幸福論(仮)

18×年フェネンの月

「あの人ってどんな人だった?」
 前後の繋がりもなく唐突に投げかけられた問いに、ソルトは手を止めて窓辺を振り返った。
 椅子の背に手をかけて上半身だけ捻れば、玄関脇に椅子を置いて陣取っている友が見える。
 その亜麻色をした頭の中には、いったい何が詰まっているのだろうか。
「どんな…ってな、お前」
「うん、だからどんな人だった?」
 知っていることをどうしてそう聞きたがるのか、逆向きに椅子を跨いで向こうを向いているその背中からは伺い知れない。
 もっとも、会えば必ず人の耳や尾などを喜んで撫でくりまわすような男だから、訳がわからないのはいつものことであったが。
「――――俺の、妻だった女さ」
 仕方ないな、という意味をこめたいつもの溜息を一つついて、ソルトは再び机に向き直る。
 後ろで外を眺めている友がいつもの調子で持ってきた団子の山を、五、六本くらいの小分けにして崩しながら。
「…最高の女だよ」

     ■  ■  ■

 シェイダ・オレイユは、どこにでもいるような、と表現される部類の女だった。
 その当時年は29、若いと言いきることはできないが老いているわけでもなく、中肉中背で、美人ではないが醜くもない、見まわせばどこの村にも街にも2、3人はいそうなごくごく平凡な容姿をしていた。
 生まれは137年のフェネンの月だといった。これもまた、寒くもなく暑くもない普通の日に。
 茶色の髪は長くゆるくウェーブを描き、同じ色の瞳、それより少しだけ濃い色の耳は顔の脇へたれて髪の色にとけこんでいた。だがこれも特に珍しいわけではない――近隣の村ではよく見かける、典型的なファウの姿形。
 性格はといえば、でしゃばりすぎず控えめすぎずほどほどで、話し上手・聞き上手まではいかずとも適度なコミュニケーションがとれ、気が利くといっても少し考えれば誰もが気付くようなことばかりで、ミスを犯すといってもすぐやり直せるようなことばかりだ。
 ひとつだけはっきりしていることといえば彼女のことを「いいひと」「優しいひと」だと言う者はいても、そうそう露骨に、悪し様に罵る者がいなかった点だ。しかしそれこそ『どこにでもいるような女』の代名詞、彼女の特徴といえるほど強い個性ではない。
 山に出ては薬草をとり、家に戻っては薬をつくり、戦場では他の女たちに混じって忙しく立ち働き、朝に起き、夜に寝て、食べ、笑い、怒り、苦しみ、喜びの涙を流し……。
 本当にどこにでもいそうな、普通の女だった。
 けれど。
 出会ってすぐに分かった。
 彼女なのだ、と。
 どこにでもいそうな、けれど探そうとすると他のどこにもいない、自然なカタチをした女。
 ―――優しいといわれるものの本当のカタチを、ソルトは見たのだ。

     ■  ■  ■

 オレが一人前の医者として働き出したのは、皮肉にも戦場での事だった。
 名医であった父親に技術を学び、看護人であった母親に心得を学んで、先駆けて戦場へ行く二人を送り出したその二年後、オレも同じようにして送り出されたのだ。
 両親の代わりにそれまで一緒に暮らしていた伯父夫婦も、オレの後すぐに別の現場へ向かったという。
『前線で戦う事のないぶん、医者でよかったね』
 そう言って笑い合っていた二人もまた、医者と看護士の夫婦だった。
 後援につく医者も前線で戦う戦士も、みな変わらず危険なことを、オレは父親に聞いて知っていた。伯父さんも本当は分かっていたのだと思う。別れ際に「死ぬなよ」と言って頭に置かれた手は少し震えていた。
 その時オレは16歳。本当の恐怖かどんなものかまだ体験したことはなかったが、両親の仕事柄、人の死についてはよく分かっていた。
 ―――助けられるだけ助ける。
 これが、その時のオレの決心。


