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雪の信州、旅景色


ちょっと遠くへ行こうと思う時、よく使うのが午前7時33分発の「ひかり210号」。
東京の本社で朝一番の会議に出席、なんて言うバリバリのキャリアウーマンではないから、東京駅着が8時半辺りなんて言う早い電車で行く必要もないけど、あまりゆっくりしていると向こうで過ごす時間が短くなってしまう。
第一、早い時刻に出発する新幹線の方が混んでいたりするんですよね。
「210号」なら始発は新大阪なので充分座ることが出来るし、東京着が10時35分と言うことで、朝早く起きても列車の中で「二度寝」も出来る。
シートに座って朝ご飯を食べるとちょっと一安心、大抵の場合、関ヶ原あたりでウツラウツラとし始め、名古屋あたりでは完璧に夢の中。
目が覚める頃は、大抵、静岡辺り。
いつもなら、こんな風にゆったりした時間を持てるのですが、今回はそうではなかった。

新大阪を出発して約一時間、名古屋に着くと今度は「特急ワイドビュー・しなの」に乗り換えて一路塩尻まで。
塩尻に着いたら、また乗り換えて今度は甲府行きの普通列車に揺られることしばし。
もうね、ハッキリ言って名古屋まではずーっと緊張しっぱなし。
だって、寝過ごしちゃったりしたら、エライことになっちゃうもん。

ちょっと前の週間予報では、9日は全国的に雨と言われていて、かなり気を揉みましたけど、前日の天気予報では、「晴れ」!
ヤッター!!(^▽^)V

何とか「ひかり」内での居眠りは免れ、名古屋で中央本線に乗り換えると、東海道を行く旅から方向変換、今度は木曾街道をゆく旅に出発。
お天気にも恵まれ、列車が進むに連れて、少しずつ残雪が見えてくるようになりました。
大阪では滅多に雪など見られないので、もう嬉しくって仕方ない。
木曽川沿いを走る列車の窓に顔を押しつけ、トンネルを抜けるごとに刻一刻変わっていく景色を堪能しておりました。
葉の色が、まだ黒々している木曽桧の林が近づいては後ろへ去っていく、木曽川の流れは、時にはゆったり、時には激しく・・・・
列車の中で詩情溢れる景色を堪能しているうちに、あっという間に時は経ち、塩尻に到着しておりました。

今回の旅の目的は、歴史散歩等というという堅苦しいものではなく、信州の冬の風物詩に浸りに行くだけ。
だから、さほどに資料をひっくり返したわけではありませんが、話に聞く「諏訪湖」の「おみ渡り」は是非見たいと思っておりました。
塩尻から普通列車に乗り換えると、去年訪れた事のある上諏訪までは、あと4駅。
前回は東京からこちらまでやって来たのですが、今度は逆方向の名古屋から。
中央本線を端から端まで乗った計算になる事に気付いて、何だかちょっとおもしろいような気がしました。

4ヶ月ぶりに上諏訪駅に降り立つと、何だかとても懐かしい。
でも、やっぱり寒い。

当日の日中の気温は3度という事でしたが、同じ3度という気温でも大阪にいる時とはずいぶん感じ方が違います。
何だか足元からずーんと冷えるような・・・・・これを底冷えというんでしょうねぇ。

駅の向かいにあるショッピングセンターのコインロッカーでよけいな荷物を預けて身軽になると、まず、「高遠城」に向かいました。

このお城は、小彼岸桜が有名で毎年桜の季節になると、多くの花見客でにぎわうそうです。
別名「兜山城」とも呼ばれていますが、築城当時の要路「秋葉街道」など、遠江の国と諏訪を結ぶ多数の道が集まる要地に築かれています。

このお城を築いたのは諸説ありますが、諏訪氏(高遠氏)の説が一般的です。

諏訪氏というのは、武田信玄の息子、武田勝頼の生みの親、愛妾「湖衣姫・諏訪御前」の実家で、諏訪大社の「大祝」金刺家の後裔で、おもに諏訪上社の神官として古くからこの地を治めていた一族です。

元々、諏訪下社の大祝家「金刺一族」とは折り合いが悪く、室町時代以前から何度も抗争を繰り返してきましたが、武力の点で優位に立っていた諏訪上社側の大 祝家「諏訪氏」が戦国大名化し、諏訪頼満の代になって、とうとう「金刺一族」を滅ぼしてこの辺りの実権を手中に収めたと伝えられています。
しかし、その孫の頼重の代になって、天文一四年(1545)武田氏に滅ぼされ、諏訪氏及び諏訪大社の大祝家は一旦断絶します。
天文一六年(1547)に、おそらく諏訪氏の居城を大改修してほぼ現在のようなものになったと思われています。
一説には、武田氏に仕えていた名軍師、山本勘介の縄張り(設計)に寄るものだと言われています。

