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柳生街道を行く 前編 「滝坂の道」


暦の上では立秋も過ぎ、ちまたでは「お盆休み」のまっただ中。
長らく家の中でおとなしく過ごしておりましたが、最高気温が35度を超える日が10日以上も続くとやっておれません。
少々早起きできたのをコレ幸いと、暑さから逃れるために「プチ家出」(笑)、行く先も決めずに近鉄奈良線に飛び乗っておりました。

朝早かったのが幸いしたのか、電車の中はガラガラで、とりあえず、奈良の天気はどうだろう・・・・・・
携帯でリサーチして「ゲゲッ!」 ( ̄□ ̄;)!!
奈良県地方までも当日の予想最高気温は36度になっている。
こうなると日陰に逃げ込むしかないわけで、子供の頃の記憶をたどって疎開?先を柳生の里に決定した次第。

奈良市内中心部にある春日大社の南側から、東北にある柳生の里を結ぶ「滝坂道」と呼ばれる古街道があります。
この街道の歴史は古く、開かれたのは奈良時代くらいからだと言われていますが、今はそこを利用する人と言えばハイカーのみ。
俗に「柳生街道」とも呼ばれるその道は、春日原生林の真ん中を抜けていくわけで、きっと涼しいに違いない。
いかにも私らしく、短絡的に頭を巡らせると終点の奈良駅まで少々の時間、二度寝を決め込みました。
本当に私って短絡的(笑)

近鉄奈良駅を出て「奈良国立博物館」の横手の道をまっすぐ行くと、破石町のバス停に行き当たります。
そこが、「滝坂の道」の出発点。
その「破石町」までは奈良公園の中を歩いてくるのですが、いつもある柵になにやら見慣れない物がくくりつけられている。
近寄ってみると、斜めに切った竹筒にランプのような物が仕込んであるんです。
 
そうか!
8月14日、春日大社で「万灯籠会」のある日。
詳しいことはほとんど知らないですけど、近年になって春日大社だけでなく奈良公園の一帯全部でそのような催しをするようになっているんです。
それはそれは、本当に見事なものです。
と言うことで、番外編なれど写真を数点。。。。。。

朝につけた竹筒も、夜になって火が入れられると雰囲気が一変します。
家族のブーイングを受けながらも、一人遅くまでほっつき歩いた甲斐があったと言うものです(笑)





と言うことで、話は元へ・・・・・・・

飛火野の丘を左手に眺めながらしばし行くと、破石町の三叉路に出ます。
その三叉路を左に行くとそこは「滝坂の道」

先だって「奈良公園」から「白毫寺」へ向かうときもこの街道を歩きましたが、季節は違っても風情は変わらずまるで時間そのものが止まったような印象を受けました。

古い家の少し崩れかけた土塀がなかなか趣ありげで、ましてや、人の姿もほとんど見あたりません。
一人で、ふらっと散歩するには打ってつけの小道のような気がします。

京都の六波羅蜜寺を開き、念仏踊りを世に広めた「空也上人」(903-972)が晩年になって庵を結んだ寺があります。

空也上人は日本の仏教界で「他力本願」の思想を広めた先駆者の一人です。
歴史の教科書を見ると写真などで紹介されている空也上人の像がありますが、京都の六波羅蜜寺にある空也上人の像は、口からたくさんの仏様が飛び出してきている様子を表しています。
これは空也上人が唱えた念仏の言葉のひとつひとつが仏になったという、たいへんありがたいものであったことを示しています。

空也上人以前には念仏というものはお坊さんが唱えるものであって、人々はそれを聞くだけでした。
しかし空也上人は、人々がみんな自分で念仏を唱えてこそ、阿弥陀様の救いがあるのだとして、民衆とともに念仏を唱え、踊りまくったそうです。

さて、「空也上人」の庵跡から5分も歩くと、街道はいよいよ「奥山」の中に入り込んでいきます。

「奥山」と呼ばれているのは、「大和青垣国定公園」の大部分を占める「春日原生林」のことで、深い森の奥から木々の間を渡ってくる風はひんやりしていて本当に心地よい。

真夏真っ盛りゆえに、かしましい程のセミ時雨が聞こえていますが、お盆時分ともなるとセミの世代交代がそろそろ行われていて、アブラゼミやクマゼミの声に混じって、初秋を告げるツクツクボウシの声も良く聞こえておりました。
まさに今は晩夏の頃。
道ばたの小さな植物にも、これからやってくる秋の先達をするかのように、秋の花をつけている物が数多くありました。

