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東海道四百年記念・静岡編


3月3日、静岡県地方、午前中は晴れ。
そんな情報をインターネットでリサーチし、またまた、前日には静岡在住のメルフレより、土曜日、午前中なら晴れそう、そんな便りを頂いておりました。

よし!、そんならと言うわけで、前日の夜、バタバタと着替えの下着などをショルダーバッグに詰め込み、カメラのレンズをフキフキ。
携帯の充電なども怠りなく、遠くの細かいものは全く見えないという、「楽観主義的視力」を補うためのアイテム(メガネ)も忘れずに荷物の中へ、準備万端整えて、その安心感からか、前夜は爆睡。

当日は、朝5時半に目覚ましの音でゴソゴソ起き出し、殆どものも考えられない状態のまま6時30分には家を出発したのでありました。

新大阪の駅に着いたのが7時15分頃、「みどりの窓口」に飛び込むと、はや、かなりの人が列を作っている状態。

地下鉄の中で居眠ってしまったせいで、まだ、頭の中は朦朧状態、いつも思う事ながら、低血圧は、ツライ!
程なく私の番になり、カウンターの向こうのお姉さんに一言、

「蒲原まで、お願いします。」
「新幹線、ご利用ですか?」
「はい。」
「静岡で東海道線に乗り換えですね。」
「はい。」
「お一人ですか?」
「はい。」
と、このまま、なーんにも考えず、ただ「はい。」という返事を繰り返していた結果、次の質問で、
「指定席ですね。」
「はい。」(あっ、しまった、自由席でよかったのに。)
訂正する暇も与えられずに、次の質問が、

「煙草、お吸いになられますか?」
「はい。」(まっ、煙草は吸います。)

とうとう、ボーッとしていたせいで、4500円近くも無駄遣いをする羽目に陥ってしまった、でもこれで済んでよかったです。
もし
「グリーン車をご利用ですね。」などと言われたら、ひょっとして、またもや、ボーッとしたまま「はい。」と答えて、8000円近くも無駄遣いをしていたやも(笑)。

とにかくホームへ向かって階段を駆け登り、朝食のサンドイッチとペットボトルの紅茶を大急ぎで買い求め、列車に乗り込むと、間もなく発車。


午前7時33分発「ひかり」212便が動き出すと同時に、私のズッコケ旅行が始まったのでした。

京都を過ぎた辺りで、携帯から自宅に電話を入れて、家に残っている娘の起床を確認し、席に戻ってしばらくしたら、またもや睡魔がおそってくる。
列車の振動、これって独特のものがありますよね、どうしても電車などに乗っていると眠くなってくる。
気持ちよくウトウトしている間に、いつの間にか名古屋を過ぎておりました。
車窓から空の様子を窺ってみると、なんだかドンヨリとした嫌なお天気。
目的地まで行けば多分いい天気になっているはずと少々の期待はしていても、豊橋過ぎてもまだ曇ってる。
アリャリャ、切符、蒲原まで買っちゃったよ。
蒲原と言うところ、富士を眺めるには絶好の場所を提供してくれるのですよね、その一つ前の駅、由比、そこは「歌川広重」が「東海道五十三次」の浮世絵で、最高の富士山の絵を描いている、薩田峠のあるところ。
ちょっと、自分のポリシーに反して期待しすぎたようで、静岡から在来線に乗り換えて蒲原についても曇ったままでした。

蒲原の駅を降りると、さて、富士山は全く見えないし、どこへ行こうか。
駅の待合室でガイドブックを開き、目に付いたのが、「広重美術館」
駅を出て、歩き始めたのが、旧東海道。

最初のうちは、大きなトラックなどが我が物顔に走らせるとても交通量の多い道だったのですが、途中の分岐点から、いかにも昔の街道であったと言うに相応しく、趣のある道に変わっておりました。
町並みも、ある程度保存され、この地に住む人々の苦労が偲ばれます。
何しろ、昔からの建物をそのまま使おうと思うと、やはりそれなりの不便さも感じなくてはいけないでしょうからね。

