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晩秋の東高野街道 その1

この2年ばかりはずっと忙しく、休日になってもヒッキーを決め込んでおりましたが、久々に出かけてきました。
今回は、体慣らしのつもりで、ごく近場へのお出かけ。

出かけた所は、「東高野街道」をほんの少し。
でも、歩き甲斐はたっぷりとありました。(*^_^*)

吉田兼好の「徒然草」の中に、
「仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、
 心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。
 極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」
という一節がある。

京阪京都線、八幡市駅を降りると、目の前に「男山山上駅」に通じるケーブルがある。
それには乗らず、「石清水八幡宮」=(男山八幡宮)の表玄関と言われる「頓宮」から出発してみた。

駅から数分ほど歩いて「一の鳥居」をくぐると、八幡宮の神域に入る。

うちの町内の氏神さんも、1000年以上の歴史があるが、敷地面積はこことは比べ物にならない。
「頓宮」だけでも相当に広く、その奥の「高良神社」の境内を含めると、かなりの歩きでがある。

かの仁和寺の法師が、山裾にある建物だけを廻って「お腹いっぱい」と思ってしまったのも、何だか解るような気がする。

広い頓宮を突っ切ると、向こうの方に「二の鳥居」が見えてくる。
その鳥居の手前に、山に向かっている階段があった。

実はワタクシ、脇道・寄り道が大好きなんです。
ついつい誘惑に負けて、その階段を上って行っちゃいました。

ある程度は想像していたけど、何しろ重症の運動不足ゆえに、すぐに息が上がってしまう。
少し上ればゼーゼー・ハーハー(汗)

「太子坂」または「奉行坂」と呼ばれる石の階段は、その場その場で踏み面の広さが違い、上るリズムが着けにくい。
それに かなり急で、後で調べてみると、本殿まで行くには555段の階段を上らねばならないらしい。
ちなみに、二の鳥居をくぐって正式な参道を行くと、距離はあるけど、階段の段数は396段で済むんだってさ。
この階段は、かつては通り道に太子堂があったので「太子坂」という名が付けられているようです。
本来は祭りの際に、祭りを取り仕切る奉行が、本殿を出発した御鳳輦を見送った後に、麓の下院で御鳳輦を待ち受け、また下院での祭典に臨むために、先回り用の通路として設けられたものだそうです。
ちなみに今現在は、御奉行様はケーブルを利用されるそうです。

あまりの急な階段で心臓はバクバク、それでもなお上って行きたくなる私って、相当に自虐的M性が強いような(苦笑)。

多分、周りに生い茂った木々が降り注いでくれるフィトンチッドが、私を誘ってくれたんだろうね。
昼なお暗いような景色が、却って心地良い。

境内の建物は、徳川家光の命によって造営された物がほとんどだそうで、重要文化財や国宝級の物ばかり。
故に、建物の近くは火気厳禁=禁煙。

こーんな広い神宮を一回りするには、、ヘビースモーカー級の愛煙家にとっては、チョイとキツイかも…。。。
と、一の鳥居をくぐった時には、そんな風に思ったのですが…、

この裏通り?に来ると、至る所に灰皿が接地されてある。
おおよそ20メートルおきには、真っ赤っかな吸い殻入れが置いてあるんですよね。
八幡宮の宮司さんはヘビースモーカー達の味方かな?
とも思ったけど、

所かまわず歩きタバコをして、周りの状況を考えずにポイ捨てするような、不心得な人が多い昨今。
日本国内での、山火事の原因のほとんどは、タバコのポイ捨てだと聞いた事があります。

ゆえに、「禁煙」だけを歓呼するより、管理者の目の届きにくい所では、このような配慮をせざるを得ないんでしょうね。

でも、私にとってはかなり嬉しい配慮でした。
この急な階段を登り切るまで、3度はこの灰皿のお世話になりましたもん。

まるで、つづら折れを思わせるような短い階段が続いたと思ったら、長く続く階段があったりと、歩いていても飽きが来ない。
周りは、椎や樫、クヌギなどの実のなる広葉樹ががたくさんあって、頭上では小鳥のさえずりがとっても賑やか。

風が吹くと、ドングリがパラパラといっぱい落ちてきて、ついつい幼心に浸ってしまう。
落ちてきた木の実が頭を直撃すると、
「おわっ! 空襲だ!」
なんて、一人でいちびってみたり…(苦笑)

