トップ >一人歩き >あおい流「女の一人旅」 >初秋の東北路 花巻 |
初秋の東北路 花巻編 |
小さな画像をクリックすると拡大画像を見る事が出来ます。
同じ岩手県ではあるけど、少し場所が変わると町の雰囲気も随分と違う。 駅の外に出ると、近代的なモニュメントが訪れた者を迎えてくれる。 駅前のロータリーを囲むようにスポーツセンターがあり、ショッピングモールもあるんですが、しかし何となく殺風景な感じがする。 駅前のホテルに着いて窓から外の景色を見ると、駅前が殺風景に見えた理由が解りました。 駅前近辺は高台になっていて、市街地のほとんどはこの場所よりも低い所に集中していたんです。 この高台の半島のようにつきだした所に、花巻城址があります。 この花巻市を中心とした地方は、昔は稗貫地方と呼ばれ、稗貫氏によって治められておりました。 稗貫氏の事はよく分からないのですが、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝のご家人がこの地方を治めるようになって、家の苗字をこの地方の土地名にしたとの説があります。 天正十八年(1590年)、豊臣秀吉によって奥州仕置きがなされた時、稗貫氏は南部氏に攻め滅ぼされ、それ以降は南部氏の所領となりました。 それに伴って「鳥谷ヶ崎城」と呼ばれていた城は、南部氏の居城となってから「花巻城」という名に改められ、大規模な改修が行われたのだそうです そして、城が拡充されるに比例して、花巻の町も奥州街道の宿場町として、また城下町としてさらに発展してきたのだそうです。 花巻は宮沢賢治の故郷として広く世に知られています。 宮沢賢治は多くの動物たちのなかでもフクロウを特に好んでいたそうで、町のあちらこちらにフクロウをあしらった物が設けられております。 その他にも、賢治作の童話に登場する動物たちがあちこちに見受けられ、そして「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたのであろう、銀河や星座の形を現したものもたくさんありました。 バスの時刻表を確認するために駅前の観光案内所に出向くと、当然のように宮沢賢治の話題に触れる事になります。 すると、 受付のお姉さんが急に元気づいた。 周辺の気温が2度ばかり上がったかとも思われるほどの熱の入れようで、宮沢賢治の事を語ってくださいました。 やっぱり、童話作家、そして名のある詩人として、この町の誇りになる対象だからですか? いえ、それだけでは無いんです。 私の先祖もそうですが、花巻だけで無く、この岩手のほとんどの農民は、宮沢先生に恩を感じていて、今でも宮沢先生に感謝しているんです。 宮沢賢治って、いったいどんな人だったんだろう。 彼は、花巻の中心部にある質屋を兼業する古着屋の長男として生まれ育ちました。 古着屋といっても、多くの田畑を所有する大地主の家だったそうで、豪商といっても差し支えの無いほどの家柄だったそうです。 宮沢賢治の童話には、「グスコー・ブドリの伝記」に代表されるように、沢山の農民が登場します。 「銀河鉄道の夜」には、長距離列車乗る乗客達の様子がリアルに表現されています。 そして「セロ弾きのゴーシュ」には、チェロをうまく演奏できないチェリストの様子と苦悩が描写されています。 それらはすべて、宮沢賢治自らが体験した事に基づいているのだそうな。 私は子供の頃から、宮沢賢治の童話は大好きでした。 でも、その作者の事はほとんど知らない。 知っているのは、まだ三十代半ばで夭折された事。 宮沢賢治って、いったいどんな人物だったのだろうか。 しかし、この時点で宮沢賢治について知るすべは無い。 旅立ちの前に、宮沢賢治に関するネットで検索してはいたけど、地元の人をこんなにも熱狂的にさせる要因を含んだ記載は見受けられなかった。。 ホテルに戻ると、欧式のバスタブに湯をはり、時間を掛けた入浴タイム。 部屋に届けられている地方新聞の隅からすみまで目を通すと、夕食のためにホテル内のレストラン街まで出向きました。 花巻の駅前って、ビジネスホテルを探すには苦労は要らないのですが、食べ物屋さんを捜すには大苦労します。 それで宿泊予約を入れると同時に、夕食の予約も入れたのですが、大正解だったかも知れません。 カロリーを考えて日本食のレストランに入りましたが、テーブルに並べられたのは豪華絢爛な京風料理。 私の片親は京都人ですからねぇ、京料理はあまり珍しくもない。 ただ、素材に対する提供価格を考えると、その廉価さには心底驚きました。 残念ながら、この地にも私が興味を引きそうな地酒は無い。 でも、遠野でいただいた地ビールが美味しかったので、花巻の地ビールを追加注文させていただきました。 遠野観光の疲れが出たのか、それとも340ccの地ビールに酔ったのか、多分22時前には撃沈しておりました。 