しばらく歩くと見えてきたのが、見張り台、それのあるところが、すなわち「広重美術館」でした。

中は撮影禁止でこのページに、広重の絵を掲示することは叶いませんが、浮世絵というもの、独特の美しさがありますね。

スキャナーがあれば、HPに絵を掲載するため、画集も買ったであろうが、画集を買う変わりに絵は全て自分の頭の中に焼き付けることに、こういう絵の見方が好きです。

この美術館、実は、昔、街道を使って参勤交代をする、大名達の本陣跡でもあり、かつて、明治天皇が諸国を行幸されたときに宿泊なさった所でもあるそうで、その建物が今でも大事にそのままの姿で保存されています。

この丁度向かい、紺屋とありますが、染物屋さんのこと。
ここが、かの、「由比正雪」の生家です。
まだ残されているんですね、ちょっと、ビックリした。
何しろ、幕府転覆を謀って歴史の教科書にも残るような大反乱を起こした罪人、まさか、その人の生家が大事に保存されていたなんて、信じられなかったです。

美術館を出ると、もう、蒲原には用がない。
富士山を見たいがためだけにやってきたのに、肝心の富士山が見られない、なんだか無駄な動きをしているな、などと思いながら、東海道線に乗って、ちょっとばかり引き返し、今度は静岡を素通りして、金谷まで。

「金谷の宿」、静岡と浜松の中間地点にある昔の宿場町、大井川の西岸にあり川越の要所として栄えた所です。
駅からほど近いところには、昔のままの姿で保存されている、旧東海道があります。

蒲原で見た旧東海道とは、本当に趣が全然違い、まさしく、昔の街道そのままの姿。

この辺りの土壌は雨が降るととてもぬかるみになりやすく、ましてやこの坂、かなりの急斜面。

普通の町人ばかりが歩くならいざ知らず、大名、小名もこの道を行き来するわけですから、お殿様の乗った篭を担いでいた人は、それこそ大変だったでしょうね。

足をすべらせて転んだりしようものなら、多分、次の瞬間、無礼討ちにあっていたかも・・・・・おお、コワッ!
という事で、この辺り、ずっと石が敷き詰められていて、足を滑らさずに済むようにされています。

写真で見ると、ちょっと判りにくいでしょうが、一つ一つの石が、日本庭園などで見かける飛び石程度の大きさです。

大昔の飛脚のように、走って行くにはちょっとばかり走りにくい道ではありますが、普通に歩くには、確かに少々の雨でも滑らず、昔の人にとっては快適な道であったようです。

途中、第三セクター方式で経営されている、江戸時代の町家風に建てられた、大きな茶店を発見。
朝食が少なかったし、ちょうど時分時でもあったので、軽く昼食でもと中に入ってみました。

メニュー見て、アゼン呆然。

お茶と、お菓子、ぜんざい、など甘いものばっかり、食事として通用しそうなものは、そば二種類と、うどん二種類だけ。
外観を見て、ちょっとばかり期待したのに、これでは、客のニーズに応えられないってば。
人通りほとんど無いし、それでやっていけるのかな? 大丈夫なんやろか?

心の中でボヤキながらも、なかなか雰囲気のある囲炉裏端に座ってしばらくすると、注文したものが運ばれてきました。

ああ、やっぱり!
お出汁が真っ黒!!

我々関西人が関東へ行って一番びっくりするのが、うどんのお出汁の色と味。
よく、塩分を控えるために麺類のお出汁は残しましょう、などと言われますが、確かに関東で頂く麺類のお出汁、はっきり言って、とてもじゃないけど全部飲むことは出来ない。
我々の感覚で言うと、辛すぎるんですよね。
それでここではそばを注文したわけなのですが、関西人にとって悪名?高い関東風味付けのお出汁、蕎麦には不思議と良く合う。
当然の事ながら、お出汁を全部頂くことは出来なかったのですが、蕎麦特有の香りとマッチして、とてもおいしく思いました。

