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柳生街道を行く 後編 「柳生の里」


「田原の里」に別れを告げて「柳生」を目指そうと進みかけて、三叉路のところまで来るとまたもや急停止。
右へ行けば、今まで来た道同様のアスファルト貼りの歩きやすそうな道。
しかし、左へ行こうとするとゴロゴロした石ころだらけの地道で、なおかつそれは山の中へと続いている。
駅で買った地図にはこの辺りの所までは掲載されていないし、手持ちのガイドブックにも詳しいことは載せられていない。
「えーい!ままよ!」とばかりに前に進みかけて、前方、2時の方向に人影発見。

「あのー、すみません。『柳生』へ行く道はこちらでいいですかぁ?」
「この道はちゃいますわ(違いますよ)。『柳生』へ行くなら向こうの道ですわ。」

と指さされたのは、石っころだらけのガタガタ道 (°◇°;) ゲッ

野良仕事をしているおじさんに一言礼を言うと、そちらの方に向かって歩き出しました。
「『柳生』は山を二つ越さんと行けまへんでぇ」
と言う声が私の後ろから・・・・・・

ギャッ!
あと二つも峠を越えるわけ!!??

とりあえず
「おおきにぃ!がんばりますわ!」
と返事をして、もう一度前を向いたときは首はガックリ(苦笑)

しかし!
行かねばならぬ!

バスに乗って楽して帰るためにも、結局は最低限あと12、3キロは歩かなければならないのである(決死)
ふぅ(半泣き)

そしてまたもや、昼なお暗い山中の道を行くことになったのですが、昔いくらにぎわっていた道路でも使わなくなるとどんどん無くなっていく物なんですね。

例えば、左の写真。

これは「田原の里」と「柳生」の間で撮った写真ですが、土の見えている所はわずかに20センチ足らず。
この写真を撮ってから10メートルも前に行くと、道がまるで沼みたいになっている始末。
靴もジーパンのすそも、ドロドロですじゃ
これがかつて、多くの武芸者が通い、そしてまた物資の運搬路になっていた街道のなれの果てかと、「諸行無常」をまさに実感。
息を切らせつつ、山の中や、もしくは田んぼのあぜ道と化した街道を行くこと数十分。
「田原の里」の田んぼの中にいたおじさんから教わったとおり、まず山を一つ越えて森を抜けた所にある「忍辱山・円成寺」にたどり着きました。

「円成寺」は、柳生街道随一の名刹です。
この寺そのものの歴史はとても古く、天平勝宝8年(756年)に聖武天皇と孝謙天皇の勅願で唐僧瀧和尚が開き、そののち、京都の東山にあった「円成寺」の名跡を継いだと言われています。
しばらく廃れていたものの万寿3年(1026年)になって命禅上人がこの寺を再興し、仁平3年(1153年)に京都の仁和寺の寛遍僧正が入山して、真言宗忍辱山流の本山としてからはかなり栄えて、江戸時代には塔頭23カ院を並べる大寺だったとされています。

このページのトップに据えた画像が、その円成寺の楼門(重要文化財)です。


多宝塔

平成2年になって再建された「多宝塔」の中には、東大寺の仁王像の作者として名高い「運慶」が青年期に刻んだ処女作と言われる、大日如来像(国宝)が安置されています。
そして本堂を中心として、「多宝塔」とは対角線上に建っている「鎮守春日堂・白山堂」は、日本最古の春日造社殿だそうです。


春日堂、白山堂

この「春日堂・白山堂」の隣には鎌倉時代に建てられて、今は重要文化財に指定されている「宇賀神本殿」があります。
「宇賀神」というのは弁天さんの別名。
これも、同時期に作られて奈良でも最古の春日造りの建築様式で建てられた建物だと言うことです。


宇賀神本殿


本堂

この本堂は、向拝に舞台をくっつけて一見神社のように見えますが、「春日造社殿両廂付神殿造」という建築様式になっています。
文正3年(1466年)に、藤原時代のままに再建され、中には、藤原時代の本尊阿弥陀如来座像と鎌倉時代に作られた四天王立像、平安時代前期の十一面観音立像、鎌倉時代の僧形文殊菩薩坐像などなど、たくさんの重文級の仏像が安置されています。

楼門の下に広がる平安時代の寝殿造りの型式に則った庭園は、昭和51年になって発掘された遺跡から復元されたものですが、四季折々の花が色彩を添えて、名園という名にふさわしい風情のあるお庭です。


円成寺庭園

境内の入り口にある茶店で軽い食事をとってから、また歩くこと・・・・・うーん、どのくらい歩いたんだろか・・・・??
何度も
「ここはどこ? わたしは『あおい』」(笑) 
てな状態に陥り・・・

ま、ひらったく言えば迷子になっていたわけですが、田んぼのあぜ道、けものみち、お化けでも出そうな真っ暗な森の中。
そんな所ばかりを歩き続けて・・・・・

おー!
とうとう着いた!

