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奈良街道 梅雨空縫って「暗峠越え」 


好きな仕事にありつくと、どうしてもそればっかりになってしまう私だけど、やはりずっとPCの前で仕事をしていると、つい、フラストレーションが溜まってくる。
やっとお休みになってどこかへ行きたいと思った途端、友人からどこかへ行こうよってメールを貰いました。
最近は私も歩いていないですからねぇ。
足が退化していないか、すごく心配。
ても、私にお誘いをくれた人はもっと歩いていない人。
だから、今回はかなり短距離ながら「歩いたぞ!!」と言うことを実感できるコースを選んでみました。

それが、旧・奈良街道。

近鉄奈良線枚岡駅の山側の改札口を出るとすぐに、枚岡神杜の境内へ続く道があり、大きな鳥居が目の前に立っています。
鳥居を見上げると、その向こうの空はドンヨリと曇っていて、生駒山の木々もかなり煙って見える。

まずは、本殿にを目指して緩い坂を上っていくと、狛犬の代わりに雄と雌の鹿が本殿を守っているのがとても珍しい。

この狛鹿の間を抜けて参道を行くと、枚岡神社の本殿に突き当たります。
枚岡神社の祭神は「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)といい、天照大神よりももっと以前、国土もなく混沌とした時代に自然発生的に生まれた三神のうちの一人だと言われています。

             
赤ちゃんを庇いながら、周囲に気
を配って いるように見える牝鹿
      何となく、お疲れモードの
「お父さん」を感じさせる牡鹿  


この神社は「香り風景100選」にも選ばれていて、楠、桜、杉、小賀玉(おがたま)などの古木が多く、拝殿そばにビャクシンの大きな切り株が残され、様々な樹木のかおりが楽しめます。
ことに、本殿南側の斜面は有名な梅の名所となっており梅の開花時期には多くの人々がかおりを楽しむ為にやって来るところでもあります。

隣接している枚岡梅林は、もと神宮寺のあったところで、そこが廃寺になった後に近在の人々が梅を植えたのがはじまりなんだそうです。

本殿の前を右に抜けていくと、境内の外れに小さな立て札と共に井戸が一つ、ポツンと残されています。
古びて墨のはげ落ちかけた立て札には「楠木正行公 首洗いの井戸」と書かれてました。
「楠木正行」の父と言えば後醍醐天皇に従って成ったばかりの室町幕府を倒そうとし、湊川(兵庫県神戸市)の戦いで一命を落とした河内出身の武士でした。
11歳(13歳という説もあり)で父を失った正行は、父親の遺訓を守って足利氏に対抗し南朝方に組していましたが、高師直(こうのもろなお)、師泰と河内四条畷(しじょうなわて)で戦って敗れ、弟正時(まさとき)とともに1348年に戦死しました。

あー、でも、何で四条畷で戦死した人の首をここで洗うことになったのかが疑問。
四条畷も生駒山の麓で同じ大阪側なんだけど、ここからだとかなり北へ行ったところなんですよ。
ましてやこの神社は今から1200年も前に創建された格式の高いところだから、血で汚れた生首を神域に持ち込むなんて、普通の人では出来なかったように思うのですが・・・・
まぁ、足利軍の大将だった高師直も後の「仮名手本忠臣蔵」では悪役の筆頭にされたほどの人物で、この戦いの後にすぐ足利家の内紛を起こしたほどの変わり者。

などなど・・・、脇道にそれたような考え事をしていると、本当に脇道にそれちゃった。

相棒と二人で息を切らせて急な坂を上りかけ、ふと地図を見たらとんでもない方向に進むところであったことが発覚。
慌てて先ほどの本殿前に引き返す始末。(さっきの労力は何だったのよ!!)

枚岡神社本殿横にある社務所の前を行き過ぎ、枚岡公園の森の中に入り、掠ヶ根橋を渡るとアスファルト舗装をしてある国道308号線に合流します。
この道路がすなわち「暗越奈良街道」
起点は大阪市内のビジネス街、北浜の高麗橋ですが、往時は奈良と大坂を結ぶ最短コースとされて大変にぎわったそうです。
飛鳥時代の頃より大阪と奈良を結んでいたこの街道は、今は国道にもなっているので車の通行もありますが、古い道標や石仏などが今でも残っており往時の面影を辿ることが出来ます。

