大阪市内「ど真ん中」、上町台地縦走
11月の下旬、そろそろ冬支度の頃ですが、三連休の最終日の今日も今日とてポカポカ陽気。
その陽気のお陰で家にじっとしていられなくなった私。
今までこの大阪に住んでいながら、ほとんど訪れた事のないところをちょっぴり歩いてきました。
この大阪と言うところ、実は奈良や京都と並んでかなり歴史の古い町なのですが、悲しきかな、何度も大きな戦火に見舞われて、古くから伝わる名所旧跡などは余り見あたりません。
でも、ちょっと探すだけで、どっさり出てくるものなんですねぇ。
大阪府庁への最寄り駅、地下鉄谷町4丁目駅から南東方向へ約5分。
浪速の宮跡に隣接した上町交差点に、高さ10メートルもある、こんな大きな碑があります。
これは「大村益次郎碑」。
幕末の軍政家で、初め「村田蔵六」と名乗っていましたが、大阪にあった「適塾」で医学を学び、しばし故郷の周防で町医者をしていました。
後に長州藩に召し抱えられ、幕府の対長州征伐、戊辰戦争に軍事的手腕を発揮。
維新後、兵部大輔として近代兵制の確立につとめたが、反対派に刺殺されました。
益二郎の襲われたのは、実は京都でしたが、亡くなったのは大阪のこの地です。
彼の死が早まったのは、意外な事に彼につけられた位のせいだと言われています。
明治維新時に、益二郎には「兵部大輔」と言う、高い位が朝廷より贈られましたが、こんなに高い位を付けられると、当時は朝廷に断りなく大きな手術が受けら
れない、などと言うナンセンスな決まりがあり、朝廷からの返事を待っているうちに、襲われた時の傷が原因で罹っていた敗血症が悪化して彼を死に至らしめた
のだと言われています。
この碑の後ろには「国立大阪病院」があります。
「大村益次郎碑」から10分ほど歩くと、女子修道院も併設された、とても大きなカソリック教会があります。
「聖マリア大聖堂」と言いますが、この教会では日曜日毎に2度ミサが行われています。
午前中は日本語によるミサ、そして午後からは大阪近隣に住む外国人達のために英語によるミサが行われているんです。
その北側に「越中井」と呼ばれている井戸の跡があります。
この辺りは大阪城に隣接した区域で、豊臣秀吉が大阪城を築いた時より、多くの大名達がこの辺りに自分の屋敷を建て、そこに妻や子供を住まわせる事によって、豊臣家に忠誠を誓った証としていたのですが・・・
秀吉が没した後、石田三成が政を思いのままにしようとした事で、大名達が二派に別れて争うようになり、それが「関ヶ原の合戦」へと流れていったわけです。
その合戦の起きる少し前、この地に屋敷を構えていた「越中守細川忠興」の夫人、「細川ガラシャ」は、石田三成からの脅威に屈せず、徳川方についた夫の忠興を助けるために自ら死を選び、家来に自分の首をはねさせた後、屋敷に火をつけさせたと言われています。
この井戸は、それを記念するために昔から守られ、前出の「聖マリア大聖堂」も、壮絶な最期を遂げた女傑「細川ガラシャ」をたたえる意味で、ここに建てられたのだそうです。
大聖堂の入口には、ガラシャ夫人と、彼女がキリスト教に接する機会を与えた、時のキリシタン大名「高山右近」の像が建てられています。
別名「ガラシャ井戸」と呼ばれている「越中井」からずっと南に下ったところ、餌差町の交差点に接したところに、「契沖」の墓がある「円珠庵」というお寺があります。
「契沖」は江戸前期の国学者で、歌人でもありました。
摂津の人で、大坂の曼陀羅院・妙法寺の住職となり、のち大坂の高野、円珠庵に隠栖しました。
漢籍、仏典、悉曇(しったん)に精通し、独創的な古典の注釈研究を行ない、古代の歴史仮名遣いを明らかにするなど、文献学的方法を確立、国学を大きく展開させた人です。
このお寺は、別名「鎌八幡」とも呼ばれている通り、ちょっと変わったものがあります。
これ、なんだと思いますか?
