トップ >一人歩き >古道を行く >山辺の道 桜井から巻向まで

山辺の道  桜井から巻向まで   



箸墓古墳

 近鉄桜井駅を出ると、五月下旬の強い日差しがいきなり目に飛び込んできました。
まだ九時を少しまわった頃で、駅のホームには大学生もしくはフリーターとおぼしき若い人の姿や、通勤客がかなり目に付いたわりに、駅の外はガランとしたような、人気も余り目に付かず、客待ちのタクシーだけが列を作っていました。
 JRと共有しているターミナルビルには、かなり大きな書店があり、早速桜井近辺の地図を購入するため、そこを利用しました。
店内には、この辺りの歴史や、考古学に関する書物が出入り口付近に目に付くように並べられ、さすがに大和朝廷発祥の地と思わせられるものがあります。
 駅前の広場にでると、そこには山辺の道と、もう一つ東海自然歩道を記した絵地図があります。
すでに、数人のグループが、待ち合わせをしているのか談笑しながら打ち合わせのようなことをしていました。
 私はまっすぐ駅前の道を北上したわけなのですが、昔と違い、この辺りもずいぶん整備され、山辺の道に沿ったところには、ベージュ色のタイルまで敷かれ、余程のボンクラでない限り、迷子などにはなりっこないと思うほどです。
 しばらく行くと、大型スーパーマーケット、「サティ」が角にある交差点にでます。
 私は、ここでちょっとした失敗をしていました。
 その手前のコンビニによりながら、ペットボトルの水を購入したものの、食料品にまで頭が回らず、とうとう弁当無しのハイキングになる結果に。
 「サティ」のある角を右に折れると、さっきとはうって変わって、かなり殺風景な通りになります。
 歩道も余り整備されていず、道の片側だけ辛うじてベージュのタイルが敷かれているだけで、人通りもほとんど無く、ただ車だけが我が物顔に走っているだけでした。
 JR桜井線の踏切を越えると、左右に広大な貯木場が広がり、今でも木材産業がこの「桜井」という町を支えていると印象を受けます。
長く続く不況の影響でしょうか、以前この地を訪れたときとは違い、貯木場に蓄えられている材木の山はかなり少なく、そして一つの山もかなり小さなものには なっていましたが、それでも高級木材の檜の香りが辺り一面に立ちこめ、殺風景な長い道も、私には好ましく感じられる面もありました。
 貯木場の切れたところで左に折れると、三輪の神のご神体と言われる三輪山が姿を現し、その手前を大和川が横切っています。
土手を登りきると、河原はちょっとした公園風に整備され、この日は犬を連れた人が二、三人ベンチに腰掛けて談笑している最中でした。
 大和川に近づくと、黄色いカキツバタが幾つかの群をなして咲き乱れていましたが、惜しむらくは当日、カンカン照りとも言って良いほどの晴天に恵まれたこと。
一応、カメラにはその姿を収めた見たものの、心なしか花びらは少ししおれ加減、直射日光下では風情も見られずズームアップしてここに掲載するほどのものではありませんでした。
 対岸のはるか向こう、三輪の山裾には「大神神社」の大鳥居が微かに見え、その大きさを彷彿させられるものでした。
 この辺りは、はるか奈良時代以前より市が立ち、「海石榴市」(つばいち)と呼ばれ、海外との交易も盛んに行われていたところです。  

   

  