「泣いてるの? 小さなドクター」
 背後からかけられた声に、オレは溜息をついて振りかえった。
 オレを「小さなドクター」なんて呼ぶ奴はここには一人しかいないから、見る前から誰だか分かっている。
 名前はノア…なんとか。手伝いの薬師で、親父についてた人。大きく張り出した胸と腰つきをしていて、それを誰彼構わず自慢する、およそ戦場には似つかわしくない女だった。
 ひらひらした服を好んでいて、物不足なのに化粧でばっちりコーティングしていて。汚れるから勿体無いぞという折角の注意を全部、「汚いよりゃいーでしょ」で片付けて。
 それに、オレより少し早く生まれたというだけでオレのことを子供扱いするから、オレはあんまり好きじゃない。
「恐くなっちゃったんだ?」
「そんなわけ…」
 からかって顔を覗きこんでくるから、ムッとして立ちあがる。ズボンの埃を払うまねをしたら「キャっ」と言って離れた。…何だよ。
 オレが今いるのは、皆の寝泊りしているテントからは死角の、ちょっとごつごつした岩の多いところだ。埃なんてそこかしこにたくさん積もっている。そんなんでよくまぁココまで来たなと言ってやりたいところだったが、前にも同じようなことを言ってギャンギャン騒がれた覚えがあったからやめた。
 かわりにこれ見よがしに溜息をついてやった。オレが不幸になったらお前のせいだぞ、ノア。
 睨みつけると、それをするりとかわしてオレの腕を取る。ぐっと押しつけられる胸の感触が気持ち悪かった。
「何、急患? 呼びに来たんだろ?」
 放せよ、そう言う代わりに冷たく聞いて、テントのある方へ歩き出す。
 落ちかかる前髪を頭を振って払ったら、今度は小さく吹き出された。
 ……緊張感のない奴だな。
 今度こそ我慢できなくて、オレは口を開いた。
「ノア」
「なによ、知らせに来てあげたんでしょ」
 呆れた目で見返せば、ノアは真っ赤に塗った唇をツンと尖らせて言った。
「さっき出かけたわよ親父さん。皆に惜しまれながら、まるで英雄みたいに……」
 ますます身体をすりよせて、ぐっと顔を近づけて、何を考えてるんだか分からない笑顔を浮かべて。
「死にに行ったようなもんだわね?」

(何がしたいんだよ……コイツ)
(オレにそれを言って仕返しのつもりなのかよ)
 医者がどんなに大変か知らないくせに。親父がどんなに。
 …親父は助けられる者を助けるために、生かすために生きるために前線に向かったのに。
 視界をふわふわ舞うウェーブの髪を一房、ぐっと掴んでやる。
 きっと振っても何も入っていない、空っぽの頭。
「お前この髪うっとおしいよ。切れば?」
 他には何も言わない。言ってやらない。
 オレはノアを振り払って、さっさと自分のテントに帰った。

     ◇  ◇  ◇

 参戦から2ヶ月。親父が前線治療班に行ってからは半月。
 何しろ慢性的な人手不足でロクな助手も何もいたもんじゃないから、オレは自分でいいようにやり方を変えていくしかなかった。時には無茶なこともしたりした。それで助かった人もいる。助からなかった人も、もちろんいる。
 大きな手術も何度かやったが、大抵オレ一人でだった。他の医者も似たようなものだ、文句は言えない。
 ―――助かる命なら、助けたい。
 その頃にはそう思いながら怪我人の治療に励んだ。


 ゼレートの蒸し暑い風が通り過ぎ、エルーナの少し哀愁を帯びた風が来て、そろそろフェネンのからっとした風を迎える準備が始まる頃。
 オレはシェイダに会った。

 第一印象――ワカラナイ。

 親父たちの代わりに来た手伝い人員で、彼女は薬師だと名乗った。他にも色々、医者や看護人もいて、その中に埋もれるようにしてオレに笑いかけてきた。
 オレの右隣には例によって戦場には相応しくないひらひらした服を着たノアがひっついていて、彼女はノアの格好に少し驚いたようだったけれど、すぐに別の奴に話しかけられて行ってしまった。
「優しそうなひとだこと」
 ノアが吐き捨てるように言ったけれど、俺は何も返さなかった。
 ノアは気に入らなかったらしい、もう一度「優しそうだこと」と言って、唇を噛んだ。
「お前――――」
 何でそんなにつっかかるんだよ、と聞こうと思ったけどやめた。下らない答えが返ってきそうな気がした。
 ノアは……ノアと会ったのはここに来てからだったけど、凄く分かりやすい奴で、次に何をするか、何を言えばどう返ってくるか…ばればれで。
「―――……お前のが、美人だよ」
 言ってやればすぐに、機嫌を直す。
 今もほら、嬉しがって抱き着いてきた拍子に、短くなったウェーブの髪が俺の腕を覆った。

 ノアの方が美人だといったのは、別に彼女の機嫌をとるための嘘というわけでもなかった。
 誰が見たってまだ若くてメリハリついた身体をしてるノアの方が美人だって言うはずだからだ。
 ただ―――ただ別にオレはあの人――シェイダ・オレイユ――を馬鹿にしたんじゃなくて。あの人はあのままでいいと思って。
 ノアがあの時何を心配してたのか、何を言おうとしていたのか、本当はオレだって分かっている。
 あの人は美人ではなかったけれど真実優しそうで、笑顔が奇麗で、だから………ひとめぼれ、だった。

    To be continued...