日本の地方分権改革の課題と展望

 2003年9月24日 韓国釜山発展研究院主催
「地方分権の成功的な法制化のための  
韓・仏・日 国際セミナー」

  第2分科会 発表  

1.はじめに

 中央政府から地方自治体への権限と財源の移譲をめざす地方分権改革が、近年、世界各国で推進されている。統治構造や地方制度は国によって異なるものの、20世紀後半の経済成長、とりわけ福祉国家の実現によって肥大化し、硬直化した住民サービスをより効率的に、より住民のニーズに応えうるものにするために、地方の自己決定権──自律性──の拡大と、財政基盤の強化──自立性──の拡充が求められているのである。

 日本では、80年代の半ば以降の社会の成熟化によって、もはや全国一律の「国土の均衡ある発展」ではなく、個性ある地域つくりが求められるようになった。1995年に設置された地方分権推進委員会(分権委)は、それまでの高度成長を支えてきた中央集権的システムを改革し、地方自治体を国と対等の関係に置く大規模な制度改革を達成した。韓国でも、90年代に大規模な地方自治の充実政策が実施され、本年7月盧武鉉政権の下で、次なる地方分権推進のための提案がなされたと聞いている。

 日本では、国の地方自治体に対する統制を大幅に縮減した分権委による第一次分権改革の後、懸案として残された税財源の国から地方への移譲を実現すべく、分権委の後継機関として2001年に設立された地方分権改革推進会議が取り組んだ。だが、財政危機が深刻化する日本において、地方自治体が期待する税財源の移譲を実現することは容易ではない。本年5月から6月にかけて、分権会議を主たる議論の場として、補助金等の削減と地方交付税制度の改革、そして税源移譲を含む国と地方の税源配分のあり方という3つの課題を一体として解決しようとする「三位一体改革」が審議され、大きな政治的争点となった。

 以下、本稿では、まず、地方分権に関する思想や理念を整理し、その後で日本の第一次分権改革、第二次分権改革、そして分権改革の今後の展望と課題について論じることにしたい。

2.地方分権改革の背景と理念

1)分権改革の思想
 冒頭で述べたように、地方分権の推進は、世界的なトレンドであり、それに対して正面から反対する声は、少なくとも日本ではないに等しい。

 では、なぜ地方分権が必要なのか。──しかしながら、この問に対する解答は必ずしも一律ではない。大きな傾向として、あるいは流れとして分権改革の必要性を認め、分権推進を支持する声は聞かれるものの、さらに踏み込んで何故に地方分権が望ましいのか、と尋ねたとき、その理由は異なる。そのことが、分権推進の具体的な方策の決定において、意見対立の原因となっている。

 分権が必要とされる理由について整理すると、大別して、民主主義論に基づくものと、行政改革の観点からのものとにまとめることができよう。

 第1の、民主主義論に立脚する考え方とは、地方自治は、地域に住む人間にとっての固有の権利であり、有効な参加に基づく住民自治の拡充こそ、国全体としての民主主義の実現にとって望ましいという考え方である。日本の場合、このような理念は「地方自治の本旨」と明記され、憲法で自治権が保障されている。戦後の地方制度は、このような観点からみたとき、過度に中央集権的であり、地方の自治権を制約していた。したがって、地方分権によって、憲法の理念に則った自治体を確立すべきであるというものである。

 他方、第2の行政改革論をベースとする分権論は、むしろ1980年代以降の世界的な行政改革の発想に基づく。要するに、大きな政府、とりわけ大きな中央政府は非効率で国の活力を萎えさせるという認識から、「官から民へ」という発想と同様に、「中央から地方へ」の決定権の移譲を進め、地域間競争の導入により、国全体としての活力の増強を図ろうとする考え方である。これは組織論でいえば、事業部制であるとか、分社化による部分的最適化と部門間の競争によって、効率化を図ろうとする発想と同一であり、地方分権による地方への事務権限の移譲は、行政サービスの消費者に近いところで意思決定がなされ、ニーズが政策に反映されやすいという点からも望ましいとする。この考え方の場合、地方分権は、原理としてそれが望ましいというのではなく、あくまでも国全体の行政の効率性の観点からそう主張される。したがって、分野によっては、集権的システムの方が効率的と考えられる場合には、必ずしも分権は推奨されないことになる。