朝。 目覚めたのは7時過ぎ。 睡眠中に目を覚まさずに、こんな長い時間眠っていたのは久しぶり。 熱い目のシャワーを浴びてサッパリすると、指定された洋風レストランへ、 広いホールには、和洋華の料理が所狭しと並べられていて、朝食としてはかなり贅沢。 必然的にと言えるほど、しっかりと食べ過ぎてしまった。 9時前にチェックアウトを済ませると、9時発のバスに乗って「宮沢賢治記念館」を目指しました。 バスは、宮沢賢治が「イギリス海岸」と名付けた川縁を通りかかりましたが、連日の雨による増水のため、その独特な景色は見られずじまいで、とても残念。 宮沢賢治の少年期は「石っ子賢さん」と呼ばれるほどの鉱物好きで、学生時代は地質学を好んで勉強されていたようです。 この辺りの地層は、イギリスの海岸部に見られるのと同様に第三紀末・鮮新世の凝灰岩質泥岩が露出していて、それを元に「イギリス海岸」の名が付けられたそうな。 駅前から20分足らずで「宮沢賢治記念館前」のバス停に到着。 そこから記念館までは500メートルの距離がありますが、ものすごい上り坂。 たった50メートルほど歩くと、ついさっき降りたばかりのバス停や、その周辺の建物を見下ろせるようになります。 そして100メートルも歩くと、早くも息が上がってくる。 300メートル近くも歩いた頃には、心臓はバクバク、息はたえだえ。 小休止でもしないと、先には進めなくなる。 息が整ってきた頃にまた歩き出し、そして再びゼーゼーしだした頃、やっと記念館の入口に着きました。 記念館は胡四王山の山頂にあり、周りは緑に覆われ、その木々の隙間から花巻の町が見下ろせます。 建物の入口では、「猫の事務所」に登場したしたネコたちが、いかめしく迎えてくれます。 この寓話は子供の頃から大好きでした。 きっと宮沢賢治自身も、人間同士が差別し合う醜さを嫌っていたんでしょうね。 残念ながら、建物の中は撮影禁止。 色々な展示物があり、宮沢賢治が持っていた手帳や小説の原稿が沢山展示されていました。 その他にも、宮沢賢治自身が集めた鉱物の標本や、蔵書の一部などもいっぱい。 それらを見ると、かなりの博学の人であった事がよくわかります。 私が一番ビックリしたのは、宮沢賢治が愛用していたチェロが展示してあった事。 駅前の観光協会のお姉さんが言ってた通り、本当にチェロを習っていたんだね。 すると、新たな疑問が沸いてくる。 宮沢賢治が生きていた頃の花巻は、貧しい農民が多くて、食べ物にも事欠く人は珍しくなかったそうな。 宮沢賢治の生家は大地主の家柄で、その地では王様のような暮らしをしていたらしいけど、宮沢賢治自身は周りの人の貧しさについて、相当に同情的な意識を持っていたらしい。 なのに、何でそのような人物が何度も上京してチェロを習うなどという贅沢な事をしていたんだろうか。 「宮沢賢治記念館」を出ると、「宮沢賢治イーハトーブ館」に向かいます。 ずんずんと下りていく坂の両側には「ポランの広場」と名付けられた南斜・日時計花壇が広がっています。 この花壇はかつて宮沢賢治が花巻温泉遊園地のために設計したもので、経済的、技術的条件で実現できなかったものを、当時の設計書と手紙をもとに再現したものだそうです。 聞く所に因ると、その中でも「日時計花壇」はあまりに突飛な設計だったので、即行で却下されたとかしないとか。 しかし、周りの緑が借景になって、心癒される空間になっていると思います。 この日は曇天のために、せっかくの日時計花壇は、時計の役は果たしていませんでしたが、見ていて飽きない造りになってました。 そして、緩やかな坂を下りきると、「イーハトーブ館」。 館内には主に宮沢賢治の研究資料や論文などが展示されてましたが、その中に宮沢賢治の詳しい年譜もありました。 宮沢賢治の詳しい年譜は、インターネット上でも数多く記載されてますが、それらの中には見つけられなかった事が、ここの年譜にはありました。 宮沢賢治が22歳の時、徴兵検査を受けて「第二種乙種」となり、兵役には及ばずとの判定を受けたそうですが、その年に肋膜炎を煩い、医師からあと15年くらいしか生きられないとの診断があったらしい。 実際に宮沢賢治が亡くなったのは、その診断通りの15年後で37才ではありましたが、まだまだ多感な時期にこんな診断を下されると、そりゃ生き急ぎたくなるのは無理もない。 その同じ年に、妹のトシさんが入院し4年後に亡くなると、それが更なる引き金となったようで、空恐ろしいほどに活発な活動を続けるようになりました。 その頃、父親から貰ったお金で上京すると、エスペラント語を習い、タイプライターの学校に通い、チェロやオルガンを習い、小劇場や歌舞伎座で観劇をし、そして夥しいほどの書籍を買い集めてます。 