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晩秋の東高野街道 その2



石清水八幡宮を二の鳥居から出ると、目の前にたいこ橋が見えてきます。
これが、「神わざに つかふる雲の上人も つきをやめづる 秋の川はし」と謡われた安居橋で、「安居橋(あんごばし)の朧月」は八幡八景の一つに数えられています。

この橋の掛っている川は、大谷川と言いますが、この橋を中心とした200メートルほどの区域だけ、「放生川」と呼び慣わされております。
というのも、この場所は殺生禁断の地で、石清水八幡宮が開かれてまもなくの863年から幕末までの長い間、「石清水放生会」という祭事で、生きた魚を放流してきたからと言われております。
また、昔は蛍の名所としても有名だったそうで、放生川も八幡八景の一つに数えられています。

ここは、観世流の謡曲「女郎花」の舞台しても名が知られており、この橋からほど近い所にある「男塚(頼風塚)」の主である小野頼風と、都の女との悲恋物語が今でも歌いつがれています。

橋を渡ると、辺りはごく普通の住宅街。
その一画に、「淀屋辰五郎屋敷跡」があります。

淀屋辰五郎とは、江戸時代には天下に並ぶ者無き大豪商と知られた淀屋の五代目に当たる人です。
江戸時代の初期、初代の淀屋が大阪の地で居を構えて以来、二代目は大坂米市場の前身になる「淀屋の米市」を開設たり、青物市、魚市の前身も開設しました。
また、大坂の商人達にも糸割符仲間の参加を実現させるなど、商人達の間での淀屋の地位を高い物に引き上げました。
その結果、財産は見る見るうちに増えてきて、百間(180m)四方もあると言われた屋敷前から、米市場前までの間に大きな橋を架けたり(現在の「淀屋 橋」)、借金の申し入れのために、毎日のように諸藩の役人たちが淀屋を訪れ、その店先の繁栄振りはものすごかったといわれています。

五代目の辰五郎が淀屋を継いだのは、17才(諸説では14才)だったと言われていますが、彼こそが世界で始めて先物取引を導入した人物です。
米取引に先物取引を導入する事によって、相場の暴騰・暴落を防いで米の価格を安定させ、わずかな歳月で莫大な富を得たと言われています。

その代わりに生活も派手になり、たった一年半で一万貫(現在の価値では約100億円)を、遊興費に使ってしまったり、当時ではギヤマン、ビードロと呼ばれ て大変に貴重だったガラスを天井に貼り、金魚を泳がせていたような部屋を作ったりと、豪奢を極めるような生活をしておりました。

それが幕府の目にとまり、「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」と、闕所という重い処分を受ける原因になりました。
闕所とは、住まいや店はもちろんの事、財産をすべて取り上げられ、住んでいる町からも追い払われる事です。
それだけでなく、淀屋の場合は、店の番頭や手代の一部には余罪を厳しく追及されて獄門、打ち首の刑に処せられた人も多く、想像を絶するような厳しい処分になりました。

淀屋が闕所になったのは、辰五郎が家督を引き継いでから三年目の事だったそうですが、四代目淀屋の頃から、上方以西の大名で、淀屋に借金のない者はいないといわれるほど、盛んな大名貸しが行われていました。
それで、倹約令違反と言う表向きの理由の他に、大名の窮迫状況を救うために淀屋を取りつぶしたものと考えられています。
当時、淀屋は20億両(今の貨幣価値に直すと、120兆円)もの大金を大名達に貸し付けておりました。
それに没収されたという手持ちの資産である、家屋敷43カ所、田地142町歩、有金8万5000貫目(8百5十億円)も加えると…
いや、当時の奉行所の記録には、貨幣以外の金銀財宝も数知れずと記してあったらしい.。o○

うーむ。。。  現在の世界一長者であるビル・ゲイツもビックリだろうなぁ(汗)

「淀屋闕所」の報は、その頃の商人達に大きなインパクトを与え、それを機に、目立たぬよう質素な生活をすると共に、「大名貸し」を禁じる家訓を制定した者が増えたそうです。

