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 初アップロード日 2006,11,07
最 新 更 新 日 2006,12,10
© アムラン   教育の泉へ戻る

 

 ご案内
このコンテンツはいじめとは何かという本質の研究といじめをなくすための対策を提言するための研究をテーマとしています。真剣に対策が必要な問題であるために、順次充実させてまいりたいと思います。

 

いじめとは何か
   
 いじめは古くて新しい問題である。いじめを漢字に変換すると「苛め」と「虐め」の二つが出てくる。文字通り解釈すると「苛め」は辛くあたることであり。「虐め」はおとしめて虐待することである。
いずれにしても他人に対して精神的にまた、肉体的にいたぶりなぶりものにすることである。
 生物の生存競争上の自然界のおきてとして弱肉強食は避けて通れない真実ではあり。いじめは人間社会に持ち込まれた理不尽な忌むべき本能的な行為でもあります。
 ドメスティックバイオレンスのように単純に暴力行為だけでない、他者に対する広範な手段によるいたぶりであり、明らかに犯罪行為である。
 重要なことはいじめの理由は言い訳であって、いじめを行う理由には正当性はありません。
 いじめとは理由の如何を問わず犯罪行為です。
   
 いじめは反復されるいじめ行為が「 い じ め ら れ る 側 」に行為の認識がいじめであるという認識に至った時点でいじめとなる。「 い じ め る 側 」の意識で、いじめではないという行為に対する弁解は、行為がささやかなものであっても、これを決して容認してはならない。絶対的に「 い じ め ら れ る 側 」の認識と訴えを全面的に支持し保護しなくてはならないものである。
 いじめについては、教育も社会も大きなカンチガイをしていて、原因とか理由をもっともらしく検討と言うか議論してきましたが、いじめという行為自体がどのようなものであるのかということを全く認識していないという点に問題があるわけです。いじめというのはリンチいわゆる私刑であって民主主義国家と教育の現場ではあってはならないことだという本質を無視というのか理解していなかった事に悲劇があります。
 気に入らないからとか、言う事を聞かないから。「意地悪する」・「困らせる」・「暴力ふるう」という行為はリンチであり、これがいじめの正体です。行った動機や理由の如何を問わず、絶対的な悪であるのがいじめです。理由は関係ありません、いじめの原因や理由になったとされている「いじめられる側」の状態や行為はいじめる原因ではなく、修正すべき単なる通常の欠点にすぎません。欠点があればいじめをしてもよいというのであれば、教育と法律は必要ありません。
 特に近年のいじめの理由の最大の問題点は二つあり。一つ目は、「いじめられる側」の問題点による理由は皆無であり。この原因は「いじめる側」のストレスと家庭環境であり。二つ目の原因は我慢するこらえ性いわゆる忍耐力と寛容の心を育成していない事にあります。

 ・ 一つ目の原因
    ストレスと家庭環境
両親の離婚や共働きによる子供に対する愛情とケアと語らい不足。ストレスの解消方法をきちんと教えたり学ばせていない家庭の無責任と成果主義と数字至上主義に走り人間の人格と心の存在を無視して目先の利益しか考えていない社会構造にこそ最大の原因が秘められている。
 家庭環境の問題として放任か厳し過ぎるというストレスもいじめの原因である。もうひとつは食の問題として、食事のバランスの悪さによる精神的に落ち着きがない神経質や粗暴な心理に陥る栄養の偏りもあるので家庭での食事の改善も必要である。


 ・ 二つ目の原因
   忍耐と寛容の心を育成していない
家庭教育と学校教育の責任でもあるが、あまりにも放任とやりたい放題のわがままを放置して規律と秩序を躾ていなさすぎる家庭教育と集団行動のトレーニングと他人に対する道徳的な思いやりの心を具体的かつ実践的に指導しなくなった学校教育に責任がある。

 例として規律ある集団行動をしなくてはならない卒業式などの式典で国旗と国歌のことで起立しない教員がいたりするようでは、集団行動の模範として児童・生徒に示しがつきません。
 ここで講釈することではないかもしれませんが、場というものを考えて。常識ある行動を特に教育の場であればあるほど教師にはやっていただきたいものです。
 国旗と国歌の教育現場の問題として戦前の軍国主義の問題があると主張される方々もいますが、主義主張は別の場所でするべきものだと思います。
 教育の場において、主役は児童・生徒であり、児童・生徒に混乱と不信感を与えるような行為は慎むべきであります。国際的なことを言わせて頂きますと、自国の国旗や国歌を軽んじるような発想は恥以外のなにものでもありません。
 どうしても「日の丸」と「君が代」が気に入らないのであれば、代案のデザインと歌詞をきちんとした理由を提示した上で提案して反対すべきです。
 やみくもな反対行為は心の狭さを表現するだけであって、寛容な他者への思いやりの心を培うためには最大のマイナス行為です。
 いじめも感情的な理不尽で、なんでも反対の天邪鬼精神が抑制できないからこそおこるのであり。人間であるのならば寛容と自制の心をこそ養ない、相互理解をすすめるためのコミュニケーション能力こそを教育の力で育まなくてはならないのではないのでしょうか。
 