よーく見ると、おびただしい数の鎌が木に打ち込まれています。
はっきり言って、ものすごく不気味です。
今夜は悪い夢でも見そうなほど。
鎌の打ち込まれている木は、「エノキ」という木です。
この木は昔から霊木と崇められていて、この木に鎌を打ち込む事によって、悪縁や、病根を断つという信仰が今でも残っているんです。
しかし・・・・・・・・・
いくら「霊木」だと言ってもねぇ。。。。
これはちょっと、あんまりにもエノキの木がかわいそ過ぎるような気がしました。
この辺りから南側は、もう、めったやたらにお寺だらけになってます。
詳しい地図で見る
ちなみに、こんな感じですが、これはその中のごく一部、本当はその数倍の広さでこのようにお寺だらけの町が続いて居るんです。
当然の事ながら、このお寺の中には、歴史上での有名人の墓を有するところも少なくありません。
ちょっと文字が分かりにくくなっていますが、この地図の一番右上に「楞厳寺」(りゅうげんじ)という寺があります。
この寺の墓所には、「織田作之助」の墓があります。
「織田作之助」は耽美派の小説家で、「夫婦善哉」で文壇に登場しました。
第二次大戦後は「世相」「土曜夫人」などを発表しましたが、昭和22年に34才の若さでなくなってしまいました。
お墓は、門を入るとすぐそこ、本堂に向かって左側にあります。
「楞厳寺」と通りをはさんで西側にある「天龍院」、ここには「曽我廼屋五郎、十郎」の墓があります。
「曽我廼屋五郎、十郎」は、明治期の終わり頃大阪の道頓堀で旗揚げした、「曽我廼屋喜劇」の創始者です。
その芸風を、故・藤山寛美さんが受け継ぎ、「松竹新喜劇」を盛り立てたと言われています。
境内にある広い墓地の中、一番奥の方にちょっと変わった円筒形の墓が、二基、仲良く並んでありました。
多少、お寺によって個性の差はあるには違いないんですけどねぇ。
しかし、延々と続く、お寺の塀ばかりの道。
どうしてこんなにお寺が集まっちゃったか。
お寺が集まったのじゃなくて、豊臣家が滅んだ後、徳川幕府によって、この地にお寺ばかりを集められちゃったんです。
それには、ちゃんとした理由があります。
お寺に付き物のもの、それは広い境内。そして広いお墓。
この空間だらけの建物の存在に目を付けた幕府は、大阪城においた守護代を守るべく、このお寺の群立をいわば一つの防火帯として置いたわけです。
しばし、お寺の塀ばかりを眺めながら西へ行き、上町筋を越えて南に折れると、上町筋沿いに「誓願時」
ここには、「井原西鶴」の墓があります。
「井原西鶴」は、この方の名前をご存じの方は多いはずです。
確か社会の教科書にも載っていたはず。
江戸時代初期の浮世草子作者で、俳人。
「好色一代男」「好色五人女」「好色一代女」なども好色物を初め、日本永代蔵」「世間胸算用」など、浮世草子の名作を数多く残した近世文学の代表者です。
本当は、ちゃんとお墓にも行って来たんですけどねぇ。
何故か写真を撮るのに失敗しちゃってたみたいです。
この像は、「生国魂神社」に有る像です。
上町筋から西へ約250メートルほど、今度は谷町筋という広い通りに出ます。
すると今度は「近松門左衛門」のお墓。
「近松門左衛門」が亡くなった後、ここにあった「妙法寺」という寺に葬られたのですが、お寺が移転してしまい、保存会の人達の手によってお墓だけここに残されました。
でもねぇ、ガソリンスタンドと、マンションの間にはさまれた、騒がしくて、ものすごい狭い空間にこれがポツンとあるなんて、ちょっとお気の毒なような気が・・・・・・・
今までも、お墓の写真を撮る時は、必ず墓の主に向かって、墓石の撮影をする無礼の許しを乞うために頭を下げてきましたが、このお方には特に念入りに礼を尽くして参りました。
「近松門左衛門」という人、多分、大抵の方は名前くらいはご存じだろうと思います。
江戸前期の浄瑠璃・歌舞伎作者で、元々は、越前の生まれ。
本名は杉森信盛と言い、武家の生まれです。