農学校で研究生や教員をしていた頃には、農作物の収穫高を上げるための様々な研究を重ね、貝殻などの石灰質を土壌改良材として取り入れるよう、あちこちで講演がなされたようです。 沢山の資料が展示されていて、理科好きの私にも興味を引く物がいっぱいありましたが、それらの展示物の中で、一番長い時間たたずんでいたのは、この年譜の前でした。 「イーハトーブ」というのは宮沢賢治がエスペラント語を取り入れた造語だそうで、「イハテのユートピア」の意味が込められているそうです。 その宮沢賢治の影響を受けたのか、花巻から釜石に至る釜石線の各駅には、全てにエスペラント語が当てはめられてます。 例えば花巻はチェールアルコ(虹)、新花巻はステラーロ(星座)、遠野はフォルクローロ(民話)。 「銀河鉄道の夜」のモデルになり、後年に松本零士も「銀河鉄道999」を制作するに当たって、その始発駅のモデルになった「宮守駅」はガラクーシア カーヨ(銀河のプラットホーム)という別名がつけられています。 「イーハトーブ館」を後にすると、次に向かったのは「宮沢賢治童話村」。 ちょっと堅めの「宮沢賢治記念館」や「宮沢賢治イーハトーブ館」と違って、宮沢賢治の世界観を子供達にも解りやすく説明されている施設のように思います。 広い敷地内には、数軒のログハウスが点在していて、それらはまるで研究発表館のような佇まい。 この日は土曜日であったにもかかわらず、来園者の数は極めて少なく、数組のカップルとすれ違った程度でした。 朝は曇っていたけど、しばらくすると空の色は透き通った青色に変わり、そして空気も幾分乾いてきたように感じる。 広い園内を歩き回っていても快適に散歩を楽しめる。 全体をぐるっと一周すると、しばらくはベンチで一休み。 空を見上げると、V字形の雲が見えた・・・、しかし、その雲が見る見るうちにハート形に代わり、そして頭上を流れていく。 上空の空気が湿ってきたのかと思った途端、吹いてくる風も湿り気を帯びているのに気づいた。 この辺りの季候はよくわからないけど、山岳地にいる時は、空気の湿り具合も注意信号と捉えなければならないという、亡父の言葉を思い出した。 花巻の市内には、まだ見ておきたい宮沢賢治の史跡がある。 でも、明日に訪れる予定にしている平泉には、雨が降ると見られない、むしろ危険になって立ち寄れない場所がある。 移動するなら、この時しかない。 慌てて公園を出ると、ちょうど頃合いの時刻に花巻駅行きのバスに乗る事が出来ました。 花巻市街に着くと、どうしても立ち寄りたい所がもう一軒ある。 花巻は「わんこ蕎麦」の発祥の地としてよく知られています。 「わんこ蕎麦」は遠野の城主が花巻を訪れた際に、特産の蕎麦に山海珍味を添えて出されたのが元になったそうです。 相手はお殿様ですから、一般庶民が使うようなどんぶりなどを使わず、お椀に少量の蕎麦を盛って差し上げた所、何度もお代わりをされた事から、わんこ蕎麦という名物料理ができたのだそうな。 私が目指したのも、そのわんこ蕎麦をメニューに加えているお蕎麦屋さんですが、そのお蕎麦屋さんは宮沢賢治もたびたび訪れたという老舗です。 それ程の有名所だから、食事代はかなり高くなるに違いない。 地理不案内のため、駅前からはタクシーを利用。 車の中で財布の中身を調べ、諭吉さんのいらっしゃる事を確認。 うん。。何とかなりそうだ。 そんな事をしてる間に、タクシーは店先に到着。 あららっ、駅からは相当に近い所にお店があったようだ。 私が注文したのは、わんこ蕎麦ではない。 せっかく宮沢賢治の行きつけのお店に来たんだもん、宮沢賢治が好んで食べた物は、私も試食してみたい。 そこで天ぷら蕎麦を注文したかったが、あまりに暑かったのでそれに近い「天ザル」を注文。 ただし、宮沢賢治が愛飲していたという「サイダー」は注文してない。 仲居さんの「天ざる、一丁」という声が、私の頭上から調理場の方へ飛んでいった。 さほどに待たないうちに、それが運ばれてきたけど、注文をしてから料理の届くまでの時間が短い。 でも、蕎麦はプリプリと弾力があり、天ぷらはチリチリとかすかな音さえあげている。 まんづ、うまがっだべぇ!! いやいやホント、とっても美味しくいただきました。 切り蕎麦の角はキッチリと立っており、二八蕎麦とはいえ香りは豊か。 濃厚な味の蕎麦つゆも、蕎麦にピッタリと調和していて、後で持ってこられた蕎麦湯も美味しかった。 価格も心配していたほどではなく、税込945円で思っていたよりは廉価。 近くにこの店があれば、何度でも通いたくなるお店でした。 帰りがけに駅までの道を尋ねると、とても丁寧に応対して貰い、それが嬉しくてお土産用のお蕎麦を思いっきり買っちゃいました。 手渡された紙バッグはズッシリと重い。 でも、何か嬉しくなるようなズッシリ感でした。
|
詳しい地図で見る |