そうなの!
ここが「柳生の里」

が・・・・・

柳生には違いないけど、ここはほんの取っ掛かり。

「大柳生」まで行くには、もう一つ山を越えなければならないんです。
写真に写っている小さな集落、その後ろに控える黒々とした山。
これを越えて行くのかぁ.。o○
へなへなへな・・・・・・・(突如おそってくる脱力感)

まあしかし、いつまでもこんな所に座り込んでもおられない。
まずは、ここの氏神さんにご挨拶、とばかりに夜支布山口神社を目指しました。

「夜支布山口神社」(やぎうやまぐちじんじゃ)は大柳生の里の端っこに位置します。

田んぼの真ん中のこんもりした森の中にあるこの神社は、一番最初は巨石信仰の場として成立したものだそうで、いつ設立したのか詳しいことは知られていません。

最初、この地にある大きな立岩に神霊が宿っていると崇拝されていて、その立岩の前にはかなり古くから社殿が設けられていたそうです。


 その後、山口神社がこの地に移され、立盤(たていわ)の神が摂社となった社です。

祭神は「天手力男命」(あまのたぢからおのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき、その岩戸を外から引き開けた力持ちの男神として知られている神様です。

この建物は国の重要文化財に指定されていて、「一間社春日造 檜皮葺」という社殿形式になっています。

建てられたのは春日大社の記録きや、この社殿から発見された墨書きなどから、江戸時代、享保年間に、春日大社が新造されたとき、本社本殿の第四殿をここに移されたものだそうです。

この神社には変わったしきたりが伝えられていて、この辺りの集落の人達は一年交替でここの神様の「分霊」を自宅に迎える「回り明神」という習慣があります。

この神社をあとにすると、街道はいよいよ集落の中に入っていきます。

やっと踏み込んだ人の住む里!
少しばかりの人間臭さが却ってホッとさせてくれたのもつかの間、またしても街道は田んぼの真ん中へ、そして、また、深い森の中へ(ため息)

雨が降り始め、ヤブ蚊とアブの攻撃から身をかわしながら山の中を進むと、また開けた所に出ます。

そしてたどり着いたのが「南明寺」

宝亀2年(771年)の創建と伝えられる古刹ですが、今は重要文化財として指定されている本堂だけが、集落の中にぽつんと立っています。

どっしりとして安定感の感じられる本堂ですが、これは鎌倉時代の建築様式の特徴で「一重寄せ棟造り」と呼ばれています。

この堂内には、平安初期の本尊薬師如来坐像と、藤原期の釈迦・阿弥陀如来坐像、四天王立像などが安置されています。

南明寺からほんの少し坂を下った所、小さな料理旅館の横手に回り込むと「お藤の井戸」と名付けられた小さな井戸が残されています。
四方はコンクリートで固められ、少々無粋な形になってしまっているこの古井戸には今でもたっぷり水が沸き、覗き込んでみると金魚が数匹泳いでおりました。

この井戸にはちょっとした言い伝えが残されています。

昔この辺りにお藤という娘が住んでおりました。

そのお藤がある天気のいい日にここで洗濯物をしていると、頭上から声がした。
振り仰いでみると、この地のお殿さんが遠乗りにでも出かけていたのか、馬から下りてくる所でした。

多分、
「そこの娘、すまぬが水を一杯所望したい。」
とでも言われたんでしょうねぇ。
急いでからげていた着物の裾を直し、その場に座り直して土下座をした。

娘に声をかけたお殿さんこと、柳生但馬の守宗矩は、その娘の顔を間近に見てかなり驚いた。
将軍家剣道指南役として幕府から一万石を与えられ、自らも城を持ちながら幕府の城にも出入りしているため、美しいと言われている娘達を度々目にしていたが、これほどまでに美しい娘にはお目に掛かったことはなかったんでしょう。
それで、ちょっと話をしたくなったわけですけど、何しろ子供の頃はまさに戦国時代、大人になってからも明けても暮れても剣道や兵法のことばかりに関わっていて、色めいた場面に遭遇したこともない。

分かりやすく言えば、ナンパしようにも適当な話題がなかったんでしょうねぇ。

言葉に詰まって、視線を娘からそばにあった洗い桶に移すと、娘が洗濯物をしていたさざ波がまだ余韻を残して水面を揺らしている。
で、思わず、こんなショウもないことを聞いてしまった。
「桶の中の波はいくつ有るんだ?」
御領主様からこんな事を聞かれて、お藤さんは多分ずっこけそうになった。
話しかけてきた相手がその辺のオッサンなら
「何をショウもないことを聞いてくんのよ」(-。-) ボソッ
なんて無視も出来たでしょうが、何しろ相手はお殿様。
無視するわけにも行かず、そしてまた質問の内容を考えると「分かりません、数えていませんでした。」なんてバカ正直に応えるのも芸がなさ過ぎる。
ふとお殿さんの後ろを見ると、お殿さんの乗ってきた馬が足踏みをしていた。
それを見て、
「お殿さんがここまで来られる時、お馬さんは何歩歩いたのですか?」
と聞き返したそうな。