はじめ古浄瑠璃の脚本を書き、その後竹本義太夫のために「出世景清」などの浄瑠璃を、四十歳頃からは坂田藤十郎のために歌舞伎に筆を染め次々と名作を発
表、再び浄瑠璃にもどって世話浄瑠璃を創始するに至りました。「曾根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」「心中天の網島」「女殺油地獄」など、今でも歌
舞伎や人形行瑠璃で演じられるものがいっぱいです。
谷町筋をもう少し下り、千日前通りにぶつかったところで足を西に向けると、少々怪しげな町並みに出くわします。
こんな所、男女のペアで歩くとちょっとばかり誤解でも受けちゃいそうな。。。
そう、ここは大阪でも超有名なラブホテル街。
この真ん中あたりに「高津神社」があります。
「高津神社」の歴史はとても古く、貞観8年(866)清和天皇の勅命により、仁徳天皇を祀って創建されました。
初めは、大坂城のすぐ近くにあったのですが、大坂城を築くために、天正11年(1583)になって、この地に移されました。
本殿や、高倉稲荷、安居稲荷などが建つ境内は公園になっていて、夜桜の名所として知られています。
昔は、ここはとても見晴らしの良いところとして知られ、「高津神社」参詣にかこつけて、商家の娘や独身の若旦那がこっそりデートスポットとして使っていたと言われています。
でも今は建ち並んだビルに視界を遮られ、絵馬殿からわずかにミナミの盛り場あたりが見えるだけになってます。
千日前通りをはさんで南側、やはりここにもウジャウジャと「ラブホ」の団体さん。
その看板を見ると、昔とはちょっとイメージが変わってきましたね。
なんというか、ロゴやネーミングがカワイイというか、どちらかというと、若い女の子が気軽に遊びに行っちゃいそうな。
でもやはり、そう言う建物の建ち並んでいるところには一種、ちょっとばかり隠微な空気がある感じ。
それにしても・・・・・・・・・・・・
この辺りも下寺町と呼ばれ、お寺だっていっぱいあるんですよね。
そのお寺の中にはちゃんとお墓もあるわけで。
お墓の下にいらっしゃる方々、ちゃんと安らかにお眠りになっておられるのかしら?
そしてやってきたのが、「生玉さん」。
大阪人は「いくたまさん」と呼びますが、「生国魂神社」(いくくにたまじんじゃ)というのが本当の名前です。
ここの創建はかなり古く、正式な創建の記録が残されておりません。
神武天皇が九州から、難波津にいきついたとき、「生島の神」「足島の神」を祀って建てたという伝説が残されています。
ただ、ここも元々はこの地に建てられていたものではなく、この「生玉さん」も、「高津神社」と同じように、元々大坂城の近くにあったものを移されてきました。
周りはビルが建て込んでかなりゴチャゴチャしていますが、ここは境内も広く、かなりゆったりとしています。
その一隅に、こんな碑が設けられています。
上方落語の創始者、「米澤彦八」を記念して設立されたものです。
毎年、9月の第一土曜、日曜日には、「彦八祭り」が催されます。
実は私、元々「上方落語」は大好き。
「彦八祭り」も、家族連れで良く行きます。
祭りになると、全国的に有名な落語家さんも、いっぱいいらっしゃり、屋台でものを売ったり、気軽にサインに応じてくださったり、かなり楽しいひとときがもてます。
そう言えば、前のお祭りの時は、月亭八方師匠と八光さん親子が、一袋300円でぽん菓子を売ってらっしゃいました。
笑福亭仁鶴師匠は古道具屋さんをされていました。
(*^m^*) ムフッ、口八丁の師匠相手に、大分頑張って値切ったっけ。
「生玉さん」を後にして、谷町筋に出ると、一路南へ・・・・・・
しばらく歩くと、こんな坂道に出ます。
この坂道は「口縄坂」と呼ばれています。
上町台地西側の傾斜面には、「坂蔵坂」「源聖寺坂」「愛染坂」「清水坂」など、多くの坂道がありますが、「口縄坂」もその一つです。
石段と石畳の道が土塀の間でクネクネと続き、その様子が口縄(蛇の古語)に似ている事から、この名前が付けられています。
