前登志夫のおだやかな呪縛 〔朝日新聞朝刊 「うたをよむ」 コラム〕(10.06.06)

 「人間がおもしろくないと、歌もおもしろくないねえ、歌という定型詩は、おおきなかなしみや耐え難い苦しみ、どうしようもない修羅をかかえていて、散文でも表現しきれない人ににこそ必要だから」
 
 早いもので、桜が咲き始めていた4月始めに前登志夫の3回忌を終えた。
この不肖の歌弟子は、いまもおだやかな師の呪縛にうなされ続けている。

  なべてみな捨てよと言いて捨てざりしわが煩悩のぬかるみ深き

 遺歌集 『野生の聲』 より。 
どうして前は死に間際までこんなにまで苦しみもがき続けたのか、作歌の拠点は吉野山中。
終生、孤独で、無類のさびしがりや。
時として世間の常識から逸脱した行動もとったが不思議に憎まれることはなかった。
  
 夜となればひかりとなりて天の河わたりてゆかむわがほととぎす

 自らが主宰する「ヤママユ」の夏季研究会。
初期の頃には、歌会が始まるやいなや、一人酩酊しての高鼾が轟き、歌会が終わると、自分の部屋に若者たちを招き入れ、明け方まで文学談義や艶談義をしながら飲み明かした。
すくっと立ち上がるや、いきなり旅館の窓を開け放ち、天上の厠に向かって小用を足す。
「星がきれいだねえ」と晩夏の夜空を流れる銀河をしみじみと仰ぎながら。
 
 そういう奔放な無頼さが魅力だった。
前の歌とエッセーに心底から共感した仲間は、十数年間雑誌が刊行されずとも離れることはなかった。 
うまい歌を作れとは一切言わず、文学の孤高を守れとのみ説いた。
 
 星あかりにわれを尋ねてくるひとのきのことなれりかさをひらきて
 
 おおらかで自在な比喩の歌を最期まで詠み続けた。
平明な歌のようだが、詩人の苦悶がありありと滲む。

 一つ前の歌集 『大空の干瀬(ひし)』 にこんな歌もあった。 心に深くしみる。
 
 空高く栃の花咲き草青しあやまちて人は生まれしならず

 「人間はねえ、誰一人としてまちがってこの世に生まれてきたのではないんだよ」。
 前は今も私の心の他界からそう語りかけてくる。 
                   




往きて生まるる
(08.04.29)

いまは何も書けない。
 先生が亡くなられてから三週間あまり経った。
五月十七日に迫った京都での『お別れの会』(本葬)の手配に奔走していたせいか、ゆっくりと悲しみに浸る余裕すらなかった。
 「君らは何をしとんのや!」と一喝される先生の声がどこからか聞こえてきそうで、いまだに緊張感から抜け出せないでいる。その緊張感がせめてもの救いでもある。
 今でも吉野山中に分け入って行けば先生が「おーい」と手を振って迎えてくれるような気がしてならない。
人間としてより、存在としていつまでも前登志夫が居てくださるという思いが続いている。
 病院でもご自宅でも、先生は苦しそうに何かをしゃべろうとされたが、やんわりと制止させていただいた。
「何もおっしゃらずともわかりますから」、点滴で血管の浮き出なくなった右手を撫でさすりながらそう言いおいた。 意外に太い山人の腕であった。
 


 いろいろなことがあった。
三十余年の歌のおおいなる師と不肖の弟子との関係はそんなに単純なものではない。
 多くの方々の追悼文を新聞などで読ませていただいた。ありがたいことである。
いずれも、こころ温まる文章だった。
「桜の頃に逝かれたのはいかにも前さんらしい・・・・・・」、西行を連想させるにふさわしい往生であった。
「そのきさらぎの望月のころ」、先生が息をひきとられたのは四月五日。ちょうど旧暦きさらぎの尽日。
 本懐をとげられたのか、あるいは悔恨を残されたままなのかはさだかではない。 

  人生の残り時間が少なくなりますと、 あれもこれもと申されます。ゆっくり と桜の花を眺めることができれば、な にもいうことはありません。(『大乗』 四月号「林中鳥語」より)

 おそらく、今のところこの生原稿が先生の絶筆ではないかと推察される。
二度目の吐血をされて天理病院へ入院されて、しばらくして退院し、ご自宅で書かれた短い文章である。
 密葬の通夜の夜、次男の雄仁(かつひと)君から、こんな話を聞いた。
 庭の桶の水で小鳥が遊んでいたのを見つけた雄仁君は、部屋に運び込まれてきたベッドで臥せっておられた先生にそのことを告げた。
「父ちゃん、庭の桶で小鳥が遊んでるよ」
「おお、そうか。その桶をこっちの庭まで持って来てくれ」
 妙なことを言うものだと雄仁君は思ったが、言われるがままにその桶を運んで来た。
「障子を開けてくれ」
 雄仁君が障子を開けると、
「そのあたりに置いてくれ。もうちょっと右のあたりや。うん、それでええやろ。雄仁、障子を閉めてくれ」
 てっきり水桶に遊びに来る山の小鳥を眺めたいのだろうと雄仁君は思っていたのだが、先生の指示通りに障子を閉めた。
 すると、水桶の水がうららかな春の光を反射させて、その光がちょうど障子にゆらゆらと輝いているではないか。まるで光が戯れているかのように。
「よし、よし・・・・・・」
 これには雄仁君もさすがに驚いたらしい。
「父ちゃんは障子に揺れている光を一日中ベッドに横になったままで眺めていたんですわ」
 その話を聞いて、私はすべてを了解した気分になった。同時に目頭が熱くなって仕方がなかった。
 わずらわしい世俗のことなどはどうだっていい。
ただただ桜の花を飽かず眺め、そして春のやわらかな光と戯れておれば言葉などいらぬ。
この世におのづから生かされて、おのづから死んでいくというほんのわずかな時間を。

 うまい歌を作れとは一度たりともおっしゃらなかった。
小賢しい動きなどするなとたしなめられもした。
 「君は心がわりをしたのか」と深夜の二時にファックスが送られてきたこともあった。
封書の束を整理しながら、夜がしらみ始めるまで書き続けられた分厚い封書もあった。
抑えがたい先生の感情のはけ口のひとつが長い手紙であったか。
 挽歌を十数首作った。
 
 女狐に手を添へられて花ふぶく森たのしげに運ばれゆかむ
 こころざしたかくあれとぞ風となり往(ゆ)きて生まるる花鳥(はなとり)の奥
 
 もう葉書も手紙もファックスも来なくなった。叱りつけられることもなくなってしまった。さびしい。


 
いつかの機会に発表すればいい、と先生に言われ手元にしまっておいた拙い小文をこの場をお借りして書かせていただく。
『歌人のエピソード』(ながらみ書房『短歌往来』一月号「鬼の呻き声」)として発表したもののもう一編である。 
壮年を過ぎゆく頃の先生の逸話だ。タイトルは「走れ樹木は」。


 
 年老いた今でも本質的には変わっていないのだが、先生はつねに無防備である。
歌も文学も行動そのものも。
 もう三十年ばかり前になるだろうか。恒例の『ヤママユの会』の夏季研究会でのこと。
その頃は、その頃は仲間の数も少なく、三十名程度の集まりにすぎなかった。
 場所は吉野山、蔵王堂近くの宿坊・東南院と決まっていた。
大峰修験者の宿なので、夜は大広間に雑魚寝である。
 当時から二泊三日の研究会だったが、あまり勉強したという記憶はないが不思議に清浄な時間が私たちを包んでいた。

 さて、二日目の研究会もお昼すぎには終わり、仲間は山を下っていく。
先生は一人一人に声をかけて、いかにも名残惜しそうに見送っていた。
先生が無類のさびしがりやであることは知っていたので、たまたまその日は若い仲間の十人ほどがしばらく居残っていた。
「さあ、飲み直しや。ビールもらって来てくれんか」
 会が終わってほっと一息ついたのか、先生は仲間の酒好きの若者にそう命じられた。
「ええっ、まだ・・・・・・飲むんですか?」
「うん、ええやろ。ちょっとぐらいは」
「でも、先生は車でしょう。飲酒運転になりますよ」
「大丈夫や、こんな山の中では取り締まるもんもおらんから」
「あかん、お父さん、もう飲んだら!」
 かたわらで愛娘のいつみちゃんが怖い顔をして先生を睨みつける。
先生が酔っ払って万が一車で事故でも起こしたら大変だと案じた奥さんが、まだ童女であったいつみちゃんに父の監視役として会に同伴させたのであった。
 先生は少しためらいの表情を浮かべたが、時遅く2ダースあまりのビール瓶が部屋に運ばれてきていた。
 みんな疲れていたが、先生だけがやけにお元気だった。
 というのも、前日の夜は歌会が終わったあと、若い仲間が先生の部屋に集まって、差し入れのウイスキーを飲みながら、深夜まで、いや正確には夜がしらみ始めるまで延々と文学談義を続けていたのである。
 夜がふけるにつれて、先生は高揚して、いよいよ頭が冴え、猥談さえもいつしか聖なる山中の神話のように聞こえてきた。
 夜の歌会の最中は、酔いがまわった先生のみが悠然と高鼾をたてながら玉座で眠って一人鋭気を養い、体力を蓄えていたのだから当然のことである。
 とにかくビールがまたたく間に空になってしまった。昼のお酒はよくまわる。
「よーし、これからお寺へカラオケに行くぞ」
 酩酊した先生は突如すくっと立ち上がり、そう宣言した。そのお寺というのは広橋峠にあって、そこのご夫婦は無類のカラオケ好きで、本堂に本格的なカラオケ装置を据え、おまけにステージ照明まで用意していた。
阿弥陀如来を拝みながら歌うというのもなかなかに粋なものであった。
 そのお寺の奥さんがなかなかの妖艶な美人だった。
どこか泉鏡花の『高野聖』に出てくるお寺を思わせるところがあった。若者はある種の戦慄され覚えたものだ。
「そ、それは無理ですよ。少し酔いを冷まさないと」
 そんな忠告を先生は素直に聞くはずもない。
「みんな、俺の車の乗れ」
「だって、これだけの人数は乗れませんよ」
「詰めれば乗れる」

 かくして、助手席に二、三人、後部座席に四、五人・・・・・・愛用の黒のクラウンは鮨詰め状態で身動きのとれぬままに、猛々しい猪のごとく先生運転の車が猛発進した。
吉野山がくしの裏道は急勾配で、おまけに曲がりくねっていて狭い。
片側のガードレールの向こうは深い谷底である。対向車が登って来ると避ける道幅もままならない。
 私は助手席に乗っていた。
車内にはアルコール臭が充満し、ハンドルを握っている先生の顔は明らかに酩酊状態である。
 猛スピードで山道を下る、下る。ほとんどブレーキをかける気配もない。
ここで対向車が来たら・・・・・・。そう、狂気の沙汰に近かった。
「このあたりの道は目をつむっていても運転できるんや」といつか先生が口にしたことがあったし、ハンドルさばきもたしかだった。
しかし、ただ今ははるかに度を超した飲酒運転である。
 スピードのスリルを味わうというような余裕などない。恐怖である。冷や汗が滲み出てきた。
このまま、先生もろともに吉野の谷深く桜となって散ってしまうのかと一瞬身震いした。
 対向車は一台もなく、なんとか山道を下りきった。
ほっと胸を撫で下ろしたのだったが、暴走は峠を登り始めてもとどまることはなかった。
のろのろと峠を登っている定期バス、材木を搬送するトラックの横をけたたましくクラクションを鳴らしながら、先生はスイスイと追い抜いていく。
「ううーん、ちょっと休憩や」
 ようやく車は止まった。私は車を降りた。
これで鮨詰めの車中の恐怖と息苦しさから解放される。同乗の仲間も心なしか顔色が青ざめていた。
 先生は谷間の方へ一目散に走り寄ると嘔吐を繰り返している様子だった。
それからどうしたのか記憶にない。
 あの急坂を爆走する車中で、私は念仏の代わりにいつしか先生の『子午線の繭』の一首を心の中で唱えていた。

 おお退屈きはまる風景掻き消してふる霧のなか走れ樹木は


                        合掌



歌詠みともの書き (08.02.19)


閑話休題。
鬼才脚本家の広井由美子さんの原作・脚本による初の映画『愛が降る 球場物語』が制作に向かって動き始めた。
主演は「釣りバカ」でおなじみの西田敏行さん。
すでに広島市民球場にて2月中旬に制作発表会もおこなわれた。
 縁あって、この映画のために拙い短歌を4首ばかり作り採用していただいた。
もちろんオリジナルであるが、31文字の歌の言葉としらべとが映像という異なった世界の中でどのように共鳴するものか、不安と楽しみとが同居している。
「あやまちてこの世に生まれきたりしか・・・・」「・・・・血の夕映えの消えることなし」などなど、さて、どうなるものやら。
 
