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葛城古道 「曼珠沙華の道を九品寺へ」


はてさて、もう随分「歩く」と言う事をしてない。
繁華街などへはよく出かけるようになったけど、人の波に揉まれてダラダラと歩くなんて、私感では「歩く」とは言えない。
金欠病が甚だしく、「どこかへ行きたい病」も退散する程の重体なれど、たまには良い空気も吸わなきゃね。
どこへ行くかはその時の気分次第って無責任な計画を立て、ネットで知り合った同世代の女友達を誘うと、意外に色好い返事が返ってきた。

待ち合わせには分かりやすいであろう「JR天王寺駅」で落ち合うと、そのまま近鉄阿部野橋駅まで移動。
駅に着いた時には、折良く橿原神宮行きの急行が待ってた。

この調子だと、幸先が良さそうね(^^)
昨日の天気予報では降水確率が30%だったのに、当日の予報では40%まで降水確率が高くなってる。
でも、何となく雨にはあわなそうな気がする。
近鉄南大阪線・尺土駅で電車を降りると、盲腸線の御所線に乗り換え。
終点の御所に着くと、駅前には「葛城ロープウェー行き」のバスが出発時刻を待ってた。

うははっ(*´∇`*)
タイミングが抜群じゃ〜〜ん♪
しかし、バスは超満員(汗)

「猿目橋」のバス停に着くと、終点のロープウェイまで行く人達をかき分けかき分け、やっとの思いで下車。
終点までで降りちゃうのは我々だけかと思ったら、他に主婦達らしき5人組も降りてきた。
バスの中でもひときわ賑やかなオバチャン達だったけど、よくよく見れば、私と同世代っぽい。
バスを降りて、これからのルートを調べていたら、我が相棒さんはそのオバチャン達からオヤツを貰っておりました。

むむっ!

見知らぬ人からオヤツを貰うのは、私の得意技なんだけど・・・・・・・・・・・
コヤツ、そのワザをどこで会得したんじゃ?
思わぬ所でライバル発見

ガイドブックに依れば、バス停のすぐ近くに「六地蔵」がある筈なんだけど、あるのはこんなお地蔵さんの団体さん。
お地蔵さんと一緒に道祖神まで並べられてましたが、「六地蔵」というのは一枚の岩に六体のお地蔵さんが彫り込んである物の筈なんですよ。
地図に示されてる地点にはこれがあるワケで、本物はどこへ行っちゃったんだろ?

「葛城古道」というのはその名も示す通り、大阪府と奈良県の県境にある葛城山の麓にある大昔からの街道ですが、古代大和朝廷草創期にはその地には葛城氏と加茂氏が二大勢力を誇っていたと言われてます。

その葛城氏は仁徳天皇に娘を嫁がせていたと言われてますが、この後裔が蘇我氏となって歴史上でも知られるようになりました。

史書にはチョロッとしか記されていない二大豪族ですが、その興亡を思い描くと、当時の事ゆえ、かなりドラマティックなエピソードもあったんでしょうねぇ。

でも残念ながら、その辺りの事は全然史書には残ってない。
残っているのは「葛城山」や「奈良県葛城郡」という地名だけです。

それを物語るように、この古道の周りを見渡すと、何とのどかな事か!!
稲の穂は色付き、空にはトビが輪を描き、シオカラトンボが風を切り。
ほぼあぜ道と化した古道には、いい年をしたオナゴが二人。
共通の友人達の噂話に花を咲かせ、バッタが足下で飛び跳ねれば速攻で子供心を取り戻し、
いやいや、全く。。。。。ええコンビですわ(汗)

ちょうどこの日は秋の彼岸の明ける頃。
あぜ道には彼岸花が咲き誇り、まるで炎のよう。

彼岸花の事を「曼珠沙華」と呼び、そしてまた、その花は見目麗しくとも根には猛毒を持ってる事は、案外知られてますが、これが飢饉の時には非常食となった事は案外知られていない。
彼岸花の根っこって、食べられるんですよん。<私は食べた事がある。(美味しくはなかった)
ただし、毒抜きをしないで食べると死にます(キッパリ)

墓地などに行くとよく咲いていて、その花を持って帰ると親に叱られた経験のある人もいらっしゃると思いますが、これは飢饉の時に備えていた名残なんです。
だからわざと墓地に植えて、むやみに花を折り取らないようにしていたんです。
勝手に生えてんじゃないですよぉ!
ただ、植えた事を忘れてるだけです。