この坂を上りきったところに、先ほど「お墓参り」をした、「織田作之助」の文学碑が建てられています。
口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた。
私は石段を降りていきながらもうこの坂を登り降りすることも
当分あるまいと思った
青春の回想の甘さは終わり
新しい現実が私に向き直って来たように思われた
風は木の梢にはげしく突っ掛かっていた
織田作之助 「木の都」より |
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谷町筋の裏通りとも言うべき道をクネクネ歩くと、「家隆塚」の所に行き着きました。
これは、「藤原家隆」の墓所だと言われています。
「藤原家隆」は鎌倉初期の歌人で、従二位宮内卿まで進み、壬生二品(みぶのにほん)とも呼ばれました。
藤原俊成に師事し、「新古今和歌集」の撰者の一人です。
作風は素直、清澄で、藤原定家と並称されるています。
「家隆」は五代の天皇に仕えましたが、七九才になってから職を辞し、この地に「夕陽庵」を結んで隠棲していました。
この土地は「夕陽丘」と呼ばれていますが、この地名はこの家隆の詠んだ歌と、住んでおられた庵の名からとられているそうです。
「契りあれば なにわ里にやどりきて 波の入日を拝みつるかな」
「家隆塚」と背中合わせに「勝鬘院」(しょうまんいん)があります。
真っ赤な薬医門と正面にやっぱり柱を赤く塗られた金堂。
お祭りされている「愛染明王」が全身赤色の神様だから、それに合わせているのか、その点はよく分かりませんが・・・
この神様は、美貌と恋愛の神様として古くから信仰されています。
でも、お姿を拝見すると、全身真っ赤、そして目は三つ、そして何より常に憤怒の表情をしておられます。
どうして恋愛の神様がそんな恐い顔をなさっているのか、私には謎ですが。
この境内の一隅に桂の木が二本おまつりされています。
一本は、昔はかなりの大木であっただろうと推測されますが、戦災のために、先の枝は焼けてしまい、でも今でもちゃんと枯れずに残っています。
桂の大木の幹にカズラが絡みつく、その姿を男女の姿にたとえて、「愛染かつら」と呼ばれ、縁結び、恋愛成就の霊木として大事にされているんです。
その昔、大映映画で「愛染かつら」と言う恋愛映画が大ヒットした事があり、その映画の主役を務められた二人の俳優さん、岡田茉莉子さんと吉田輝男さんによって、もう一本、桂の木が植えられ、今はかなり大きく成長して、「愛染かつら」の二代目としておまつりされています。
そこから少し南に下がったところに、大阪市内唯一の滝があります。
滝そのものは、大阪市内の地下街などや公園にもいっぱいありますが、それらは全て人口のもの。
ここの滝だけは、唯一天然の滝なんです。
この滝は「清水寺」の境内の一隅にありますが、よくよく見ると、京都にある「清水寺」によく似た造りになっています。
断崖になっているところには、ちゃんと「舞台」もあったりします。
いわば、「ミニ清水寺」と言っても良さそうな。
実は、一度、廃寺になってしまったこの寺を、寛永17年(1640)に、延海阿闍梨によって、清水寺に模して再興されたものなんだそうです。
と言うことは、この「玉出の滝」も、本家・清水寺にある「音羽の滝」のミニ版なのかしら。
時々、この滝で水行をされる人もいらっしゃるとかで、この日も、地面に頭をこすりつけながらお経を上げていらっしゃる、男性がお一人いらっしゃいました。
「清水寺」を出て、清水坂を下り、天神坂に行き当たった角に、「安居神社」があります。
別名「安居天神」とも言われている通り、菅原道真がおまつりしてあり、そこかしこに梅の木が植えられています。
ここまで来ると、かなり日が落ちてきて、そろそろ夕焼け雲などが出始める頃合い。
そろそろ風も冷たくなり始めていました。
この神社の境内の一角、と言ってもほとんど真ん中あたりにこのような碑が見られます。
実はここ、「真田幸村」の終焉の地でもあるんです。