 単純化していえば、これら二つの考え方は、後者において分権が効率化を推進する限りにおいて一致し、その限りで「同床異夢」の分権改革が推進されることになる。しかし、一度、地方分権が効率化と結びつかないことが明らかになると、そこから真の分権改革を求めて内部抗争が勃発する。後述するように、日本における「三位一体改革」をめぐる抗争は、そのような認識のズレが、問題として顕在化したことに起因するといえよう。

 分権改革のバイブルとしてしばしば引用される「ヨーロッパ地方自治憲章」が説く理想的な地方自治体像は、前者のイメージに近いと思われるが、とくにそれが説く「補完性の原理」が高く評価される背景には、EU統合の強化によって、国家を超えた中央集権的システムが形成されてきたことに対する反発があるといえよう。住民から身近なところでの意思決定が、改めて重視されているのである。

2)地方自治体の理念型とその限界
 ところで、地方分権が求められるとき、それが向かおうとしている理想的な自治体像とはどのようなものか。それは単純化していえば、地域に住む住民が自ら共同体の意思決定に参加するという意味での@「住民自治」と、その地域で実施する施策や行政活動がその地域内で完結している、換言すれば、それらの施策について自分たちで意思決定できるというA「行政活動の完結性」、そして、それらの活動に必要な財源を自ら負担するというB「自主財源」という要件を満たす自治体像ではないだろうか。(註)

 こうした自治体が存在するとするならば、そこでは、自己完結的な共同体を形成することができるであろうし、それが他の自治体や広域政府及び中央政府との関係を断つことができるほどに自律的かつ自立的であるならば、むしろそれは独立に近い状態といえるだろう。こうした理念型に近い自治体は、19世紀のアメリカ合衆国には存在していたであろうし、今日でも途上国の農村部には存在しているかもしれないが、現代の先進国においては、もはや存在しないであろう。

 大都市が発展し、多くの人々がその区域外から通勤等で流入してくる時代にあっては、理想的な住民自治の実現は困難であるし、とくにモータリゼーションの進展による都市圏域の拡大は、自治体の区域内で完結した施策の立案、実施を困難にしている。まして、巨額の富を生み出す力をもつ都市とそうではない農村部の経済力の格差は大きく、一部の裕福な都市を除いて、自主財源で、現代の高度で専門化した行政サービスの経費を全額賄うことのできる自治体は少ない。このような現実から、とくに都市自治体では、そこで発生する複雑なニーズに対応するために、その行政機構の専門化、それに伴う官僚制の肥大化が進むであろうし、広域的課題に対する政策の立案実施は、どうしても広域政府ないし中央政府の権限とされがちである。まして、財政面に関しては、行政サービスの水準化を図る必要からも、大規模な財政調整の仕組みを導入せざるをえないのである。

 現代の自治体の状況をこのように捉えるならば、そこから惹起される問題は、そもそもの自治体のあり方とその適正規模である。換言すれば、今日のようなインターネットの時代に、理想的な住民自治が可能な自己完結的な共同体を形成し維持することが可能かという問題である。今日の自治体、とりわけ基礎自治体が、地域住民の相互扶助に基づく地域共同体としてだけではなく、住民に対する高度な行政サービスの供給主体となっているとき、それを正面から認め、共同体としての性格よりも、効率的にサービスを供給できる規模と機能を備えた地域の機関と位置づけることにも、それなりの根拠はあるといえよう。

 共同体としての性格を弱めても、このような機関として自治体を捉えるとき、そこからは、規模拡大のための合併の要請と、行政サービスの供給主体間の適正な関係、要するに合理的な「政府間関係」の形成の要請が出てくることになるであろう。そのような配慮をしつつ、そのなかでどのように、そしてどれほど地域共同体としての「自然村」を維持することができるか。現代において、安定した行政サービスの供給主体の確立と、理想的な地域共同体の維持とはトレード・オフの関係に陥りがちであり、そのような前提の下で、より望ましい分権改革の姿が追求されてなければならない。このことを踏まえて、次に日本の分権改革について述べることにしよう。