 仏教伝来の碑文などもすぐ側にあり、国家の使節もこの辺りの船着き場から住吉辺りまで、この大和川を小舟で登り下りしていたものと思われます。
「海石榴市」の歴史は案外長く、都が京都に移された後も、清少納言の「枕草子」、紫式部の「紫式部日記」にも、その名が留められています。
 大和川を渡りきったところで右に折れていくと、そこは今現在「東海自然歩道」として整備され、昔の「伊勢街道」から旧「東海道」へと繋がっていくのですが、今日のテーマは「山辺の道」そして、「箸墓古墳」と言うことでそのまま直進しました。
 この道は「金屋」という集落の真ん中を通って行くわけですが、驚いたことに「金屋」と言うところまで来ると、二件に一件は、「喜多」という表札が掛かっていること。
まるで、親戚一同が、一つの村を作ったようにも感じられました。
 集落を通り抜けると、「金屋石仏」に対面することが出来ます。
 この石仏、まるで倉庫のような建物の中に安置されていて、写真にうまく収められなかったのですが、実はこれ、古代の古墳の石棺の蓋に、後年の人が仏像を彫りつけたもので、長方形の厚みのある石板に仏の姿が浮き彫りにされていました。
 それより、私の興味を引いたのは、ちょうどその真向かいにある美術館。
 またしても、「喜多」という名の付く「喜多美術館」、現代アートを主に展示されている美術館ですが、私の気を引いたのはその庭に展示してあるオブジェです。
 美術館の庭、という事で写真撮影は遠慮してしまったのですが、今から考えるととても惜しいことをしたように思います。
 庭には、数挺のチェロが、それも鉄製。
 りんごのように皮をむかれたり、縦に切られたり、色々な形に姿を変えられて置かれていました。
確かにそれはもはや楽器と呼べるものではなく、彫刻家の手によって創作された一種の造形なのでしょうが、弓を持ってくればもしかして、妙なる調べでも奏でてくれるのではないかという、錯覚さえ抱かされるものでした。
この辺りから、「山辺の道」はいかにも山道という感じに印象を変えていきます。
やっと、「山辺の道」本来の姿になったと言っても良いくらいです。
このまま、まっすぐ北上していくと「志貴御県坐神社」(しきのみあがたいますじんじゃ)の前まで出ます。
 それから先は、けっこう山深いところを歩いているような錯覚に落ちるほど木々が茂り、さっきまでの町の音も殆ど聞こえないようになります。

これは、考古学の先駆者ともいえる、故小林行雄博士の書をそのまま移して碑にしたものですが、同じものがあちらこちらにあって、寂しい山道も何となく楽しい気分になりました。
 そのままゴキゲンでしばらく山道を歩いていくと、誰か、後ろからついてくる気配がするじゃないですか。
ちょっとばかり気持ち悪くなって、しかし相手を確かめるべく後ろを振り向いたところで、若干薄暗く、なおかつ、メガネ無しで日常を暮らしているとはいえ、 実のところ少々視力の弱い私に、相手の顔など見極められるはずもなく、もう、こうなっては三十六計逃げるが勝ちと、かなり足を早めてだいぶ先の三叉路まで 行くと、地図に沿った道じゃない方に入り込んでしまいました。
これが失敗の元なんですよね。
 すぐ角の藪の陰にでも身を潜ませて、後ろから来る人をやり過ごすつもりだったのに、そういう場所がないわけです。
後ろからは、どんどん足跡が近づいてくる、仕方なく私も、その脇道をどんどん先へ行く羽目に・・・・・。
 結局奥へ奥へと進んでいくうちに、とうとう私は迷子の子豚ちゃん。
やっとの思いで引き返して、さて、私はどこにいるのでしょう。
 とにかく、「大神神社」まで行こうと地図を広げてみても、今現在自分がどこにいるのか把握できていない以上、どうしようもないわけです。
結局来た道をどんどん引き返して、やっと目標になりそうな建物を発見。
脇道にそれた頃から、引き返して「平等寺」にまでたどり着くまで、小一時間掛かってしまいました。
 そろそろお昼、お腹も空いてきたし、「大神神社」から山を下りて「三輪神社」そして参道辺りまででれば三輪名物の素麺が食べられるぞ、なんてもので、こうなったら食い気につられて「三輪」参り。
 「三輪明神」「三輪神社」「大神神社」はすべて大国主の尊が祀られているわけですが、実際のご神体はこの三輪山そのもの。
昔からの山岳信仰が、このような形になって残ったものだと思います。
そして、蛇がその神のお使いとされ、「大神神社」には白蛇がいると言われていますが、何しろこの私、神のお使いであろうと無かろうと、爬虫類は大の苦手でとてもそこへは近づけませんでした。
 もう一つ、御神花というものがあります。
つまり、その地の神が好まれた花ですが、「笹百合」が御神花として大切に境内の一隅で栽培されていました。