しかし、この城を奪い取った武田氏も、勝頼の代になってから今度は尾張の織田信長に攻め滅ぼされる事になります。

仁科五郎盛信は、武田信玄の5男で、勝頼の腹違いの弟です。
父が滅ぼした北安曇の名家仁科の姓を名乗り、新領を支えてきましたが、信玄没後、家督を継いだのは勝頼でしたが、長篠の戦いで多くの家来達を失いました。

天正十年(1582)織田信長が勝頼に攻撃をしかけ、それを迎え撃つため盛信は甲州路の最後の関門である高遠城に入り、籠城という手段で国を守ろうとしましたが、共に城に籠もった兵の数は、約3000人だと言われています。
一方織田勢は3〜5万ともいわれる大軍、指揮をとった信長の嫡子織田信忠は、やがて城を明渡すよう説得をする為に僧を遣わしました。
盛信勢は、「その旨無用」、と伝えたにも関わらず再び現れた僧に、炉の中の焼火箸で額に「信忠」と焼印し、耳と鼻を削いで返してしまい、それを見て激怒した織田勢は総攻撃をかけ、高遠城はたった1日で陥落してしまいました。

勝頼が天目山で自刃し武田氏が滅亡するのはこれの9日後のことです。

それ以降、この城の主は何度も変わりましたが、明治になってこの城は廃藩置県政策によりいったん廃城になりました。

明治8年に城郭は全て取り壊された後、城跡は公園として許可され、この時になって初めて桜が植えられ、樹齢100年を超える本丸の古木を中心に、今では1500本以上の小彼岸桜が植えられており、長野でも有数の桜の名所として広く知られています。

小彼岸桜の花は小ぶりで赤みが濃く、かつての猛将、仁科五郎盛信の血がにじんでいるのだという言い伝えも残っています。

さて、お城の中もぐるりと一周
城の外に出ると、やっぱりここって寒い所なんですね。

お城の周りを囲ったお堀に、しっかりと氷が張っていました。

でも、何だか変。。。。

近くに温泉が湧きだしているせいなんでしょうか?
思ったほど氷に厚みがない。

氷に厚みが無いどころか、何だか溶けちゃっているみたいです。

氷の上を鴨が歩いていますが、ほらね、日のよく当たる所は氷も溶けてきているんです。

何だか、ちょっとばかり、嫌な予感・・・・・・・

その予感は見事に的中しておりました。
わたし・・・・・・「おみわたり」を見に来たつもりだったんだけどなぁ・・・・・.。o○

諏訪湖は結氷しているどころか、折からの強い風のために白い波さえ立っていました。

後で聞く所によると、諏訪湖に「おみわたり」ができるには、最低気温マイナス10度前後の日が一週間くらい続かなければいけないものだそうです。
二昔前くらいまでは毎年のように「おみわたり」ができて、諏訪周辺の人達はスケートや、ワカサギの穴釣りなども充分楽しんだそうですが、このところの暖冬化の影響で「おみわたり」だけでなく、諏訪湖の全面結氷もずいぶん珍しい現象になってしまったのだそうです。

湖から吹き付ける、少々強めの風に閉口しながらも湖畔にしつらえられた遊歩道をそぞろ歩き。

葉が枯れちゃっているので何の木か分かりませんが、枝振りから察するに欅のような・・・・・・
その並木の外側には、道路沿いにカリンの木が小さな並木として植えられています。

カリンの木は、「諏訪市の木」として定められ、この並木道以外にもあちらこちらで見かける事ができました。

カリンは「バラ科」の植物で梨の仲間に属します。
春になると可憐な白い花を咲かせ、秋の深まった頃になると、ちょっとばかりいびつな形をした楕円形の実を結びます。
市販ののど飴に「カリンエキス配合」と書かれた物がありますが、昔からカリンの実は咳止めの薬として利用されてきました。
カリンの果実を包丁で切ると、とてもおいしそうな香りがして、思わず一口食べたくなりますが、生のままでは渋くて食べられません。
一般には、ジャム、砂糖漬け、シロップ、果実酒などに加工して利用されています。

この並木道をしばらく行くと、去年来た事のある美術館の近くに差し掛かります。

さっそく道路をわたって去年見損ねた展示物を鑑賞。

美術館を出ると、その向かいには「片倉館」

とても瀟洒な昔風の洋館です。

ここは昔は「片倉製糸」という大きな会社が当時の社員のために立てた福利厚生施設でしたが、今は「財団法人片倉館」として、一般向けへの公衆浴場として解放されています。

そろそろ私の足元も冷え始めた頃合い、350円という入浴料金も廉価で魅力的。

でも、この時間に温泉なんかに入ってしまうと、湯冷めして風邪を引いてしまいそうで、仕方なく入湯は諦める事にしました。

しばし建物の前にたたずんでいると、お風呂セットを手に持った人達が頻繁に出入りしています。

建物から出てくる人達の顔は、ホカホカしていて・・・・・うーん、ちょっと羨ましいぞ。

後ろ髪を引かれる思いを振り切って、また湖畔の遊歩道に逆戻り。

トボトボと湖畔の道を歩き始めて、しばし・・・・・・

あっ!!