3.日本における第一次分権改革

1)地方分権推進委員会の発足
 日本において、地方分権の動きが本格化してきたのは、1990年代における政治情勢の変化を契機としている。1993年、38年間続いた自由民主党の一党優位体制が崩れ、自民党が政権から去り、連立政権が成立した。それに伴い、これまで消極的であった政権が、地方分権に向けて大きく舵を切る。93年の国会決議を経て、95年地方分権推進法が成立し、同法に基づいて地方分権推進委員会(分権委)が設立された。

 この分権委は、地方分権の推進において大変大きな役割を果たした。7人の委員と事務局、それに地方分権を支持する当時の自治省(現総務省)や地方自治体との連携プレーが奏効し、戦後50年近く続いてきたわが国の中央集権的な行政システムの改革に成功したのである。

 それが可能であったのは、今述べたような政治的な要因に加えて、日本の社会が変化し、それ以前の時代と異なって、地方自治体が自立を求めるようになったことも忘れてはならない。少なくとも1980年代までは、日本はまだ成長段階にあり、全国的に画一的な公共施設の建設や社会資本の投資が目標とされた。要するに、全国に自動車の走れる舗装道路網を整備し、学校の校舎を鉄筋化し、どこに住んでいても病気になれば安心して医療を受けることができるような社会を、できるだけ早く作り上げることが急務と考えられていたのである。

 そのためには、各地域ごとの事情に応じて、地域住民の意向を聞き、それに応じて地域で決定していたのでは間に合わない。そこで、中央政府で計画をつくり、画一的なモデルに従って、そうした社会の整備の急速な推進を図った。また、充分な財源をもたない地方も、都市部のような社会の形成を夢見て、同じような形での地域社会の形成を期待をした。一時、霞ヶ関の常套句であり、今日では批判されている「国土の均衡ある発展」とは、まさにそれを象徴するキャッチ・フレーズにほかならない。

 しかし、1980年代も後半になると、そのような社会の整備は全国的にほぼ完成した。もちろん、地域的に不充分なところもあるが、概ね最低限の社会資本の整備は完了したといえよう。そうすると、わが国の地域の要望も、それまでとは異なり、画一的なものから、地域に応じた個性あるものに変わってきた。より一層質の高い施設やサービスを求めるものもあれば、開発は求めず残された自然環境の保護を重視する地域も出てきたのである。そうなると、このような多元的な地域の要求に対して、これまでのような一元的な中央集権的システムでは対応することができない。そこから、地方分権への潮流が生まれたといえよう。

 こうした政治的要因と社会的要因という追い風を受けて、分権委はスタートしたが、もちろんその航路は決して安泰なものではなかった。既存の集権的システムの下で確立されていた既得利益の体系は、強い抵抗勢力となって改革に立ちはだかった。分権委の労力の大半は、その抵抗との戦いに費やされたといってよいが、それでも一定の成果を上げることができた一因は、このような追い風が吹いていたからである。以下、分権委がめざした分権の理念と、その成果について述べることにしよう。

2)地方分権の理念
 分権委が掲げた地方分権の理念は、それまでの中央集権的な行政システムを改め、地方自治体の自己決定権の拡充をめざすことであり、換言すれば、地方の自己決定、すなわち自律性を制約している、中央政府の諸制度を廃止縮減することである。そして、中央政府と地方自治体との関係を、それまでの「上下主従の関係」から「対等協力の関係」に転換し、組織的な統制関係から、法令に則った関係にすることである。より具体的にいえば、それまでの中央政府による地方の統制は、大別して、地方の実施する事務権限を制約するものと、地方への財源移転によるものと二つある。この両者を改革し、中央政府による統制を縮減することが目標とされたのである。

 分権委は、これら二つのうち、まず事務権限の改革に取り組んだ。日本の場合、中央集権的システムの問題点は、地方自治体の事務権限が少なく、したがって地方のできることが限られていることではなく、むしろ地方は既に全行政事務の6割を担っているが、それらの多くが国の詳細な統制・関与を受けていることである。その象徴が、地方自治体の首長を国の下部機関として位置付ける「機関委任事務制度」であり、したがって、事務権限における分権改革を実施するためには、まずこの機関委任事務制度を廃止することが必要であった。

 その際、問題となるのは、制度を廃止しても事務そのものは残ることから、それらの事務をどのようにして実施していくかということである。ここで、分権委は、従来の機関委任事務を、原則として、その地方自治体が法令の範囲内で自由にその内容を決定できる「自治事務」と、法律によって地方自治体に受託されている「法定受託事務」の二つの類型に再編し、両者とも地方自治体の事務とするという新たな制度を提案した。