街道は江戸時代半ばに整備されて、今でもこのように当時の敷石がそのまま残されている所が所々にあります。

石畳に覆われたダラダラ坂を登っていくと、途中から小さな谷川が街道に寄り添って流れるようになります。
「能登川」と呼ばれる川なんですが、至る所にこのような小さな滝があります。

延々と続いているかのような、長い坂道に、これまた滝だらけの谷川。

この街道が「滝坂の道」と呼ばれていたわけが分かったような気がします。

この滝坂の道は、昭和の初めまで盛んに使われ、柳生方面からは米や薪炭などを牛の背に乗せて奈良まで運び、奈良から帰ってくるときは、衣類や日用雑貨などを運んでいたそうです。

それにしても、物資の輸送に相当な労力が掛かったことが偲ばれるような街道です。
何しろこの私、ペットボトルのお茶とタオルが二枚、あとは虫除けと日焼け止めしか入っていないバッグを提げているだけなのに、この辺りからゼーゼー、ハーハー.。o○
都会暮らしの現代人にとってはものすごい難所でした。(苦笑)

一人で歩いていると、まるで怖いくらいの昼なお暗い、深い森の中の小道ですが、長い歴史のある道だけにたくさんの遺跡に遭遇します。

{まず最初に出会うのが「寝仏」と言われる岩のかたまりです。
本当は多分、自然に立っていた沿道の岩に仏像を刻んだのでしょうが、長い間の自然の営みの中で崩れ落ちちゃったんでしょうね。

目の前にある立て看板に「前の石」という注釈がマジックインキで書かれていないと分からなかった代物で、彫り込まれていたはずの仏さんの像もほとんど消え てしまっていて、それにこの辺りは木々が茂って、とても暗くなっており、私には仏像がどこにあるのか分からなかったです。



「夕日観音」
この仏像のある辺りから、街道は春日山と高円山に挟まれた谷間の小道のような様相になっています。
元々湿っぽい道ですが、この二、三日中に雨でも降ったのか、石畳にこびりついた苔か、もしくは地衣類がつるつる滑ります。
それにこの辺りから道は急に険しくなり、前を見て進んでいくのがやっとになりました。
横を流れる能登川にも連続で滝が続いています。
まさに「滝坂の道」!!
なおかつ、「滝汗の道」でもありました(苦笑)



そして、これが「朝日観音」
この写真を撮った位置からは遠すぎて分からないのですが、文永二年(1265年)の銘があるそうです。

と言うことは、鎌倉時代に作られた物なんですねぇ。
近くにある説明書きを読むと、川下の方にあった「夕日観音」と同じ作者が彫ったものと推定されるそうです。

「朝日観音」という名前は、後年に付けられたもので、実際は中央に弥勒菩薩、その両側には地蔵尊が彫り込まれています。
「朝日観音」という名前が付けられたのは、高円山の頂から朝日が昇るとこの仏像に真っ先に日が照るからだそうですが、今は木々が鬱そうと茂っていて、そんな風には思えない。
多分、昔はこの辺りはもっと明るかったんでしょうねぇ。

道が三叉路になった所で出会うのが、「首切り地蔵」

曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の仇討ちと並んで「日本三大仇討ち」で知られる、「鍵屋の辻の仇討ち」
その仇討ちで名を挙げた荒木又衛門ですが、彼は柳生心陰流の門弟で大変な剣豪だと知られています。
その又衛門が、刀の試し切りしたと伝えられているのが、このお地蔵さん。

見事に首のところがすっぱりと切ったように割れているのですが、なにも石仏を使って試し切りなんてすることもあるまいに・・・などとと思うのが私の論理。

じっと動かずにいて切り易げに見えていても、何しろ相手は石造りですからねぇ。
気合いの声を発したその一瞬後、大枚をはたいて買った名刀は鍔の所から一寸残してポッキリと折れていた・・・・・・・
アラキマタエモンという人物はそう言う道理を考える御仁ではなかったのだろうかと、そばのベンチで妙に理屈をこね回す私でありました(苦笑)