その6年後、日光東照宮100年祭の恩赦で、初代淀屋が徳川家康から拝領した八幡の土地が淀屋に返還され、そしてその翌年に辰五郎は八幡に帰ってきて男山のすそ野に近い八幡柴座の地に住まいを構えました。
淀屋辰五郎旧邸跡の碑が建っている所には、辰五郎が住まいしていた当時の門だけが残っています。

淀屋辰五郎旧邸跡を通り過ぎ、まっすぐ行くと「単伝庵」というこぢんまりしたお寺に行き着きます。
通称らくがき寺と呼ばれ、落書きをすると御利益があるという、とっても変わったお寺です。

普通、落書きなんてされたら迷惑千万。
ましてや重要文化財や国宝などに指定されてると、迷惑を通り越して一大事。
だって、修復の費用などを考えると、莫大な出費になりますもん。
ちなみに、落書きをすると器物損壊罪として、3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料に処せられます。

ここでは、境内の中にある大黒堂で、土・日の日中のみ、落書きをして良い事になってます。
ただし、柱はダメで白壁ならOK。
大黒堂の中に入ると、白壁はビッシリと落書きだらけ!。
壁のそばには、黒のマーカーが用意されてましたが、どこに書こうかと迷いまくって、結局は落書き未遂。。。。。

この大黒堂が建立された時、地元の人達の努力と協力によってお堂が建てられたのだから、皆の願いを大黒さんが見やすいように、願い事をお堂の壁に書いて貰おう、という事になったそうです。
そういえば、らくがきと言っても、よく見られる相合傘のマークは全然無くて、家内安全だの、希望校合格だの、真面目なお願い事ばかりでした。
壁は毎年の大晦日に塗りかえられるそうで、お正月を少し過ぎた頃に行けば、私の落書きスペースもできているであろう(*^_^*)

単伝庵を辞して、来た道に戻り、安居橋の手前の四つ角を南に進む通りのことを、古くから「東高野街道」と呼ばれています。
高野街道とは、河内国丹南郡長野村(現・大阪府河内長野市)と、高野山を結んだ街道ですが、長野村以北で、街道は数本に別れて、各地方に達していたそうです。

その中の「東高野街道」は、数本ある「高野街道」の中で、いちばん東側に位置している道筋で、起点は八幡市になります。
そこから洞ヶ峠、大阪府枚方市、交野市を経て、生駒山麓の西側を縦断し、河内長野市に通じています。

この道筋ができた年代は定かではありませんが、河内の国府と都を結ぶ官道だったという説にうなずけるほどに、ほぼ直線状の道筋が続いています。

今現在は、対面二車線の幹線路になっていて、車の通行量も結構多い。
道筋の様子をカメラに収めようと試みましたが、真新しいビルがあったり、運動場があったりで、旧街道って雰囲気を感じる所が少ないんですよね。
でもって、車がビュンビュンと行き交うので、危なっかしいったらありゃしない。
ゆえに、今回は街道の写真撮影を諦めた(T.T)
ま、こんな時もあるさ.。o○

街道沿いを南に下がっていくと、紅葉寺とも呼ばれる「善法律寺」の前にさしかかります。

鎌倉時代の末期、石清水八幡宮社務であった善法寺宮清が自宅を寺に改めた事から始まったそうです。
その後、室町時代には善法寺家の娘紀良子が、三代将軍になった足利義満を生んだ事から、将軍家との関係が深くなったと言われています。
紀良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから、近隣では紅葉の名所と知られています。

外から中を窺うと、あいにく紅葉にはちょっと早かったような。
拝観料が要りそうなので、外から覗くだけに留めておきましたが(苦笑)、「社務」=神社の事務長の私宅だったとは思えないほど広い境内を臨む事ができました。

