆デショ」と亮子は付け足した。「何か家族みたいで気持ちいいんだぁ」
亮子は、まるで飼い猫が主人の前で無防備に欠伸をする時のように長閑な調子で言った。ついでに両腕をぐぐっと上げて伸びをする。
するとその会話の途切れを気にしたのか、亜久津が小さく唇を動かした。
「………エレクトーンなら、」
それは相変わらずの掠れ声だったが、しっかりとした発音で亮子の耳に届いた。
雨でも降ったらいい具合にしっとりして、素敵に聞けるんじゃないかと思わせる声だった。
残念ながら、今は干からびているけれど。
「弾けるの?習ってた?あはは、じゃああたしよりも上手いかもしれないね。あたしのは自己流だし。今度一緒に弾いてみよっか。キーボだったら一個余ってるよ」
亮子の言葉を吟味するような間を置いて、亜久津は頷いた。
頷きながら、口を「君が」と動かして、また少し間が開いた。
「望むなら」
それ以後亮子は、彼を見つけると、とりあえず側まで行って挨拶をするようになった。
瞼を上げた目に刺さってくるのは、とても鋭い光の洪水。
うん、たぶん、あの時あたしの胸ではじけたのは、今見てる星みたいなこんな光。
きらきら。
それが眩しくって、あたしはまた目を閉じる。
亜久津とは、一回会うごとに一度ずつ、亮子による質問タイムが設けられた。
たわいないような質問の一つ一つに、亜久津は時間をかけて答えていく。
あまりに間が開きすぎると、亮子は横目で彼を見上げて、重ねて質問をするか答えを待つかの判断をした。
こうして話してみて分かったことだが、彼には全く表情といったものがなかった。
その代わり、目の動きやちょっとした仕草によって自分の思いを伝えてくる。
亮子はそれを見ながら話を組み立てて、その結果分かったことは、亜久津は高校生で、今は夏休みで、夏休み以前には試験休みであの店先に立っていたのだということ。
理由は「人を見て落ち着きたかったから」らしい。それは何故かというと、自分が亜久津だと知って、ショックだったから??
亜久津のことを全て理解するのは無理だと、亮子は早々にあきらめた。
その代わり亮子は、亜久津についてのメモを手帳に書き始める。
年はいくつ、誕生日はいつ、星座は、血液型は、それから彼と会って自分が思ったこと、色々。
7月最後にはなかった傷が8月には増えていたことも、きちんと書いてある。
「喧嘩?」
と、亮子はカマをかけてみたが、亜久津は軽く首を捻っただけで何も答えなかった。
よくよく聞いてみれば、すぐに目に付く首元の浅い傷の他にも、足だとか腹部だとかに通院が必要な程の傷があるということだった。
理由はよく分からないと亜久津は言う。何時の間にかついていたらしい。
理由も分からないことで何時の間にか傷が増えるなどと、平然とした顔で言う亜久津が、亮子はとても心配になった。
そこで、食事や睡眠はとっているのかと尋ねると、「それなりに」という答えが返ってきた。
彼は嘘はつかないので、だったらきっと本当に「それなりに」しているのだろうと、亮子は判断した。
家に帰れば家族もいるらしい。
母親と二人暮しだそうで、これは亮子とは反対だった。亮子は父親と二人暮しだ。
そういえば、付き合いの浅い亮子にも断言できる程、亜久津は律儀な男だった。母親を守ろうとして必死になった結果だろうか。
だが、亜久津の律儀さはどこかズレている、と、亮子は思う。
それは例えば、亮子が駆け寄りながらおはようと言うと、おはようと返ってくる。こんにちはと言えば、こんにちは。こんばんはと言うと、少し間が開いてからこんにちはと返ってくる…そんな具合に。
すると亮子は、何時を過ぎたら「こんばんは」の時間になるのか考えたことがあるの、と、一人で話し出す。