のほほんとのどかな古道を歩きながら葛城山を振り仰ぐと、金剛山から葛城山に掛けては厚い雲が山頂を覆ってる。
バスに同乗していた人のほとんどは葛城から金剛山へ縦走する人達であったろうが、この雲行きでは山頂は雨模様だろなぁ。

大昔は、葛城山と金剛山をあわせて「葛木の山」と呼ばれており、その北側に位置する二上山と、奈良盆地を隔てた東側に位置する三輪山と共に「神の山」と畏れられ、役行者の若かりし頃にはそこが彼の修行の場にもなったと伝えられています。

その霊山として崇められた名残りのように、今でも近辺には古い社が点在し、その間を縫っていく葛木古道には至る所に石仏が立ち、いにしえに生きた人達の息吹さえ感じられる様な気がします。

「六地蔵」を見逃してしまった我々は、まずは「九品寺」を目指しました。
「九品寺」は聖武天皇の在位していた頃に行基によって開かれ、その後しばらく荒れ寺になっていたところを空海によって再興されたと伝えられてます。

その後、南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちによって、味方の身代わりとして多くの石仏が奉納され、そのことからそこにある石仏は「身代わり石仏」とも呼ばれています。
 その数は1600体とも1700体といわれていますが、現在も出土しておりその数は定かではありません。

九品寺まで行く途中のあぜ道で、番水の時計という物に遭遇
田んぼの真ん中に立ってる姿はまるで灯台のよう。

昔から奈良盆地は雨に乏しく、水争いが絶えなかったらしい。
そんな争いを防ぐために「番水制」というシステムを導入し、限られた時間だけ自分達の田へ水を引くようになったのですが、明治の頃に建てられたという時計が、ここではまだ現役で使われています。

戦後になってから吉野川分水が完成し、この辺りの農業用水も豊富になりましたが、それでも約40件ほどの農家がこの時計のお世話になっています。


私がものごころついた時から、奈良盆地内では大きな災害があったとは聞いた事もなく、見渡す景色もとてものどかな物なんですが、かつてはこの辺りでも、水利に関しては深刻な時期が長かったと言う事なんですねぇ。

そしてとうとうたどり着いた「九品寺」

空海が再興した頃は真言宗の寺でしたが、その後戦国時代末期になってから浄土宗に改宗し、本尊は平安時代に作られた阿弥陀如来像が祀られています。

山門を入って右手には、西国三十三ヶ寺に祀られている観音像が並べられ、そこを一周すれば、西国詣りを全部完了したことになります。

んー
これって、ラマ教のマニ車みたい。
マニ車というのは、筒状をしていて中に経文が収められ、糸巻きの様にクルクルと回る仕掛けになっているんです。
それを一度回すと、経文を一階唱える代わりになるもので、つまり「行」をインスタントにしちゃう便利グッズ。
それと同じく、本来ならば何年も掛かるであろう三十三ヶ所詣りをものの5分ほどで終わらせる。
古今東西を問わず、ヤッパリ人間って楽をしたがるものなのねぇ。
私も人様のことは言えない(汗)

本殿の横手に廻ると、裏山に登っていく階段があります。
その辺りから、足下には石仏がずらりと並んでる。



石仏の作られた時代がバラバラなのか、それとも彫られた石の材質にも拠るものなのか、風化してしまって輪郭すら定かでない仏さんもおられる。
いゃあ!
しかし、これだけの石仏が並ぶとはっきり言って圧倒されます。
そして、裏山に登り切ると…

これ、このとおり、



夥しい数の石仏が並び、全ての仏にキチッと前掛けが着けられているその様子だけでも圧巻。
逆光ゆえ、写真にははっきり写ってないのですが、小山の頂上には阿弥陀像が立ち、中腹には地蔵菩薩が参拝に向かう我々を見下ろして迎えてくれます。
そして、その仏像の群れに背を向けて麓を見下ろすと、木々の間に大和盆地が垣間見え、右手の方には飛鳥の大和三山までを見渡すことが出来ました。