世の中、いろんなことが起こっている。あまりいい話は聞かない。
寒空の下、殺伐として不景気な世の中。
富の偏在とはいつの世でもあることなのだが、昨今のはやりでもある「格差社会」などという言葉は何とも不愉快だ。
拝金主義、効率至上主義、グローバリゼーション(米国の価値観のお仕着せ)、はてはニート、ネット難民まで・・・・・・ 。
 しかし、こうした世相を一首の歌にしてシニカルに告発したところで、すぐれた社会詠とはならないだろう。
そもそも「社会詠」などという区切り方がおかしいのである。
たとえば、かつて岡野弘彦さんの歌集『バクダッド燃ゆ』を肴にして、今日の社会詠の問題について若手の歌人たちがあれこれと議論し合っていた。
それはおおいにけっこうなことだが、岡野さんの歌の本質を考えれば少しむなしい気もした。

 では逆に時代や社会の流れにまったく影響されることなく、超然として歌があり続けるのかと問われると、しばし答えに窮してしまう。
「紅旗征戎わが事にあらず」と『明月記』において高らかに宣言したかの藤原定家でさえ、一方ではまわりの人間の出世栄達が気になって仕方がなかったらしい。
その人一倍深い嫉妬心や猜疑心があったからこそ、幽玄の世界の美の孤高を築き上げたのかも知れない。
もちろん卓越した才気あってのことだが。

 いささか俗っぽい話になったが、最近の歌についてのいくつかの論を読んでいると、いかに歌人は歌壇という狭い村社会の中で重箱の隅を楊枝でつつくような批評を繰り返しているのではないだろうか。
もっと言えば、文学として、詩としての自覚のなさというか志が低いということである。
しかも、歌や論を書いた作者の知らぬネットの場であさはかな酷評をされるとたまったものではない。
雑誌などで活字となって発表されるならまだしも、ネットでの罵倒雑言となれば、これはもう著作権侵害ということにもなりかねない。

 話は変わるが、昨年の末に某歌人の集まりに行って名刺を交換する機会があった。
肩書に自らが所属している結社名が書かれている、いかにも歌壇用に作ったと推察される名刺が多かった。
そこまでは許されるが、中には臆面もなく「歌人 〇〇〇〇」などという名刺に出くわした。
それもごていねいに「〇〇県文化賞受賞」という地方紙の記事のコピーを添えて。
思わず絶句。
どうやら「〇〇先生」と呼び称される「歌人」は全国にゴマンといるようだ。
なんとおめでたいことか。

  冬を越えし命の腐れゆくにほひ夜風ははらみ春ならむとす
  皮膚ゆるめば乳房(ちちふさ)は垂る重力の法(のり)を背かず在るものに触る
  朝な夕な魔羅さらしたる酔狂も蹴球少女に蹴りあげられしとぞ

 島田修三さんの最新歌集『東洋の秋』を読みながら、島田さんが『角川短歌』の平成十九年十二月号の『歌壇時評』におもしろいことを書いていたことをふと思い出した。
「・・・・・・かつて、上田三四二の『短歌底荷』説に私などは民衆詩論の延長として深く納得したものだが、いまや『底荷』の内実を占める大衆作家層は一変した・・・・・・の主婦たちには、短歌は手に入る範囲のブランド商品と同じく豊かな『趣味』的生活をいろどるアイテムになったともいえそうだ。
それはそれでご同慶のいたりだが、この脱力感はなんだ」と。

  雲越えてまた雲越えて掠(か)すめゆくこれは雲だとつぶやきてゆく
  紙コップのコーヒー売られあるためにここに宇宙を感じずにすむ
 われに欠落するもの青いマフラーに巻いて君に会いにゆかむか

最近、処女歌集『屋上の鳥屋上の人』を出した花山周子さんと話す機会があった。
いつしか若い彼女とはモク(煙草)仲間になってしまった。
なかなか評判のいい歌集である。
粗削りで隙だらけで未熟でありながら、それでいてどこか不思議に透明な感性にささえられている歌だ。
駄作が多いのもご愛嬌というべきか。
しかし、お行儀のいい歌よりははるかに奔放で伸びやかですがすがしい。
「私のまわりで歌集を出したい人がたくさんいるんですよ。でも、みんな歌集を出すお金がなくって・・・・・・」
 それはそうだろう。
自分の日々の生活に窮している状態で、歌集などという贅沢品なんか出せるわけはない。
お金がかからず、自由に作品を発表できる場をネットに求めるのも当然のことだ。
 歌ではメシは食えない。
そういう意味では、一般のもの書きとは異なる。
編集者とにらめっこしながら、いい本(読者に買ってもらえる魅力のある本。
もっと具体的にいえば大衆に売れる本)を書こうという真剣勝負の修羅場をくぐり抜けることなどない。
たとえば大結社の力にすがっていればそこそこの評価はされるだろうが、やはり歌人はもの書きとして他の文学ジャンルから認められてこそ本物のあかしであろう。
 自らを「歌人」などと称して威張ることなど気恥ずかしくてできない。
「先生」と呼ばれると背筋が寒くなる。
短歌の総合誌に名を連ねている高名な歌人のいかほどが他の文学ジャンルや大衆に知られ、慣れ親しまれて読まれているだろうか。
 歌集はお金持ちの紳士やご婦人方の文化的ステイタスか。
否、多くの歌集はいわば自分の高価なお墓を作るようなものであり、歌集名はさしずめ墓碑名である。
 有名無名を問わず、歌壇という巷には歌集が氾濫している。
これを歌文化の繁栄と見るか、それとも資源の浪費と考えるか、私には正直わからなくなってきたのである。


ヤママユ23号 風に吹かれるままに
(07.08.23)

 人間、いかに生きるかもむずかしいが、いかに死ぬかということも生きること以上にむずかしいことだ。
西行さんのように「そのきさらぎの望月のころ」に本懐を遂げることなどきわめて稀というべきだろう。

 病床の老いた父を看取りながら、そんなことを漫然と考えていた。
気分転換に病院の外に出て、そろそろ梅雨明けを告げる雷鳴が聴こえてきてもいい頃だとどんよりとした大和の空を仰いでみる。
街の風景は三十年前とは様変わりしているが、空や御陵の松林、若草山のみどりや生駒嶺のくろぐろとした山容はちっとも昔とは変わってはいない。
変えることよりも変わらぬことの方が難しい時代かも知れない。
人間の生き死とて同じことだ。そんなえらそうなことを言えるほどの人間ではないことは百も承知の上での話だが、人生知命なかばともなるとあれこれと限られた時間をどう生きるか、いやどう死ぬかについて心揺れ動くこともある。

 半年ほど前から、街の喫茶店のフォークソングのライブに足を運ぶようになった。
なつかしい七〇年代のメロディーが無名のシンガーたちの奏でるギターから流れてくる。
しばらく、じっと聴き入っていたが、その中で長渕剛の『ガンジス』という曲が深く心に残った。
帰ってからさっそくCDを買って来て繰り返し聴いた。
歌詞もさることながら人生の辛酸と悲哀からふたたび希望を取り戻そうとする透明なメロディーがことにいい。
この時期の長渕もまた、大麻所持や暴力などといった人生の挫折から何とか立ち上がろうと必死でもがき苦しんでいた。
そして、インドへと旅立った。そこで雄大なガンジス河を下り、河岸で火葬される名もない死者をつぶさに見た。
そんな風景の中から生まれ出た、いわば再生の願いをこめて作った即興の曲ではなかったか。 

「4本の火柱がめらめらと燃えさかり 立ち昇る 俺は今 揺れる小舟の上 ガンジス河を下ってる」というくだりから延々七分以上にのぼるギターの弾き語りが始まる。

 俺は舟を降り 三時間近く 焼け崩れる真っ黒い人間を見た 「神様はどこにいるのかと」尋ねたら 老婆は自分の胸を指した 笑いながら自分の胸を指した

 やがて跡形もなく白い灰になり 黄土色のガンジスに流された わかっちゃいたけど 人間って奴が たしかに目の前で灰になった

 裸足で櫓を漕ぐ老人が 憂い顔で俺に笑いかけた 深いしわを顔中に刻んで 「死んだら灰になるだけさ」と笑った

ByeByeガンジス もっと生きようと ByeByeガンジス 俺の命が叫ぶ 
さよなら 名も知らない死人 (しにびと)たちよ あなたのように 死ぬまで強く生きようと

 「死んだら灰になるだけさ」、そう静かにつぶやいてみる。

 当たり前のことなのだが、自我意識やうぬぼれやプライドなどをちっぽけなものとして棄てきれない現代人にとって、この感覚はそうそうたやすく受容できないのではないだろうか。
これは人生に絶望したゆえの諦観ではあるまい。
むしろ、積極的に人間の生き死にをありのままのかたちで提示しているのだと思う。

 そんな折にたまたま藤原新也さんの『インド放浪』という本を露店の古本市で買った。
ガンジス河の雄渾な流れを勝手に想像し、私の中でそのイメージを膨らませていたことも影響していたようだ。 
何度もインドの広い国土をさまよいながら、「我々の中に失われつつあるもの、そのどれをとってみてもヒンドウ教だ」との思いにいたった記述が実に示唆に富んだものであった。

  それは、荒地の上に育った道徳であり、自然が及ぼす、道徳に対する写実であり、事実に対する許容である。
彼らのやり方は、整理された人間の言葉の端を信ずるより、いつも矛盾を吐き出している物体の重みをそのまま受け継いでいるので、いつも混沌としてはいるが、いたって正気である。
<略>
もし歩き疲れたなら、たとえば菩提樹のような大樹の根に腰をかければよかった。
楽な姿で、歩き疲れた体を横たえるとよかった。
頭上には・・・・・・空、木の葉、木の葉と木の葉の空間、風、木々を飛び移る小鳥・・・・・・その羽ばたき、さえずり、そして折よくも、一陣の風が、千万の木の葉をさざ波のように震わす。
その時、風と大樹は初めて交わりをもった。

 「この日本からやってきたブタは風に対して、樹木と同じような理解をもつように一所懸命に耳をかたむけていた」という。言うまでもなく「ブタ」とは自然に対して鈍感になってしまった自分自身、現代文明に汚染されてしまった自らへ侮蔑をこめた形容である。

 そして、彼らの中には、「喜怒哀楽という人間の生活に最も縁の深い情操が、まるで自然物の単位でもあるかのように居座っている」ことに気づく。

  感情の表現は、だから文明国の人のように個的ではない。
様式なのである。彼らは様式が持っているだけの大きさの自己表現をする。
しかしそれ以外のもの、個人的情緒・・・・・・それは弱いのである。それはつまり荒れ地の上にあって、生きて行かないのである。彼らの肉体は風景という形式の中に組み込まれた小さな立木のように、風が吹けば、その風の吹くように、ふところを開けて通してやるのであって、ことさら風をさえぎるわけではない。
風の吹く間、彼らの小さな木の葉は風の程度に応じて揺れるだろう。

しかし、彼らを通り過ぎてしまった風は、風景の中の一つの弧として、再び風景にかえりざき、そしてその時、かの木の葉は、その揺れるのを止めるだろう。

 ついつい引用が長くなってしまった。
もちろん私はインドに行ったこともないし、雄渾なガンジスの流れをつぶさに眺めたわけでもない。
しかし、それがかえって私の想像力を激しくかきたてるのであった。

 ヒンドウの人々の感情の表現が、様式が持っているだけの大きさの自己表現をし、個人的情緒に弱く、文明人のように個的ではないという。いったい、同じ土地を五千年も耕し続けた暮らしの時間から受け継がれてきた様式とは何だろうか。
「彼らの肉体は風景という形式の中に組み込まれた小さな立木」であるという実感こそが、自然とともに生きる人間本来の姿ではあるまいか。
観念としての自然ではなく、暮らしの時間とともにある草や木々、そして風や雲や光。
それらをそのまま、あるがままに受容しつつ生きていくという素朴さや純粋性をあらためて考えさせられたのである。


 歌壇時評を書くつもりでいたのだが、ずいぶんと本題から逸脱してしまった。
しかし、はなはだ抽象的ながら、そんなふうな思いはそのまま現代短歌への、同時に私自身への自戒としたい。できれば「ウタブタ」にはなりたくはない。 

きっといい歌があるはずだし、それを見落としてしまっているのかも知れない。あるいは真正面から真剣勝負を挑んでいる作品、あるいは論に対して自ら目をそらしてしまっているのだろうか。

