その部屋でのお約束はいくつかある。
言っちゃいけない言葉が3つ。
せんせいと呼ぶこと。
分からないことは分からないよってちゃんと言うこと。
部屋に入ったらまず、2人でこんにちはをする。
こんにちは、お元気でしたか。
こんにちは、良い天気ですね。
せんせいは必ず始めにこう聞く。
「かわいらしいお嬢さん、あなたのお名前を教えてください」
「山田猫子です」
そうですか、じゃあ猫子ちゃん、また夢のお話をしましょうねえ。
せんせいがライトをぱちんと消す。
「春臣も言っていたでしょう?怖い夢は人に話してしまうと良いのよ」



――――あぁ。






 怖い夢を見た。
 見たと思って目を開いた先も真っ暗闇だったので、猫子は小さく息を呑んで止めた。
 いつもの習慣であたりに首をめぐらせれば、右も左も上も下も闇、闇、闇。
 胸の上の右手を伸ばすと、たすんと微かな音をさせて畳の感触が返ってきた。
 それでようやっと床があると分かった。
 空気を震わせないように慎重になって息を吐く。吸う。
 だれ、
 と、声が漏れた。
 仰向けになって上に問いかければ、地球の重力のせいで落ちてくる。
 だれ、
 問いかけられても答えることはできなかった。



 白い壁に左の手をついて、階段みたいになったところを下りていくの。暗いほうへ、暗いほうへって。
 その夢の始まりはいつもそう。辺りを見回しても、よおく目をこらしても、見えるのは前にぽっかり開いた口と下りていく階段と、壁に入ったひびくらいです。
 ひび、ですか?分かりません。壊れかけであぶないのかもしれません。だからニャコは地下の…ええと、シェルター?はい、シェルターです、そこに行こうとしているのかもしれません。
 そのまま進んでいくと小さな部屋です。真っ黒の中に、とてもたくさんのものがぎっしりです。
 ニャコはおもちゃを取り出します。
 違うわ、お人形さんじゃなくて―――はい、ごめんなさい、良く分からないけれど、でもおもちゃです。
 ニャコはたぶん知っています。ガチャガチャするものよ。
 ガチャガチャ、ガチャガチャ。くるんと回した時に声がします。
 ううん、おもちゃじゃなくって別の何かの声です。言葉はよく分からないわ、ニャコの聞いたことの無い言葉でした。それでニャコはびっくりして、押入れの中に隠れます。
 ??部屋?ニャコ、部屋って言ったかしら。押入れです、ふすまが横にスーって動く押入れよ。
 シェルター?ううん、物をしまっておくところです。おかしなことを言うのね、せんせい。
 はい、ええと…それで、しばらくその声は何かを叫んでいます。ニャコは息をしないように注意して、じっとうずくまっているわ。指を折って数えるのです、いーち、にーい、さーん、しーい…静かになるまで、じっと数えるのです。ごーお、ろーく、しーち、はーち。
 きゅう、じゅう。
 それで静かになるので、ニャコは外に出ます。
 お外は少しだけ光があります。ニャコがいたところは、建てかけの家です。ペンキと、板と、くぎと、他にもいっぱい道具があります。
 それでニャコは、手に持っていた日記帳を開くの。


「何て?」
「?」
「その日記には何て書いてあったの、猫子ちゃん」
 ニャコはせんせいの顔を見つめたまま首をかしげる。

『 いいえ。
  いいえ。
  だますつもりはありませんでした。  』

 ニャコはにっこり笑って答える。
 するとせんせいは、よくできましたと言って頭を撫でてくれる。
 よくできました猫子ちゃん。さあ、続けてちょうだい。
 ニャコは撫でてもらうのが大好きよ、せんせい。


 ニャコが日記を見ていると、大きな穴に落ちてしまいます。
 ううん、とても小さな穴だわ、ニャコが一人やっと通れるくらいの穴です。
 落ちていくと大きなお庭に出ます。お花も木も見えません。荒れてしまったお庭です。寂しいお庭です。
 右も左も後ろも壁で、前にはずっと続いている長い…ろうか?はい、ろうかがあります。細くて暗くて、そのずっと先にね、ぽつーんって扉が開いています。まっくろな中で、ぽつーんって。中で何かがひらひらしているのよ。
 ニャコは走ります。ひらひらしているそれを追いかけて走ります。

 ぱた、ぱた、ぱた。
 これはニャコの足音よ。

 ぱた、ぱた、ぱた。
 カツコツカツ、コツ、ここっかつっこつっ。

 どうしよう、さっきの人かしら。怒っているのかしら、ニャコをこらしめるために追ってきたのかしら。

 ぱたぱたぱたっ、かつこつかつっ、ぱたぱた…たたたたたっ。
 ニャコは必死で逃げます。さっき何かを叫んでいた人は、ずっとずっと追いかけてきます。ニャコは、

「出て行ケ!!」

 ニャコは、

「見ルな!」

 ニャコは、

「………、……が、………!!っだ、――――!」

 ああ………!!
 ………
 …、

 どうして。

 片目をつぶっていると暗さに早く慣れることができると教えてもらったことがある。
 誰だったかは覚えていないが、それから猫子は片目を閉じるようになった。
 そうしていると、心なしか早く周りのものが見えるようになって来る。
 ひぃと、猫子はまた息を呑んだ。
 瞬間的に泣き出しそうになるのを無理やり溜息に変えて、かかっている布団の中で服の端をぎゅっと握った。
 そこにいたはずの人がいないから、嫌われたのだと思って溜息は続いた。
 闇は重くのしかかってきている。
 手を伸ばして縋っても、その場所はかすかな温もりさえも持ってはいなかった。
 置いていかれてしまったのだ。
「あ、――ちゃ……ん…」
 置いていかれてしまった。
「どこ…?」
 嫌われてしまった?
 じっと瞬きをこらえて黒々としたその場所を見つめていると、
 あの、
 声が、