「九品寺」の「九品」というのは、極楽浄土へ行く人の階級が9段階に分かれると言うことから着けられた様で、その教主が阿弥陀如来だと言われています。

しばし近くの岩に腰を掛け、流れ出てくる汗を拭いながら盆地を見下ろしていると、木々の間を通り抜けていく風が心地良い。

こうなると、我々は二人とも、動けなくなる。

しばらくすると、我々より年輩であろう人達数人のグループが息を切らせてやって来た。

自分達貸し切りの特等席を明け渡す頃合いか。。。。
「よっこいしょ」
相方が立ち上がる時に漏らしたかけごえ。

「をぃをぃ、ババアかぁ?  そんな年とちゃうやろ」

ちょっとした軽口で相方を揶揄しながら、私が立ち上がる段になって、思わず
「どっこいしょ」  

あららっ・・・・ (;^_^A アセアセ

九品寺を出発すると、次に目指したのは「一言主神社」

その前に、まずは腹ごしらえ。

一言主神社まで向かう古道は、まさに田んぼのあぜ道と化しており、途中の田ではそろそろ稲刈りも始まっている。
年と共に休耕田も多くなり、その休耕田も荒れるに任されることも無く、今はコスモス畑となって我々の目を楽しませてくれてます。
コスモス畑の向こう側には大和三山がはっきりと見え、一番展望のよさげな所に東屋がしつらえられてる。

ランチの場所はここに決定♪
この日はやはり生憎の天気で、遠くの景色もかすみがち。

金剛山の方を眺めてみると、やはり雲がかかったままで、風向きが変われば、すぐにもこちらにも雨が降ってきそうな案配。

ランチを終えて、そそくさと荷物を取り上げると、改めて「一言主神社」へ向けて出発。

ずっと田んぼのあぜ道のような小径を歩いてばかりいるせいか、色々な生き物に出くわしました。
水の流れの止まった細い用水路には、小さなカブトエビが泳ぎ回り、大きなタニシが水面近くに貼りついてる。
遠くの田にはシラサギが数羽の群を作り、一昔前のように農薬を使いまくってた頃とは段違い。
前述の通り、バッタや蛙の跳躍には心を踊らされ、昼寝中のヘビを見ては足音を忍ばせ、ちょっと都会を離れるだけで、色んな生き物がいるんだねぇ。

「一言主神社」の主神は「葛城の神」とも呼ばれ、清少納言筆の「枕草子」にもその名前が出てきます。
「枕草子」では、第一七六段の「宮に初めて参りたるころ」に、女房として宮中にデビューしたばかりで恥ずかしかった清少納言が、夜明けと共に、そそくさと自分の局に下がろうとすると、仕えていた中宮定子から
「顔のブッサイクな『葛城の神』でもあるまいに、もう少しここにいらっしゃい」と言われるくだりがあります。

そう言えば、松尾芭蕉の「笈の小文」にも
「猶みたし花に明行神の顔」なんて読まれてる。

よほどすごい顔つきの神様だったんだなぁって思ってたら、能の「葛城」では素晴らしい舞を舞う、美しい女神として登場するわけで…

さて、どっちやろ?

その葛城の神を産土として祀り、また、その子孫だと言われていたのが、葛城氏とその親戚筋の加茂氏ですが、まだ大和朝廷がかたまってない頃に葛城氏が居を構えていた所が、一言主神社にほど近い所にある「高丘宮」です。

今はその名残も見えず、平凡な杉林になった小山ですが、当時の葛城一族は雄略天皇にさえ抵抗するほどの勢力を持っていたようです。
加茂氏には、役行者もその一族出身と言われ、そしてまた、蘇我氏や物部氏も、元は加茂一族だと言われてます。

それにしても、蘇我氏と物部氏が親戚関係だったとはねぇ!
知らんかったぁ(汗)

たしか、仏教伝来時に思いっきり揉めて、蘇我氏は聖徳太子と組んで戦争までしてたんじゃなかったっけ?

一言主神社「一言主神社」
つまり「葛城の神」を祀ってある神社ですが、主神は「事代主尊」
この神様の伝承、伝説を探してみると結構面白い。

事代主尊は、出雲大社に祀られている大国主命の長男と言われています。

力持ちで武闘派の弟神「建御名方神」とは違い、聡明で物静かな文人派。

出雲の国譲り神話では、高天原から使わされた神を前にすると、天の逆手を打って自分の愛用している小舟をひっくり返して青紫垣に変えてしまい、自分はその中に隠れてしまいます。

ようするに、
表面的な態度は恭順する様に見せていても、「天の逆手を打つ」=相手に対して深い恨みの念を示し、そのまま自分の身を海に投じてしまうといった、ある面激情タイプ。

この世からあの世に行かれた神様は、別の世界や物、または人を繋ぐパイプ役と見なされ、出雲大社の大国主命と並んで、この神様も縁結びの神様として崇められています。

そして「一を聞いて十を知る」ほどに聡明だったという伝承から、たった一言だけをお願いするだけで願い事を叶えてくださる神様として知られています。

ご自身でも
「吾(あ)は雖悪事(まがこと)、而一言(もひとこと)、雖善事(よごと)、而一言(もひとこと)、言離之神(ことさかのかみ)、葛城之一言主之大神なり。」
と言われてる通り、良い事も悪い事も、区別無く聞き入れて貰えるけど、聞いて貰える願い事は一つ限り。