 「風が吹けば、その風の吹くように、ふところを開けて通してやるのであって、ことさら風をさえぎるわけではない」という肩肘のはらない現実の生への処し方の前では言葉そのものすらむなしく思えてくるのである。

 いったい、歌とはなにか。

 たとえば今まであまり気にもとめなかった近代歌人の秀歌をあらためて読み返してみるのもいい。
短歌史の上からはさほど重要視されてはいないが、広く文学として大衆に受けいれられてきた歌がある。牧水や勇、あるいは八一。
口誦の魅力を存分に備えつつ、自在であり伸びやかであり、そして深いかなしみを蔵している歌だ。 

 窪田空穂もその仲間の一人であろう。
短歌史的にはそれほど際立った存在ではないが、『窪田空穂−人と作品』(窪田空穂記念館編・柊書房刊)を読みながら、深く心にしみてくる作品が何首かあった。
軽薄で騒々しく耳障りな現代短歌がもてはやされ増殖するにつれて、その思いがさらに深まってきた。
歌は時代の寵児などにはなりえないのである。

 雲よむかし初めてこゝの野に立ちて草刈りし人にかくも照りしか

 夢くらき夜半や小窓をおし開き星のひとつに顔照らさしむ

 生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落とす時

 鉦ならし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

「何というその若々しさ、活々しさ、そのあざやかさ、青春のあくがれ、人生の寂しさ、現実のちから強さ、わたしは胸をおどらせて暗誦した。涙をうかべて朗吟した」と後年、土岐善麿はその感動を記している。

 このほかにも、「つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りてそらあをあをとはるかなるかな」「命一つ身にとどまりて天地(あめつち)のひろくさびしき中にし息す(いき)す」「最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり」など。

 何よりもしらべがいい。歌のしらべとはいのちの輝きである。言葉の意味や内容だけでは語り尽くせない豊かでみずみずしい世界をはらんでいる。 

 「雲よ」と語りかけ、「草刈りし人にかくも照りしか」とする浪漫的心情、「星のひとつに顔照らさしむ」とするいくばくかの感傷も素直に受け止めることができる。
それが歌というしらべ、韻律のちからでもあろう。
棺を深くおさめて、そこに土を落とす音を聴くのも、自分がこれの世に生かされていればこそ聴くことができるいのちの声ではないか。
有名な「信濃の国」の一首は、「ありしながらの母見るらむか」というまぼろしへの憧憬であり、こう歌わざるをえなかった作者の心根のやさしさが心をうつのである。

 歌柄が古めかしいとか甘い感傷にすぎないといった批評は正しくはない。
歌から抒情性を取り払ってしまえば、いったい何が残るというのか。
修辞にすぐれた歌よりも、直情であり、てらいなく自分を晒け出している歌の方に魅力を感じる。 

韻律(しらべ)とはいのちの輝きであると同時に、悠々と天空をわたり、時として地上に舞い降りては木の葉を揺るがせる風のようなものに思えてくる。

 しらべにすべてをゆだねてみた時、自我意識も言葉も思想も風のように透明になり、何処ともなく消え去っていくのではないだろうか。

 風に吹かれるままに、おのずから。


無防備に歌うということ (07.03.18) 

 ついに初雪を見ないままに春が近づいてきたようだ。都市にはすでに春一番が吹いた。
「春は名のみの 風の寒さや 谷の鴬 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらぬと 声も立てず」という美しい『早春賦』のメロディーも何となく口ずさむには違和感がある。

「この前、また裸祭りで一人死者が出たようですね」
「ああ、いつものことだよねえ。昔から何人死んだことか・・・・・・ケガ人なんて数えきれないだろうな」
「まさしく狂気の祭りですね」
「うん、今年は三万人が参加したけど、私の頃には十万人ほどだった。私も高校生の頃に褌一つの格好でいやおうなく参加したけど、とにかく両手を上に伸ばして、恐ろしいほどの人波に押され、体が宙に浮いている感じだった」
「怖くはなかったですか?」
「いや、怖くても何でもとにかく土地の若者は祭りに参加しないとねえ。理由なんてないよ」

 そんな会話を岡山県出身のSさんと交わしていた。
日本三大奇祭のひとつ岡山西大寺観音院の「会陽(えよう)」という裸祭りの話である。
会陽の歴史は古く奈良時代にまで溯る。
もともとは奈良東大寺の修正会の祈祷を開山の安隆上人が伝え、十四日間の厳修を終えた結願の日、参詣の信者に守護札を出した。
この札をいただく者は福が得られるということで希望者が殺到し、やむなく参詣者の頭上に守護札を投げ入れた。
その札が宝木(しんぎ)である。水垢離をし、身体の自由を得るために裸となり、民衆の無垢なる信仰心はただただ一対の宝木を求めて狂おしい争奪戦を繰り広げる。
「祭りのクライマックスともなると、5キロほど離れていた私の村までゴーッという怒号が聞こえてくるんだよ。地面が揺らぐような感じがしたねえ」

 宝木が境内から投げ込まれると、その周辺には何十もの人の渦ができる。
渦がうねり、その渦にめがけて、境内の古木によじ登って機をうかがっていた土地のやくざ者がいっせいに飛び込むという。
祭りの始まりを告げる「会陽太鼓」の打ち手はすべて女性というのもいい。
男たちの心をメラメラと燃えたたせる「炎祷」と「龍神」の二曲を交互に奏する敬虔な祈りである。

 ささやかな幸福への願いを求めて、二本の宝木に向かって命がけで裸のまま突っ込んで行く勇壮な祭り。
それは人間の欲望といったちっぽけな利害を越えた世界での魂ふりであり、聖なる狂気にちがいない。
貧しい暮らしを強いられる土地の人々の天に向かっての咆哮である。あるいは地霊への魂鎮めのたかちでもあろうか。

 こういう無防備な人間の姿ほどたくましく、そしていさぎよく美しいものはない。
理屈や知識をもってして説明しきれないものにこそ、人間の心のカオスを確かめることができる。

 このところ、日本語の美しさをもう一度見直そうという風潮が出て来たように思われる。
斎藤孝さんの『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになって以降のことだが、安倍総理の 「美しい日本」国創りというキャッチフレーズも影響を与えたのかといささか苦笑している。 
日本語の美しさをもっとも発揮できる詩型は短歌だろう。
そう繰り返し自らに言い聞かせている。
短歌には言葉とともに韻律(しらべ)が渾然一体となり共存している。
千数百年を生き抜いてきたこの短詩型には、日本の歴史と伝統と、そして言葉の始源や心のしらべが息々として今に続いている。
短歌が広く大衆に愛唱されたいという思いと同時に、軽んじて短歌という詩の器を用いないで欲しいという思いも一方にはどうしようもなくある。

  星ひとつ従へて月渡りゆく齢といふは しんと寒しも
  春の光とほき街より水色の花のさびし さ贖ひて来つ
  目とづればオリオン星座揺るるなりこ のまま息を引くもよからむ
  母よ あなたとわたしの時間部屋うち のがらすは海の色となりゆく
  雷雨は三日つづくと言はれをり三日目 の遠かみなりさびし
  一語づつ言葉失ひゆくものを むかし 紫雲英の原のありにき
  眠りてはまた眠りては脱ぎてゆく幾度 ねむれば透明になる

 原田汀子歌集『夢』より。
編集から製本、カバーまですべて二人の娘さんの手作りという。
わずか十数部しか作ってはいないので、ほとんど世に出ることはないだろう。
そういう類い稀なる私家版の歌集である。
つつましやかに、だが、そこにはたしかな作歌の年輪が刻まれている。
夫を看取り見送ったのち、自らも病魔をかかえつつ老いの孤独と向き合う姿勢は 「さびし」という独白めいた一語に収斂されている。
原田さんの歌は以前から読んできたが、これまでは 「さびし」などという直截的な感情表現の言葉は意識的に拒んでこられたように記憶している。
それだけ風姿かろやかになられたというべきだろうか。

 「雷雨は三日つづくと言はれをり三日目の遠かみなりさびし」、
一見何げない歌にとられるかも知れないが、作者の心のかたちというか微妙な変化が透けて見えてくるようだ。
真夏の雷雨は一度来ると数日は決まったかのように襲ってくる。
山の雷でも都市の雷でも、その不気味な轟きと閃光は人間を畏怖させもする。
数日で雷はゆっくりと遠ざかっていく。
作者は次第に自分から遠ざかっていく雷を聴いたのだろう。
遠雷である。
地を揺るがし、空を戦慄させる雷のすざましいエネルギーに自らの生命力のすべてをたしそうとしているからこそ、「さびし」とつぶやかざるを得なかったのだ。
もっと言えば遠雷は亡き夫そのものの魂のかたちである。

 無防備に歌うということの意味をそろそろ考え直してもいい時期に来ているのではないか。
無防備とは虚心にして、みずみずしい歌ごころであることは言うまでもない。



晩夏のヤママユ (06.10.16)

 「どうして蛾なんか、虫かごで飼うの?」 妻の染色仲間の友人が不思議そうに電話の向こう側から尋ねているらしい。
「ええ、それはねえ・・・・ヤママユだから・・・・主人の歌の集団の名前で」 
いかにも要領を得ない説明を妻は滔々と続けている。
 
 無理もないなと私は心の中で苦笑した。 
一週間ばかり前に郡上八幡で草木染めをしているSさんから都市のわが家にヤママユの淡い黄緑の繭が二つ送られて来た。
なんでも栗の木の枝についていたらしい。Sさんにとっては何の変哲もない日常の光景である。
Sさんはてっきりその美しい黄緑の繭そのものに興味があると思って送って来たらしい。
繭から丈夫で気品のある糸が紡げるからだ。

 送られて来た繭は二つあったが、一つはもう羽化してしまったあとの抜け殻で、あと一つはまだ完全な繭であった。
 ヤママユ蛾がどんなものか、その羽化の瞬間を見たいと数日観察していたのだが、いっこうに繭を破る気配がない。
もう繭の中の蛾が死んでしまっているのかとあきらめていたその朝に、ヤママユ蛾が繭を破って虫かごの透明な縁に貼りついていた。
茶褐色の羽には金色の燐粉が輝き、触覚を伸ばし、微動だにせず小さな黒い眼でこちらの様子をうかがっている。
胴体はけっこう太い。それに、大きく広げた羽の紋様をよくよく観察すると、けっこう複雑で、妖しく神秘的なさざ波に見えてくる。それに、銀色の丸い斑点が羽の中央にあり、まるで小さな月のようでもあり、湖のようで、けっこう美しい。

 少年の頃、家の硝子や納屋の板壁に貼りついていた蛾だ。
それがヤママユ蛾であることなど知らなかった。蛾の燐粉は毒なので近づいたり触ったりしてはいけないと親から注意されていたので、その異形の生き物を避けてきた思い出がある。
蝶のように美しくはなく、茶褐色の目立たない羽で、枯れ葉の中に紛れてしまうと見分けがつかなくなる保護色である。 
とりあえず、蝶の仲間なので花の蜜でも吸うだろうと思い、木切れに穴を開けて蜜液を与えたのだが、いっこうに吸う気配はない。
この蛾が何を食べるのかをインターネットで調べてみて愕然とした。
「口が退化してしまっているので食物を摂取することはない・・・・」と。

 とすれば、この蛾は何のために繭から羽化したのだろうか。
それは子孫を残すために、ひたすら交尾することだけを目的にこの世にはばたき生まれたのである。
しかも、交尾の時間は十日ほどと限られている。繭の中で蓄えた生のエネルギーを使い果たしたら死んでしまう。

 今さらこんな都市の空に放ってやっても仲間などいるはずもない。
虫かごの中で蛾はじっと動かずにいる。そして、夜中になるとバタバタと羽を激しく動かす。
その音がけっこうやかましい。朝、虫かごの中を見ると十数粒の糞のような卵を産んでいた。
どうやらこの蛾は雌らしい。羽をバタつかせるのは、卵を産むと同時に雄の蛾を招くための求愛の動作だろうか。
ヤママユ蛾の雄だけが感じ取れる野生のフェロモンの香を放っているのだろうか。

 限られた命の時間の中で、子孫を残す交尾のためだけに、美しい黄緑の繭から毒々しい茶褐色の羽と太い胴体をもってこの世の夏の光を全身に浴びる。
何と悲壮でいさぎよい行為であることか。

 深い森の暗闇の中で、黒く小さな眼を見開き、じっと触覚を立て、時折激しく羽を震わせながら、交尾の相手を求め合う神秘的な光景を想像しながら、ヤママユの生命力のしたたかさを思った。
全宇宙のエネルギーを太い胴体に詰め、新しい命を未来へと運ぶという敬虔にして荒ぶる自然のいとなみにちがいない。