この「首切り地蔵」のある三叉路は心持ち広くなっていて、ベンチ以外にも公衆トイレが設けられ、一息つくにはちょうど良いスペースになっています。
一説によれば、「滝坂の道」と呼ばれる街道はここが終点。
ここまでやって来るのも大変だったけど、この先もそれはそれは大変な道中が続きます。
駅の売店で地図は買ってきていたけど、この辺りは奈良の市街から離れているために地図の書き方もほんといい加減。
ただ、あちらこちらに道しるべが立っているのでそれを頼りに歩いていたわけですが、その道しるべも時として読みづらくなっているわけで・・・・
役に立たなくなった地図はカバンの中にしまい込み、道しるべの指す方向に進んでしばらく行くと・・・・・・

あれれ!!??

道が無くなっている!

そこそこの巾のあった道がどんどん狭くなり、先へ行くとまるでけものみち同然。

行って、行けないことはないだろうけど、実はここまで来るのに何度か、とある小動物のお出迎えがあったわけで、はっきり言ってちょっと、いや!!かなり怖い思いをしてきていたわけです。
その小動物とは、マムシ

マムシは湿り気の多い所に生息している蛇ですが、この街道も川が寄り添うように流れているためにかなり湿気のある環境。
ここまで来るのに人とすれ違うことなどほとんど無かったけど、人に出会わなかった理由の一つとして、お盆の暑い時期はハイキングには適さないと言うのもあったかも知れませんが、案外、こういう所に理由があったやも知れません。

そんなわけで、例のお出迎えがあっても逃げ場の無いような道を避けて、違う道を行ったのですが、これも何ともややこしい。
つづら折れの急な坂道をやっとの思いで上っていく始末。
途中、有料道路の「奈良奥山ドライブウェイ」を横切るときは、人里に戻ってきたような感覚になってしまいました。

「奥山ドライブウェイ」を越してからは道はアスファルトに変わりずいぶん歩きやすくなりました。
でも、それでも続く長い上り坂。
そろそろくたびれ初めて、おなかも鳴り始めた頃にやっと「峠の茶屋」に到着!!

創業してから約180年という古い茶店ですが、老夫婦お二人で作られる草餅はヨモギの香りも高く、なかなかに美味でした。
中の粒あんも甘すぎることなく頃合いと言うところでしょうかねぇ。

お昼ご飯にはちょっと早い時間なのでおやつ代わりに草餅を二つ注文し、しばし足の疲れをいやしておりましたが、森が切れて開けた場所にあるせいか吹いてくる風が本当に心地よい。

耳を澄ますと、ウグイスの鳴き声も聞こえてきて、かなりホッと出来ました。


部屋の中を見せて貰うと、梁の所には奈良奉行所につとめていた家から譲り受けたと言われる火縄銃や槍などが飾ってあり、ここの茶店の歴史の長さを感じられさせられます。

で、座敷の写真を撮らせて貰おうと思ったのですが・・・・・・・・

見事なくらい、障子や襖はボロボロ!!
店主のおじいちゃんは「良いよ」って言ってくださいましたが、これはいくら何でもお気の毒。
それにしても、歴史を感じさせられるお座敷でした(苦笑)


茶店を後にすると、またもやこんな道が続きます。
峠を越えた所なので、しばらくは下り坂ばかりの少々歩きやすくなっている道路ゆえ、気分も軽く身も軽く・・・・・・・・・・・

でも、ずっと暗い森の中ばかり歩いていると何となく気分も滅入りそうになってくる。
しばらく我慢しながら足を進めると、急に辺りが明るくなります。

「田原の里」
柳生の里まではまだまだ距離がありますが、思わず人心地つきそうな景色です。
集落の中を歩いていると、所々に茶畑などがあったりします。

「奈良茶」は全国的にはあまりメジャーな銘柄ではありませんが、こくもあり、家庭で普段飲むには手頃なお値段の物が多く、この村の路上でも無人のお店でも一袋500円くらいで煎茶やほうじ茶が売られていました。

この集落から「柳生の里」まではあと12、3キロ
 
空を見上げると、朝より雲の数が少々多くなってきているような・・・・・・・

私が柳生につくのが早いか、それとも夕立に遭うのが早いか、それこそお天道様のご機嫌次第。

田んぼの中の小道を歩む足を心持ち早めて、いざ「柳生」へ!!

  

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