しばらく階段を上っているうちに、急だった階段は少しずつなだらかになってくる。
それにつれて辺りも明るくなり、山上まで近くなってる事を思わせてくれる。

持っていた地図が解りにくかったのがちょっとしたネックだったが、長い階段を上りきって三叉路に出ると、果たしてそこには、「男山ケーブル・山上駅」への道しるべが立っていた。
まっすぐに上っていく階段もあったけど、そこは通行止めになってる。
道しるべの、「山上駅」とは反対方向を指す矢印には、「石清水八幡宮・本殿」。

あーらら、もう着いちゃったの?
とりあえず、まずは本殿の方へ行こうと、足を進めかけると、私の後から、

「もうっ! 先に行くよ!」
なんて金切り声が聞こえてきた。

階段の下でドングリ拾いに夢中になってた子供達を、待ちきれなくなったのだろう母親が、先に歩き出す所だった。

「ママ! こんなに大きいのを拾ったのにぃ。
 ○○君、ママなんか放っておいて、もっと沢山拾おうねぇ。」

なぁんて.。o○

このお嬢ちゃん、きっと将来は、大した大物になるに違いない。(微笑)

その辺りから、周りの景色は少し変わってくる。
今までの雑木林に囲まれた道から、竹藪に囲まれた道にかわると、雰囲気も一新する。

折からの強めの風が吹き渡ると、辺りは海鳴りのような音に包まれ、いつの間にか小鳥のさえずりも遠くなっていた。

この竹藪は、全世界の人に大なり小なりの影響を及ぼす切っ掛けになっているんですよね。
それを思うと、この小さな国の片隅にある、侘びしい風情を持ってるこの竹藪に、ちょっとした親しみを感じるようになります。

この竹藪にある竹こそ、かの発明王と呼ばれたトーマス・エジソン(1847〜1931)が、白熱電球を制作するために使った竹だと言われています。

当時のアメリカを含む西欧諸国では、東洋の端っこに位置する「日本」が、神秘に満ちた国としてブームになっており、エジソンの、
「最初にフィラメントの原料として使われたのは、たまたま部屋にあった扇(おうぎ)の竹の骨であった。」
という言葉が、皆の注目を集め、白熱電球を量販する切っ掛けになったとか。

その陰には、何十回も失敗し続けても最後まで屈しなかったエジソンの人柄というか、エジソン自身の
「天才は1%のひらめきと99%の努力」=「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」
との言葉が彼を支えていたんでしょうね。

石清水八幡宮の境内の、この場所からほど近い所に、生け垣に囲まれたエジソン記念碑が建立されています。
正面には門扉が設けられ、その脇には碑の由来を記した開設板がありました。

 「西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソンが
  灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明し、
  この石清水八幡宮境内に生えている竹が、
  電球の命ともいえるフィラメントの材料として、
  最も適している事を知り、電球発明の翌年から
  十数年もの長い間、この竹を使ってたくさんの
  炭素電球を作り、世界の人々に電灯のありがたさを
   知らされました。
   つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球野の実用化に、大きな役割をつとめたのです。
   そこで1929年に電灯発明50年を記念して世界各国で電灯黄金祭が催された時、
   日本もこれに加わり記念事業宇の一つとして電球発明と切っても切れない関係にあるこの土地に
   記念碑を建てエジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。   
     (後略)  」

そして、いよいよ本殿に到着。
当日は日曜日ゆえ、私の好む「厳粛にて、静寂感に包まれた」境内の雰囲気は望めないだろうとは思ってましたが、
いやいや、まいった(汗)

ちょうど七五三詣りのピークに当たっていたのでしょう。
境内には着ぐるみ達がウロウロ。
それを取り囲むように、子供達がワイワイ。
中には転んで泣き出す子、慌てて駆け寄って、着物が汚れていないか点検する親。(多分、レンタルなんだろう。。)
カメラを構えて、突如立ち止まるジイチャン、もしくは子供達の父親?