この神社の祀官は鴨一族が代々継いでいましたが、その流れに役行者=役小角がいます。

あるとき、修行中の役行者が葛城の神に石橋を造る様に要請し、しかし、石橋がなかなか出来上がらなかったために、葛城の神は役行者の法力によって谷間に繋がれてしまったという伝説があります。

いくら役行者と言っても、未だ修行中なれば人間の域を超えていなかったはず。
なのに、神様をそんな目に遭わせるなんて、何と生意気。。。
つか、もしかして、葛城の神様の方がヘタレやったの???(汗)

階段を上ると、境内には樹齢千二百年を越えるという大銀杏がそびえ立ち、紅葉の時期に来ればその辺りは多分黄金色に染まった美しい眺めが期待できそう。

この大銀杏は神木として定められてますが、写真に写った参拝客やハイカーの大きさと比べて貰えばお分かりになる通り、ホント、堂々とした風格があります。

境内の隅の方に、こんな看板を発見

しかし、この境内ってば、大銀杏の他にも巨木だらけでありまして、
同行した友人に頼んでモデルになって貰いましたけど、こんな大きな古木が境内のあちこちに立って、大きく枝を広げています。。
境内ばかりではなく、神社の外もかくの如し。

大風が吹いたら、我々はどこへ行けばいいのだろ?(笑)

そう言えば、神木になっている大銀杏がようやく人々から見上げられる様な高さになった頃、古事記や日本書紀が完成してるわけで、それ以降の時代の流れをもこの木はずっと静かに見続けていたんですねぇ。

その大銀杏も今では、本幹の中程からは乳房を連想させる様な気根が沢山垂れ下がり、地元の人々からは、「乳銀杏」と呼ばれ、健康な子供が授かるとか、乳の出が良くなると信じられていて、この木を目当てにお詣りに来る人も多いとか。

その老木が歩んできた悠久の時を思うと、私より少し大柄の友人がとても小さく見え、共に、態度のデカイ私自身もごく小さな存在に感じてしまうのでありました。

一言主神社を背にすると、我々は長柄の集落に入っていきます。
古い家が建ち並び、まるでそこだけ時間がゆっくり流れている様に感じます。

流れていると言えば・・・・・・・
さっきから、首筋を汗が流れて気持ち悪い。

空は曇っていてさほどに暑くはないはずなのに、我々揃って汗まみれ。
喉は渇けど、こんな時に限って自販機がないのよ。

自販機を見つけたと思ったら、お茶に限って全部売り切れ(T.T)

この道を真っ直ぐ行けば、造り酒屋がある。
御所市には五軒の蔵元があり、そのうちの一軒、「百楽門」「大和吟翔」の名で全国的にも美酒と知られる酒の蔵元がこの沿道にあるんですよね。

ちょうどこの時分は「ひやおろし」が蔵から出される頃合い。
うまくいけば、ちょいと利き酒か試飲でもさせて貰えるかも知んないなぁ ( ̄ーi ̄) たらり…

しかし・・・・・・・
蔵の前まで行くと・・・・・・・・・、お休みだったぁ (;>_<;)
これを楽しみに来てたのにぃ (T^T)ウッウッウッ<

まっ、しゃあない!  次、行こ、次!!

造り酒屋がお休みだったショックが大きく、
長柄地区にある「中村家」訪れるのをスッキリ忘れてしまっていた(自爆)

「中村家」というのは、今は重要文化財に指定されている邸宅で、慶長年間に建てられた代官屋敷なんです。

しまったぁ!!
思わず我を忘れておったわ(汗)

ふと振り返ると、相方は呆れ顔 (ヤッパリ)

長柄の集落の外れまでやってくると、白鳳年間に大阪の住吉大社から分霊されたと言われる「住吉神社」がありました。
ここまで来てやっとお茶を売ってる自販機を見つける。
神社の境内に入ればゆっくり腰を下ろせるだろう。