 ヤママユは虫かごの中で二週間ほど生き続け、最後は枯れ葉のように息絶えた。
それは怠け癖の治らぬ私にとって貴重な晩夏の経験であった。

 人間の命にも限りがあるけれども、その期限がいつかは定められてはいない。
あるいは、あるはかりがたい存在によって人間の運命が決定づけられているのかも知れないが、それは誰にもわからない。 
世阿弥は「命には終はりあり 能には果てあるべからず」という有名な言葉を『風姿花伝』に残している。日々一筋の道に精進せよということ、それに能という芸術の奥義を弟子たちに伝えることができれば命に終わりがあってもいいではないかという。

 そんなことを考えながら、いったい歌の命とは何だろうかとあれこれ思いをめぐらせている・・・・。



同人誌 「DRUG」
 (06.01.01)

 某出版社の友人に誘われるがままに、同人誌に参加することになった。
誌名は『DRUG』、ドラッグではない。無名のライター、編集者、歯医者、緊縛師・・・・などなど。最近では、現役のストリッパー嬢まで参加。
もともとは、人生のたそがれを迎えつつある50代のオッサンが、夢をもち希望をつなぐために表現の場を共有するという目的であった。
それはそれとして、この同人誌に発表された文章はおそらく日の目を見ないままにいつしか風化していくだろう。それも、またよし、なのだが、わが拙いもの書きの道楽として転載しておくことにしたい。
どこか「アポロ21世紀」の趣旨と相通じるところがある気もしたからだ。
「くたばれ団塊の世代!舐めるなバブル世代!」といううたい文句も身にしみる。
50にして立つ、50にして疾駆するマガジン。恥じらいを捨てて書きつづけていきたい。 (庵主)

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生尾      その一

「吉野のどこのご出身ですか?」
 女はほろ酔いかげんで男に聞いた。白い頬にわずかに紅を差している。切れ長の美しい瞳がほの暗いバーのカウンターで神秘的な光を男に投げかける。
「ぼくは上市です。妹山の麓の・・・・」
 男は女の眼を見つめてそう答えた。そして、琥珀色のウイスキーの入ったグラスを一気に飲み干した。
「歌舞伎の『妹背山女庭訓』の舞台ですか・・・・あの悲恋の舞台を私、一度見たことがあるんですよ。秋野さんは?」
「ああ、ぼくは見たことはりません。妹山は残っていますが、対岸の背山は和歌山のあたりまで流されてしまったとか。さやかさんはどこの?」
「私は川上村です」
「ということは代々が林業を・・・・?」
「はい、根っからの山育ちですのよ。そのせいが人見知りをするたちで、人とお話しするのも何となく苦手で・・・・」
 女もグラスの底に残っていた赤ワインを静かに飲み干した。
「そうですか・・・・お互い、吉野育ち・・・・ですか」
 男はカウンターに座ったままで、腕組みをし、黙って天井を向いた。
「本当に不思議なご縁ですわね・・・・」
 女なカウンターにほお杖をつき、少し考え込むような表情をした。
 ストレートロングのつややかな黒髪がほのかに匂う。面長で目鼻立ちの整った顔立ち、なまめかしい唇。笑うと唇からこぼれ出る白い歯が印象的だ。
 モスグリーンのタイトミニのワンピース姿。ほどよい膨らみをもったバスト、肌色のストッキングにくるまれたなめらかな太腿がスカートの裾からこぼれる。それは男にとってまばゆいばかりの色気を感じさせずにはおれなかった。
 女の名前は稲村さやか。年齢は二十代後半といったところか。落ち着いた雰囲気からもっと年のようにも見えるのだが、どこか神秘的な妖しさを漂わせた美人である。
「うーん、出逢いとはそんなものかな・・・・」
 男はウイスキーの水割りをお代わりした。女もワインを「もう一杯」頼んだ。ワイングラスを持つ女のしなやかな白い指先が男の眼には何ともいとおしく映った。
 男の名前は秋野司郎。独身のままで、いつの間にか不惑(四十代)の齢に手が届いてしまった。
「やっぱり生まれ故郷はいいものですね。山と川以外には何もないところですけど・・・・」「歴史がありますよ、吉野には」
 さやかの言葉に司郎はそう軽く反駁した。
「歴史ねえ・・・・たしかに。秋野さん、日本画家の奥村土牛の『吉野』という作品、ご存じかしら?」
「ああ、あれね。知ってますよ。昔、兜町にいた頃、山種美術館で何度も見ました。いいですねえ、どことなく。たしかに吉野の山々だけを描いているんですが、その中に歴史の時間がとっぷりと封じ込められているようで・・・・好きな絵です」
「へーえ、よくご存じなんですね。たしかに秋野さんのおっしゃられる通り、私も同感ですわ。あの風景の中に悠久の歴史も、それに人間の暮らしの時間も隠されている・・・」
 さやかは少し驚いたように言った。そして、感傷にでも浸っているように黒い瞳を潤ませた。
「ぼくには花の吉野というイメージはないんですよ」
「えっ どうして?」
 司郎の言葉にさやかは怪訝そうな顔で反応した。
「そんなに華やかな風土ではないからですよ。吉野山の桜は有名ですが、ぼくは麓に住んでいながら一度も花の盛りを見たことはないんです。裏山に昇って、遠くに淡いピンク色の雲のような桜を眺めることは多かったですけどね」
「うふっ、そんなものかも知れませんよね。いつでも見られると思うと、ね。私は小さい頃、家族で吉野山の花見に行きました。宿に一泊して、夜桜を見に行った時には子供心に感動したものですよ。美しいというか、神秘的というか・・・・」
「そうですか・・・・」
 あなたのように、と司郎は言おうとしたが言葉に出せなかった。
「吉野は魑魅魍魎が跳梁跋扈する異界でしょう。国ん中からすればね」
「異界?」
 さやかの瞳が興味深そうに輝いた。
「そう、異界。土蜘蛛、井光・・・・神武天皇に制圧された先住土着民族」
「天つ神に対する国つ神。つまり、蔑視されてきた民ということかしら」
「・・・・生尾(せいび)道を遮る、と『古事記』の冒頭にあるでしょう」
「抵抗したのでしょうね。でも、尾を持った人なんて何だか親しみがありそう」
「あなたにも尾があったりして」
「あらっ、知ってらしたの」
「ははは、井光の裔だから・・・・あっても当然」
「うふふ、秋野さんにも尾があるんでしょう?」
 さやかは白い頬に美しい笑みを浮かべて言った。切れ長の瞳がひときわ妖艶な輝きを増した。
「そろそろ出ましょうか」
 司郎はグラスを置いてさやかの顔を見て言った。
「ええ、今日は久しぶりでこんな楽しいお話ができるなんて・・・・ありがとうございました」「ぼくもですよ。吉野の友達は多いんですが、こういう話題についていける人間となると・・・・」
「好きなんですね、秋野さんは。歴史や文学が・・・・」
「ええ、まあ・・・・何となく」
 二人はカウンターバーから席を立った。
 大阪のミナミの繁華街をしばらく肩を並べて歩いた。
 このまま別れようか・・・・それとも。
司郎の心は激しく揺らいだ。
「また、お時間があれば会っていただけます?」
 さやかがそう口を開いた。
「ああ、いいですとも」
 司郎は答えた。しかし、さやかをそれ以上誘う気分にはなぜかなれなかった。
「また、楽しいお話を聞かせてくださいね。じゃあ、ここで。今夜は本当にありがとうございました」
 さやかは司郎に丁寧に会釈をすると、地下鉄の入り口へと歩いて行った。
 司郎はさやかの後ろ姿を名残り惜しそうに見送った。
 ミニスカートの裾から覗くさやかのしなやかな脚が闇の遠くへと消えていくように思えた。
 遠くの空が光った。しばらくして雷鳴が鈍く響いた。
 もう、そろそろ梅雨明けか・・・・。
 司郎は道頓掘川に映る色とりどりのネオンの揺らめきを茫然と眺めていた。


 短い夢であった。
 しかし、夢から醒めてからも不思議なほどにその残像が秋野司郎の頭にこびりつき、神経の細部にまで食い入って離れようとはしなかった。
 心底から司郎は疲れ切っていた。半ば自暴自棄になり、倦み、すべてを投げ出してしまいたい気分だった。
 夢は司郎にこう語りかけてきた。
 いや、語りかけてきたというよりは、呪詛のごとく激しく彼に迫ってきたのであった。
 撃て! 撃て・・・・!
 裏切りの都会人を撃て! 堕落せし国を撃て!
 山人よ 山を降りよ 蜂起せよ!
 山人の魂魄をもて 都会人を震撼せしめよ・・・・!
 震撼せしめよ・・・・!

 司郎には、その夢の語りが何を意味しているのか理解できなかった。もともとが脈絡のない夢なのである。しかし、その夢の声は底ごもるがごとき音声(おんじょう)となって、司郎の耳に響いてきたのだ。
 夢はたしかな風景をも伴っていた。
 白装束の一群・・・・。
 その声のする方向へとゆるゆると列をなしながら歩いて行く。山伏のようにも、あるいはどこかの田舎の葬列のようにも見えた。
 場所は青山の連なる奥深い、とある峠の頂上付近。杉檜のそそり立つ斜面が深い谷間へと広がっている。シャガの白い花が青い斜面を一面に彩っていた。
 襤褸(ぼろ)をまとった一人の乞食が托鉢の椀をもって司郎に近づいてきた。峠の草深い古道をよろよろと登ってきたにちがいない。乞食は司郎に何かしきりに語りかけようとしている。物乞いなのか。いや、そうではない。
 みすぼらしい乞食の顔を司郎はじっと目を凝らして見つめた。
「都会人を撃て・・・・国を撃て・・・・」
 乞食の口から、あたかも呪文を唱えるかのようにそんな言葉が聞き取れたのである。司郎はたちまち真っ暗な無間地獄に突き落とされ、その果てしない闇をさまよう旅人へとすり変わっていく自分の姿を知った。名状しがたい不安感だ。
 意味不明の乞食の言葉に苛立っている自分の心をどうしても鎮めることができない。司郎は、もう一度乞食の顔を覗き込んだ。
 垢にまみれたその顔。しかし、意外に凛々しく、どこかの高貴な身分の皇子(みこ)とも見えた。司郎は軽い目眩に襲われた。
 天空がびゅんびゅんと鳴り渡り、まばゆい光の輪が幾重にも重なり、乞食と司郎の周りを取り囲んだ。
 樹木が風に激しく揺れる・・・・。

 正午のやわらかな日差しがオフィスの窓にこぼれている。
 夢はあっけなく醒めた。
 ソファーに寝そべりながら、司郎は春のうららかな陽気を全身に感じ取っていた。つい、うたた寝をしてしまったらしい。
 時計を見た。午後の十二時半を少し回っていた。
 ああ、変な夢を見てしまったものだ・・・・。
 精神的にも肉体的にも疲れ切っていた司郎にしてみれば、その夢は実に迷惑な夢であった。いったい何を思っていたのだろうか。思い詰めていることが夢となって現れてくることはよくあるものだ。しかし、醒めた後もこれほど鮮烈に、しかも声までもがはっきりと耳に残っている夢など司郎は見たことはなかった。
 よほど疲れていたにちがいない。これは尋常ではない疲れだ。司郎は言い知れぬ不安感に襲われた。
 うるさい電話の音がした。
 神経がピリピリとして、いまだ心が鎮められない司郎であったが、ほとんど反射的に受話器を取った。長年の仕事の癖というものである。
「秋野です」
 そう応答する間もなく電話の主は早口で大声を張り上げて叫んだ。
「秋野さん、寄り付き三十万株の買い物ですよ! いよいよ来ましたね。しばらく値段はつきそうにありません。現在、二〇三〇円の買い気配です。どうやら売り物が枯れてきたようですね」
 声の主はN証券会社の営業マンであった。商売柄とはいえ相変わらず威勢のいい声だ。普段ならば冷静に応答する司郎であったが、今日ばかりはいささか閉口した。あの夢のせいだ。
「わかった。後でまた電話する」
 それだけ言って司郎は無造作に受話器を置いた。
 しばらく、眠気覚ましにコーヒーでも啜りたい気分であった。だが、ひとときの休息すらも馬鹿げた猿芝居のように思えてきた。そう思うと、無性にすべてを投げ出してしまいたくなる。
 司郎は「春愁」という言葉をふと思い浮かべた。

 うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしもひとりし思(も)へば

 たしか、そんな『万葉集』の一首があった。
 人間だから、どうしようもなく哀しくなることがある。しばし、一人もの思いに耽っていたい。だが、日常の気ぜわしい時間の中へそんな思いも打ち消されていく。
 午後の十二時半過ぎという時間は、司郎のビジネスにとっては特別な時間である。株式市場の後場の立ち会いが始まるのが十二時半だから、司郎は身構えていなければならない。 すでに日本経済のバブルが弾けて十数年が経った。わが世の春を謳歌していた証券界も凋落の一途をたどり、リストラや合併の連続で証券界から去って行く人々が後を絶たなかった。しかし、何とか生き残った連中はふたたび捲土重来とばかりに、回復を始めた株式市場を飯の種にするようになった。
 秋野司郎もその中の一人であった。というよりは、一匹狼の証券ビジネスを始めたばかりであった。二カ月前に長年勤めてきた証券会社を辞めて、投資会社を立ちあげ、株式の売買やM&A(企業の買収・合併)業務をおこなうようになった。
 司郎は相場の世界の辛酸を舐め尽くし、裏も表も知り、それなりの有力な情報人脈も築いてきた。
 生来が博奕好きな性格であった。一瞬にして勝負が決まるギャンブルには、ほとんど手を染めて来た。学生時代は麻雀とパチンコにのめり込み、その代償が一年間の留年暮らしだ。証券会社に勤め出してからは、麻雀、パチンコに加え競馬、競輪、競艇にうつつを抜かす日々が続いた。だが、こうした賭け事で生計を立てられるわけはない。週末は散財の日々と相場が決まっていた。
 司郎はひどく孤独だった。彼は思った。ギャンブルにのめり込んでいく人間は、おしなべて善良で人のいい、それに加えてナイーブな感性を備えているのではないかと・・・・。人間の哀しい本能とでもいうべきか。敗北の傷を舐め合うという、ほとんど自己弁護にすぎない考えだが、自分にそう言い聞かせればするほどひどく寂しい気分になってくるのだった。
 司郎は決して冷徹な相場師にはなりきれなかった。どこか純粋なところがあり、それゆえに自分の孤独な魂をどこか途方もなく広い空間へ放擲してしまいたくなることが幾度かあった。司郎は孤独を少しでも癒そうと、詩や小説など文学の世界に慣れ親しむようになった。
 証券ビジネスは決して美しいものではない。「生き馬の目を抜く」と言われる兜町(しま)の世界には、さまざまな思惑をはらんだマネーが流入してくる。一昔前には地上げでしこたま稼いだ不動産会社のオーナー、名前を隠した大物政治家の秘書、右翼の総会屋、街の高利貸し、脱税まがいのアングラマネーなど・・・・。
 もとより司郎自身には資力などなかった。結局は他人のお金を弄んで、それを飯の種にしてきただけのことであった。そんな司郎に声をかけてきた人物がいた。
「秋野はん、どうや、大阪に帰ってきやはったら。いつまでも兜町でもないやろ。大阪には北浜もある。あんたの腕やったら十分に飯が食うていける。それぐらい、ワシが何とでもしたるがな」
 蛇の道はヘビとはよく言ったものだ。彼に誘いをかけてきたのは、関西の大富豪で藤原俊郎という名の老人であった。大阪の繁華街で料理店やゲームセンターなどを数カ所経営している。もともとが地元の大地主であり、俊郎の代になってバブルを巧みに乗り切って不動産で大儲けして、今でも不動産業と街の金融業とを営んでいる。
 老人といっても七十代の半ばで、体力はともかくとして、まだまだ気力は衰えていない。俊郎とは、司郎が兜町で相場を張っていた頃からの長い付き合いである。司郎の情報を俊郎は重宝し、司郎が仕手株相場で墓穴を掘った時にも俊郎は陰から支えてくれた。そんな恩義があったので、司郎も俊郎の言うことを無視することはできなかったのである。
 司郎は大阪に帰って来た。というのも、司郎の実家は奈良県の桜の名所として有名な吉野山の麓であったから、大阪も故郷同然であった。都落ちにはふさわしい場所だと司郎は思った。余生をのんびりと送るなどという考えなど毛頭なかった。
 俊郎は老いてもなお物への執着力は尋常のものではない。とりわけ相場を好んだ。
「秋野はん、もういっぺん相場を張ってみまへんか。あんたならでける。昔とちごうて最近の相場は落ち着いてやれんようになった。しかし、ワシにはまだひとつだけ夢があるんや」
「夢・・・・ですか」
「そうや、夢や」
「藤原さんにはずいぶんとお世話になりました。借りもあります。ぼくは、もう相場の世界から立ち去ろうと思っていたんですが、藤原さんの夢ならばお手伝いさせていただきますよ」
「そうか、秋野はん!」
 俊郎の目の奥がキラリと輝いた。その輝きは老境にある澄んだ目の輝きではなく、欲望を貪り尽くそうとする炎に満ちていた。司郎はそれを素早く察知したが、いまさら後には引けない。司郎は腹をくくった。
 俊郎は司郎に一冊の有価証券報告書と、数枚の新聞記事のスクラップを手渡した。司郎はそれに目を通した。
「これは・・・・株式会社『聖美』のものですね。大阪市場一部上場企業で、木材や生糸などを扱っている中堅の商社・・・・それが?」
「それや、その会社や!」
 俊郎が間髪を入れずに言った。声をいくぶん震わせ、皺の寄った頬を紅潮させた。俊郎は言葉を続けた。
「この『聖美』の株を買い続けて欲しいんや。どや、秋野はん」
 司郎は当惑した。
「買い占め・・・・ですか?」
「そや、買い占めるんや!」
 その俊郎の言葉で司郎はすべてを了解した。
 株の買い占め。司郎もその言葉に酔いしれていた時期があった。言い知れぬロマンさえ感じたこともあった。欧米ではM&A(企業の買収・合併)と呼び、正当な経済行為として認められている。株の買い占め、言い換えれば敵対的買収である。しかし、それは日本の保守的な企業風土において罪悪視されてきた。結局のところはうまくいかない。そんなケースを司郎も数多く知っているし、現実に買い占めの片棒をかついだ経験もあった。
 しかし、最近では様相が一変してきた。外資系証券が続々と日本の上陸し、市場を席巻し、若いIT企業の経営者などもM&Aを経営戦略として企業の成長と拡大を図るようになってきた。
「面白い、やってみましょう」
 司郎はすっかり乗り気になっていた。
俊郎は司郎に熱っぽく語りかけてきた。
「ワシはなあ、『聖美』という会社を喉から手が出るほど欲しいんや。上場企業ちゅうても、たかだか資本金が十五億円の会社で、業績が不振で株価も三〇〇円前後でうろついとる。しかしな、秋野はん、腐っても鯛は鯛や。あんたも吉野の出やったら知っとるやろ。『聖美』のオーナー社長の稲村はんも吉野の出で、かつて材木の出荷が華やかで生糸が世にもて囃された頃、『聖美』は飛ぶ鳥を落とす勢いやった。そして、しこたま儲けた銭でこの大阪周辺の一等地を買い漁ったんや。見てみなはれ、この土地を」
「土地ですか・・・・でも、今は値下がりしてしまってダメじゃないですか」
「いいや、そんなことはない。『聖美』の持っている土地はざっと見て三十万坪や。それも、タダ同然の値段で手に入れよった土地がほとんど、それも一等地や。なんぼ土地の値が下がったいうても、売ったとしたら五〇〇〇億はくだらんやろ。ワシは『聖美』の老舗の名前など欲しゅうない。欲しいのは土地や!」
 俊郎の話には不思議なほどに説得力があった。俊郎もまた大阪の大地主である。土地神話が崩れ去ったとはいえ、俊郎の土地に対する執着心は並大抵のものではなかった。
 たしかに『聖美』の経営は不振で株価も低迷している。しかし、俊郎が試算するように1株当たりの資産価値は少なく見積もっても三〇〇〇円、いや五〇〇〇円あっても不思議ではない。格好の買い占めのターゲットである。
 社長は稲村常一・・・・か。吉野の材木商の出。司郎にとっては、これもまた奇しき縁と言わねばならない。
 司郎は俊郎の所有する大阪のビルの一室を貸し与えてもらい、早速『聖美』株買い占めの準備作業に入った。藤原老人の名義が出ないように、いくつかのペーパーカンパニーを設立した。証券会社も数社使い、かつネットトレードも並行して行いことにした。このあたりのテクニックにかけては、兜町で十二分に培ってきた司郎のノウハウが生きた。
 司郎は『聖美』株をじっくりと腰を据えて買い始めた。深く静かに、誰にも気づかれないように細心の注意を払いながら買う。けっこう神経を擦り減らす仕事である。
 買った株式が発行済み株式の5パーセントを超えると所轄の財務局に届け出る義務がある。それも何とかクリヤーした。その頃から『聖美』株の買い集めの情報が北浜界隈を駆け巡り始めた。株価は上がる。それでも司郎は買い続けていった。数カ月で発行済み株式の20パーセントまで掌中に収めることに成功した。外部からの問い合わせや情報を求めてやって来るマスコミもすべて遮断した。
 春爛漫の五月に入った。
 しかし、その頃から司郎の心の奥底で何者かが激しく責めぎ合い、葛藤を繰り返すようになっていた。買い占めが現実のものとなるにつれて、自分という存在の輪郭が次第に曖昧なものになっていくことを強く感じた。野望やロマンといった絵空事がぱったりと影を潜めた。現実の醜い世界の片隅でひそかに息をこらして蹲っている、いわば病猪のような自分にどうしようもない嫌悪を覚えたのである。
 ずいぶんといたずらに神経を擦り減らしてしまったものだ。こんなことが、自分の一回きりの人生にとってどんな意味があるというのだろうか・・・・。
 そう考え出すと、司郎の魂はずるずると暗黒の崖まで運ばれていく。やりきれなさだけが残った。
 相場を飯の種にすることが、この資本主義社会の枠組みの中では決して悪びれる必要などない。そう自分自身に言い聞かせてみるが、自分という虚飾の仮面をはがしてみると、おぞましい修羅を引きずっている姿だけが見えてくる。資本主義国家を、株式市場を、そして、それを正当化させている経済学の論理を司郎は激しく呪った。
 すべては司郎の心の弱さゆえのこと・・・・。

 司郎は夢から醒めて、ようやくひと心地ついた。何とも苦々しく奇妙な夢を見たものだ。コーヒーの馥郁たる香が雑然としたオフィスに漂っている。司郎はソファに深々と腰を降ろして、煙草を燻らしていた。
 春愁か・・・・。
司郎はそう心の中でつぶやきながら、テーブルの上に置かれていた青色の手帳に目をやった。それは司郎のものではなかった。その小さな手帳はは、数日前の日曜日、偶然にも山中で拾ったものであった。司郎の眼にはその手帳が、ひそかに美しい女人が秘め持っている古代の勾玉(まがたま)のように映ったのである。
続く・・・・・
 
  続きは、しばらくお待ちください。
  早く読みたい方は、同人誌「DRUG」に掲載されておりますので、そちらをどうぞ。



牛の勲章----ほんもののあかし (随行記)
 (05.06.20)

恩賜賞 日本芸術院賞

歌集「鳥總立」(二〇〇三年十一月二十三日刊)をはじめとする長年にわたる短歌の業績に対し
              前 登志夫(79歳) (本名 前 登志晃)
(受賞理由)
 氏は昭和三〇年代より吉野を定住の地と定め、作品は風土に密着した山林生活者とし ての自らの生の感銘を問いかけ答える中から生まれている。
斬新なモダニズムの技法か らの出発が、重厚な自然との交歓、風土と民族への深い心寄せを加えつつ、独自な作風をなしている。
自然の中に生きる人間の、現代文明へのシビアな視点も見逃せない。
また、後進の指導育成に尽力するなどその功績は顕著である。