花の時期に来なかったのがちょっと悔やまれますが、しかしながら、こうやってじっくり眺めていると、つぼみの姿も楚々としていて良いものです。
 まるで、処女の清らかさを感じられるような気がします。
 とりあえず「大神神社」へも寄り、「三輪神社」へも一応顔出しして、さあっ、素麺、素麺とばかりに参道を下っていったわけですが、あらあら、なんと言うこと、周りのお店、全部お休み!
 そうなのです。
自分が休みなもので、ホイホイはるばる?大阪からやって来たわけですが、この日は平日。
 平日ともなれば当然参拝客も少なく、お店を開けていても仕方ないわけで・・・・・・やれやれ。

 閑散として、なかなかロマンチックに見えたりする三輪の参道ですが、さすがに商売の神様、土日様にはあちこちから人がどっと押し寄せます。
 よく古い酒屋さんとか、造り酒屋などの軒下に、杉の葉をボール状にした飾り物のようなものがぶら下がっていますけど、あれはこの三輪のご神木の杉の葉で作られています。
というのは、この三輪の神様は、商売だけでなく、お酒造りの神様でもあるからです。
参道の縁には、灯籠と共に祠もいたるところにあります。
その一つに近づくと、猫が昼寝をしていましたがやおら起き出し、思いっきりふかれました。
その根性とパワー、うちの番犬モドキに分けてやりたいものです。
うちのハスキー犬と来たら、図体と態度ばかりでかく、そのくせ殆ど寝てばかりで何の役にも立っていないですものネー。吠えないというのも、程度というものがあります。
 
 周りを見渡してみたけど、食べ物やさんは、申し合わせでもしているのか全滅。
こうなったら、ほとんどヤケみたいに来た道をまた後戻りして山道に向かいました。
 空きっ腹を抱えて一人寂しく「山辺の道」ああ悲しいなんて考えていたら、さっきささやかながらもお賽銭を上げた御利益なのでしょうか、その辺りを見渡すといたるところにたわわに実を付けた木イチゴを発見。
 その辺の山道に生えているものですからね、酸っぱいだろうと口に入れてみると、店で売っているものとは段違いに甘みが強い。
 人のいないのを幸いに、かなりの量を食べました。
 多分、あのときだけで、ビタミンCの摂取量、一週間分ぐらいはあったのではないかと思います。
 とにかく、木イチゴのお陰で元気を取り戻し、山辺の道に沿ってしばらく行くと、「桧原神社」と書いた看板を見つけることが出来ました。
 そこを今度は左に折れて(つまり西に向かって)どんどん行くと、今日の目的地、「箸墓古墳」に出ます。