ですから、この碑には「真田幸村戦死跡之碑」と彫り込まれています。
慶長20年(1615)、5月7日、徳川家康に決戦を挑んだ幸村が戦死したのがこの神社の境内だと伝えられているそうです。
谷町筋をはさんで、ちょうど向かい側。
「一心寺」というお寺があります。
このお寺は、「天王寺公園」の北の外れに位置していて、交通の便も良く、そして何より宗派を問わず亡くなられた方のお骨を納めてくださるお寺として、なかなかお墓のもてない我々には、とてもありがたい存在でもあります。
ここは、法然上人が文治元年(1185)に4間四方の草庵を開いたのが創建とされていますが、その後、豊臣秀吉夫人高台院(ねね)の寄進によって寺領を広げ、大阪夏の陣では徳川家康が茶臼山の本陣を置いた事でも名高いお寺です。
そして、人骨で作られた「お骨仏」を祀る寺として良く知られた存在でもあります。
信者の分骨を練り込んで「阿弥陀如来坐像」が作られているのですが、昔は6体有ったそうです。
それが第二次大戦の際に焼けてしまったため、6体分を一つに作り直し、後は10年ごとに一体ずつ造り足されているそうです。
今現在は6体有りますが、2007年にまた、もう一体作られる予定になっています。
この寺の本堂の向かい側に、白い塀に囲まれたひときわ大きなお墓があります。
このお墓の主は「本田出雲守」。徳川四天王と称される豪傑のお一人「本田忠勝」の次男で、この人も親の血をひく豪傑として一目置かれている存在でした。
しかし、大阪夏の陣の決戦時に、不覚にも二日酔いで参陣したため、敢えなく戦死してしまいました。
その遺言から、今は「酒封じ」の守り神として信仰を集めています。
墓の周りを囲った塀の内側には、本人や、家族の書いた願掛けのしゃもじがびっしりと奉納されています。
一つ一つ読んでみると、かなり切実なものがいっぱい。
ひときわ私の目をひいたもの。
「夫のお酒が過ぎて、アルコール依存症になりかかっています。このままでは、会社をクビになってしまいます。
どうか助けてください。」
お酒大好きなお父さん方、こんな願などかけられないように、程々になさって下さいね。
「一心寺」を出て阪神高速道路の高架をくぐるとやってきたのが、じゃーん!
これぞ大阪のシンボル、「通天閣」であります。
通天閣の付近は、「新世界」と呼ばれており、大阪の中では「下町の中の下町」と言っても過言ではないような。
この辺りほど庶民的な町は、そう滅多にあるものじゃありません。
歌謡ショウ、剣劇などを演じられている芝居小屋もまだたくさん残り、鶴田浩二さんや、勝新太郎さんの絵看板をいまだに飾っている映画館有り、ホルモン焼きの匂いがあちこちから漂ってきています。
通天閣を中心にして、道路が八方に延びている様は、まるでパリのエッフェル塔付近のような。
それもそのはず、この通天閣は明治45年、エッフェル塔に習って建造され、この町並みは、明治35年に開かれた内国勧業博覧会の跡地に、「ルナパーク」と
いうネーミングを付けて、ニューヨークのコニーアイランドをモデルとした、当時としてはとてもオシャレな娯楽の町として開かれた所なんです。
第二次大戦後、この辺りもかなりさびれ、一時期は一般の人はちょっと危なくて入れないような町に変貌した事もありましたが、今はまた昔の面影を取り戻し、庶民の町として勢いを盛り返しつつあります。
ただ、治安上はまだまだ安全な街になったとは言い切れない面も多々ありますので、ここを歩かれる際は手荷物などに充分気を付けてください。
ショルダーバックを提げる時は、少々不格好でも必ずたすきがけになさるように。
特に、女性だけでこの街に踏み込まれる時は、人気の少ないところへは絶対に行かないようにして下さい。
ここで「上町台地」縦走の旅もお終い。
お腹もすいたし、いい匂いはあちこちからしてくるし、誘惑の多い町ですよ、ここって(笑)
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