冷たいお茶の入ったペットボトルを持つと、周囲に異様な臭いが漂っているのに気付きました。
足元を見ると黄色い杏子状の実がそこら中に散らばってる。

「ギンナン」
神社の入り口付近には大きな銀杏の木があり、枝を見上げると色付いたギンナンがたわわに実を結んでる。

「一言主神社」ではギンナンなんか落ちてなかったのに・・・・・
そう思いかけて、銀杏は雄木と雌木に別れていることを思い出しました。

一言主神社の「乳銀杏」


入り口の階段を上る時には足下に気を付けないと、ギンナンの実を踏んづけてしまう。
この場合、食べられる物を足で踏むという罪の意識より、ギンナンの果肉が靴に着くのが嫌って気持ちの方が大きい。

境内には数個のベンチが置かれていて、疲れた身体を休めるにはおあつらえ向き。

我々が着く前に先客が来ているのか、境内の片隅から賑やかな声が聞こえてくる。

そちらに目をやると、朝のバスで一緒だった女性組でした。

しばらくすると、「お先に」という声と共にグループが去り、境内に残されたのは相方と私だけ。
本殿以外には数基の灯籠と、ベンチ、そして小さな倉庫のみの狭い境内に静けさが甦ると、周りが急に広く感じられる。
裏手の山から吹き下ろす、ちょっと湿った風が心地よくて、冷たいお茶を飲み干した頃にはやっと人心地着いた気分。
だからといって、それほどの距離を歩いていた訳でもなく、日頃の運動不足を実感させられてしまう一時でした。

住吉神社を後にして、長柄の集落からも外れると道は上り坂になります。

所々に石仏があり、この辺りにも彼岸花がここ彼処にも花を咲かせてる。
金剛山の際まで行ったと思った頃に「極楽寺」に到着。

石段を登りきって山門を抜け、後ろを振り返ると奈良盆地が一望の下に見渡せる。
平安時代の終わり頃、西暦951年に創建されたこの寺は、一和僧都が仏頭をこの地で掘り出し、その跡に草庵を結んだのが切っ掛けだと伝えられています。

女二人の気楽さか、ノンビリとおしゃべりを楽しみながら歩いていせいで、ここまで来たときには既に日も傾き始めてる。

さて、早く次に進まないと秋の日はつるべ落とし。
そう思ってこの上の「橋本院」を目指したのですが・・・・・・・・

今まで歩いていた平坦な道と違い、金剛山に入って行くに連れ、坂道の勾配は急になり、段々畑を抜けてしまうと、うっそうと木の生い茂った山道に変わる。
私的には、平坦な道も好きだけど、案外こんな道の方が好きなんですよね。

道はいつしか、片側は崖になってしまい、路肩を含めてもその幅は1メートルに満たない。
ゴロゴロと転がった石っころに足を滑らせ掛けたりすると、スリル満点でごじゃります(汗)

しかし、谷間にさしかかった所にあったコンクリート製の橋が、我々の足を止めてしまった。
橋の幅は1メートルもないのにもかかわらず、下はほぼ絶壁の様な有様。
でも、橋の手すりは壊れちゃってるのよ。

足下は先日来の雨のために湿っていて、ツルツル滑りやすくなってるわけで、ここから足を滑らせたら、単なる大怪我だけで収まらないのは目に見えてる。

後ろを振り向くと相方も同じ考えに至ったようで、そのまま二人はUターン。
仕方ない、別のルートから橋本院を目指そうか・・・・・・

ふと、時計を見ると16時を過ぎてる。

あーらら!
今から電車に乗ったとしても、自宅に帰り着くのは17時を軽く過ぎてしまう。
あの道を迂回して「高天彦神社」まで行っていたら、真っ暗になった山道を歩く羽目になる。

そのまま真っ直ぐ山を下り、鳥井戸のバス停まで来ると、また先ほどの女性ハイカー達に出くわした。

結局、私たちって、後になったり先になったりしながら、全く同じコースを歩いてたのね。
さほどに待つこともなく、小さなバスが停車した。
そのバスは、この辺りの地区に住む老人達のために設けられた町内の循環バスで、利用は無料。
大阪まで帰るつもりだと言うと、最寄り駅の「吉野口」まで乗せていって下さいました。

駅のホームで相方の胸元に目をやると、まっ赤に日焼けしちゃってる。
この日の天気って、降水確率40%の予報が出ていただけに、かなり厚い雲の出てるときもあったはず。。
薄日の差す時間もほとんど無かったのに、やはり深窓の淑女?のお肌に油断は大敵(汗)

私は日焼けすると、まず鼻のテッペンがまっ赤になるわけで、家に帰ったら、また家人から「酒ヤケか?」なんて言われるのだろうなぁ。。。


そして、約2時間後。。。。。。

旦那:「酒ヤケか?」


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