軽い食事をした後、この敷石のある街道を登り、突き当たりを左に折れてしばらく行くと、「諏訪原城跡」に行き着きます。
武田信玄が築いたといわれるこの城、今はこのような状態。
全く、よくここが城跡だなんて、よく分かったね、なんて思ってしまった。
「国破れて山河有り、城春にして草木深し」
この詩、そのままですよね。

  

この森の中、しばらくウロウロしておりましたが、なんだか一種、独特のものを感じる。
私って、かなり霊感強い方なんですぅ。
もう少し行けば、確か天守閣跡に祠のようなものが築いてある筈なんですが、だんだん気持ち悪くなってきた。
頭が妙に痛くなってくる、背中の辺りがどーんと重い。
しばらくの間は、写真をパチパチ撮っていたけど、とうとう辛抱堪らず、逃げ出して来ちゃった。
この写真の中に、ひょっとしたら、妙なものが写っているかも。
見つけた人、メール下さい。

さっき来た道を引き返し、金谷坂の終点を通り過ぎてまたもやしばらく行くと、牧ノ原公園。

ここから周りを眺めると、見渡す限りお茶畑。
この茶畑のそこかしこに立っているポールの先に、実は扇風機がついています。

この辺りでは、お茶の新芽が吹き出すのが、4月の半ば、このころはまだまだ天候が不安定で遅霜が発生したりします。
せっかくのお茶の新芽が霜に合うと後半月後の収穫は全部パー!

も数億円もの大損害になってしまうという事で、急に冷え込みだした夜に、この扇風機が活躍するそうです。
扇風機の風で冷たくよどんだ空気をかき回して、霜の発生を防ぐのが目的だそうです。
一見みる限り、何とものどかな景色なんですが、こんな所でも、自然との戦いがあるんですね。

この牧ノ原台地、徳川政権が瓦解して、明治維新後に、旧幕臣達が開拓したところ。
その後、東洋一の大茶園となるまでに発展したそうですが、一本のお茶の木、これからお茶が収穫できるようになるまでは、約10年かかるそうです。

元々辛抱強いといわれていた三河武士の末裔の方々、当時の労苦が偲ばれます。
この日も、あちらこちらで、お茶の手入れをなさっている方を見かけました。
お茶って、相当な手間をかけて作られるものなんですね。
普段はコーヒー党の私ですが、これからお茶も飲むようにしようか。

金谷を後にし、コンクリートで作られた島田大橋を渡って、大井川を越えると、今度はそのお隣の島田の宿。
今でも女性が結婚式の時に結う文金高島田、いわば島田髷の豪華版。
島田髷は昔、この地方の宿場の女性達の間に流行っていた髪型だそうです。
それが「東海道」という当時の日本のメインルートを利用する人々が諸国に伝え、小粋な髪型として既婚女性の間で流行らせたものだとか。

島田大橋の少し上流に、蓬莱橋という木製の橋があります。

これは、幕府が廃され明治3年、大井川川越禁止令が解かれて後、明治11年になってやっと架けられたものです。
この橋の全長、896.5メートル、幅2.5メートル。
当時は有料制で、この橋を渡るたび、片道5厘を支払わねばいけなかったそう。
そして、今でも有料制です。
今は、片道20円を支払わねばいけません。

ただし、これは多分今のうちだけだと思いますが、無料です。
何故なら、今は向こう岸まで渡れないから。
平成12年6月末の大雨のせいで、この橋も大変な被害を受け、ただいま修復中につき、途中までしか行けません。
その途中まで行ってみたのですけどね、足元を見ると、木の板がボルトで止め付けてあるだけで、途中には大穴が開いていたり、洪水のせいだけではなく腐っているところがあったり、ボルトが緩んで板そのものがガタガタしていたり・・・・
その辺りのローラーコースターよりも余程スリル満点でございました。

立て看板には、通行止めにはしてあるが、渡っちゃいけないとは書いて無かったので、命がけのスリルを味わいたい方、トライしても良いかもよ。
但し、この件に関して、当サイトの、管理者「あおい」は一切関知いたしませんし、責任も負いかねますので、そのおつもりで。