梅雨の晴れ間から覗く太陽の光もどこか湿りを含んでいるかのようだ。歩いていてもじっとりと汗が滲んでくる。
 東京駅の新幹線ホーム。のぞみ9号車。
「おーう、ありがとう。なんやらヤクザの大親分を出迎えてるみたいやね」
 ホームで出迎えるぼくに先生は開口一番、そう言った。いつもの小さく、くぐもった声。
少し疲れておられるご様子か・・・・。
 ぼくの家内は後から降りて来られた先生の奥さんと何やら話をしながら、いつもの大きな明るい笑い声。
予定より四十分ばかり遅れての到着。京都駅でちょっとしたトラブルがあったらしい。
何でも奥さんがまちがって『こだま』に乗り込んでしまったとか。
奥さんの姿が見当たらず、先生はあわてていつもの重いバッグを持って、京都駅のホームを駆け巡り、何とか名古屋駅で奥さんの乗った『こだま』を待って、再び『のぞみ』に乗り換えて無事到着したとのこと。
これもご愛嬌というべきか。
「また、東京で先生とお会いできるとは・・・・」
「うん、もう来ることはないと思ってたんやけどな」
「結局のところ毎年来てますね」
 一昨年は『短歌大賞』、昨年は『毎日賞』、そして今年は『日本芸術院賞・恩賜賞』。おめでたいことは続くものである。
「長生きすればいいこともあるものですよね」
「うん、うん、そうやなあ・・・・」
 宿泊先の帝国ホテルまでのタクシーの中でそんな話をしたが、何となく今回は先生もやや緊張ぎみなご様子。
 ホテルに到着して、しばらく休息。奥さんも久しぶりの上京とあってお疲れと見えたが、早速家内に導かれて明日の着物の準備に向かう。
「それで、リハーサルのことなんですが・・・・」
 ぼくは、テーブルに一昨日に行われたリハーサルの資料を広げながら先生に説明する。だいいち、リハーサルのある受賞式など初めてのことであった。
天皇皇后両陛下をお招きすることの大変さを改めて思った。
 先生が今年の『日本芸術院賞』に選ばれたことはテレビのニュースで知った。
しかも『恩賜賞』までついている。これは短歌の世界ではきわめて異例のことである。
『恩賜賞』とは国の栄誉あるいわば最高の賞であり、毎年たくさんの方々がいただく文化勲章とはわけがちがう。
短歌の世界でこの『恩賜賞』を賜ったのは、唯一折口信夫の没後に出版された『折口全集』に対してのみとのことだ。
「宝くじに当たったようなものやわ」
 奥さんが嬉しそうにそう何度も繰り返し言うのも無理はない。
先生の蝸牛を歌った一首に「・・・・勲章のなき一生のしるし」がたしかあったが、「勲章」も蝸牛ののろい歩みにいつしか追いついてきたのであろう。


「受賞式にあんたら夫婦いっしょに出てくれんか?」
 歌誌『ヤママユ』の「歌壇時評」が遅れていることの言い訳をするつもりで先生に電話をした折にそう頼まれた。
「はあ、そうですか。いいですけど・・・・」
 その時は深くは考えずに応諾した。しかし、後になって大変であることがわかり、身の引き締まる思いがし、光栄であると同時に賞の重みに心が落ち着かなくなって常用の安定剤を飲む量が増えた。
「リハーサルに主人の代わりに出て欲しいんやて」
 直前になっての奥さんの電話で再びあたふたしてしまった。たしかにリハーサルのためにわざわざ吉野から上京してくるような殊勝な心掛けの先生ではない。仕方ない、出るしかないか・・・・。
 日本芸術院の建物は上野の公園の中にある。けっこう立派な建物である。リハーサル当日は日の丸の国旗が玄関に出ていた。
「ああ、ここか。どこから入るんやろか」
 入り口のシャッターがわずかに開いている。入ろうとすると、職員らしい年配の女性に呼び止められる。
「あのーお、ここは一般の方は入れないのですが・・・・」
「えっ、今日ここで受賞式のリハーサルがあると聞いて・・・・前登志夫先生の代理の者ですが」
「あっ、そうでしたか。失礼しました。さあ、お入りください」
 その女性は顔色を変えてぼくと家内とを院内に招き入れた。
 ・・・・なんか不審者と間違えられたかな。
 部屋に案内されると、十分前というのに受賞者の方々が集まって、昨年の受賞式のビデオを食い入るように見ておられた。
日本画の川崎春彦さん、世界的ピアニストの内田光子さんの代理の女性の方、洋画の寺坂公雄さんご夫妻、彫刻の能島征二さん、書家の黒野清宇さん、能楽の観世喜之さん、歌舞伎の女形で人気の高い中村福助さんの美人の奥さん。
八名の日本芸術院受賞者の中で『恩賜賞』は川崎さんと先生と内田さんの三名のみ。
「いやーあ、両陛下の前で粗相があってはいけませんからね」
 日本芸術院院長に今年から就任された作家の三浦朱門さんがそわそわとした様子で、事務局の方と事細かに打ち合わせをしている。朱門さんは曽野綾子さんの旦那さんだ。
 一通りの式次第の説明が事務局の方からされる。続いて、宮内庁の担当の方から宮中でのお茶会の進行手順の説明。メモを取りながら分厚い資料に目を通す。
 宮中のお茶会のテーブルの配置図。五つの丸テーブルには着席者の名前が記されている。 
おおーっ・・・・! 思わず絶句。
先生は六人掛けの第一テーブル。河合文化庁長官、三浦朱門さん、川崎さん、そして先生の真正面に
天皇陛下、右に皇后陛下。
 まあ、先生のことだからいつものペースで・・・・しかし、ちゃかしたり、はぐらかしたり、極上の美的下ネタ話もできまい。いったい、皇族の方々と何を話されるのだろうか・・・・興味津々。
 控室から、式場となるホールへ。廊下の途中の一室には天皇皇后両陛下のお休み所まで用意されている。それだけでもどことなく厳粛な雰囲気だ。
 式次第に添って、司会進行の方から詳細な説明。三浦院長が初めてのことだけにとりわけ緊張され、
「ここで私が両陛下をお迎えして、ご挨拶し、それでまたあちらの席について・・・・あーあ、私がいちばん危なそうだ」とぶつぶつと独り言をつぶやいて周囲を和ませる。
「このリハーサルは三浦のためにやるようなものですよ。先生はものを書くことはいいのですが、こういうのは大の苦手のようで」と秘書の方が小声で参加者にささやきかける。
「一度、表彰状をいただき両陛下にお辞儀をするところまで練習させてもらえないでしょうか?」
 最初に賞状を賜る川崎さんが緊張した面持ちで突如そう申し入れる。
「ああ、そうしましょうか。ついでに代理の方もお願いします」
 むむむ・・・・ここまでやらされるとは。まあ、先生には「二番目ですから、一番目の川崎さんのやる通りにしたら問題はないでしょう」と言っておこう。
 天皇皇后両陛下のお座りになる席とは2メートルばかりの至近距離。ここに先生がどんな神妙な顔で座られるのか、想像するとなぜか思わず吹き出したくなった。
 式のリハーサルを終えると、展示室に向かう。展示室には、八名の受賞者の作品が順番に飾りつけられている。
先生の展示品は、二八冊の著書が扇形に置かれているのみ。
他の受賞者の方々の華麗な展示品に比べると簡素なのは仕方がない。
先生の顔写真でも大きく引き伸ばしてパネルにして壁に掛けたらどうだろうか。
(その旨を先生にお伝えしたので、当日は二枚の写真を持参して来られた) 
どうやら二八冊の著書も、捜し回ってぎりぎりまで送らずに担当者をハラハラさせたらしい。いつものことだ。
 明らかに今までの受賞式とは趣も雰囲気もちがっていた。
天皇皇后両陛下に来臨賜るというおごそかな式典に改めてこの賞の重みを感じた。
考えてみれば、日本の芸術文芸にとっての最高の栄誉であり、広く世の中に認められたという証しでもある。


「八名のうち、代理は先生と内田さん、それに福助さんの三名でしたよ」
 ホテルで休息しながら先生にリハーサルの状況を再度お話しする。
「ああ、そう」
「で、上野精養軒での文部科学大臣主催の昼食会ではあまりお食べにならないでくださいとのことでした。宮中のお茶会といっても一応フルコースらしいですから」
「ふーん、もったいないなあ。残りを匣に詰めて持って帰るわけにもいかんし・・・・」
「まあ、担当の方の指示通りにすればいいことですから、あまりお気にしないでいいですよ。ただし、厳粛な雰囲気であることだけは確かです」
「そうやろなあ・・・・」
 先生は悠然としていた。しかし、表情はどこか堅い。
「それにしても、よく取れたものですね」
 日本芸術院のパンフレットを眺めながらぼくは感慨深げにポツリと言った。
 日本芸術院の会員名簿の「文芸」部門には、小説・戯曲で二十二名、詩歌で八名、評論・翻訳で五名の計三十五名が名を連ねている。いずれもその分野で第一線の活躍をしておられる著名人ばかりだ。
芸術院賞をもらうだけでも名誉なのだが、恩賜賞まで受けるとなると過半数以上の票数を確保しなければならない。
歌人では岡野弘彦さんと馬場あき子さんのわずか二名。
つまり、候補作に対して小説家を中心とする文壇の賛同が不可欠である。
もともと歌壇の世界は狭いものであり、歌壇以外でいかに広く評価されているかにかかっている。
「まあ、漁夫の利かな・・・・」
 謙遜なのか照れなのか、本音なのか、先生はそう一言つぶやくのみ。
著名な小説家二人と競い合ったとも聞くが、自ずから「前登志夫」に票が流れていったのであろう。
「吉野にこもっていたこともよかったのかな・・・・」
「それもあるでしょうが、先生は歌だけではなく、数多く書き続けてきたエッセーや濃密な文章に魅力を感じておられる読者の方々も多いのではないですか」
 歌壇のみならず、広く文壇で前登志夫の文学世界が認められたことを、この不肖の一弟子は心より誇りに思っている。
 しかし、そう言えばいかにもお世辞に聞こえてしまう。
「ようやく先生の文学世界に時代が追いついて来たということでしょうね」
「ふん、ふん、時代も変わったのかな・・・・」
「今頃になって世間ではスローライフなどという言葉がもて囃されるようになってきたでしょう。もう四十年も前から先生はそれを実践されておられたのに・・・・」
 そんな会話を交わしながら、明日の受賞式を待つ。
 その夜、奥さんが持って来られたNHKの『日本巡礼 森に帰れる木霊のひとつ』のビデオを見た。
心にしみるいい内容と映像であった。
裏山の坂道を先生の後について歩いている娘のいつみちゃんはいつまでも童女のままのようだ。
「尾ある人」井光(いひか)が登場したり、杣人の労働の様子が紹介されたり、ひだる神の伝説の話、それに流浪の民である山窩の話など興味深く二度も繰り返して見てしまった。
 
     晩夏光うなぎを売りに山住みの乞食来りぬ少年を連れ (子午線の繭)
     樹木みなある日は揺らぐゆきゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり (霊異記)
 
 いずれも長らく愛唱してきた歌であった。
番組の最後で先生が「乞食(こつじき)の掌に花盛られけり」の一首を自歌自注されていたのだが、こんなにも豊かな時間が三十年前に詠まれていたのかと思うと心のたかぶりを覚えてしまう。
依然として謎めいたところがあり、言葉では意味付けのできない世界が一首の中にとっぷりとしまわれている。 地の声の始源性・・・・。 それはもう共感する以外にはない。