まだ青々としていたけど、紅葉寺の通称通りに紅葉の樹が多く、シーズンになったら、さぞ綺麗なんだろうなぁ。

この近くに前述の「男塚(頼風塚)」があった筈なんだけど、一般住宅が建ち並んでいて、どうも分かりにくい。
目的の物を見つけられないうちに、急に雨が降り出したり、それに併せてドーンと冷え込んだりで、今回の男塚撮影は断念。
致し方なく、また街道に戻り南下を開始すると、急に晴れてきた。
この時期の山手って、天候の変化が極端になるようで、日焼け止めと傘は必携と思いましたな。

私の最終目的地にしている「松花堂庭園」と先ほどの「善法律寺」の中間地点に、「正法寺」という寺があります。
この寺も歴史が古く、源頼朝の幣礼使として、高田蔵人忠国がこの地に来住したのが切っ掛けで建立されたそうです。
その後、高田氏は志水と名を改め、家の菩提寺として寺領やお堂などを調えたのだそうな。

後年になって、志水家出身の女性である「お亀の方」が、徳川家康の側室となり、尾張藩主の祖となった徳川義直を生んだ事から、代々の尾張徳川家の庇護を受ける事になりました。
本堂・唐門・大方丈は重要文化財で、寛永七年(1630)に、相応院(お亀の方)の寄進により建立され、現在の伽藍がこの頃にほぼできあがったそうです。
このページのトップにも画像を掲載しましたが、唐門だけを見ても堂々たる造りになっていて、細かい細工も面白い。

本堂の垂木には、そのすべてに逆輪がとり着けられているそうで、それだけでも充分に珍しいのに、その逆輪は金箔貼りになっているとか。
ヒャーッ!! 豪華絢爛ではないか!

しまったなぁ!
もっとゆっくり見てくれば良かったと思えど、後の祭り(T.T)
いやいや、世の中には「リベンジ」という言葉があるさ.。o○

この時点で、午後1時半を少し廻った頃。
日はまだまだ高い筈なのに、急に空気が冷たくなった。
どうも、寒冷前線の南下と共に、今年始めての木枯らしがやってきたようだ。
その寒気が、元々早い歩調をなおも早めてくれ、思ったよりも早く松花堂庭園に到着した。

松花堂と言えば、たいていの人はまず真っ先に「松花堂弁当」を連想するのでは無かろうか。
松花堂弁当は、松花堂の主である松花堂昭乗が使っていた物入れが期限になったと言われています。
松花堂昭乗は、近在の百姓が作物の種入れとして使っていた、田の字形の仕切の入った箱を、小物入れや、煙草入れ、又は絵の具入れとして使っておりました。
時代が下がって昭和の初め、料亭「吉兆」の創始者である湯木貞一氏が、その小物入れからヒントを得て、「松花堂弁当」を発案しました。
田の字に区切られた仕切が、食材の臭い移りや味の混合を防ぎ、料理を盛り合わせた時の見映えも良くなったため、その機能性も手伝って、またたく間に全国に知られるようになりました。

ちなみに、私が愛用しているIBM社製のノートパソコン"ThinkPad"は、その色や形状と共に、中の基盤の配置も松花堂弁当をヒントとして作られた物なんだそうです。
たかが弁当とは言う無かれ。
持てる機能を生かす事ができれば、色んな方面で活躍できるってことね。

その京都吉兆の松花堂店が、松花堂庭園の入り口にありますが、ランチメニューの松花堂弁当が3500円。
夜の懐石料理ともなると、一人一万円台が普通。。。。。
私には、マダマダまだまだ敷居の高いお店のようです(汗)

料亭吉兆を(恨めしげに?)横目に見ながら、松花堂庭園入り口で料金を払うと、庭園の中に入っていった。

まず真っ先に目に入ったのは、見事に色づいた紅葉の木でした。
その奥には、細い竹の一群が凛とした雰囲気を感じさせてくれます。

現在の松花堂庭園は、1977年に東京の商社から八幡市が買い取ったもので、約20000平方メートルある庭園は外園と内園に分かれ、外園には全国から集められた竹・笹40種と、ツバキ200種が植えられ、日本庭園の主な竹垣18種も集めています。
3つの茶室や資料館もあり、一般に貸されています。