 見ルナ!
 出て行け、早く出て行け。
 馬鹿野郎、触るんじゃない、見るな、呼ぶな、その名を呼ぶな。
 さっさと行け。
 出て行け!
 見るな!
 み、耳をふさいでも聞こえる声、ニャコを責める声です、いろいろ、いろいろ、怖い声。
 ごめんなさい、あやまるの、だけどだめなの、ずっと。
 ずっと声は追ってきます。ニャコを追ってきます。どこまでも。ずっとよ、ずっと追ってきます。
 ニャコは逃げて逃げて逃げて。
 こ、こわくて。
 目をつぶります。開きます。ここはどこ。白くて暗い。ここはどこ。
 どこですか、どこ、どこにいるの!?
 おみ君、どこ、たすけて。
 ニャコをたすけて。
 たすけて、おねがいです、たすけて、たすけて、ごめんなさい、たすけて…



「たすけてください、たすけて…
 ニャコを…ひとりでおいていかないで…
 …きらいにならないで…ニャコ…を、いらないっていわないで…
 おねがい、おねがいです」

 かみさま。
 ああかみさまおねがいです。
 いいこでいますから。

「キィちゃん、キィちゃん、キィちゃん、キィちゃん、キィちゃん、」

 キィちゃん、
 キィちゃん、
 キィちゃん、
 昨日は68回くりかえして、
 その前の日は95回で数えるのを止めた。
 上を向いている時に流れていく涙の行く先は、どうして毎日違うのだろう。
 皆はなぜ、いつの間にどんな方法でいなくなってしまうのだろう。
 どこに行ってしまうのだろう。
 何を求めればいいのか分からなくなって、見なかったことにするしかなくなる。

 だれ、だれ、だれ。
 問いかけの答えはもらえそうにない。
 リリパットの浜辺に漂着したガリヴァーのように、おろおろ辺りを見るばかり。


「もし妹がいたらどうかしら?楽しいかしら?」
 せんせいはいつも突然言う。
「分かりません。ニャコ、妹がいるのってどんなか知らないので分かりません」
 お約束したから、ニャコは首を振る。
「いないの?」
 もし妹がいたら。
 ニャコは毎晩となりで眠るわ。
 ぎゅって抱きしめて、ニャコもその子も目が覚めたときに寂しくないように。
 お父さん、お母さん、ニャコとその子の4人です。
「そう、それで?」
 せんせいが先をせかす。
 それで、その後はどうなるのかしら。
「はい、それで…」
 ニャコはまた話を始める。
 追いかけられて、
 おみ君を探して、
 おみ君がみつからないままに、
 進んで行くと。

 ニャコが怖いのは、いつも夢の最後。
 走って、走って、ニャコも自分がどうなっているのか分からない、道の無いところ。
 ぱかって、口が開くの。
 ぱか。
 それから、息を吸って――――――


 ああ、どうしてですか。

 お話が終わると、せんせいがもう一度確認する。
「お嬢さん、あなたのかわいらしいお名前は何だったかしら?」
「ニャコ、犬居猫子です」
 するとせんせいはロウソクをふうと吹き消す。
「そう、ニャコちゃん。かわいらしいお名前ね」
 するとせんせいは青いイスに足をひっかける。
「山田さん?」
「猫子です」
「ニャコちゃん?」
「犬居です」
「春臣?」
「犬居春臣よ」
「猫子?」
「はい」
 ニャコはずっと、真っ白なシーツのかかった机の上に座っている。
 くるくる回るイス。
 お花もようの花びん。
 お台所にあるみたいな、薄いぐりーんのスポンジ。
 むらさき色のふうせん。
 ちょっと黒い赤の天井。
「残念ね」
 ぎらぎらした天井を見上げながら、せんせいは言う。
「わかりません」
 右手で作った丸の中をのぞいてみたら、分かるかしら。
「ねえ、猫子ちゃん」
「何ですか、せんせい」
 夢の中は上も下も右も左も分からなくなるから。
 ニャコは飛び起きたらまず居場所をかくにんします、せんせい。

「猫子はわたし?」
「せんせい」

 せんせいがそれを言うのは不思議だけれど、聞けないから。
 親指の爪をいじって、見上げる。
 するとせんせいは人差し指を唇に当てて、しぃと言う。
 しぃ、お約束でしょう、猫子ちゃん。
 立ち上がって出て行くせんせいを、追いかけるようにして部屋を出る。
 いつも広い廊下の向こうにある階段のところで待っていてくれるのを知っているから、ニャコは一度立ち止まって、高い天井とまぶしいライトを見つめる。
 窓の外にはさびしいまんまのお庭。
 ニャコは走って階段まで行く。
 右を見ればアクアリウム。
 カチ、カチ、カチ。
 動いていた針が止まって、
0:00
 黄色く光った。


 息ができなくなったら洗面器に顔をつけて
 チョコレートの中には
 間違いは全部で7つあります
 ――――おかあさん


 淵にうつるおみ君は幻。
 水面のニャコは誰。
 砂漠に刺さる一輪のカーネーション。

「猫子は、」

 猫子は手を伸ばす。
 猫子は手を伸ばさない。













To be next dream...(endless nightmare)