いじめとは我慢と自制できない我がままから生まれる心の闇です。教育者ならば、児童・生徒と自分自身に向かってこう問い掛けるべきです。

「世界で一番美しいものと世界で一番醜いものがなんだかわかりますか?」

「それは人間の心なのです」

「いじめをしているとき。そして、いじめを見て見ない振りしているときの、あなたの心は世界で一番醜いものなんですよ!」

「どうですか?今日から、いや!今から世界で一番美しい心になるためにいじめをやめましょう!いじめをみたら積極的にとめて世界で一番美しい心になりませんか!」
  
声を大にして問いかけて欲しいと祈るものです。   アムラン
  
いじめとは社会を映す鏡でもある
   
 意外かもしれませんが、いじめは社会を映す鏡でもあります。子供達は見ていないようで社会と大人の行動をしっかりと見ています。子供社会で起きている問題は、実は現代社会が抱えている社会病理や矛盾や格差を否応なく反映しています。
 荒れる教室や不登校の問題は学校内と教師の指導力の問題のようによく言われていますが、実は社会と子供達の家庭環境に影響されている事が大きいのです。
 教師と学校はあくまでも知識や情報を教材として教育を行う人と場所であって、託児所でも犬の躾を行うトレーニングセンターでもありません。学校は教育を提供する場であって、空間を提供するサービス業ではないということを社会に認識していただきたいものです。
 学校とは国立・公立・私立を問わず、あくまでも躾ができていて学ぶための規律が身についた子供を家庭が責任もって送り出す公の空間です。公の空間である以上、秩序と気配りは子供といえども自らしなくてはならないのです。
 社会にも個人同士の争いやケンカはあります。子供社会のメインの場所が学校である事が多い以上はケンカや気持の行き違いコミュニケーションのまずさからのトラブルはあってもやむをえません。教師と学校が子供達にきちんとコミュニケーションの指導と司法の役割を果たさなくてはならないのは当然の事です。
 しかし、教師と学校には教育の役割はあっても司法や警察の役割はできないのも現状です。手をこまぬいていてはいけないのですが、何十年も前から現在にいたるまで、いじめがなくなっていない事実から教師と学校が無力ゆえに社会の現状を反映する形でいじめがなくなっていません。
 いじめが社会を映す鏡であるのは、子供達の社会で行われている行動の原型は、全て大人社会にあるからなのです。一番判りやすいのは弱いものいじめです。
つい最近(2006,11,26)街を歩いていて耳にはさんだ子供達の会話でショックだったのは、自由民主党への復党問題を 子供達は自民党幹事長による平沼氏グループに対するいじめととらえていて、「大人の偉い政治家達だっていじめやってるのに子供のいじめがなくなるわけないじゃん」という一言は驚きました。小学校高学年から中学1年生くらいでしたでしょうか…子供といえども大人社会の本質というものをよく見ていると感心もしましたが、大人の立場からいわせるとなんだか情けなくなりました。
 古い話になりますが、今から20年前と15年前と10年前になりますが、場所は東京都足立区と千葉県柏市と札幌市と違いますが幼稚園の年長組の子供達の会話で、微妙に表現が違うのですが、同じ内容の言葉を聞いて唖然として情けなくなった言葉を紹介します。

「国会だって幼稚園といっしょじゃん、人の言う事聞かないで勝手な事ばっか言ってるじゃん、おれらか騒いだっていいじゃん」 幼稚園児

         絶句!!! アムラン

正直言って一回だけならともかく、場所が違い何年も間隔をあけて同じような言葉を幼稚園児から聞くとは情けない限りで、幼い子供の目にも国会と国会議員の品性がどう映っているか、わかると思います。一番身近な例でも信号を守らない大人を子供が不信の目で見つめている光景は残念ながら日常の光景と化しています。

 いじめを無くすのは大人が毅然とした態度で倫理ある行動をしなくてはいけない!

これが第一歩ではないでしょうか。
  
   
※ 注意 ※
 いじめ問題の主役はあくまでも 「 い じ め ら れ る 側 」 である。30年も40年も前も2006年の現在でも 「 い じ め る 側 」 を保護し。「いじめ」を行った心理的な背景を同情的に保護して更生させようという観点でしか「いじめ」というものを見ていない。
 これは弱者無視の本末転倒である。教育とは弱者を保護し、強者に思いやりの心を育むのが真の役割である。「 い じ め る 側 」に対しては、徹底した処罰と思いやりの心を持つように指導しなくてはならないのであり。 「 い じ め ら れ る 側 」 に対しては徹底した保護と安心を与えなくてはならないのである。

 しかしながら現実には 「 い じ め ら れ る 側 」の弱者を無視して保護どころか放置し、「 い じ め る 側 」をかばい保護して、いじめ行為を正当化する事しかしていない。
 教育の対応の落とし穴は何かというと、教育大学や教育理論や教育実習においても、しつこいくらい「児童・生徒の目線を意識しろ」とか、「教師の行為が児童・生徒がどう思うか常に意識して行動せよ」と言っている割には根本的に児童・生徒の心理が判っていないからである。
 児童・生徒が教師をなめるようになって久しいと言われていても、教師が関わる度合いの大きい事柄に対して正しい事と感じるのが児童・生徒の心理である。
 小学校・中学校はたまた高校までの児童・生徒の世界においては、社会的にも現実的にも本来は正しくも良くもない行動をした児童・生徒が、大人社会のように徹底した処罰と排除がなされないゆえに、悪い事をしても生活に支障はきたさないので、心底から反省して後悔して更生するという意識はありません。