その時は、結局―――
「アクツさんが前言ってた『聞こえなくなったら』ってさ、あたし考えたんだけど!」
挨拶の後すぐに亮子が話し出すのを、今日も今日とて亜久津は静かに聞いていた。
話題は前回会った時のことをそのまま引きずって、こんばんはの時間についてだった。
前回、アクツさんはどう思う?と聞いた亮子に、亜久津はいつものあの間を置いてから、「聞こえなくなったら」と答えたのだ。
それでずっと、亮子は考えていた。
「人の声が聞こえなくなったらってことじゃないんでしょ?夜になったって沢山歩いてるしね。だからそうじゃなくてさ、昼の音が聞こえなくなったらってことかなって。アクツさん結構メルヘンだし。いつも何か聞いてる感じ。空気の音とか」
手のひらで扇ぐようにして空気を動かすと、亜久津は暫く耳を澄ますように目を閉じて、開いた時に頷いた。
2、3秒の間を開けてもう一度頷いたのは、亮子の解答に対する採点結果なのだろう。
「ね、あたしの音も聞いてる?」
少しドキドキしながら、何でもない風を装って、亮子は聞いてみた。
「聞こえている」ちらりと視線を寄越しながら、亜久津は答えた。「声と音と」
「どういう風に聞こえてるの?ガヤガヤしてる、それともフニフニ?あたし一人で煩いからジャカジャカかな。シレファソの和音みたいな感じ。ファでちょっと拗ねてみるの」
どう?
亮子が下から振り仰ぐようにして見上げると、亜久津の目はもう、亮子の方を向いていなかった。
遠くで点滅している信号機の緑色を見て、何か考えている。
「え、和音みたいに綺麗じゃないかな、不協和音かな。それとももっと長くて、転調しまくりの曲―――」
ドレミファソラシ。
キィを抑える滑らかさで、亜久津の指が動いた。亮子はふいと口を閉ざしてその先を見守る。
ドレミファソラシ。シ、フラット。シシシシー、シシシシー。
「…運命?」うーん、と考えながら亮子は聞いてみた。「扉を叩くの、あたし?」
「シのフラットで」
いつものように簡潔に、亜久津が答える。
もう一度シシシシーと鍵盤を叩く真似をして、彼は手を下ろした。
「し、シのフラットで……」
ううーん、と、亮子は考え込んだ。また次までの宿題が出来てしまったようだった。
そして亮子が会話を終わらせると、亜久津は何も言わなくなる。
視線は今日も、街に散らばる。
亮子は手帳を取り出して、『アクツさんは本格メルヘン』と書き込んだ。
たぶんね、君を初めて見た時から恋をしてたよ。
誰も見てない何も見てない他人同士が行き交う道端で、じーっとじーっと皆を見てた君を見てた。
そうして夏休みが終わる頃、長い間一人身を通してきた亮子の父親が、再婚してもいいかな、と、亮子に言ってきた。
相手の女性は亮子も何度か見たことのある人だったが、いつの間にそういうことになっていたのか、全く気づかなかった。
「圭子さんはとても素朴で、礼儀正しくて、料理は上手いし働き者で、少しドジで、それで父さんはその人のことをとてもとても好きなんだ」
娘の前に正座して語る、父親のそんな照れた顔を、亮子は今まで見たことが無かった。だから亮子は頷いた。
「いいよお父さん、あたし応援する」
『圭子さん』には亮子と同じ年頃の息子がいるという。
その息子の方も再婚には賛成してくれていて、亮子の父親と彼とは、もう何度も顔を会わせているのだという。
名前はタカラといって、圭子さんは本当に宝物のように思って一緒に暮らしてきたんだよ、と、父親は言った。
「少し難しい子だけど、亮子も慣れれば良いところが見えてくると思う。彼はいいお兄さんになるよ」
必死になってタカラについて説明する父親に、亮子は笑いながらストップをかけた。
