La Storia di Vernaccia di San Gimignano(ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノとその歴史)



  おそらく、南仏プロヴァンスと並んで世界中の人々に最も愛されているだろう美しき中部イタリアはトスカーナ州のまさにクオーレ(中心部)に位置する街サン・ジミニャーノ。隣接する、伝説的古代民族エトルリア人の最大拠点ヴォルテッラ同様、古代ローマ人に引き継がれてはそのまま中世へとその栄華をゆだね、現在では13にまでその数を減らしたとは言え、11,12世紀頃には最高で72を数えたと云われているかの著名な塔たちが誇示していたものは富と権力、そして名声。14,15世紀にはフィレンツエ王国はメディチ家の恩恵にもあやかり、奨励されていた文化政策のために多くの芸術家たちの集う場として、気品と艶やかさの漂う歴史に彩られる特殊な街として栄えるに至る、中世最高のイタリアを代表する饗楽の街、サン・ジミニャーノ。  

 だが、そんなトスカーナの美しさを語るには、葡萄とオリーヴの木々の繰り広げる自然と大地の素朴な調和を忘れるわけにはいきません。その起源がエトルリア人にしろローマ人にしろ、世紀から世紀、世代から世代と引き継がれては世界有数のワイン産地を育て上げたこの地において、特にこのシエナ県の大地が奏でる風物詩のごとく光景はまさに類を得ぬもの。憂いに溢れるお城たちと深い森、そして様々な方角へと下り落ちてゆくキャンティ・クラッシコ地区があれば、幾十にも重なり消散してゆく限りない丘陵に彩られたモンテプルチャーノ地区、高台に開けた一面の牧草地帯と風になびくワイン・ヤードが実に美しいモンタルチーノなどと、風格さえも漂う著名産地が目白押しの宝庫の中で、ここでもまた例外的に、最も長い歴史と過去の絢爛煌めく栄光に包まれたものが、このサン・ジミニャーノ、そしてその誇る"唯一の白ワイン、ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"。丘陵の頂きに構える街の辺り一面を囲むワイン・ヤードが、あたかも柔軟な櫛でやさしく、そして丁寧に梳かされたかのように風に軽くそよいではパノラミックに下り霞んでゆく様が語り付けるものは、さりげなくも詩的に成し遂げられた"美学"そして"人類と自然の対話"。  

 そんな、サン・ジミニャーノ近郊はヴェル・デルザ地区において、葡萄栽培が行われていた事を示す最古の記述は1036年までにさかのぼります。現在のテリトリーに当たるサン・ジミニャーノ地区内では1215年、1255年には"税"の存在が確認されており、ヴェルナッチャ種としては、海外輸出が既に行われていたことが証明する"税"についての1276年の記述が最古のもので、その中に"Vin Greco(ギリシアのワイン)"と"Vernaccia(ヴェルナッチャ)"としっかり分けられていることも興味深いことであると言えるでしょう。今や消滅してしまった"Vin Greco(ギリシアのワイン)"同様に、ギリシアからとある農地学者により持ち込まれたと伝えられるヴェルナッチャ種ですが、多くの歴史的証言が確固とした裏付けをとれぬよう、正確なところは未だに不明で、一般にヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ神話の中で語り継がれている、イタリア語の父、ダンテ・アリギエーリがこよなく愛しては"ボルセナ湖の鰻のヴェルナッチャ煮込み"と共に愉しんでいたワインがこの"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"であるか、或いはやはり同時期に存在していたリグーリア州の"ヴェルナッチャ・ディ・コルニッリャ"のどちらであるのかも(現在はこちらの説が有力)、おそらくは永遠の謎として我々の探究心をくすぐり続けてくれることでしょう。  

 とは言え、13,14世紀にはいると、幾千もの記述が"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"の栄華のほどを否応にも語ってくれます。