 従って、なんらかの厳しい刑罰と社会的な制裁措置が未成年の児童・生徒であっても必要である。

 奇妙な言い方になりますが、児童・生徒の世界において最大の恐怖は無視とかまわれなくなることです。大人と違って児童・生徒の世界は各種メディアや携帯電話やインターネットが普及したとはいえ、コミュニケーションの空間的な広がりとしてはまだまだ閉鎖的であり狭いのです。
                学校や子供世界は広そうで狭いものなのです。
 この狭い世界での最大の恐怖はコミュニケーションを絶たれる事です。いじめにおいて無視が最大の苦痛であるゆえんもここにあります。
 かまわれる事が一種の勲章ともいえるのが子供社会です。いじめにおいていじめをなくすために「 い じ め る 側 」を教育あるいはカウンセリングするという事は「 い じ め る 側 」をより教師がかまうということです。「 い じ め ら れ る 側 」を無視している結果になるわけです。したがって児童・生徒の意識では教師がより積極的にかかわっている方の「 い じ め る 側 」が正しいという誤った認識を持つのです。
 「 い じ め ら れ る 側 」
よりも「 い じ め る 側 」に精力を傾けるということは、周囲のいじめにかかわっていない児童・生徒に対しても「 い じ め る 側 」の行動にお墨付きを与えているようにしか見えないわけです。
 いじめをする事は悪であり、他人に対する思いやりの心を教育するのなら、「 い じ め る 側 」には徹底した処罰か無視。そして「 い じ め ら れ る 側 」には徹底した保護と語りかけこそがいじめを無くすための最大の意識改革です。
 いじめその罪死刑に相当するという強い意識を持ち。教育とは知識を与えるだけではなく、「他人に対する思いやりと気配りと真心を薫陶するものである」という意識を持って教育者たる教師は児童・生徒と向き合っていただきたいと考えるものです。

 厳しい処罰と制裁は賛否両論あるのであるが、いじめをしたものは出席停止か家庭と学校に代わって児童・生徒を拘置し更生教育やボランティア活動をさせる社会的な施設が必要であると考えるものです。

 
本来ならば上記斜体部分の文章は否定したいものであり、倫理と心から他人を思いやる心を育成しなくてはならないのである。
 残念ながら自殺者が多発続出している現状といじめを短期的に収めるためには劇薬がどうしても必要です。教育の趣旨から言えば本末転倒なのですが、断腸の思いで提言せざるを得ないのは、現状ではいじめを無くす事は教育的手法では収まらず、強権的に罰則と制裁で押さえざるを得ないからなのです。
    
 いじめのやっかいな所は、いじめの行為と状況の状態が広範囲にわたり、様々な手段と手法があり、秘匿性が高く外部から実態がわかり辛い事にある。
 刑法に定められている違法行為のように、個々の犯罪行為の定義づけがあって、確実に処罰になる行為がはっきりしている場合は処罰や更生教育もしやすい。
 しかし、いじめの行為自体は定義しにくい、もしくは出来にくい行為が多く、一見すると正当な行為に見える行為ですら、実はいじめだったという事が事態の把握を困難にしている。

例として竹下内閣時代に流行った言葉と行為でホメ殺しというものがありましたが、掃除などの嫌な作業をさせるために「あいつ掃除上手だから」などとホメ言葉を言う事で無理やり嫌な作業を強制させるいじめで教師も周囲の子供達の声にだまされて、いじめられている子に「皆が誉めるのだからやってよ」という風に行為の強制のお墨付きを与えてしまう事も相当多いので、教師はきちんと状況と子供達の言動の裏に潜むものも看取しなくてはならない。
 いじめ行為は肉体的な暴力だけではなく、物品の隠匿や精神的な苦痛を行為や言葉、近年はインターネットの書き込みなどの文章によっても与える事である。
 ここできちんと区別しておかなくてはならないのであるが、いじめは一対一の関係ではなく一対多の関係であることに注意が必要である。 
 いじめ行為を行う者が直接的にも間接的にも2人になった場合は完全にいじめである。いじめは発端は1人であっても、個人の行動ではなく、集団の行為である。したがって教師などの指導者や権威者が介入を即時に行わないと短期間のうちにエスカレートして最悪の結果に突き進んでしまうものなのである。
 注意しなくてはいけないのは、一対一の関係におけるケンカや暴力沙汰や、何か気に入らない事があっての口論からの嫌がらせの段階。トラブルの関係者が2人だけで、2人の人間の間のコミュニケーションの行き違いの段階であれば、これはまだいじめではない。
 単純に2者間のいさかいであり、仲裁するなり、暴力に対しては正当な処罰を行うなど教育者としての指導を徹底すればよいことである。
 ここで手をこまぬくと大規模ないじめに発展する場合が往々にしてあるので、教師は児童・生徒の人間関係を細かく観察して把握し、コミュニケーションの状態をチェックして教育的な指導を適宜行う義務がある。
 細やかな日常の児童・生徒への目配りこそがいじめだけではなく学級崩壊などの異常事態を防ぐ重要な教育活動である。
 もう一つ重要な事は、教師はあくまでも教師であり、大人であり、児童・生徒の友人では無いという権威と矜持とけじめを持っていただきたいという事である。

 

