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静岡・小諸・恵那峡 その3

2011.10.22 

翌朝は宿のすぐそばにある「岩村城」に立ち寄る予定でしたが、あいにくの霧と土砂降り雨。
悪天候の山道を歩く備えをしていない我々は、岩村城登山をあきらめて恵那峡を見に行く事にしました。

岩村城は、鎌倉時代中期に遠山氏によって築城された城ですが、日本で一番標高の高い場所にある城郭なので「日本三大山城」の筆頭に挙げられています。
この辺りでは頻繁に霧が発生するために、「霧ヶ城」との別名がついています。
遠山氏最後の城主・景任がこの地を治めていた頃は戦国時代末期にあたり、織田氏・武田氏・徳川氏の抗争の一番激しかった時で、この城の位置は三者がぶつかり合う最前線となっておりました。

景任は織田信長の年下の叔母にあたる「おつやの方」を妻として迎え、織田信長の援護を得ながら武田信玄からの攻撃に耐え続けておりました。
元亀2年(1571年)、武田方から猛攻撃を受けているさなかに主の遠山景任は35歳の若さで病死し、加えて織田・徳川からの援軍も武田方の攻撃によって敗退してしまった事から、城内の士気は大幅に下がってしまいました。
「おつやの方」は織田信長の5男を養子に貰い受け、幼少の養子に代わって女城主として差配を振るったのですが、城内の士気は下がったままで武田方の武将・秋山信友の攻略を受ける事となりました。
ちょうどその頃は、頼みの綱であった織田信長は小谷城攻めと武田軍本体の西上対策で大忙し、徳川軍に至っては「三方ヶ原の合戦」で大敗してしまうありさま。

そのような状況下でおつやの方は、家臣たちと織田家から貰い受けた養子の御坊丸を生き長らえさせる為に、敵方と和議を結ばざるを得ない状況に陥ってしまいました。
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「おつやの方」が出した要求を容れる引き換えとして、敵の武田方から出された条件は、自分は武田方の秋山信友の妻となり、御坊丸を甲斐へ人質として送る事だったと伝えられています。

織田家出身の彼女にとって、自らの首を敵方に引き渡す事には躊躇しなかったでしょうが、自分が敵将の嫁になる事は苦渋の選択だったに違いないと思います。
それから3年後、今度は織田信長の攻撃を受ける事になりました。
「おつやの方」にとって次の頼みの綱となった武田氏は長篠の合戦に敗れ、またもや孤軍奮闘する事になりましたが、とうとう城は落ちてしまいました。

当初は家臣たちの助命を条件に開城する約束になっていましたが、織田方はその約定を破って城将を皆殺しにし、おつやの方は夫の秋山信友とともに長良川の河川敷で逆さ磔に処せられました。
かつての敵方であった武田勢は開城の際に約束を守ったのに、身内である信長が和議の約定を反古にした事から、彼女は信長に向かって
「かかる非道のふるまい、妾(わらわ)がその罪を赦すとも天が赦すまじ。
 追っつけ因果はめぐりて、苦しき死に遭うべきよ。」
と、言い放ったと伝えられています。


そして恵那峡。
恵那峡へ行き着くまでは、ガスの濃い所を走ったり雨脚が強くなったりと散々でしたが、目的地に着いた頃には天候は穏やかになってくれてました。

ここは大正13年(1924年)に関西電力によって築かれた、木曽川水系では最初のダム湖で、「大井ダム」と名付けられています。
木曽川は水量が多く、しかも急流なので、水力発電所を作るなら最適な川です。
その長所は裏を返せば短所でもあり、雨が降れば一気に大量の水が押し寄せるため、当時は何度も氾濫を繰り返しておりました。

最初にこの川に目をつけ、水力発電所の建築を思い立ったのは福沢諭吉の養子である「福沢桃介」でした。
しかし、たび重なる川の氾濫により建築資材が流されたり人命が失われたり、それに伴って資金難にあえいだりと大変な難工事となりましたが、日本初の映画女優「マダム・貞奴(さだやっこ)」の助力もあり、苦難の末にやっとダムを完成させる事ができました。
この事業は、当時では世界中からも注目された、世紀のビッグ・プロジェクトの一つとされています。

その後日本では多くの水力発電用のダムが作られてきましたが、ダム湖が作られた事で周りの景観が損なわれてしまう場合もしばしばありました。
でも大井ダムは、ダム湖が出来た事で却って周囲の景観が良くなった、珍しい例だと言われています。

岩村城へ行かなかった代わりに、福利厚生的にちょっぴり贅沢。
高速ジェット船で30分間ほどのクルージングを楽しんできました。
思いっきり目と心の保養をして「明日への活力」に繋げられるなら、経理担当の私としては、大人一人1250円は安い方だと思います。

大井ダムができた頃、当時の地質学者だった志賀重昂は、ダム湖とその周辺を「恵那峡」と名付けましたが、まさに「恵那峡」!!
遊覧船の窓からは、変わった形の巨石がいっぱい見られ、周りの森林と湖がその造形美をいっそう際立たせてくれてました。
もしもダム湖が無かったなら、見やすい角度で目を楽しませてくれた奇石も、山の上の方にちらっと見える程度の景観で終わっていたかもしれません。

この時期、まだ「秋色」は浅い時でしたが、空気はひんやりとし、そろそろ色づきかかっている木々がチラホラと見えておりました。

「秋桜」、コスモスとは違います。
秋に咲く桜です。

秋に咲く桜は二種類あって、「ジュウガツサクラ」と「フユサクラ」で、花びらが一重だと「フユザクラ」、八重だと「ジュウガツサクラ」なんだそうですが、この木の花を見ると、八重と一重と両方があるんですの。
どっちの品種なんでしょうかねー??

帰り間際に、近くの美濃焼アンテナ・ショップで、事務所まかない用の食器を買いました。

ネコ顔模様の銘々皿

戌年生まれの相方は、ワンコ模様のお茶碗、ネコ大好きの私は、ニャンコ模様のお茶碗。
事務所が「所帯」化するのを恐れて、毎日のまかないランチの際もずっと練りワサビ・デモ用のミニボールを茶碗代わりに使ってましたけど、子供用とはいえやっと茶碗らしい茶碗を使える事となりました(喜)。

が!!


何でや?!
事務所で荷解きをすると、ニャンコの茶碗がブタ茶碗にすり替わってた!!

相方は、ニヤニヤ。
コンニャローッ!

何時かは、岩村城のリベンジついでに、ニャンコ茶碗を買って来よう!!


そして帰阪路。

木曽街道を下って行く途中に「明智」という地名を見つけました。
戦国期のトップスターと呼ばれる人々の出身地名が見えただけで、何故かワクワクしてしまう。

相方に劣らず、私も大の歴史好き。
頭の中では、戦国時代の様子がグルグル。
今回の出張も、仕事以外に面白い事がてんこ盛りでした。



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