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マレーシアからシンガポールへ
マラッカ編


クアラルンプールからマラッカまで、サウスウェストハイウェイを使って車で移動すると、約2時間程で行き着きます。
朝からあちらこちらを巡り歩き、おまけにマレー料理の昼食をたっぷり食べた後なので車に乗ってしばらくすると、つい眠気が差してきます。
初めの頃はハイウェイの両側に広がるゴム園やパーム椰子の畑が物珍しく、ずっとそればかり眺めていましたが、本当にずっとそればっかり!!

私が思っていた以上に車窓から見える景色は単調で、道路標識を見ないと、今どこにいるのか冴え分からない。
その道路標識もすぐに読めればいいけど、マレー語も英語も私の苦手なアルファベットばかりですからねぇ。
読む間も無しに後ろに通り過ぎていってしまうわけで、こうなったらもう、車の中では寝て過ごすしかありません。

ドライバーのお兄ちゃんの荒っぽい運転に少々閉口しながらも、車の揺れに身を任せて夢の入り口あたりにさしかかった頃、いきなり、バリバリッ!!と言う音が!
何だと思って目を開けると、車はスコールの雨に洗われていました。

スコールって話には聞いていたけど、ものすごいものですねぇ。
良く巷で、バケツをひっくり返したよう・・・・なんて言われますが、スコールの降り方はそんな物では言い表せないです。
どちらかというと、銭湯の湯船をひっくり返したような・・・・・と言った方が分かりやすいかも(却って分かりにくかったりして・・(^^ゞ)
雨粒の大きさも、日本で見られる夕立程度の物とは段違いで、すごぉ〜く大きいの!
だから車に雨粒が当たった時にはパラパラではなくて、バリバリなんてすごい音がするんでしょうねぇ。
でも、そのスコールも30分程でお終い。
雲が切れかけたと思ったら、もう、日が差してる。
南国の空は変わり身が早くてビックリでした。

そうこうするうちにマラッカの街に到着、まずはマラッカの旧市街の中で中国人が多く住んでいた所に案内されました。

当初の予定ではババニョニャ博物館へ連れて行って貰うはずだったのですが、博物館の閉館時間は16時なのに、時計の針はもう16時30分を指している。
あ〜あ、遅刻したみたいぃ.。o○

この「ババニョニャ博物館」というのは、昔この家に住んでいた中国系の富豪の生活振りを当時そのままの状態で残した、いわば資料館のような物なんだけど・・・・

ま、遅くなってしまったものは仕方ない。
スッキリと諦めて、次の目的地のチェンフーチン寺院に向かいました。

その寺院までは、車を使わずにブラブラと歩いていきましたが、ずっとこんな感じの家並みが続いています。
一見するととてもうらぶれて荒れ果てた感じがしますが、この家は全て100年以上も前に立てられた物で、街全体がその頃の状態そのままで残っています。
家の間口はとても狭く、でも奥行きはとても長くなっていて、れんが造りと言うことをのぞけばまるで京都の町屋みたいな作り。
歩いていると、風を入れるためだったのか、数件の家が表の扉を大きく開け放していましたが、ちょっと覗き込んでみると奥の方に裏庭や中庭が設けられていて、外から見た印象よりもずいぶん豊かな生活をされているようでした。
京都の町も昔はそうだったらしいですが、この町も商売をしている家はその間口の広さによって税金が掛けられたので、それでこんな風なうなぎの寝床のような家ばかりが長屋のように並んでいるのだそうです。

今現在、この家並みは政府の方針で保存化が薦められていて、家を改装する時は外の煉瓦造りの壁だけを残して改築し、残された外壁は綺麗に補修して大事に使われるようになっているそうです。

この右側の写真の家は、改修を終えて今は企業のオフィスとして使われているそうです。
全然そんな風に見えない所がとても面白い。
でも、外の看板を見ると、ちゃんと「○△公司」という名前が書かれていました。

この国の建物は、大きな建物はほとんどが煉瓦で造られています。
地上100メートルを超すような大きなビルも、みな煉瓦で作られているんです。
この二日ばかりであちこちの建設現場を目にしてきましたが、20ミリの鉄筋を4本ばかり芯にしたコンクリート製の柱を作ると、その間は煉瓦で埋めていって、昔ならしっくい、今ならモルタルでお化粧してお終い。
地震大国に住む日本人の目で見るとびっくりする程の細い柱が使われていて、見ていて危なっかしいのですが、この国には有史以来、地震と台風はまるでゼロ。
建物を壊す原因となるのは、火災と戦争だけと聞くと納得できそうな気がしました。