いじめの原因・理由

通常は個人どうしのちょっとした諍(いさか)いから、腹いせのいたずらがエスカレートする場合
テレビや漫画などの面白いしぐさや行為、お笑い芸人の暴力的な行為をともなうボケと突っ込みなどを自分もやってみたいという軽い気持がエスカレートする場合。
遊びといじめの区別がついていない場合。(いじめのロシアンルーレット現象)
馬が合わないというか理不尽で感情的な理由であるが、気に入らない相手を少し困らせてやろうという小さな行為がエスカレートする場合。
部活や家庭や学業など様々な要因で発生するストレスとイライラのはけ口としてのやつあたりがエスカレートした場合。
思春期にありがちであるが、好意を持つ相手にきちんと意志が伝えられなくて、気を引くためのいたずらがエスカレートしてしまう場合。本来の目的を逸脱するために一番悲劇性が高い。
 
※ いじめのロシアンルーレット現象 
 近年目立つようになってきた、日替わり、あるいはある一定の期間を置いていじめられる子がめまぐるしく変化する現象である。バブル崩壊前後と家庭ゲーム機の性能が向上した1980年代の後半から目立つようになってきたいじめの現象である。
 従来いじめは弱いものいじめと軽いからかいのエスカレートであり、それなりに確固たる意志と目的のもとに実行されており。行為としては悪い事であり、絶対にやってはならない行為だが、理解可能な動機が見い出せていた。
 ところが、バブル崩壊後の社会の経済格差のはじまりや大人の人間関係のコミュニケーションのストレスなどが家庭を通じて子供達にもストレスを与え、バーチャルで現実感のないゲーム世界に子供達がのめりこむ事によって。生の人間とのコミュニケーション能力の著しい低下とゲーム世界で体験する失敗してもリセットしてやりなおすという失敗経験修復が現実には通用しないのにもかかわらず。ゲーム感覚をそのまま現実に持ち込んで、いじめもゲーム感覚であそびにしているところにいじめのロシアンルーレット現象は起きている。
 昔、それこそ昭和の30年代40年代にもいじめのロシアンルーレット現象は存在していましたが、この時代もいじめやケンカはありましたけれども、先に人間関係のコミュニケーションがあってお互いの性格を把握した上でごっこあそび(RPG)という役割分担のある劇のような遊びも成立していました。誰もあまりやりたがらない悪役も悪役を担当したからということでいじめにつながることもなく、きちんとけじめのついたロシアンルーレット的な遊びも楽しめたもので、必要以上にいじめられ役に負担はありませんでした。もっとも元々いじめられている子が遊びにはいるとかなり悲惨な状況があったことは事実です。
 しかし、いじめをプレイする事を目的に遊びをするということはあり得なかったものが、現在では子供のさまざまな遊びのなかにいじめという遊びがいつのまにか忍び込んで大きな顔をして居座っている事がいじめを悲劇的なものにしている最大の要因です。現代の子供達の感覚に定着しているゲーム感覚を教育し直さない限り永遠にいじめはなくなりませんし、ゲーム感覚をそのまま大人になったときにも社会に持ち込まれるととんでもないことになるわけです。
 もうすでにそのとんでもないことは敢えて言いませんが、社会現象として大きな問題になっています。
 
いじめのロシアンルーレット現象を無くすのは容易ではありませんが、無くすためには人間のお互いの思いやりとコミュニケーション能力を高める教育的指導を行う事が重要です。倫理観と初歩の心理学と交渉術を身に付けさせる為の指導とトレーニングが必要不可欠です。そのためには読書による空想力と想像力を養いつつ、会話形式の感想交流を作文も含めて情緒と感性を磨きながら他者の心を探る、他者に感情移入するトレーニングと教育指導が重要であると考えるものです。
 ゲームをするなとは言いませんが、現実とゲームの世界の常識を今一度、社会と家庭と学校が児童・生徒に教育する必要性を痛感します。子供の自殺の背景に、ゲームのリセットボタンと死者が蘇る、かなりリアルなグラフィックというかビジュアルのゲーム機の性能のせいか、死んでも蘇る事ができるというありえない事を信じている子供が多いのは問題だと考えます。
 命の重さと現実とゲームのけじめをもう少し教育しないといけないのと、人間は機械やパソコンではないのだから、壊れたから修理が効くとか、嫌なことはリセット状態(いじめる対象の子を替える)にすれば忘れて元の精神状態に瞬間的に戻るというものではないのだということを理解させなければ、いじめのロシアンルーレットは止まらないと考えるものです。
   
   
         ※ 注意事項
いじめというのは明らかに嫌がらせであり、いたぶりである。単純な暴力と制裁とは異なるのでよく見分ける必要がある。
 特定の子に対する反復と継続性のある暴力はいじめであるが、ランダムな暴力行為とケンカは峻別する必要がある。 最近は少なくなったが、一見いじめと似ている、子供社会の秩序と理由のある制裁行為も区別しなくてはならない。このことを理解しないで、大人の思い込みを押し付けた結果として教師や大人に対する制裁としての学級崩壊もごく希であるが、ある事に留意すべし。
  