宮司さんは多分、祝詞をあげるために本殿にこもったままなのでしょうが、白い衣装の禰宜さん達は、参拝者の世話のために走り回っておられました。


この石清水八幡宮は、鎌倉の「鶴岡八幡宮」、大分県宇佐市の「宇佐神宮」と共に、日本三大八幡宮のひとつに数えられています。
歴史もかなり古く、清和天皇の命により、860年にこの地に建立されました。

以来、都の裏鬼門=南西方向の鎮守とする王城守護の神、また、木津川・桂川・宇治川の、三川の合流地点に近いため、水運の神として、長きにわたって朝廷から信仰されてきました。

殊に清和天皇が信仰していたので、その子孫である源氏一族も信仰する事になり、鎌倉にある鶴岡八幡宮は、源頼朝が幕府を開く際、鎌倉の地にこの石清水八幡宮を勧請して建立したと言われています。
歴史が進んで徳川氏政権に移った頃も、武運長久の神として、幕府からは厚く崇められたそうです。

また、平安時代の平将門・藤原純友の乱や、鎌倉時代の元寇の時など、いずれも石清水八幡宮に、朝廷より直々に御祈願があり、その度に御利益が示された事から、厄払いの神様としても、広く知れ渡ってます。

建物は「八幡造」と呼ばれる独特の様式で建立されてあり、写真で見える「前殿(まえどの)」のすぐ後に「後殿(うしろどの)」が繋がって配置されてあり、真横から見た屋根の形は「M字形」になってます。
今の建物は、徳川家光の頃に建てられたもので、30年ごとの檜皮屋根の葺き替えの他にも、何度もの補修がされているそうですが、老朽化が進んでいる今、「平成の大修造」計画が進められています。

本殿の周りをクルリと一周し、元に戻った所で守札授与所を見つけると、ちょっと道草。
何となく、どんなお札やお守りが売られているかが気になる。

で、こんなモノを買っちゃいました。
鳩みくじ
石清水八幡宮の「お使い」は鳩なんだそうで、鳩をかたどったおみくじが売られてました。

小さなお敷きにいっぱい並べられていて、その中の一つと目が会ってしまった。
手作りの作品だから、一羽一羽の表情が、微妙に違う。
どの角度から見てもそっぽを向いてる鳩さんがいたり、笑ったように見える鳩や、反対に怒った顔に見える鳩さんやら。

私はどうも、ツンとすました表情が好きみたいで、迷う事もなく最初に目があった、この鳩さんを購入しました。

南総門近くの休憩所で、足にくっつけられた巻物を開くと、「大吉」。
今年はもう残り少ないけど、何か良い事があるんかなぁ?
ま、あまり期待はせずにいよう。.。o○


先ほどくぐってきた南総門を抜けると、すぐそばに「供御所」という建物があります。
伊勢神宮や出雲大社など、格式の高い神社では、今でも二度の食膳を神様に供えているそうですが、ここではどうなんだろ?
入り口のすぐそばには、火の神様の名を記した札がかけてあり、中を覗いてみると、几帳の外側には大きな釜が置いてありました。

来た時は三の鳥居をくぐらずに脇道から本殿にきたけど、三の鳥居に繋がる参道を振り返ると、そこかしこに色づいた木々が見えてました。

今年の天候はかなり異常すぎる。
夏頃に気象庁では「今年は秋が無い可能性がある。」なんて発表してましたが、まさにその通りになっちゃった。
以前は、変な物を食べた時には「てんきよほう」と三回唱えれば、当たらないと言う俗説ができたほど、「天気予報」がバッチリ当たる時は少なかったんですけどねぇ。

長期予報で大当たりになっちゃった気象異常のせいか、今年の紅葉はかなり遅い。
山上まで来る階段では、沢山の落ち葉が舞っていたけど、頭上を見上げても色づいてる木々は、ほとんど見えませんでした。
紅葉って、寒気に当たりやすい梢の先から始まるもんね。
それで山上近くまでこないと見られなかったのかな?

南総門から三の鳥居までの参道には、両側に沢山の灯籠が並んでます。

その中に「永仁の石灯籠」と呼ばれ、鎌倉時代に作られた重要文化財に指定された灯籠もあると、ガイドマップには書いてあるんだけど、どれがそれなんだか分かんなかった。(T.T)
どれも皆、相応に古びていて、石積がずれていたり苔むしているのがあったりで、それぞれに表情が違う。

三の鳥居を出たすぐの所に、神馬舎があります。
今は扉が閉ざされていて、中の神馬は不在みたい。
道行く人の話声を、聞くともなく聞いていると、つい最近まで、ここで白馬が飼われていたとか。
とある篤志家によって、白いサラブレットを歴代の神馬として奉納されていたそうですが、一つ解せない事がある。