チェンフーチン寺院は、中国人街のやや外れの方にありました。
中国人の信仰を今でも集めている仏教寺院ですが、そのたたずまいは日本のお寺とは大違い。
まぁ、派手というか、ケバイというか(失礼)
門をくぐった途端、目に飛び込んできたのは、この真っ赤っかでした。

でも、本堂に近づくとやっぱりお線香の香りが漂っていて、仏像の前にはお花がいっぱい供えられていました。

この国のお寺では我々から見ると変わった風習があり、たくさんの参拝者がお供えをするために次々とお花を持って訪れるのですが、花入れが一杯になると、茎の部分は捨ててしまい、花の所だけちぎって、花瓶の隣に盛っておくんです。
不運なことが続いていたり、今日一日ついていなかった人は、その花を寝る時に枕元に置いておくと運が開けるおまじないとして持って帰るんだそうです。
私がその説明を聞いている最中に、若い男性が一人その花を一つかみ新聞紙に包んで持っていってしまいました。
今でもちゃんと信じる人っているんですねぇ。

お寺の造りはとても凝っていて、隅々まで彫刻が飾られ、漆や、真っ赤なベンガラが塗られていたり、金箔が張られていたり、日光の東照宮でさえも真っ青な程に飾り付けられています。
中には仏像が安置されていましたが、仏さんの表情は、日本のものとはかなり違っていました。

カメラを向けると、仏さんの写真を撮るのだけは遠慮して欲しいとか。
ちょっと名残惜しかったけど、信心をすると、そう言う考え方が出てくることもあるわけで、この場はおとなしく引き下がりました。

日本国内でも、大きなお寺の近所には必ずと言っていい程あるのが、仏事の時に使う道具を扱っているお店。
仏壇を初め、花入れやお鈴など、いろいろな物が売られていますよね。
このお寺にもそんなお店があるのですが、売られている物はずいぶん違っています。
仏像などの仏具ももちろん売られているのですが、その他に紙や木で作られた、豪邸の模型があったり、車、家具などから始まり、召使いとおぼしき人形からお金まで。
一見した所、店先はまるでオモチャ屋さんみたいな有様でした。

我々日本人の間にも、故人の魂を慰めるために生前愛用していた物を死者と一緒にお棺の中にいれて荼毘にふしたりしますが、中国の人達の習慣はその風習をもっとエスカレートさせたもののようです。
お供えした物を燃やして灰になると、それが使者の住む所まで届くという思想があるので、故人の命日が来るたびに、いろいろな物を燃やしてあの世へ送られるのだそうです。
だから、生前は貧しくて苦労をなさった方でも、子孫が大きな家の模型を燃やし、たくさんの人型や、お金の模型を燃やすと、あの世では大富豪の生活が出来るそうなんです。
それが子孫の出来る供養だとか。
その模型のお金を見せて貰いましたが、一千万ドル札の肖像には閻魔大王様のお顔が使われていました(笑)
しかし・・・・大富豪がそんなにいっぱいいると、あの世ではものすごいインフレ状態なんじゃ?・・・なんて考えてしまうのは、私だけ?(自爆)

いろいろな宗教を持った人達が入り混じって住んでいると、当然その影響を受ける人々もいらっしゃるわけで、中国系移民の中にもイスラム教を信じる人達がいらっしゃいます。

右の写真は、中国人街にあるイスラム教寺院ですが、祭壇などはなく幾何学模様のタイルが使われ、そしてアラビア語で教典の一節を掲げられた所はまさしくイスラム寺院ながら、何となく中国的な所も随所に見られます。
例えば壁を飾るタイルに牡丹の花が描かれているのは、まさに中国独特の物。
お祈りの場に掛けられているカーテンも真っ赤なものが使われていたり、調度品なども黒檀で作られていたりして、中国人特有の嗜好がこの寺院の中にも現れていました。

でもやはりここはれっきとしたイスラム寺院で、神殿の外には男女に分けられた洗い場があり、神殿の内部に入るにも各国共通の掟である「土足厳禁」がしっかり守られていました。
もちろん我々の内部への立ち入りが許されなかったのは当たり前。
中にはどなたもいらっしゃいませんでしたが、外から大人しく覗かせて貰うだけに留めておきました。

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