いじめのパターン
  @ 最初は一対一から始まる場合 
  A 
最初から一対多で始まる場合 
  B 
本来負けることがありえない多対一で始まる場合 
  C 
滅多にないが多対多で始まる場合 
  D 
権威者(教師・クラスリーダー・ガキ大将)による目付けにより始まる場合
 解 説  
@ 個人的ないさかいや口論の結果の嫌がらせの常態化テレビなどのものまねのからかいのお試しを普段からコミュニケーションができている友人ではなく、関係を開始したい相手にむりやりしかけ嫌悪感を与える事の常態化。
A グループ内の弱者に対するいたぶりの常態化
B クラスのリーダーシップを取る子が特定の仲良しグループに対しての嫌がらせの常態化。
C 仲良しグループ同士の抗争と対立。
D 概ね権威者(教師・クラスリーダー)の軽はずみなからかいと軽い懲罰行為や良くも悪くも過重なコミュニケーションと目付けなどから周囲が悪ノリを始める。
  
いじめる側のタイプ分類と分析
 いじめる側のタイプとしては、一般的に普通の子が多い。いじめであるのか単なる暴力なのかわかり辛いのは、俗に不良(ワル)と呼ばれるタイプの子の暴力。これはよく観察して見分けないといけないので要注意。
 優等生の子によるいじめは頭の良い知能犯なだけに分かりづらい。
 また、カリスマの子によるいじめいじめのロシアンルーレット現象を引き起こす最大の原因でもある。
   
普通の子の場合  一番やっかいであり、いじめの手法も状況も広範である。   
   男女関係なく昔から言われている普通のいじめっ子の四大特徴
 ・ 
ちょっと賢い(プチ優等生&プチ秀才) 
  ちょっと体が大きかったり、ちょっとスポーツができる(プチガキ大将)
 ・ 
本人が思うほど大したことではないのであるが、自分の気に入らないものを排除したがる
 ・ 
本人は自覚がないが、自分の感情のままに行動する(プチ自己中)
   
男子対男子
基本的に暴力もしくは服を脱がせたり武術(プロレス・柔道)などの技による肉体的ないたぶり、物品隠匿の物理的な嫌がらせが多い。
男子対女子 
容姿に対する批評や物品隠匿の物理的な嫌がらせ、口頭や態度による精神攻撃が多い。
女子対男子 
基本的には暴力はほとんどないが、物品隠匿や無視や口頭や態度による精神攻撃が多い。
女子対女子 
表面に出にくく、物品隠匿や非常に陰湿な口頭や態度による精神攻撃が多い。特に携帯サイトの書き込みの悪口の陰湿さと執拗さは大人には想像しがたいものがある。
   
俗に不良(ワル)の子の場合
 
自分の感情のはけぐちとして弱者に暴力を振るうケース。
 ※気をつけなくてはいけないが、通常不良(ワル)と呼ばれる子の場合。秩序意識があるケースがあり、正当な理由があっての制裁という意味での暴力もあるので、いじめとは峻別する必要がある。
    
優等生の子の場合 
 
やっかいというよりも、わかり辛さと理不尽さでは群を抜くいじめといえる。いじめを行う者がなまじ良い子であり。成績優秀で家庭も公務員や会社役職者などのそれなりに良い家庭であるケースが多く、教師も学校も体面と評価の影響が大きいだけに腫れ物にさわるような扱いしかできない。
 最悪なのは、頭が良い故の知能犯というか教師ですら言いくるめられてしまう理論武装の達人である場合がほとんどである。やり口もかなり陰険で計画的である。教師を恐喝するのは不良(ワル)だけではない、優等生の子の恐喝ほど始末の悪いものはない。
 いじめを行う理由は、ストレスのはけ口である場合と学習上だけではないが、ライバルの足引っ張りのために行うケースがある。
 直接いじめるよりも他者を教唆したり支配していじめを指揮する黒幕の場合が多々あるのも特徴である。肉体的ないじめよりも物品隠匿や巧妙な精神的いたぶりが多い。
 教師が見落としがちであるが、いじめのロシアンルーレットを引き起こす場合もかなりある。
    
カリスマの子の場合
 カリスマというのは本来宗教用語であり、周囲に精神的に服従させる何らかのパワーを持った存在の事を表現しており。現代的にはカリスマ美容師やカリスマ販売員などの表現に見られるように他とは違った独自のやり方で支持を集めている日常的な存在に対しての敬称のような表現である。

 
児童・生徒の場合のカリスマの定義は非常に難しい。というのは単純な優等生ではカリスマにはなれないし、同様に単純にスポーツができたり、体力や体格的に優れているという理由でもカリスマにはならない。周囲の子供達をウムを言わさず従える雰囲気と周囲の子供達が敬意(妬む気持を越えてしまっている状況になっていることが必須条件)を払う技術や物品を持っていて、言葉なくして服従してしまうような心理的パワーを大人からみればささやかであるが持っている子供がカリスマの子といえる。
 このささやかなところがクセモノで判り辛いので、教師としては要注意と要観察です。
 
判りやすい例として女の子の場合は、お嬢様タイプがカリスマの代表例であり、男の子の場合は幼稚園時代からの幼なじみ集団のなんとなくリーダータイプが代表例である。
 
男女問わず特技があったり、ややもすると面倒見の良い子もカリスマの子になりやすい。
 

カリスマの子の大きな落とし穴は、意外と目立たない場合があって。一見普通の子に見えてしまい、教師としてもどの子がカリスマの子なのかわかりづらいという点である。大人の感覚ではまずわからない理由と状況でカリスマの子は存在しているのである。
 