「仕事せえでも器量さえ良けりゃ、おふじ但馬の嫁になる」
という里歌がここに残されているとおり、お藤さんはその器量と才気を気に入られ、のちに柳生宗矩の嫁としてお城に迎えられたそうです。
めでたし、めでたし・・・・

めでたい話はこの辺でおしまい。
これから先は非常にシリアスなドラマが待っていました。

「大柳生」を目指して最後の峠を越えるのですが、この峠の名は「阪原峠」と書いて「かえりばさ峠」と呼ばれています。
本当に、いったい何度帰りたくなったやら・・・・・・・

お藤の井戸から約1キロ程の所にある峠ですが、その前の約700メートルはものすごい急な坂道が続きます。
傾斜角は推定15度から20度。
しんどいと言うより、きついと言った方が当てはまっているかも。

これでもかと言った具合に急勾配の坂道が続き、息は絶え絶え心臓までもバクバク。

峠を越えると今度はまたしても急勾配の下り坂。
油断をするとズルッと滑りかけるし、長い下りが続くと膝が痛くなってきます。
おまけに雨が降ったりやんだりしていたせいで、ヤブ蚊の数が半端ではない。
耳元でプンプンと羽音を鳴らされると気が気じゃない。
おまけに薄暗い森の中ゆえにアブの羽音までもが私の周りを取り巻いてます。
うーっ、「前門の狼、後門の虎」とはこのことかぁ?(涙)

すると、細長くて頭のところが三角になっているイキモノが私の前を横切った。

ぎゃー!またマムシだぁ!!

これじゃまるで「四面楚歌」じゃないの!(大泣)

スリルとサスペンスに充ち満ちたシリアスドラマは、この峠を越すことで簡単に体験できます。
夏季限定ですが、刺激の欲しい方には特にお勧め!

かえりばさ峠を越えて少し行ったところに、「疱瘡地蔵」が小さな堂の中に安置されています。
これは天然痘が猛威をふるう事が多かったので、元応元年(1319年)に疱瘡除けとして彫られたものです。

この石の右下には

「正長元年ヨリ サキ者 カンヘ四カン カウニ ヲヰメアル ヘカラス」

と書かれています。
つまり、
「正長元年(1428年)以降は神戸四か郷(現在の「伊賀神戸」周辺の四カ村)に負い目(負債)有るべからず」

という意味に判読され、徳政一揆成功の証文代わりとして貴重な文献となっています。

峠から500メートル程下ってくるとようやく森が切れかけて辺りが明るくなります。
それと同時に、「大柳生」の真ん中を突っ切る国道369号線を走る車の音が聞こえ始め、やっと人里に近づいた心地になります。

その辺りで、苔むした天然石に並んだ六体のお地蔵さんが迎えてくれます。
「六体地蔵」と呼ばれていて、風化が進んでいて顔などは分からなくなっていますが、大きな岩盤に彫られた六体のお地蔵さんが何となく可愛い。

このお地蔵さんから先に進むと、国道を挟んだ向こうの方に人家が見え始めます。
ああ、やれやれ!
やっと着いたぁ!

なおも坂を下ると、道ばたの崖っぷちに小さなお湯のみが置かれ、花が手向けられてある。

それらがあったおかげで見つけることの出来たお地蔵さん。
ずいぶん古い時代から倒れたままになっている石仏さんのようで、、土に埋もれかけて、おまけに頭は木の根っこの中に突っ込んでいっているような状態。
この辺りでは、「寝仏」と呼ばれています。
写真ではわかりにくいですが、ちょっと緑色がかった石に、30センチくらいの仏さんが浮き彫りにされていました。