「箸墓古墳は」は、全長約272m、後円部径157m、
高さ22m、そして前方部幅125m、高さ13m。
周囲には、周壕がめぐらされ、当時建造されたものとしては、かなり壮大な陵墓です。
 「箸墓古墳」に葬られている人物について、いまだに論議が絶えないのですが、興味深い伝説が幾つか残っています。
 夜な夜な通ってくる美男子と恋に落ち、契りを結んだは良いけれど、その正体が蛇と知って驚愕し、通ってきていた男を怒らせてしまう。
 恥をかかされたと帰ってしまった男を想い、箸で自らの陰部を突いて命を絶ったお姫様。
 数ある伝承の中で、特に私の興味を引いたのはこれです。
 これも、眉唾物の極みと言っていいのですが、箸が一般に使われだしたのは、6世紀初頭からだと文献に載っております。
 貴人達が箸を使うようになったのは、一般人より幾分早い時期かも知れませんが、それにしてもたかが生活用品。
 そんなものの使用開始時期が、貴人と一般人との間に200年余りもの開きが出てくるとは考えられません。
 この「箸墓古墳」が建造されたのは、約3世紀半ばという調査結果があり、これができた頃にはまだ箸そのものの存在すらなかった時代になります。
 まだ手づかみでものを食べていた時代、箸のような形をしている物として挙げられるのは、矢ではなかったか。
 「卑弥呼」が、人物の名ではなく、日(太陽)を斎祀る巫女の意として捉えるなら、何となく辻褄が合ってくるような気がします。
 当時のこの日本の様子を記した「魏志倭人伝」によると、「持衰」(じさい)の事が書き残されています。
 人が旅行などに出るとき、一名の者を選んで「持衰」とし、選ばれた者は旅の安全を祈るためにすべての汚れを身にまとい、そして体を清めることもせずに耐 えねばならないわけですが、「卑弥呼」はもしかしてその「持衰」の役を引き受けていたのではないかと思われます。
 と言っても、旅人のための「持衰」ではなく、国家のための「持衰」として、日々死にものぐるいで日の神を斎祀り、身を処していたのでは無かろうか。
 「卑弥呼」が最後を迎えた年は、西暦248年と言われています。
 折しも、狗奴国との戦争の真っ最中、多分狗奴国との戦いでみじめな敗退をしたのであろうと思われますが、完全に負けてしまったので有れば、その後「卑弥呼」の同族の娘の壱與が、倭の女王として魏に朝貢の使節など送ることは不可能なはず。
  確かに、かなり手痛い損害は、あったものとは思われますが。
 気になったのは、人間界でなく、自然界での出来事でした。
 ちょっと調べてみると、まさに驚くべき科学データが出てきました。
 西暦248年9月5日、この日は、日本上空で皆既日食が起こった日です。
 「古事記」「日本書紀」に見られる「天の岩戸隠れ」の伝承は、まさにこの日の事を記しているのではないでしょうか。
 旅行中、病人や死人が出たり、または嵐などに見舞われた場合。」、「持衰」は「其の持衰謹まずと謂えばなり」として、惨たらしい方法で殺されてしまいます。
 ひょっとして、「卑弥呼」も皆既日食という天変と、それにシンクロするように起きた敗戦の責任を負って、殺されていったのでは無かろうかと考えます。
 九州の、とある発掘現場で、下腹部だけに集中して矢の刺さった老女の遺体が発見されたことがあるそうですが、「卑弥呼」の最後も、もしかしてこれとよく似たものではなかったかと、思います。

 今は、この「箸墓古墳」は宮内庁の管轄とされ、一般人の立ち入りは厳しく禁じられ、学術的な調査もかなり制限されています。
 この中に葬られている人物が、祟神天皇の祖父、孝元天皇の妹、「やまとととひももそひめ」であると言われているためですが、もう少し柔軟になれないかと思います。
 何しろ、今宮内庁が守っている陵墓、明治期に「古事記」や「日本書紀」を元にして推量した古墳を天皇家の陵墓として扱っているわけですが、果たしてそれが正確なものかどうか、見直す必要もあるのではないかとも思われます。
 ひょっとして、高い税金を使って、全くの赤の他人の墓を守り、肝心のご先祖様の墓は放ったままという事も考えられますからね。
 「箸墓古墳」のまわりを一周してから、今度は「ホケノ山古墳」に向かいました。

 山の中を歩いている間は良かったのですが、「桧原神社」からここまで下ってきてしまうと、周りは田んぼばかりで影という物が無く、日中の太陽が容赦なく照りつけてきます。
 頭に巻いたバンダナには、汗がしみ込み始め、風が止むと、サングラスまでが自分の汗で曇ったように感じる始末。
 帽子を被ればいいのですが、私の頭はオトナとしてはかなり小さい方で、なかなか気に入った帽子が見つからない、困ったものです。
 たたんだ地図で扇ぎながらしばらく歩くと、さすがは「三輪素麺」の産地、素麺工場があちらこちらにありました。
 この辺りには、テレビコマーシャルで有名な大メーカーから、小さな町工場然としたものまで、大小の作業場が点在しています。
 進路を東に向けて、JR桜井線の踏切を越えると、「ホケノ山古墳」が見えてきます。
ちょっとした集落に隣接し、古墳そのものは、いかにもただ今発掘中という事で、鬱蒼と茂っていたはずの木々は取り除かれ、何とも哀れな姿をさらしていました。
 「ホケノ山古墳」も、「箸墓古墳」と同じ、3世紀半ばに建造された、前方後円墳です。
 大きさは「箸墓」よりかなり小さいものですが、それでも全長約80mは有り、大王級の墓からしか出土しないとされていた「画紋帯神獣鏡」なども出土し、今注目を集めています。