カリスマの子の一言は本当に重く、瞬間的にクラスの世論をリードしてしまいます。下手なガキ大将や優等生も太刀打ちできない存在である。
  ある意味カリスマの子を教師の側に取り込んでしまうと、学級崩壊はありえなく、いじめもピタリと収まるまさに劇薬のような存在です。このようなカリスマの子が無邪気というか無責任に遊びとしていじめを行うといじめのロシアンルーレット現象が多発しますし、最悪学級崩壊もありうるわけです。

 

いじめの解決手法と計画
 いじめは初期段階で発見して対処がうまくいけばガンと同じくらい効果的な解決が可能である。時間が経つほどに解決は困難になる。
 いじめの解決はいじめが犯罪であるという事を教師も児童・生徒も社会の大人も認識することである。
 いじめる人間を教育指導するとか見守って傍観して自然にやめさせるという態度は百害あって一利なし。果断に処罰しなくてはならない。いじめをしたら死刑くらいの強い姿勢がなくては永久になくならない。
 いじめは周囲(教師・クラスメート・親)があいまいな態度や無関心だと永久に解決しない。
 いじめは強力な権威と処罰をもって臨まなければ解決しないものである。なあなあのご都合主義では、解決するどころか、ますますエスカレートしてしまうだけである。
  
 よくなされる安直な解決方法
 T 放置
 U クラス替えと担任の変更
 V 転校
解 説

T
の放置するのは言語道断であるが、現実にはこれがもっとも多い。

U
のケースは多少気の利いた校長や教頭がいる学校の場合行われるが、いじめの根本的な原因を解決しているわけではないので別の形でいじめは発生しつづける。

V
の転校は劇的な非常手段である。やっかいごとを無くしたいという学校側の思惑と子を救いたいという親の要望で実際にかなりあるが、いじめの対象者が別な者に変わるだけで、根本的にはなくならない。
    
真の解決方法
  
 いじめがなかなか解決しない理由の一つとして、教師に時間的にも精神的にもゆとりがない事がある。
 現在、教育再生会議などで指導力不足教員の排除と質の高い教員の育成ということで、学校の競争原理導入や教員免状の更新制を導入しようという愚かな提言がありますが、教師はただでさえ本来の教育に専念する事ができないほどに日常の雑用に小学校・中学校・高等学校を問わず追われています。
 教師に教育に専念できるだけのゆとりと支援こそが、いじめのみならす学級崩壊などの学校現場における諸問題を解決するための最大の特効薬です。
 このコーナーで取り上げる問題ではありませんが、指導力不足教員というのは厳密な意味では存在しません。ただし、教員もしくは教育者としてという以前に人間として大人として問題のある人間が教師をしているケースは少なからずあるのは事実です。
 実例として
小学校1年生の前で性的なテクニックの話をして男子児童をからかったり、小学校の低学年の女子の身体にコミュニケーションと称して必要以上に触りまくる教頭が北海道のとある地方にいました。東京都の中学校の教頭で中学1年生の男子生徒に同性愛行為を強要していたケースも現実にあります。個人の性的な趣味や嗜好について口だしする気も、同性愛を否定する気もありませんが、立場とか場所をわきまえていただきたいのと、児童・生徒の人格を卑しめるような言動は、厳に慎んでいただきたいと思うものです。これは指導力以前に人間性とモラルを疑いたいものです。
 
話がそれましたが、教師に事務的な雑用を課す校務分掌事務職員教育秘書制度を設けて担当させるべきです。教師には学習指導と教材研究と児童・生徒の総合的な観察と生活指導に専念できる体制を用意することこそ、必要不可欠です。
 
提案としては複数担任制をとるのであれば、1人が事務処理と一つの教科の授業に専念し、もう1人は残りの全ての科目と教室に常駐して児童・生徒に目配りに専念するくらいの体制がいじめの問題解決のみならず必要と考えます。「人件費をどうするのだ」という声があると思いますが、教育とは国民と未来へのかけがえのない投資です。採算と効率を考える性格の事業ではありません。無駄に遣われた税金の金額を考えた場合に、その一割でも教育に使われていたならば今日のような教育問題やいじめの問題は起こらないで済んだと思うものです。 
 いじめがなぜおこるかというのは、想像力がないからである。自我の発達途上にある児童・生徒ゆえに他人や他者の立場に立つという視点が欠如しているのは、やむおえない状況である。
 しかし、他人に対する思いやりや、他者の立場や視点に立つという指導を充分に行うことが、いじめの撲滅のために重要な事である。
   
 ※ 重 要 いじめを行う屁理屈はたたきのめす
    
いじめはリンチ(私刑)であり、見過ごしてはならない犯罪であり、いじめを見過ごしている事は、教育と民主主義社会の恥である!
   