翌日は晴れてはいたが梅雨特有の湿気が都市を包み込んでいる。
 月曜日の朝は都心の道路は渋滞と決まってる。少し余裕をみてタクシーに同乗したが、日比谷の帝国ホテルから上野の森までは案外とスムーズに走った。
上野に近づくと道路の片側に赤い駐車禁止のとんがり帽子が並んでいる。
「今日は上野の森に天皇皇后両陛下が来られるのですね」
 タクシーの運転手がそう説明する。道理で道がすいているはずだ。日本芸術院の玄関に到着。
今日は日の丸の国旗が二本立っていた。
 モーニング姿、礼服姿の男性、着物姿の女性・・・・。晴れやかな院内に人があふれている。 展示室に先生の顔写真と書斎で書き物をしている光景との二枚の写真を書物の両脇に置く。
この展示室を天皇皇后両陛下がご覧になり、八名の受賞者の方々が自分の作品について説明し、陛下のご質問にお答えすることになっている。 
一人当たりの持ち時間はわずか二分。
「きっと両陛下は先生の作品をお読みになっていることでしょうから、いろいろとご質問がでるでしょうね」と前
もって先生には伝えておいたのだが、まあ心配には及ばないだろう。
 記念撮影の中庭を見学していると、廊下で車椅子に乗った俳人の森澄雄さんが先生を祝福される。
ご病気のせいか無言のままだったが、その目ははっきりと「賞にふさわしい人だ」と確信をもって先生を見つめておられた。
 心理学者の河合隼雄文化庁長官、三浦院長、岡野弘彦さん、馬場あき子さんなどが次々に先生の祝福に駆け寄って来られる。
著名な文化人の集まりには、騒がしい中にも何となく気品というか、文化的香気のようなものが漂っている。
こんな晴れがましい雰囲気の受賞式は生まれて初めてのことである。
 受賞者の方々が展示室で両陛下を待っている間に、われわれは式場に着席。正面の壇上には両陛下の椅子。
式の開始までの時間、雅やかな箏曲の生演奏が場の雰囲気を盛り上げる。
内閣官房副長官(小泉総理の代理)、文部科学大臣、最高裁判所事務総長、会計検査院事務総長、警察庁長官、警視総監、文部科学事務次官・・・・来賓の名前を見ただけでも、この賞の威厳のほどが伺い知れる。加えて宮内庁の関係者、SP秘書官がずらりと並ぶ。とにかく、じっと着席したまま耐えるしかない。
 展示室で両陛下にご説明を終えた受賞者の方々が着席。続いて両陛下がご入場。
『君が代』の音楽が荘厳に会場いっぱいに響きわたる。
両陛下が着席。テレビで見る通り、にこやかでやさしい笑顔をたやさず、受賞者の方々に祝福を送っている。
 二度とこんな至近距離で両陛下を見ることはないだろう。あまりめずらしそうにキョロキョロすることも憚る。前の方の頭が邪魔で皇后陛下のお顔が見えないのはいささか残念・・・・・。
 八名の受賞者の方々の後ろ姿。
白髪頭の中でひときわ先生の大きな頭の輝きが異様かつ荘厳に見えるのはどうしたわけか。
 川崎さんに続いて先生の受賞。うやうやしく両陛下の前で一礼。三浦院長から賞状をいただき、再び両陛下の前で一礼。
 受賞式は案外とあっけなく終わった。
両陛下が退場され、ホッと一息。宮内庁の関係者がいっせいに会場から立ち去る。
 続いて中庭での記念撮影。あわただしい時間。
 これから受賞者の方々は奥さん同伴で、文部科学大臣主催の昼食会に出席する。上野精養軒へとバスで移動。さらに、その後受賞者の方八名のみが皇居でのお茶会へと招かれる。
「投票は純粋なものなんですよ」 中庭で先生を呼び止めたのは、朝日新聞で小説『彰義隊』を精力的に連載されておられる作家の吉村昭さんであった。芸術院の文芸部門の部長もつとめておられる。
「うちの家内が候補にあがっていた時もぼくは家内には投票しなかったんですよ」
 吉村さんの奥さんが作家の津村節子さんであったことを初めて知った。 
それだけ、この賞の選考が透明で公正におこなわれていることを吉村さんは強調されておられたのだろう。
「主人は、展示室で皇后陛下に『たくさんのご本がおありですね』とお言葉を賜り、一瞬答えに窮したみたいやわ」
「もっと作品の中身についてのご質問を満を持して待っていたのでしょうね、きっと」
 先生の奥さんを待って、いっしょにホテルへ戻るタクシーの中で、そんな会話を楽しんだ。
 後で先生から「ああ、これは物置ですわ」と答えたと聞いたのだが・・・・。
「文化庁長官の河合先生と席が隣で、先生の話が面白くて一人で大笑いしてしまったみたいで、ちょっと恥ずかしかったわ」
 緊張から解き放たれたのか、奥さんはいきなり饒舌になった。疲れてはおられたのだが、うれしそうな表情だった。
 奥さんと家内は着物姿のままホテルで先生の帰りを待った。せっかくの機会でもあるから記念撮影をとの家内の配慮だった。
 二時間ばかりして、皇居のお茶会から解放されて先生がホテルに戻って来た。
「お疲れさまでした」
 三人で先生をロビーの入り口で出迎える。
 先生はしばらく言葉も出ず、いかにも疲れたという表情を浮かべておられた。
「先生、お酒を飲んだのですか?」家内が尋ねる。
「ああ、飲んだ。上等のワインでうまかった。あんな席では飲まんとおれんわ」
 先生が、皇居のお茶会の模様をぼつぼつと語り始めたのは写真撮影を終え、夕食に着いた席であった。
「天皇陛下のご公務も大変なもんやなあ。お疲れにならないように・・・・」
「皇后陛下は?」
「うん、うん、あの上品な笑顔は造りものではなく、自ずからという感じやったな。繭の話で弾んだんや」
「繭の話・・・・ですか?」
「そうそう、山繭の話。なんでも皇居の中で山繭を飼っておられるそうで、あのこの上なく美しい黄緑の繭から紡ぎ出した糸を染めたら黄色になってしまうことを残念だと言うていらっしゃたな。蛾の幼虫が糸を吐いて繭を紡ぐ格好、こうクイッ、クイッと・・・・」
 先生は親指と人差し指とを動かしてそのまねをすると、皇后陛下も「そう、クイッ、クイッと・・・・」と同じようにまねをされたらしい? そのしぐさが何とも剽軽でかつ気品あふれるものであったとか・・・・。
「山繭は殻を破ると、大きな目でぬばたまの闇の彼方をじっと睨んで交尾する相手を探す。蛾になって生きてる時間が限られているから、すぐに交尾をせんとあかん」
「えーっ、そ、そんなお話までなさったんですか」
「うん、した。皇后陛下は興味深く聞き入っておられた・・・・」
「それからどなたと話されたんですか?」
「うーん、ぼくは皇室アルバムに疎いんで、えーと、天皇陛下の弟で・・・・」
「常陸宮さまですね」 家内が口をはさむ。
「そうそう、天皇陛下と話し方がそっくりで、いろいろとご質問されてな。殿下も妃殿下も世界中を回っておられ、博学で・・・・答えるのに難渋したよ」
「けっこう、先生といえども気を遣われたんですね」
「いやいや、思ったほどは緊張することもなかったし、いつも通りや」
「そうでしたか。皇太子さまもご出席しておられたんでしょう?」
「皇太子さまとは、フォークロア(民俗学)の話で盛り上がってな」
「フォークロアの話ですか」
「皇太子さまは山歩きがご趣味で、熊野古道を歩いた話から始まって、瀬戸内海に話題が移ってね。ご専門はイギリスの運河の研究とか。宮本常一の『忘れられた日本人』などの本を読まれましたかと尋ねると『読みました』とおっしゃられて、そこからフォークロアの話に花が咲いて。皇太子さまは、わりあい表情を出される方で、もっと話したかったみたいやけど、タイムリミットで・・・・最後に皇后陛下がご挨拶に来られた」
「そうでしたか。もっと歌のお話でもしてきたのかと・・・・」
「三浦さんが気を遣って、『両陛下はお歌を一年にどれぐらいお作りになりますか?』と尋ねられたりしてたけど」
 そんな話を先生は面白おかしくされた。いつしか先生一流のジョークとはぐらかしを搦めた語り口に戻っていた。

翌日の昼前。先生ご夫妻は、誰とも会うことなく新幹線のホームにいた。
「本当にお疲れさまでした」
 家内がホームの売店で缶ビールを二本、先生に手渡す。先生は、すぐに缶ビールを開けて、うまそうにビールを飲み始めた。こんな姿も最近では見たことがない。
「お気をつけて」
「ありがとう、それじゃ」
 先生ご夫妻をお見送りして、なんとかセレモニーは終わりを告げた。
 ぼくは心の中で西行の一首をふと口ずさんでいた。

  年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山

 まさに「命なりけり」である。もう何年前になるのだろうか。一度は天狗にうながされるままに崖から飛んで腰骨を砕き、昨年には一〇数メートルの崖から転落し頭を強く撃ち気を失ったまま病院にかつぎ込まれた。頭蓋骨に穴を開けて血のかたまりを吸い出して、その後は自然治癒したようだ。
 老いてなお詩的狂気を失うことなく、まったき命の全体をふり絞って歌を詠み、そして珠玉のエッセーを書き続ける孤高の山住みの翁。
 ほんものの歌人であることのあかしが、今回の日本芸術院賞・恩賜賞であったと素直に祝福したい。
「恩賜賞をもろたら、もう悪さはでけんなあ」
「そりゃそうでしょう。菊のご紋を拝受されたのですから、この烙印は重いものがありますね。弟子も悪さがでけんようになりました・・・・」
 後日談ながら、先生は京都駅で新幹線を降りて、近鉄特急に乗り継いだ途端に、大きい方を催したそうだ。
「ぼくの家の台所よりきれいな帝国ホテルのトイレでは小用ばかりで、損をしたかな」と。





極上のエロス その1 (05.05.14)
  
                         
 某歌の同人誌に原稿を送った。気恥ずかしいが『極上のエロス』というタイトルをつけた。
刊行前でもあり、その拙い文章の一部を記しておく。

  ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひ きて谷にゆくかも

  上田三四二のこの歌を、彼の代表歌の一つとしてとりあげる歌人は案外と多い。
この歌は、『花信』二十八首中の一首で、術後の昭和四十四年、
「吉野山の山麓温泉ケ谷に元湯なる鄙びたる一軒家あり。花にやや遅きころ、ゆきて留まること四日」と詞書にあるように、花の吉野での連作。


「しづかなる峽間をとほりゆくときにわが踏むはみな桜の花ぞ」
「さびしさに耐へつつわれの来しゆゑに満山明るこの花ふぶき」
など、吉野の花に、気負うことなく素直に心のありようを投影させている。 

しかし、何よりもぼくにとっては、この連作の最後の一首の方により心ひかれるものがあった。
『花信』一連の中でも掉尾を飾るこの歌は異色である。
 嫁ぎゆく世のことはりをなげきたるをとめ も永遠のものならなくに
 十市皇女の侍女の「河のへの斎(ゆつ)岩群に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて」という美しい万葉歌が頭にあったせいかも知れない。
 『花信』の歌を写生歌としての成熟度や達成度という視点から評価するならば、この一首はいかにも俗っぽく映るにちがいないだろう。しかし、「をとめも永遠のものならなくに」と歌わざるをえなかった作者の直截で、かつ壮絶なまでのエロスへの憧れというか希求を深く愛でたいと思う。
 これは、吉野の花が作者にそう激白させたのであろう。
はるかな歴史の時空から舞い散ってくる無数の桜花は、かぎりなくエロスに満ち満ちている。
それは人間の命を輝かせもし、また生と死のドラマをも演じきるのである。
そういう意味ではまさしく叫びであり絶唱と言ってもいい。
 花とは極上のエロスのかたちではないか。 
性愛−−その根底にあるエロスとは、本来毒々しいものではなく、生々しく卑猥でもなく、清冽な川の流れのように命の息遣いそのものであり、わたしたちの生の始源に光り輝いているのではないか。
そして、その生の光輝を表現するにもっとも適した文学型式が短詩型たる短歌であり、短歌のもつ言葉としらべとによって実現されなければならないと思っている。
 極上のエロスこそ歌という詩型がもたらしてくれる賜物にちがいない。



  どうしても忘れ難く、いつしか諳じてしまった歌がある。

  うつ伏せの乳房はふかき泉なれ銀の牡鹿が 暁に越えゆく               梅木 美鈴


  すでに廃刊となった『短歌朝日』(二〇〇二年一・二月号)の読者投稿欄の特選歌の巻頭を飾った一首である。選者は前登志夫。
「この上もなくエロスに満ちた歌ですが、どことなくすっきりした抒情のみずみずしさと透明感がある。
銀の牡鹿がふかい象徴味を帯びており、未明の清浄感のせいでしょう」との評がすべてを見抜いているので、それ以上の鑑賞は蛇足というべきだろう。
 あえて、その蛇足を加えるならば、「うつ伏せの乳房」という表現がこの歌をさらに謎めいたエロスへと読者を誘っていくのである。
しかも、その乳房が「ふかき泉」であり、暁にその泉を「銀の牡鹿」が越えていくのだ。 
少なくとも、そう若くはないだろう女性の孤独でいたたまれない心の疼きが一首の世界に隠されている。
「うつ伏せの乳房」とは深い嘆きの象徴である。 いまだめぐり会うことのない凛々しい若者が自分の泉に水を飲みにやって来て、そしていずこともなく去って行く。
しかし、眠っている作者にはそのかすかな蹄の音だけが耳に残っているにすぎない。あれは未明のまどろみの中で感じたまぼろしの気配にしかすぎなかったのか・・・・。
 こういうみずみずしい想像力を喚起させる、豊かなエロスの世界はなかなかに歌えないものだ。
しらべが言葉をささえる。 あたかも性愛のように、燃え立てば燃え立つほどにその命の炎群はどこまでも澄んでいくのである。



春悠


 桜の季節も、またたく間に過ぎ去ってしまった。
恒例となった歌仲間の九段下の夜桜見物にも、ついにお誘いがかからなかった。当然である。
毎年、案内をいただきながら一度も参加したことがなかったのである。
どうも、都会の桜には馴染めない。郷里である大和吉野の桜の印象が強すぎるせいかも知れない。