開園時間は9時から17時まで。
休園日は毎週月曜日と、年末・年始の12月27日〜1月4日。
入園料は、大人400円、学生300円、小人200円
たまに世のしがらみを離れた時間を持つには、打ってつけの場所だと思われます。

庭園内の流れには鯉が放たれ、その鯉にエサをやろうと、子供達とその祖父母達が手を叩いて鯉を呼んでました。

「ほらほら、鯉がいっぱい来はったえ。」なんてね。
この辺りの言葉遣いが大阪人を当惑させる因になる。(笑)

一般的な関西弁(大阪弁)では、「来はる、来やはる」は、「来た人」に対する「尊敬語」になります。
でも、京都弁は、そうじゃ無いんですよねぇ。
京都弁での「来はった」は、尊敬語でも何でもなくて「来た」と同列扱いになります。

では、「来た」の尊敬語はどう言うかというと、「おいはった。おいやした。」になります。
「この部屋に居る」は「この部屋にいたはる」、「この部屋にいらっしゃる」は「この部屋においはる or この部屋においやす」。

だから例えば、京都人の家などに電話して、
「○○さんはご在宅でしょうか?」
とたずねた際、
「はい、いたはりますので(電話を)代わります。」
なんて答えが返ってきた場合、
「この人は敬語の扱いを知らない人じゃ。」
なんて、勝手な一人合点をしてはならないのであります(笑)。

話の寄り道はそれくらいにして…

足を一歩進める毎に変わる景色を楽しみながら、矢印に沿って歩むうちに、小さな「水琴窟」の立て看板が見えてきました。
水琴窟とは、江戸時代中期に広まった庭園設備の一種で、手水鉢からしたたり落ちた水が、地面の底からチローン・チローンと反響音を響かせるような造りにしたものです。

大抵は、底に穴を開けた大きな甕を逆さに伏せて土に埋め、底には粘土を敷き詰めたり、又は浅めの大鉢を置いて、落ちた水がすぐに地面にしみこまない構造にしてあります。
甕に開けた穴から水が下に落ちると、甕の構造や材質、または下に貯まっている水の量によって、音は色々に変化します。
その為、同じ音を奏でる水琴窟は絶対に存在しないと言われており、水琴窟の音を求めて、色々な庭園を廻っている方もいらっしゃるのだそうです。

松花堂庭園の水琴窟は、苔むした手水鉢に掛樋の水が引かれていて、少しずつしたたり落ちる水滴が、金属的な音を奏でていて、その音は地面に突き刺した竹筒から聞こえるようになってました。
試しに手水鉢の水を手でかい出すと、地下から聞こえてくる音のリズムが乱れ、それはそれで面白い。
折からの風が木々をざわめかせ、その音が水琴窟の音とマッチし、不思議なハーモニーとなって私を楽しませてくれる。
寒くなければ、いつまでも水遊びに興じたいところでしたが、この日はちょっと寒すぎた。
立ち上がると、向こうから女性のグループがやってくるのが見える。
水遊びの続きは、その方達に任せる事にして、次の地点まで移動する事にしました。

庭木に囲まれた細い通路の脇には、小さな流れがあって、そのせせらぎの音に耳を傾けるのも興に入る。
少し進むと、広く開けた芝生の庭があり、傍らにはひなびた風に造られた茶室が設けられておりました。
そこで一服の薄茶をすすりながら、ボーッとした時間を過ごすのも良しなんでしょうが、あまりゆっくりもしていられない。
飛び石を歩いて芝庭を突っ切ると、そのまままっすぐに女郎花塚へ行く事にしました。