 私が「ホケノ山古墳」を訪れたときは、ちょうど発掘作業の真っ最中でした。

  

 この古墳の周りは、きれいな小公園になっていて、車で訪れる人のための駐車場まで完備されていました。
 公園には、数人の女性達がそれぞれ乳母車を押したり、小さな子供の手を引いたりいかにも初夏の平日の昼下がりと言った、のどかな雰囲気を作り上げていました。
 その様な雰囲気に全くそぐわない格好をした人達が数人、水飲み場でたむろしていたわけですが、その中でも一番柄の悪そうな人が、周りの人から「先生」と呼ばれているのに気づき、笑いを堪えるのにずいぶん苦労をしました。

 黄色いコスモスのような花が一面に咲き乱れ、その向こうには「三輪」の山が悠然とした姿を現している。
なかなか良い環境の下にこの飯場があります。
 この中で、研究者達が、論議を戦わせたり、または次の計画を立てたり、そして、ご飯なども食べているわけですが、一度オジャマしてみたい!
 そろそろ、足がパンパンに張ってきて、日頃の運動不足が身につまされる頃合いとなりました。
 まだ日が高いけど、疲れすぎないうちに帰らないと、家で夕御飯の支度ができなくなってしまう。
 そんなことを考えながら、巻向駅を目指して歩いていると、何とも言えぬ懐かしい臭いが。
 実家で製麺業を営んでおりましたが、義父の高齢と病気のために廃業してしまってからは、この臭いとも長らく遠ざかっておりました。
 途中に、表のシャッターの開けっ放しになっている作業場風の建物が一件。
 外から覗いてみると、今、素麺を引き延ばしている真っ最中でした。
 ちらっと覗いて、そのまま立ち去りかけたら、ユニークな呼び方で呼び止められました。
 「ちょっと、そこのマッカーサーみたいな、姉ちゃん。」
 「マッカーサー」見たいかどうか、人っ子一人いないこの道、他に「姉ちゃん」らしき陰も見えず、呼ばれたのはどうも私らしい。
 思わず振り向いてみたら、タオルを頭に巻き付けたオジサンが、私の方を見て手招きしておられました。
 よく考えたら、桜井の駅を出たときからずっとサングラスをかけていました。
 昔流行った、垂れ目タイプの「レイバン」。
 うちの職場では、そんな格好をしていると、「西部警察の大門刑事みたい」という人はいますけど、「マッカーサー」とは恐れ入りました。
 とうとう最後まで、そのオジサン恥ずかしがって写真は撮らせてくれませんでしたが、いきなり「マッカーサー」という言葉の出てきたワリに、お若く見えましたけどね。

  

なかなか話好きなオジサンで、私の風体を見て観光客とでも思われたのでしょう、こちらからお願いもしないのに、色々素麺にまつわる話などをしてくれました。
 この5月という季節、この時期に作っているのは、素麺ではなく、「冷や麦」だそうです。
 素麺と、冷や麦との違いは、一つだけ。
それは、麺に混ぜ込む塩加減。
 素麺の塩加減は、かなり薄め、そして冷や麦の塩加減は強い目にするのだそうです。
 これは、小麦粉を練ってから延ばして乾し上げるまでの工程で、寝かしておく時間がかなり長く、その間の腐敗を防ぐためだそうです。
 素麺類を作るときに一番気になるのは、雨よりも風だとか。
 風が強く吹くと、麺類は全て折れてしまって、商品にならなくなるそうで、うん、確かに。
 この日は、ゆるいそよ風程度の風しか吹いていませんでしたが、それでもかなりの麺が、裾の方で折れていました。
 オジサンのご厚意で、中庭まで入れていただき、干している最中の冷や麦の写真を撮らせていただきました。
 大阪では、滅多に見られないような、澄んだ空でした。

 帰りは、JR巻向駅から、「近鉄桜井」を経由で、一路大阪方面へ・・・・・
 今度来るときは、巻向遺跡辺りの散策もしてみたいと思っています。



詳しい地図で見る