 小学校生や中学生にいじめる理由を問いただすと、理由があるからいじめると答える児童・生徒が多い。いじめという行為がいかなる理由においても悪であるという認識がない上に教師や大人がきちんとした指導と教育をしていないという証左である。いじめる理由は屁理屈であり、いじめという行為を許さないという姿勢と取り組みがいじめを撲滅する近道である。
 よく聞くいじめの理由は、「体臭」があるとか「約束を守らない」などのいじめられる側に問題があるとされる理由が言われるが、これは相手に対して指摘して対処と反省を口頭で言うか、教師が指導するべき事である。いじめという卑劣な手段で相手をわけわからないままに困らせる事はあってはならないことである。
 教育者たる教師と大人としての親はいじめの理由を聞いたときにはいじめる側にはいじめはどんな理由であれ犯罪であり、やってはならないと指導しなくてはいけないし、屁理屈は一刀両断しなくてはならない。
 いじめの理由がいじめられる側の是正しなくてはならない衛生的な問題や生活習慣や問題行動にあるのであれば、別室なり家庭訪問するなりして。他の児童・生徒から見えない場所で指導教育し親にも事情をきちんと話して協力を仰ぐ事が大事な事である。
 いじめをなくすためには、教師と親と社会が毅然とした姿勢でいじめを否定し、児童・生徒に対して細やかな気配りと対応がなされなくてはならない。
  
いじめられる子の特徴として

 @ 
集団行動になじめない
 A 
動作が遅く、全体の流れについていけない
 B 
遅刻や忘れ物が多い
 C 
学習面での遅れがある
 D 
素直でおとなし過ぎる

 昔から以上の五大要素があるが、いじめられる原因どころか充分に周囲が気を使って保護しなくてはならない要素であるのに放置しているのである。

 保護育成しなくてはならない理由
   
 要素 @ 
集団行動になじめない 
   
恐がり、恥ずかしがりやの場合がある視力に問題がある場合もあるので要注意。
   
 要素 A 
動作が遅く、全体の流れについていけない   
精神と肉体的な発達障害の可能性もあるが、難聴の可能性もある聴き取り不十分からの行動遅延の可能性もある。特に感音性難聴※の場合は軽度あるいは自覚がない場合でも聴き間違いによる行動逸脱もあるので気をつける必要がある。
   
 要素 B 遅刻や忘れ物が多い
  
家庭の生活習慣に問題がある場合が往々にしてあるので、家庭との連携が必要である
   
 要素 C 
学習面での遅れがある
  
これは教師の腕の見せ所である。つまづいている学習の補助指導をするべきものである。
   
 要素 D 
素直でおとなし過ぎる  
素直でおとなしいと言う事は、恥ずかしがりや消極的という場合もあるが美点であって決して欠点ではない。他人の言動に流されやすいので、注意深く見守り、積極性と自立心を周囲や教師が育むべきものである。

  
※ 感音性難聴とは音が小さく聴こえるのではなく、音がぼやけて聴こえるという聞き間違えを起こしやすい難聴の状態です。 詳しくは → 聴こえの泉



 クラスにおけるいじめの発生要因と状況


 表現が悪くなるが、一つのクラスの中において、そのクラスの標準的なアクションスピードよりも学習・動作・思考が遅い、俗にグズとかのろまあるいはトロイとされる子がいじめのターゲットになるというのが今も昔も変わらない、いじめの本質である。
 
従って、あるクラスではトロイとかグズというレベルであっても、別のクラスに行くと、そうではないというケースが非常に多く。クラス替えでいじめがとりあえずストップするのはこの理由が大きい。
 また、いじめられる側いじめる側が逆転する現象が起こる理由は、ひとつのクラスの中のアクションスピードと価値観が変化するからである。

 
※ アクションスピード クラス単位の集団における学習や動作や思考反応の平均的な速度
同じ学年であってもクラスが違うと大人と子供ほどの差異がでる発達段階のレベルの違いのものさしが容易につくれるものではないが複数のクラスを観察して相対的に教師が判断して対処しなくてはならない。小規模の学校の場合は、カリスマの子のアクションスピードを目安にして、相対的に指導を進めると学級崩壊やいじめは起きない。優等生や普通の子の平均にあわせると学級崩壊や教師への不信を招く事が往々にしてあるので要注意である。


 
価値観の変化というのはわかりづらいと思うので具体例を示すと

 T テレビや雑誌などのメディアにおける流行の変化
  
・ お笑い芸人などの人気と芸の変化
   ・  メディアがもてはやしている流行やものの考えの変化

 U 学期と学年が進むことによる学習等のアクションスピードの変化
  ・
学習内容の複雑化により一人一人の理解力の差の逆転
  ・
体育などで体格と体力の変化による力関係の逆転

 
以上の変化は小学校・中学校・高校と等しく起こりうる現象であり、昨日のいじめる側が明日のいじめられる側への転落があった場合は報復という要素も入り込み、いじめの実情は救い様のない陰惨なものになる。

 
いずれにしてもいじめは理由と状況がどうあれ、強力にストップをかけなくてはならないものなのである。
 
特に声を大にして言いたいのは、メディア特にテレビのバラエティ番組における番組構成のあり方とお笑い芸人の芸風である。
 
笑いは世に必要な事であり、コンビ同志では了解していることとはいえ、どつきや突き飛ばしといった準暴力的行為の芸は観客として見ていてもあまり感心しないものである。大人だけが観るような場所ではともかく、不特定多数の児童・生徒などの未成年者が視聴する可能性が高いテレビなどのメディアでのどつきや突き飛ばしといった準暴力行為を行う芸は控えていただきたいと考えるものである。

要注意

従来のいじめとは異なるタイプのいじめのロシアンルーレット現象についてはカリスマの子の動向を見極める必要があります。普通の子のいじめとは明らかに異なりますが、カリスマの子のみきわめは難しいものです。普段から教室の空気と児童・生徒の流行と自分の担当するクラスや教科の教室の状況を学習面だけではなく細やかに観察し、適切な指導を適宜教科指導や雑談にからめて行わなくてはならない
  