   「菊の香に くらがり登る 節句かな」

これは松尾芭蕉がこの地で詠んだとされる句ですが、この句碑が「歴史の道暗越奈良街道」の碑のそばに立てられています。

元禄七年の重陽の節句に奈良から暗峠を越えて大阪に至った松尾芭蕉は、その翌月の10月12日に大阪で無くなっています。
松尾芭蕉にとっての最後の旅でこの街道を歩いたのだと思うと、ちょっと感慨深いものがあります。

この辺りまでさしかかると、ウグイスの声が姦しいほどに良く聞こえ、その声に混じってホトトギスの声が遠くに聞こえてきました。
「ホトトギスが鳴いてますねぇ。」
我が相棒さんは、どこに?と言う返事をするのも辛そうに、さっきからゼーゼー言ってらっしゃる。
う〜ん.。o○
やはり、此処を歩くことにしたのはまずかったかな?
かく言う私も相棒を笑えないくらいに息切れが甚だしい(苦笑)

私ってどうも負けん気が強いのか、相棒がいるとどうしても表面上は涼しい顔をしたくなっちゃうけど、この坂道はきつかったぁ。

この日の蒸し暑さも相当だったけど、延々と続く上り坂のせいで二人とも汗だくになり、そのうちにまっ赤っかに塗られた豊浦橋(とゆらばし)が緑の中から見えてくると、峠まではまだ大分あるというのに一休み。

道路際で汗をぬぐい、ペットボトルのミネラルウォーターで喉の渇きを潤していると、すぐその横を数台の車が通りすぎていきました。
その車もギアをローに入れっぱなしにしているのか、エンジン音がかなり大きい。
おかげで微かにしか聞こえないホトトギスの鳴き声はかき消されてしまう。

呼吸が整った頃にまた足を進めると、「禊行場」と書かれた大きな石碑の前まで来ます。
街道に沿って流れている川にはいくつもの滝があり、さっきから涼しげな水音が聞こえていました。

生駒山と言えば山岳信仰の発展したところでもあり、その昔「役行者」がここに住んでいた鬼を退治したという伝説が残っております。
「禊行場」の石碑からもう少し登ったところにある「髪切山慈光寺」が、この故事のあった場所と言われています。
かつては弘法大師もここで行でもされていたのか、その痕跡も見つけることが出来ました。

「慈光寺」を右手に見ながらなおも坂を上ると、「太子堂」があります。
ここには山腹から湧きだしている「弘法の水」があり、そのいわれが書いてあります。

一昔前までは「銘水」としてこの水を汲みに来る人の姿が後を絶たず、また、旅の途中で喉を潤した人も多かったでしょうが、戦後の高度成長期の影響で大阪と 奈良を結ぶ道路があちこちに出来たり、新たに鉄道を通すためのトンネルが掘られたりしたことでこの湧き水の水量はガタッと落ちてしまいました。

そして近年になっては、飲料として適さないほどに汚染されてしまって、もはや「銘水」が出たと言うことは伝説になろうとしています。

いやあ!
まったく。
こんな看板がデーンと掲げてあると、さすがになんだかもの悲しい。

銘水が湧いていたと言うことは、私も相棒も子供の頃の遠足などで覚えていたのですが、飲めなくなっていたとはねぇ!
時代の移り変わりが身にしみるひとときでございました。
ようするに、二人とも年を取っちゃったという事ね。
「太子堂」の前を通り過ぎた辺りから道路の幅は急に狭くなり、その代わり山壁ばかりだった右手の景色が一変して、棚田が見え始めます。

大阪府内では、なかなか見られなくなった田んぼですが、こんな所に、それも「棚田」として残されているのは感激でした。
急斜面に作られたこの田んぼなど、稲が5列植えられているのがやっとという程狭い田んぼ。
思わずカメラに納めてしまいましたが、この田んぼを守っていらっしゃる方の労力が偲ばれます。

などと、HPのレポートにはワケの分かったような殊勝な文面を飾っておりますが・・・・
その実態は。

「ぅおおおおおっ!田んぼだあっ!」
「すっごーぉっ!」
「あおいさん、ここん所から見える景色も撮っておいてよ。」
「よっしゃあ。」
「わーわー!アメンボがいるよ!」

つまり、中年まっただ中のいい年した都会人凸凹コンビ二人が、田んぼの見える辺りで大騒ぎしていたのであります。
相棒も私も大阪市内生まれの市内育ち。
こんな田舎の風景とは縁遠い環境で育っていただけに、田んぼや畑を見るとやたらにテンションが上がってしまう。
おかげで後から写真を整理してみると、見事に田んぼの写真ばっかり(苦笑)