 かのミケランジェロ(Michelangelo)が 
"Bacia,lecca,morde,picca e punge(キスを交わしては、愛撫し、噛み付いては突き、そして刺す。)"と言い残せば、

 歴史家ヴィンチェンゾ・コッピ(Vincenzo Coppi)"は,
"Vino bianco delicatissmo, ed e dei migliori e piu grati vini che si faccino in Italia(なんともデリケートで最高、そして最も神に感謝したくなるイタリア産ワイン)"とその惚れこみぶりを披露。

 そして中世を代表する、医、文、自然学者フランチェスコ・レーディ(Francesco Redi)の賛歌の中でなんと、
"Se c`e Alcuno a cui non piaccia la Vernaccia vendemmiata in Pietrafitta,interdetto,maledetto fuga via dal mio cospetto.(もし、何者かこのピエートラフィッタで収穫されたヴェルナッチャが気に食わないというものがいるなら、何てことだ、許されない、直ちに私の目前から姿を消しなさい・・・。)"と言い切れば、後に教皇となったメディチ家はフィレンツエ王国の主、サン・ジョバンニが好んで名士への贈り物に献上していたことからも分かるように、皇族に親しまれて止まなかったワインでもあり、

 "ワイン通"であったと有名な教皇パオロ3世(Papa Paolo V)にいたっては、彼自身の手掛けた出版物の中で
"A San Gimignano si coltivassero troppo l`arte e la scienza e poco la Vernaccia,che una perfetta bevanda da Signori et e gran peccato che luogo non ne faccia assai(サン・ジミニャーノでは、芸術や科学ばかりを奨励しすぎた。ヴェルナッチャは紳士のための完璧な飲料で、あの地で多くの量を造ってくれないのは大変残念なことでしかない。)" とまでの賞賛を与えているのであります。  

 ですが、17世紀に入り、栄光の時代に突然暗黒の兆しが差し込みます。当時、ヨーロッパ中に広がっていた疫病フィロキセラ(fillossera)が、ここサン・ジミニャーノをも襲い、ほとんどの苗が死に絶え、そして消滅してしまいました。それだけの損失を構築し直すほどのゆとりを持たぬ小さな農家が多かったせいか、再生を諦めた農民達が田舎を捨て、そして後には無残にも荒れ果てた耕地のみが悲しくも残されていきます。

 18世紀になると、既に台頭していたキャンティなどの赤ワインが主流の当時のマーケットにおいて、ヴェルナッチャ種の再生に力を注ぐものは皆無。かろうじて伝統的ワイナリー、ピエ―トラフィッタクゾーナ、そして極僅かの小規模葡萄栽培者のみであったのが悲しくも辛い現実・・・まるで幻影のように遥か彼方に遠ざかっては流れ去る輝かしい過去の栄光と名声は何処へ・・・ 1966年のDOC制定がこの地にもたらしたものは、新たなる未来を築き上げるための可能性の提示。

 1972年に、伝統的名門ワイナリー・クゾーナ、グイッチャルディーニのジローラモ氏などを筆頭に9人の生産者が勇ましく立ち上がり、ヴェルナッチャ委員会を設立。多くの生産者達のひたすら懸命な努力が実り、1993年にはトスカーナ州初のDOCG(原産地統制保証名称)をも獲得。そして、すっかりイタリアを代表する著名なワインとして、もはや幻ではなくなった麦わら色の雫"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"・・・。

  サン・ジミニャーノ名称委員会会長、ヴァスコ・チェッティ氏(Vasco Cetti)はこの一節の詩を残してくれました。

 
"Siamo una stripe di costruttori di Chiesa e di Piantatori di Vigne. (我々は"美しき教会の建築者"であるだけでなく"葡萄苗の耕作者"の家系なのさ)"

 イタリア原産古典品種最高レベルの白ワインのルネッサンス(再生)、それは苦難の時代に終止符を打つがごとく立ち上がった誇り高き紳士たちの魂の叫びが呼び起こしたものであったのでしょう。