ここまでやってくると、こちら側にも人家があり、「大柳生」に着いたという実感がわきます。
ほんと!
心底、ホッといたします。

ちょっと休憩でもしたいけど、そろそろ遅くなってきているし、このまままっすぐに「旧柳生藩家老屋敷」まで向かいました。

大柳生の里の集落からちょっと西側にそれた高台に、すごく立派な石垣を巡らされた大きな家があります。
ここは、柳生藩国家老だった小山田主鈴が、引退後に建てたいわば隠居所のように使っていた邸宅ですが、嘉永元年に建てられた主家はほぼ当時のままだと言われています。
子孫の方々がかなり長く住んでおられたそうですが、昭和31年になって小山田家の都合でこの地を離れられることになり、この邸宅は一旦土地の人の所有となりました。
昭和39年から、作家の山岡荘八がこの邸宅を買い取り、ご自分の別荘代わりに使われていたそうです。
昭和46年のNHK大河ドラマ「春の坂道」が放映されて、一時期「柳生」が大ブームになったことがあります。
その「春の坂道」の原作は、この邸宅で構想を練って書かれたものだと言うことです。
山岡荘八氏が亡くなった後、遺族によってこの邸宅が奈良県に寄贈され、今は当時の武家の生活道具や、柳生一族に関する資料などを展示してある資料館のように使われています。

それにしても、本当に大邸宅!!
今は取り壊されて無くなっていますが、倉の跡や納屋の跡などの礎石が残されていて、長屋門も本当に立派です。

ざっと中の見学を終えた私は、庭を巡り歩きながら友人とお話中。。。

「うっそー!!」
電話の向こうから、半ば予想はしていたものの、やはりこんな反応が素っ頓狂な声で返ってきた。
「本当だってばぁ!ちゃんと実在していた人物なんだってばぁ。」
「ほんとにぃ?! へぇーっ!」
友人は相変わらず頓狂な声を発している。
「信じられない?」
「いやぁ、ずっとドラマの中だけの登場人物だと思いこんでいたからさぁ・・・・・・。へぇー、本当にいたのかぁ!」

と言うわけで、その話題の中心になっていた人物が住んでいた寺まで足をのばすことに・・・・
その人物とは、

「柳生烈堂」

ん?

ここにも、「うっそーっ!!」なんて言いたくなる人、やっぱりいます?

ただし、実在の柳生烈堂は、拝一刀を相手に抗争などするわけでもなく、当然、大五郎に刺されて壮絶な最期を遂げるわけでもなく、とっても地味に、なおかつ平和に暮らしておいででしたが・・・・

「家老屋敷」から国道を隔てて反対側に「芳徳寺」と言う禅寺があります。
昔、柳生宗矩の父、柳生石舟斎が築いた城の隣に位置する所のようですが、柳生の里全体が眺められる高台に白い築地塀が巡らされさすがに代々の柳生家の一族が眠る菩提寺という感がします。

この寺は寛永15年(1638年)になって柳生宗矩が父の石舟斎を供養するため創建し、有名な沢庵禅師が開基をつとめました。
そして、この寺の初代住職が、柳生宗矩の末っ子だった柳生烈堂だったわけです。

芳徳寺の裏手に回ると松林の中に柳生但馬の守宗矩を中心に、柳生家一族の墓が86基ほど並んでいます。
中に一つ、酒樽の台に徳利の塔、盃の蓋というとってもユニークなお墓がありました。
一族の中に、お酒の大好きな人がいらっしゃったんでしょうねぇ。

そして、芳徳寺の真向かいに在るのが「正木坂剣禅道場」
最初、柳生十兵衛が柳生の陣屋内で門弟を鍛えていましたが、昭和40年になってから当時の芳徳寺住職がこの地に剣道場を移し、その名も引き継いで今に至っています。
建物は奈良地方裁判所になっていた旧興福寺一条院の建物を譲り受け、その玄関は、かつての京都所司代の玄関をそのままこちらまで運んで使われているそうです。

柳生新陰流というのは、戸田一刀斎の元で剣の奥義を極めた柳生石舟斎が、藤原秀綱や疋田文五郎の元で新陰流を学び、ついに「柳生新陰流」として編み出した剣の流儀とされています。

その奥義は人を斬るための戦国時代の剣ではなく、「真剣無刀取り」という技が現すとおり、抜かざる剣の道を求める「無刀の剣」だとされています。
柳生石舟斎の五男である柳生宗矩が将軍秀忠、家光の兵法指南役となり、また、宗矩の三男、宗冬が四代将軍家綱、五代将軍綱吉の兵法指南役になったために、 柳生新陰流の名は天下に広まり、当時はこの正木坂道場で門弟を鍛えていた柳生十兵衛の元には全国から一万三千六百人もの剣士が集まったと言われています。

今でもこの道場は使われているようで、建物の横手に回ると物干し台にたくさんの雑巾が干されています。

この日は無人でしたが、子供達は夏休み中。
朝早くこの場に佇むと、中から
「キャーッ!」(当人は「ヤーッ!」と言っているつもり)
「キェーッ!」(当人は「メーン!!」と言っているつもり)
なんて言う子供達の声が、竹刀の打ち合う音に混じって聞こえてきたりするんでしょうねぇ

うーっ.。o○
腕がムズムズするぞ・・・・・・・・・

ん?
ヤブ蚊であったか・・・・・・ペチッ

   


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