この大騒ぎ現場を誰にも見られないですんで良かった。あひゃひゃ (;^_^A

棚田が見えなくなると道路際には人家が目につき始め、ずっとアスファルトだった足下は石畳に姿を変えます。
これが有名な暗峠の石畳。

天正の頃、かの豊臣秀吉が弟の秀長のために郡山城を築いた折りに、この峠の辺りに鬱そうと茂っていたスギの大木や松などを大量に伐採させたという言い伝えが残っています。
それまでは、「暗峠」という名前の由来になったほどに、昼なお暗いほどの森に覆われた峠だったそうです。

この石畳は後の世になって、郡山城の主となった柳沢氏がこの辺りに本陣を構えたときに敷かせたものだそうです。
ここまで来ると信貴・生駒の縦走路と交差している関係で我々以外にもハイカーの姿を見かけるようになります。
一時期は廃れてしまったこの街道も、今はハイキングコースとしてにぎわっていて、特にこの峠は峠越えの交差点のようにもなっていて、道沿いの民家の中には軒下で野菜などを売っているところもあります。

そしてここが、「暗峠」。
やっと着いたぁ!!

石畳の前には峠の茶店もあり、ちょうどお昼時の事とてお腹がペコペコ。
平日には店を開けないことで知られた茶店に入り込み、土産物などを見て回っていると程なく店の人が現れた。
抹茶と羊羹のセットが美味しくて人気のある店ですが、メニューを見てみると団子やうどんなどのお腹にたまる物もあるわけで、どれにしようかとメニュー表を見始めると・・・・・

「今日は、食べる物は作ってない」との衝撃の告白が一発 (°◇°)~ガーン

何でも朝からものすごい土砂降りで、店を開けていてもまさか客が来るとは思わなかったらしい(苦笑)
はぁ〜〜、  隣の大阪市内では一滴も降らなかったんですが・・・・

「じゃあ、ビールを下さい。」
相棒の声を聞いて、おいおい、これからまだ歩くのに大丈夫かい.。o○
そんな思考を巡らしつつ、私の注文は・・・・、

「私もビール!」(爆)

雨上がりの少々湿っぽい空気ではありましたが、ちょっと低めの籐いすにゆったりと腰を落ち着け、石畳の道を行き交うハイカーの姿を眺めながら缶ビールを口に運ぶ。
饒舌な二人も、しばらくは無言。
全く至福の境地にひたっておりましたな。

この峠の道は、国土建設省の「日本の道百選」にも選ばれていて、石畳の風情といい、途中でいくつも出くわした野仏の姿といい、ゆっくりと周りの風情を感じながら楽しんで歩ける道です。

茶店を出て、信貴生駒スカイラインのガードをくぐると、また先ほどのような棚田が視界に入ってきます。
その棚田の広がる向こうには、山間から奈良盆地が垣間見えるのですが、今日は余り視界も開けず、もやった景色しか見えない。

それでも、峠を越えてからはずっと下り坂ばかりが続くわけで、茶店で燃料補給を済ませた相棒もすこぶるゴキゲンが良い。

峠を越えると同時に奈良県側に入り、石畳が切れると道幅も急に広くなる。
だからといって、車の量が増えるなんてこともなく、田園風景を存分に楽しんでのハイキングが続けられます。

しばし坂を下っていくと、また森の中に入りこみ、
竹林の中を吹き抜ける風が心地良い。

ここまでは、二人とも足取り軽く、身も軽かったのですが・・・・・・・・・・・・・・・・
さっき飲んだビールには、伏兵的副作用があったようで(汗)

相棒も私も猛烈にお腹が空いてきた。

お腹が空くと私は凶暴化するし、若干量の筋と骨と皮だけで身体を構成している相棒も辛かろう。

さて、どうする。
次の角を左に折れると街道から外れて生駒駅までの近道に出る。
生駒駅周辺は良く開けていてお店も多いが、二人ともお店情報には疎い。

今の状況を説明した後、判断は私より少々年長の相棒に任せてみる。

リタイアするか、地図に載っている終点まで行くか?
運命の分かれ道(爆)

そして判定はおりた。

せっかく来たんだもの、南生駒の駅までは歩きたい。
そして、遅めの昼ご飯は大阪で食べよう。

って事で、この後の歩くスピードは速かった!(苦笑)

竹林を過ぎてから生駒の住宅街をあっという間に通り過ぎ、気が付けば二人車中の人になっておりました。




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