 解決策は教育的指導とカウンセリング
いじめのパターンでよくあるタイプとして、本来いじめのつもりではないが、芸能人やアニメなどの面白いやりとりのコミュニケーションやちょっとしたからかいのつもりが、その行為をされる相手にとっては苦痛であり、いじめにエスカレートした場合。
 指導としては、相手の気持を考える事を指導し、ふざけあいやからかいというお遊びは、気心の知れた者同士が暗黙の合意のもとにやるものである事を教育指導する必要がある。
 むやみやたらと誰彼かまわず、からかいやお笑い芸人の芸やアニメやマンガやゲームの世界の動作を現実の教室に持ち込まないように指導する工夫が必要である。
 むしろ、アニメやマンガやゲームなどの世界にもある思いやりや勇気を現実にも実行するように実例を挙げて指導すべきである。実例としてポケットモンスターのアニメなどは相手への思いやりや心の成長がテーマになっているわけであるから、教育者としても積極的に利用するべきと考えるものである。
  
 カウンセリングの問題点
 いじめの解決と防止のためにカウンセリングは、いじめる側にもいじめられる側にも双方に必要なものです。スクールカウンセラーの配置が少ない現状を打開すべく配置のための予算措置などがとられつつありますが、現状の運営システムのままであれば、スクールカウンセラーを全ての学校に配置しました。
 しかし、いじめはなくなりませんでした、どうしましょうということに必ずなります。スクールカウンセラーはあくまでも学校の中でしか行動できません。いじめの原因はいじめの現場は学校であっても、社会としての家庭に原因の多くがあります。社会としての家庭にカウンセリングと補助を行わなければいじめはなくなりません。
 学校だけではなく地域と家庭にも行動できるカウンセラーでなくては無意味です。本来ならば家庭との交渉は教師の役割ですが、家庭との交渉ができるだけの余裕も能力もないのが現実です。教師に代わって家庭との連絡プラスとカウンセリングをあわせて行えるようなシステムの構築こそがいじめをなくす最大の力であると考えます。
 全部の学校にスクールカウンセラーを置くよりも、拠点の学校にカウンセラーのセンターを置き必要に応じてチームを派遣するというやり方の方が予算の面でも効率的です。
 いじめというのは少なくとも一学年一いじめ、下手すると一クラス一いじめがあると考えた方が現実的なのに「全ての学校に配置しなくてもよいのか」という意見もあると思います。
 これはいじめの初期対策は教師と学校がおこなう責任まで放棄させるべきではないという考えです。教師と学校が行動できない部分を補うということであり、小規模校などでは保健室や養護教諭の手を借り、スクールカウンセリングのハードウェアとしての場所を確保し、本格的な補助や援助は機動的な外部チームに権限と権威を持たせて行う方が効果があります。
       
いじめを止めるための教育的指導と手段
いじめの問題は解決方法が千差万別で個々のケースが一億あれば一億通りの解決方法を考えなくてはならないほど込み入った複雑なものです。
Aというケースでは成功した方法がBやCのケースにもあてはまるとは言えません。ただ、もう時間がない、どうしてもとめなくてはならないという場合の方法はあります。
いじめの起きる場はどこかというと、ひとつのクラスがその劇場です。いじめという舞台にあがっている役者を見ている観衆が必ずいますし。サクラではありませんが嫌々ながら舞台に華を添える役目をしている観客と照明や音響といった裏方がいます。
 この観衆をクラスの規模にも寄りますが、最低でも5人組織化していじめをやめさせるための旗手にするのです。教師と教育者のカンチガイとして、指導は口頭で伝達したら済むと考えて、全校集会やクラスのホームルームでの訓示や呼びかけで単に「いじめは悪いことだからやめなさい」とか「いじめを見たらとめましょう」などというお題目を並べた所でいじめはとまらないし、いじめを身を挺して止めようという児童・生徒は残念ながらでません。
 嘆かわしい話しですが、全校集会などでいじめを見たら報告するように呼びかけた校長に報告に行ったら「見なかった事にしなさい、よけいなことをしなくていいから」と言われたという信じがたいケースが多々あり。子供達の教師と大人への不信を煽っています。
 
いじめをやめさせるための旗手たる5人を児童・生徒が自ら自主的に編成ということは、現実的にまず不可能です。
 ここで、教師は呼びかけではなく行動するのです。いじめ劇場の観客から5人抜き出して教師が編成するのです。一人一人呼び出して編成するのでは、いじめ劇場の出演者にわかります。まとめて5人なり10人を「ちょっと先生の手伝いしてほしいから居残って」とかそれなりの理由をつけて呼び出して、いじめをとめるための旗手グループを編成するのです。
 
教師も忙しいわけですから24時間クラスを監視なんて事は不可能です、児童・生徒の力を利用すべきです。教師の指導力というのは学力をつける事だけではありません。緊急事態の解決のために陣頭指揮を行ったり、児童・生徒がとまどっていたら進むべき道を示し、時には作為的に誘導する事も必要です。
 
特にいじめは児童・生徒の心理としては大人に介入されたくない事でありながらも、助けを求めてもがき苦しんでいるという二律背反する精神と状況です。必要以上に介入しないが、要所と勘所とツボを押さえた介入こそがいじめ解消の特効薬です。