思い出した!!

いいものあった!!

タダで暖まれる所があった!!

とたんに私の足は速くなる。

タダ、無料、と言う言葉にはとても弱い私。
(我ながらせこいと思わず苦笑)

これは決して「大根足の品評会」ではございません。

去年できたばかりで、まださほどにメジャーにはなっていませんが、市営の「足湯」温泉。

諏訪湖畔の遊歩道沿いにあって、この日も観光客でにぎわっていました。
全然知らない者同士が、仲良く湖に向かって並んで座り、足元だけ限定の「裸のつき合い」

ベンチの足元の溝に足を浸すと、とっても暖か。
この溝のお湯はとても緩やかに流れていて、上流近くはちょっと熱い目、そして下流になると少々ぬるくなっていて自分の好みの場所に座ればいいようになっています。

しばし、湖を眺めながら足湯に浸かっていると、足元だけでなく体全体もポカポカしてきて、温泉効果抜群です。
ビニールシートで風が遮られているので、冷たい風もこの中には入ってこず、感じるのは早春の暖かい日差しだけ。

うーん、結構結構、ワラワは満足じゃ。。。。。

どれほど時間が経ったのか、ふと、時計を見る。

実はここに来る前、「間欠泉センター」付近で盛大な湯気が出ていたのに気付いたのですが、それが午後1時半頃。

すぐ隣りに世界最大と言われている間欠泉があるのですが、ここの間欠泉はほぼ正確に一時間ごとに吹き上がるようになっています。
すると次の「吹き上がり」は2時半という事に・・・・・・・

では、そろそろ行くとするか・・・・・・・
「足湯」の管理人さんに一言礼を言うと、隣にある「間欠泉センター」の中に入りました。

ここの入館料は500円。

間欠泉なんて自然に出来た物なのにお金を取ってみせるなんぞセコイではないか、というのは後で乗ったタクシーの運転手さんの弁ですが、私もそう思う。

お金を取る市側もそう思ったのかどうか、「センター」の中の設備はかなり充実した物になっています。

一階は、おみやげ物売り場(ここまでなら無料です)、プール、そして露天風呂。
露天風呂は男女混浴で、間欠泉を間近で体験できるようになっています。

二階は、オルゴール館と温泉の資料館。
バルコニーはガラス張りになっていて、そこからも間欠泉を眺められるようになっています。

そして三階、ここもお土産コーナーと、それから展望塔を兼ねた喫茶室。
ここでカリンのジュースを飲みましたが、料金はとても良心的な物でした。
そうね、たっぷりあって、一杯100円。

ではでは、本日のメイン・イベント、「間欠泉」

ここが吹き出し口、何じゃこれ?
なんて代物です。
湯気さえ出てきてませんでした。
館内の案内放送で間欠泉の吹き出しが始まるとの知らせ。
しばらくカメラを持って付近をウロウロしていると、さっきの筒の中から微かに湯気が出てきた模様。
(((o(^^")o))) ワクワク
ほれほれ、始まった!!
うおおっ!!
音無の構えとはこういう物か?
地鳴りでもするのかと思っていましたが、全く無音。
ただ、湯が蒸気と一緒に吹き上がってきただけ。。。。。
見る見るうちに水柱(湯柱?)が高くなる。
怖くなったのか、そばにいた家族連れで記念写真のモデルをしていた男の子は、慌てて逃げ出しちゃった。
私も約3歩、後退(汗)
見る見るうちに、水柱は三階の展望塔の高さを追い越し、一緒に噴き出す蒸気もすごいです。
もう、言う事ございません。
\(°o°;)/ウヒャー

ここの間欠泉は、お湯が噴き出すと、本当は高さ50メートルにもなる、本当に世界一級の物なのですが、そんなに高く吹き上がってしまうと、風にあおられ、広範囲の家屋に被害をもたらすと言う事で、今はだいたい20メートルくらいまでに抑えているそうです。
それでも間近で間欠泉を見るとすごい迫力。
もう一度見たくなって、このセンター内でもう一時間粘ってしまいました(苦笑)

本日の予定はこれにて終了。
宿は前回泊めて頂いた、湖畔のペンション。

写真は、オーナーさん手作りの枕木小屋。
常連が数人集まると、真夜中通り越して、朝までワイワイ・ガヤガヤにぎわっている、都会人にとっては一つのオアシスとも言える所です。

この部屋の隣にもまた小さなお部屋があって、真ん中に薪ストーブ。
薪ストーブってすごく暖かいんですねぇ(感)

この日も常連の一人がいらっしゃっていて、結局真夜中まで色々話し込んでおりました。

しかし・・・・・・・・・・
ちょっとは控えようと思っていたのですが、ああ、やっぱりそう思うだけに留まってしまった。

ゆったりとした温泉に浸かり、お湯の中で手足を思いっきり伸ばした後のビールのおいしい事!!
ここのテーブルの上にも缶ビールが一本。
でも、隣の部屋でも、3本の缶ビールを転がす結果になっておりました(爆)


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