   花あれば西行の日と思ふべし 角川源義 

この有名な句は、吉野の桜を狂おしいばかりに愛でた西行を意識してのものであり、花とはすなわち西行の世界そのものであるという直感に根差した句であろう。

   吉野山昨年(こぞ)の枝折(しをり)の道かへてまだ見ぬ方(かた)の花を尋ねむ

 吉野の奥山深く分け入って、まだ出会ったことのない桜を見たいという西行の歌である。
「まだ見ぬ方(かた)の花」とは、いったい何であろうか。
西行の花に対しての異常なまでの執着に、文学をはるかに越えた世界を垣間見る思いがしてならない。
西行にとっての花とは仏の化身、そう仏教的に解釈することもできるだろうが、それではつまらない。
 花とは極上のエロスである。 いのちの輝きであり、生きる力そのものである。

 作家仲間の藍川京さんから、『たまゆら』(幻冬社刊)という長編小説を贈っていただいた。
「燃え盛る二人にとって、愛の時間はいつも束の間だった」という帯のキャッチコピー。
もともとが純文学の作家だけあって、文体がなめらかで趣深い。
「4月3日、矢切さんの7回忌ですね」という添え書きがあった。すぐにお礼のメールをしたところ、
「いま上野の不忍池にお花を供えて帰宅したところです。この時期は桜が咲いていたりいなかったりで・・・・」。
同じ作家仲間の先達であった矢切さんが, 不慮の死を遂げられてからもうそんなに時間が経ったのか。
 
 その矢切さんと不忍池で花見をして最後に別れた歌仲間の光栄(みつはな)さんからもお便りをいただいた。
都立高校の先生を辞められて、鍼灸師・按摩マッサージ指圧師の資格をとられた由。
光栄さんの『三島由紀夫論』は読みごたえがあった。
 これから春愁のなんとも嫌な季節だ。
わが拙歌を口ずさみながら、この春はひっそりとしていたい。
 
 やはらかき春の光に手のひらを翳せば青き血もそよぐべし
 息吐けば星々の間に澄みゆきてこの破財者の道暗くせり
 ゆつくりとわが影法師けだもののかたちをなせり花束を抱き
 どこへ行けと誰か告げくれ暮れなづむ道にみどりの靄まとひつつ
 たたかひは遠つ国のこと見上ぐればをみなの脛のごとき三日月
 ましぐらに菜の花群を走れども投げ棄てて来しものは帰らず
 群青の空の容器に顔ひたすこころのかたち洗はれてゆけ
 ひびき合ひやがて失せゆくかなしみのこだまかわれも花に吹雪けり
 いくたりの人と擦れ合ひ行きちがひ紫雲英の畦にひと日居眠る
 てふてふのまとはりてくる手を振りて白き柩の列を見守る
 狂ひたる時計、磁石も春の夜のおぼろにあれば親しかる友
 湧きいづる水は冷たく花浮かべ未生の銀河空を流るる
 雪つもり月皓々と花匂ふ世界をわれは堕ちてゆくのみ
  
新春雑記 その1 (05.01.04)

「どうして、日本人は雪が降ると傘をさすのでしょうか・・・・」  
大晦日近くになって、東京で初雪が降った。何年ぶりのことだろうか、と窓からせ わしげに往来する人々の姿を眺めていたぼくに、彼女は不思議そうに尋ねてきた。
彼 女はロシア人で、日本人の旦那さんと結婚して数年前に日本にやって来た。
日本語に 訛りがなく、電話に出た彼女のことを、大抵の人は日本人とばかり思っていたと驚 く。
どうやらロシア語と日本語とは音域、音質が似通っているらしい。「ロシアでは どうなの?」
「こんなにも美しいものをビニール傘でよけるなんておかしいですわ」  問い返したぼくに彼女はそう答えた。
いまモスクワは氷点下五度。
それでも、そ んなに寒くはないというから、寒がりのぼくにとっては信じられない風土だ。
彼女の 田舎では真冬ともなれば、氷点下十五度、二十度にまで下がるというから、日本の寒 さなどたいしたことではないのだろう。  

ロシアでは雪が降っても傘などささずに、温かな毛皮の帽子をかむり、毛皮のコー ト、それに毛皮入りの長靴で歩くという。雪を全身に受けとめながら、極寒の街を往 来するロシアの人々のことを想像しながら、トルストイやドフトエフスキーなどの文 豪を生んだ厳しいロシアの風土についてもっと聞きたいと思ったのだが、それも野暮 というものだろう。
雪とは清浄な天の賜物・・・・。そうかも知れない。  

名前は忘れてしまったが、日本の民話にたしかこんな物語があった。貧しい家の少 年が病に臥せっている母親に何かを食べさせたい一心で、庄屋の畑から大根かなにか を盗んでしまった。
畑を見回りに来た庄屋は、畑から黒い土の上に点々と続いている 少年の足跡を発見して、明日になればその足跡をたどって犯人を懲らしめようと思っ た。
しかし、その夜、雪が降って、庄屋が畑に来てみると少年の足跡が降り積もった 雪ですっかり消されてしまっていた。
少年の病に臥せった母親への思いやりが天に届 いて、雪がその罪を消してくれたという民話だったが、その時なぜか心洗われるもの を感じた。 
天上から地上に舞落ちてくる雪には、人間の罪咎を消してくれるという 浄化作用のようなものがあるのだろう。
それは理屈や観念の世界ではなく、自然がも たらしてくれる恩寵というほかはない。それを、あれこれと意味づけしてみたり、現 代風に理論的に解釈したりしてみてもただただ空しいだけである。何も考えずに、純 化された世界の時間とその息遣いを、そのまま素直に受け入れたいと思う。  

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。   
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
   
三好達治の初期の名作とされている『雪』と題した詩。達治には『乳母車』や『甍 のうへ』といった、その詩句の美しさに魅せられて、いつの間にか諳じてしまった作 品もあるが、よくよく考えてみれば、この詩がもっとも謎めいているのではないだろ うか。
「ここには太郎次郎という子供がいるばかりではなく、雪ふる山村の灯火にう ずくまって夜なべなどをしているその母の姿が生きている。
いわば日本の母の典型が ここには見事に映し出されている」(石原八束)という解釈も、なぜかこの作品の豊 かなふくらみを削ぎ落としてしまっているように思えて仕方がない。  

意味づけのできない渾沌とした世界をどこかに孕んでいるゆえに、言葉は逆にどこ までも贅肉を削ぎ落として単純化していく。そういう詩は口ずさむよりほかにはな い。少年少女が純粋な心で口ずさむように、なんの抵抗ももたずに。

新春雑記 その2
 (05.01.04)

このところ、何かにつけてものを言うことがひどく億劫になってしまった。もの言へ ば唇寒し、ではないが人に語りかけることによって、どこかでその人の心を傷つけて しまっているのではないかという自責の念のようなものである。
それに銭金や利害が からんでくると、もうどうしようもない嫌悪感に襲われる。
いろいろな人間関係のし がらみの中では仕方がないことかも知れないが、生きていく以上は歌や文学を純粋に 語り合える友とばかり接しているわけではない。  

・・・・欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、 ねたむ心多くひまなくして、臨終の一 念 に至るまで、とどまらず消えず絶え ず。(『一念多念証文』より)  

親鸞さんの言葉は鬱々として落ち込みがちなぼくの心を時として癒してくれる。
決 して生来信心深いほうではないが、いや、むしろ知命の齢に達して、いよいよ無神論 者になりつつあるのだが、なぜか親鸞さんの言葉には諳じてしまう魅力があるから不 思議だ。  
『歎異抄』の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」はあまりにも有名な 言葉であるが、自らを無知で愚かな肉食妻帯の僧を意味する「愚禿」と名乗ったこと も親しさを感じるのだ。「誠に知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利 の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざ ることを、恥づべし、傷むべしと」(教行信証)。
外見はいかにも賢善精進の者であ るかのごとく振舞い、内面は愚かである自分を見据え続けていた。   
その親鸞さんの最晩年、齢九十を越えようとする折りに作られた『正像末法和讚』 のひとつを呪文のごとく呟いてみる。  
    
        浄土真宗に帰すれども   
        真実の心はありがたし   
        虚仮不実のこの身にて   
        清浄の心もさらになし
     

高僧の至った心のありようをそのまま受け取ってしまっていいかどうかは別にして も、この厳しい自戒の声に沈黙せざをを得ないのである。
自分は亡くなった父母の供 養のために一度たりとも念仏申したことはないと言い、自分が死んだら賀茂川に投げ 入れて魚たちの餌にしてくれと遺言した親鸞さんの生き方そのものが「往生」という 苛烈な言葉の本質を象徴している気がしてならないのである。



の日のつぶやき
 
(04.09.20)


急がねばならぬ。
では、何をそんなに急いでいるのか?
 
もっと、たくさんの本を読んでおきたかった。知識を吸収し、言葉を学んでおきたかった・・・・真にものを創造することの苦しみと喜びを体験したかった。
もう遅いなどと嘆いてみたところで、過ぎ去った時間の束を引き寄せることはできない。ああ、この愚かしき存在と取り返しのきかない時間。

「人間は死への存在である」といったのはドイツの哲学者ハイデッガーであったか。
その思索を凝縮した珠玉の短編『野の道』という書物はかつての愛読書のひとつだった。
「単純なるものこそ潜まるもの・・・・」という呪文のような言葉を何度もつぶやきながら、第二次世界大戦へと向かっていく世界の中で、ひそかに思索にふけっていた孤独な哲学者の心を思った。
ハイデッガーが「原子の時代」と名づけた20世紀は終わった。

さて、21世紀は「IT(情報技術)」なのか、「バイオ(遺伝子操作)」なのか「ナノテク(自然界にない物質を合成する極微の技術)」の時代なのか。

とにかく時代のスピードが速すぎる。いいか悪いかは別として、せめて文学とか芸術の世界だけは、いま流行(はや)りの「スローライフ」でいきたいものだ。

「・・・・時代にずれたことが本物の証しかも知れません」という歌の師からの葉書をいただいた。少し前に出された『病猪の散歩』(前 登志夫)というエッセー集には、ヘルマン?ヘッセの「老いていく中で」という詩が引用されていた。

若さを保つことや善をなすことはやさしい

すべての卑劣なことから遠ざかっていることも

だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと

それは学ばなくてはならない

それができる人は老いてはいない

彼はなお明るく燃える炎の中に立ち

その拳の力で世界の両極を曲げて

折り重ねることができる


老いてなお盛んとは、肉体的な力のほどを言うのではなく、たましいの純粋な燃焼をいかに持続できるかということだろう。

あしひきの山の霜夜を燃えつづく花びらありき老のきりぎし 前 登志夫

「きりぎし」とは崖。「燃えつづく花びら」とは詩的パトスであり、花とは極上のエロスのかたち。
世界や時流や日常から猟銃で撃たれ傷を負った猪に、あらたな生の力がよみがえってくる荘厳なる自然の摂理を畏怖しつつ、初秋の一日をぼんやりと過ごしている。やらなければならないことは山ほどあるというのに。
時流から落ちこぼれ、はぐれていくものにこそ本物のあかしを認めたい。



気になる歌 
 (04.09.15)

風吹けばねむりのままに勃起せる仏弟子ありき木々青あらし
                         前 登志夫

このすがすがしさはいったいどこから来るのだろうか、と今年の夏の暑さをこらえていた折、
この一首に触れた素直な感想であった。
『帆柱』四十四号の「仏弟子」と題した七首中の一首。
仏弟子といえば、仏教が興隆したはるか昔、ブッダのまわりに悩みをもち虐げられた不運な人々がたくさん集まり、煩悩からの救いを希求し、ついに心の安住を得たという説話を思い出す。

しかし、この「ねむりのままに勃起」する仏弟子は、そういう人間の悩みや煩悩などといった胡散臭いものから解き放たれて、どこまでも自在で滑稽で軽やかなのである。
真夏日の昼下がり、山の斜面を涼を含んだ風が撫でていく。
青々とした木々を激しく揺さぶる青嵐。
ただそれだけのことだが、この昼寝をしている若き仏弟子を勃起させるには十分なのである。
すべてが、こともない自然の中での出来事。
人間のいのちが無意識の世界をたっぶりと吸引しながら膨らんでいく豊かさだ。
エロスなどといった野暮な言葉はそぐわない。
「草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ」という『樹下集』の一首を口ずさんでみる。

だが、自然と人間とが紡ぎ出すいのちのおおらかないとなみと、その深さにおいてこの一首は「摩羅」にまさっているのではないか。
肩肘はることのない風姿の清浄を愛でる。


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