(その後、蓬莱橋は復旧工事が完了し、今は通行料を支払えば向こう岸まで歩くことが出来ます。)

昔から気になっていた、この川の「川越禁止令」
単に江戸へ西国からの敵の侵入を防ぐという目的だけではなく、それなりの理由があることが分かりました。
とにかくこの川、川幅が広い。

橋を架けようとすると、それだけでかなりの費用がかかります。

そしてまた、普段でもかなりの急流ゆえ、当時の技術では橋の建設はとてもむずかしく、そしてまた渡船しようにも事故多発は目に見えている。

ましてや山岳部でちょっと雨でも降ろうものなら、上流からもの凄い濁流がいきなり押し寄せてくる。

今は橋脚の部分はコンクリート製ですが、コンクリートの無かった江戸時代、全て木造の橋など多分あっという間に流されてしまう。
その点を踏まえると、「川越禁止令」の発令も、どうもやむなく出したもののように見えてきます。

明治11年に架けられたこの木造の橋、平成10年版のギネスブックに、世界一長い木造の橋として登録されています。
江戸時代、世界一の橋を架ける技術が、はたしてこの日本にあったかどうか。あったとしても、何十年も持ちこたえられるものが作り得たかどうか。

この蓬莱橋の更に上流の所に、「大井川川越遺跡」が当時の面影そのままに残されています。

その一軒の家の裏庭で、保存会の方々なのか、それとも、ボランティアの方々なのか、ワラジの作り方を講習しておられる真っ最中でした。
どうぞどうぞというお言葉に甘えて、その様子を眺めながら床几に座り、お茶とお菓子を頂きましたが、このワラジ一足でいったい何キロくらい歩けたのでしょうね。

そういえば、途中電車も利用したけど、やっぱり結構歩いた。
足なんか、もう、パンパン。











休憩させていただいたお陰でちょっと元気が出て、また、その辺りをブラブラしていると、こんなものを見つけました。

ヘェー、この人、こんな所にいらっしゃったのね。
八百屋のお七さんの恋人だった、「寺小姓の吉三」のお墓がこんな所にありました。

この日の夕食はかなり早い時間、どちらかというと、プレ晩ご飯(笑)
私は基本的に、このサイトではお泊まり情報、グルメ情報などは、余程のことがない限り書かない主義なのですが、今回はは特別。

焼津駅を降りてかなり北へそれた所ですが、旧東海道沿い、「鞠子の宿」に、「丁子屋」というお店があります。
このお店は、松尾芭蕉の句や、十返舎一九の物語にも登場し、歌川広重の「東海道五十三次」の画題にもなった茶店で、名物は、自然薯料理。

特にトロロ汁定食が有名すぎるほど有名。
で、私も、食い気に釣られてはるばる参りました。
まだ4時半頃だというのに、通された大広間は観光客でいっぱい!
食い気に釣られたお仲間がいっぱいいたというところでしょうな(笑)

定食を注文すると、昔ながらの木製のおひつに麦ご飯がたっぷり、もう、黒々してます。
その麦ご飯を茶碗によそい、トロロ汁をかけて、一気にガサガサッと掻き込む、それが正式な?食べ方。


>麦めし、茶碗に半分盛ったならば、
>めしつぶ泳ぐよに、とろろかけ、
>お薬味上からふりかけて、
>ザァザァ音たて流しこみゃ、
>いいじゃん、いいじゃん、うまいじゃん


多少、お行儀の悪いような感もいたしますが、郷にいれば郷に従えとばかり、私もやらかしてきました(照)。

これ食べるとき、口のへりにトロロがつくと、その辺りが痒くなる。おのおの方、気をつけましょうね。


この日の予定は、まっ、富士山を眺めるというメインディッシュは逃したものの、何とか無事終了させ、駅からほど近いところにあるビジネスホテルへ。



初対面のメル友の奢りで、夕食は近くの居酒屋で、黒ハンペンなる物を食し、また、マグロのカマに舌鼓を打っておりました。

美味しかった(^^)

   


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