男山の麓にある一の鳥居から始まって、三の鳥居までの参道は、階段の連続なんです。
神馬ともなれば、必ず大きな祭りに参加する事になる筈。

でも、この急な階段をどうやって上り下りしたんだろ?
お馬さんって、足が弱いんですよね。
ましてや、サラブレット系の馬なら尚のこと。

「石清水八幡宮」のサイトを見てみると、昔は二の鳥居のすぐそばに神馬舎があったのだそうです。
そういえば、二の鳥居の近くに「神馬」と掘られた大きな石碑があったっけ。

なのに、何でこんな所に厩舎を造っちゃったんだろネ?
ここに神馬舎を移してからは、神馬は祭りに参加する事ができなくなり、行列を見送るだけになったとか。
なんか可哀想な気がする。

神馬舎を後にすると、この先は長い下りの石段になります。
周りの風景は、段を下る毎にまた暗みを帯び始め、それに連れて静かさも増してくるが、ちょっとした物音が私にとっては楽しい物になる。

山頂の本殿近辺は、観光客や七五三参りの人達の声で満ちあふれてましたが、ここまで来ると、風の音と小鳥の声のみに包まれ、とても心地良い。

時には木から落ちてきた木の実が、敷石で跳ね返る音がする。
ふと興に乗って、石段からそれた所に貯まっている枯れ葉を踏んでみる。
足元でサクサクという音が聞こえ、これも何だか心地良い。

気のおけない友人と、おしゃべりに興じながらこんな所を歩くのも楽しいだろうけど、自然の奏でる物音に耳を澄ませながら歩く方が、私は好きだ。

しばらく道なりに降りていくと、小さな赤い建物が見えてきます。
「大扉稲荷社」が三叉路の角にあり、左へ行くと、山上へ通じる坂道になります。
まっすぐ行くと、七曲がりと言われる急な石段から、二の鳥居まで下りる事になる。

その三叉路の真ん中に、まるでロータリーみたいにちょっとした塚が立ってました。
塚の足下には、古い手水鉢が置いてあり、「かげきよ」と彫られた石碑があります。

石清水八幡宮では、毎年、厄払いの一環として6月と12月に「人形流し」の神事が行われるのですが、昔はこの場所で執り行われたのだそうです。

参拝人は、自分自身に取り憑いた災厄を人形に移して貰い、その人形を川に流す事で厄払いとしたそうですが、自分自身の影を水に映して、その影も清めた所から、文字通り「影清塚」と呼ばれるようになったそうです。
今はその面影は、この小さな手水鉢からしか偲べないけど、昔はこんな所にも水の流れがあったんだろうね。

本当は、まっすぐに降りていくつもりだったけど、道しるべには気になる史跡後の名称が記されてました。
「泉坊松花堂跡」

「松花堂」といえば、まず真っ先に「松花堂弁当」が頭に浮かぶ(苦笑)
その次は「松花堂庭園」かな?

その「松花堂」と、この「松花堂」とはどんな関係なんだろ?と思って、とりあえず行ってみた。

庭園で有名な「松花堂」は、松花堂昭乗という真言宗の僧が晩年に住いした所なんだそうですが、石清水八幡宮境内にある「松花堂跡」は、「瀧本坊」とも呼ばれ、松花堂昭乗が出家した時に仏道の師と一緒に住んでいた場所と言われています。
しかし、昭乗が45才の年に火災が起こり、「瀧本坊」は消失してしまいました。

その近くに「泉坊」という僧坊があったのですが、昭乗は燃え残った瀧本坊の廃材を利用し、「松花堂」と名付けた方丈を建てて晩年まで過ごしたそうです。

明治の廃仏毀釈が行われる以前は、八幡神は八幡大菩薩とも呼ばれ、仏の中の一人と数えられていました。
それで昔はこの地は、比叡山や高野山と同じように、本殿を取り囲むように沢山の僧坊が建ち並んでいたようで、今でもその名残が残されています。

松花堂もその一つで、うっそうと生い茂った木々の間に、ポッカリとした空間が残されており、一部分だけ日が差しているのが、不思議な雰囲気を醸し出しておりました。

また稲荷の前まで戻ってくると、今度は下山の途につき直し。

文字通り「七曲がり」の階段を下りきると、二の鳥居のそばに、下馬碑があった。
多分、馬にまたがったままで神様詣でをすると、そこの神様に対して失礼になるので、御神域の入り口で馬から下りるようになっているんでしょうけど、
ここでは、馬にまたがったままで進もうとしても、まず馬の方が主を振り落としそうな案配。
ホント、すごい階段の連続でありました。