平安時代の初期、平城天皇の時代に小野頼風という男が都で仕事に就いておりました。
彼はこの八幡に住まいがあったので、非番のたびに八幡に帰っておりましたが、京の都には彼と深い契りを交わした女性がいました。
その後、都での仕事を終えた男は八幡に帰ったきりになり、いつしか京の女との仲も疎遠になってしまいました。
京の女は、通ってこなくなった男をひたすら待ち続けていましたが、思いあまって自ら八幡の地へ男を訪ねていきました。
男の家を訪れると、中から頼風の妻を名乗る女性が出てきて、主は留守にしていると言うじゃありませんか。
頼風が他の女性と一緒に住んでいる事を知った女は、悲嘆のあまり、そばを流れる放生川に身投げして死んでしまいました。
彼女が身投げする時に脱ぎ捨てた山吹重ねの袿は、やがて朽ち果ててしまい、そこから女郎花の花が咲きました。

それを知った頼風は、その花を見に行きましたが、花はその表を男の方に向けようとせず、彼が花に近寄ると遠のき、彼がそばから離れると元通りになるのを見て、女の恨みの深さを知った男は、彼女と同じように、放生川に身投げしてしまいました。
その地の人々は、彼らを哀れんで二人の塚を築きましたが、「男塚(頼風塚)」と「女塚(女郎花塚)」は、少し離れた場所にあります。
頼風塚の周りには、葦の生い茂っていて、この葦は一方のみに葉をつけている「片葉の葦」で、遠くはなれた女の塚「女郎花塚」に向かってたなびいていたと言われていますが、今でも男塚の周囲には「片葉の葦」の小さな一群が残されているそうです。

謡曲「女郎花」では、
邪淫の悪鬼に悩まされていた二人は、九州松浦潟の僧によって、そろって成仏が叶えられたとありますが、恋の情念だけは簡単には消し去る事ができないようです。


今は花の季節も終わってしまい、ロゼット状の葉だけが残されていましたが、初秋になると塚の周りに沢山の女郎花が咲くそうです。
普通、女郎花は黄色い花を咲かせるのですが、ここでは白い花を咲かせる女郎花もあるそうです。
かつて女が身にまとっていた山吹重ねの袿の色目そのままに、白と黄色の女郎花が咲くなんて、すごく不思議。

松花堂は女郎花塚のすぐそばにあります。
明治初期の廃仏毀釈によって、男山にあった堂・僧坊など仏教系に関する施設はすべて取り払われてしまいましたが、明治24年に、名園として名高い小堀遠州設計の庭園と共に、方丈・泉坊書院・玄関がこの地に移築復元されました。
松花堂昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつでした。

京都府登録文化財になっている玄関をくぐると、目の前に茶室を兼ねた草庵があります。
二畳敷き程度の小さな部屋が一つきりの小さな草庵ですが、南に土間、西には水屋、仏壇・床が設けられ、住居の性格をも合わせ持った茶室で、生前の昭乗は、この建物で住まいしたと言われています。

その先の書院は、小早川秀秋が寄進した建物で、泉坊の客殿として使われていたそうです。
玄関から奥へ進むと、梅の間、柳の間を経て奥の間へと続いています。
さらに進むと主室の間と控えの間に至り、主室の間は9畳敷きで上段の間には違い棚があり、本格的な書院造りの座敷となっています。
主室の間は、別名「玉座の間」ともいい、後陽成天皇、孝明天皇がしばしば行幸されたそうで、襖には狩野山楽筆といわれる水墨画が描かれていました。

庭園は、泉坊の庭園を東車塚古墳の上に復元したもので、庭の中心部は、古墳の前方部の平坦なところを利用して作られております。
そこには灯籠や立木などは見られず、在る物は低い灌木と飛び石のみ、その間に苔を敷き詰めて、一種の空間美を現しているように感じました。
かつてその庭園が山の中腹にあった事を考えると、男山から見える遠い景色を借景として、この庭の景色を楽しんだのだろうと思えました。

残念ながら、「松花堂」の中は建物はもちろん、庭のすべても写真撮影を禁止されておりました。
きっと心無い撮影者の持つ三脚などで、苔を傷める事を畏れての事だと思います。

すべての人のモラルがほんの少しでも向上したなら、素敵な写真がいっぱい撮れたことでしょうが、
何時かそのような日が来るまでは、我慢ガマンですね。




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