「大丈夫よお父さん、あたし別にいびろうとか考えてないから。それに、一見愛想無しサンには慣れてるし」
そのタカラという新しい兄が、どんなに無表情でも無口でも、亜久津以上に難しい人はいないだろうと、亮子は思っていた。
* * *
衝撃、なんてものじゃなかったな。
その時の出会いを、あたしはそうやって思い出す。
アクツさん並に喋れなくなるとこだったもん、あの時。
あれは、初めて4人で会うことになって、お父さんが朝から張り切って花を選んでいた日。
あたしとタカラさん(つまり、ほーちゃん)は、普通に学校がある日だったから、学校帰りに気軽に寄れるようなファミレスでって。
圭子さん(つまり、お義母さん)も、その方が緊張しなくていいって言ってたみたい。
でも、そんな日に限って担任が長話をした。
あたしはイライラしながら話が終わるのを待って、一気に教室を飛び出した。
大遅刻だ。
再婚に反対してると思われなければいいけど…って、思いながら駆け込んだ店内。
お父さんが選んだ花なんて、見てなかったし覚えてない。
圭子さんの格好だって覚えてない。
あたし以外に制服を着てたのが、店内に一人だけだったのは覚えてる。ぴっしりしてた、ブレザーだった。
「亮子ちゃん、これが息子のタカラです。会うのは初めてなのよね?ええと、」
せっかくの圭子さんの紹介も、コレガムスコノタカラデス以降は全部素通りだった。
たぶん、表情は硬いけど怒ってるわけじゃないのよとか、少し無口なのだけれどとか、いろいろフォローしてたんだと思う。
そのタカラさんが立ち上がってぺこんと上半身を折った時の、あたしの衝撃ったら…!
「タカラ、宝珠と書いてタカラという。よろしく頼む」
そう言ったタカラさんに、あたしも急いで頭を下げた。
あんまりに慌ててたから、本当は言わない方がいいハズの苗字まで付けて。
「あ、あたし姫ノ木亮子です、字は」
「「なべぶたで足が生えてる亮子」」
二人の声が重なった。
タカラさんの目が、ちらってあたしを見た。それもしっかり覚えてる。
あの街角にアクツさんが立たなくなったのは、その会食の前後かなあ。
自分が亜久津だって知ったショックは、たぶんもう消えたんだと思う。
それで、あたしの手帳は始めの方はまだ「アクツ」って字が並んでいたけど、そのうち新しいお兄ちゃんの名前が並ぶようになった。
お父さんとお義母さんは心配してたみたいだけど、あたしたちはすぐ、近所で評判の仲良し兄弟になった。
あたしは最初、お兄ちゃんって呼ぶのが照れくさくて、でもタカラさんって名前で呼ぶのはもっと照れくさくて、いろいろ悩んだ末に、宝珠からとって「ほーちゃん」って呼ぶことにした。
「ほーちゃん」
呼びかけた時に、戸惑う一瞬の間をおいて振り返る、その横顔が好きだった―――。
あ。
やだな、これって走馬灯。
崩れていく指先はシのフラットを抑えたまま、あたしは急いでカメラを探す。
だって時間がないなと思った。
思い出してた色々は、時間にしたら、あたしの瞬き一回分だったけど。
ねえ、鈍いほーちゃんでも分かるでしょ。あたしがなんでキーボードを叩き続けたか。
気づけよ、リョウコさまの自慢のお兄ちゃん?
ありがとう、大好き、ごめんね、色んな気持ちを押しのけて、言いたいことが一つだけあるから。
見つけたカメラに口を開く。
”ウタヲ、ウタッテ、イテ”
白状すると本当に好きでした。
でも、歌っている顔の方がもっとずっと好きなので。
あたしのサイゴを映すあのカメラと同じ視点で、いつかこの日を振り返ってくれればとりあえずは満足。
ほら、あの上の方で光ってる青いライト、気持ちいい。
キラキラ。
背中、格好良いね。
またね。
歌っててよね。