 また、機関委任事務と並んで、地方自治体を拘束する制度として批判を浴びていた、地方に一定の職や組織を義務付ける「必置規制」も改革の対象とされた。必置規制によって、地方は地域の実情に応じた組織の編成を妨げられていたからである。さらに、こうした中央政府による統制の制度とともに、重要な改革の対象と考えられたのが、中央政府と地方自治体との法的紛争の解決の方法である。従来は、中央政府の優位、すなわち中央政府の法令解釈が正当な解釈であることは当然のこととされていたので、一部の限定された場合を除いて、法的紛争自体存在しないといってもよかった。しかし、地方の自治権を確立し、その自律性を担保するためには、中央政府と地方自治体とを対等な関係に位置づけ、両者の間で紛争が生じた場合には、中立的な機関、要するに最終的には裁判所によって解決する仕組とすることが必要である。

 第2の財政面の分権改革については、まず何よりも多数の項目があり、その使途を詳細に統制することで地方の自律性を縛っている国庫補助負担金(補助金等)を縮減廃止し、それに向けられていた財源を地方が自由に使える一般財源にすることが必要である。その方法は、一般的には日本における財政調整の制度である地方交付税に振り替えることであるが、それだけだと歳出面における自由度は高まるが、歳入面における自由度はない。要するに、行政サービスの質量に応じた負担を求めることができるような、受益と負担の関係が明確な自律的制度にはならない。そこで、そのような歳入面、換言すれば、入口における自由度を上げようとするならば、地方に税源を移譲し、地方が自らの判断で課税と税率の決定ができるようにすべきであるということになる。

3)分権委による改革の成果と残された課題
 このようなデザインに基づいて、分権委は分権改革に取り組んだ。その成果については、多言を要しないであろうが、第1の機関委任事務制度の廃止をはじめとして、必置規制の廃止縮減等の事務権限の改革については、大きな成果をあげたということができる。それによって、明治時代以来の日本の中央集権的なシステムの基本的構造が変革されたのである。中央政府と地方自治体間の紛争についても、係争処理機関が設けられるとともに、最終的には、原則としてあらゆる事項に関して、裁判において解決を図る制度が整備された。

 他方、第2の財政制度の改革については、みるべき成果はなかった。改革の取組みが、まず事務権限に向けられたことや、次第に悪化してきた国の財政事情が足枷になったこと、また権限はともかく財源に関することについては所管している省の抵抗が一段と強かったこと等が原因となって
、補助金の一部しか廃止できなかった。しかし、分権を実のあるものにするためには、財源における分権は不可避である。分権委は、最後まで財政面における分権改革の努力を続けたが、2001年夏、1年延長された任期を終え、幕を閉じる。その際、それまでの分権改革の狙いと成果、そして残された課題を綴った最終報告を発表している。その最終報告の中で、残された最大の課題としてあげているのが、財政面の改革であり、今後第二次分権改革において進めるべき財政改革について、税源移譲を中心としたその具体的なあり方を示している。

4.第二次分権改革

1)分権会議の発足とその任務
 分権委の最終報告で「税源移譲」について明記し、さらにそれがその年成立した小泉内閣の「基本方針」に書き込まれたことから、その後の分権改革の流れはそれまでと大きく変わることになる。すなわち、分権委の後継機関として、地方分権改革推進会議(分権会議)が設置されたが、この分権会議の委員の大半は新たなメンバーであり、何よりも、分権委の場合には、総務省(旧自治省)主導で運営され、それが大きな成果を生んだ一つの理由であるが、今回の分権会議の課題は、税源移譲という財政面の改革であることから、財務省が積極的に関わってきたのである。

 財務省と総務省とは、地方交付税制度をめぐって、また税源配分のあり方をめぐって長期にわたって宿敵の関係にあり、今回、分権改革と財政構造改革という流れの中で、この積年の課題が再び争点となって浮上してきたのである。しかし、今回の改革の動きに関しては、当事者は、総務、財務の両省だけではなかった。というのは、今回の改革の第一歩は、前述のように、地方の自立性を高めるために、それを制約している補助金等の削減を行うことであり、それには、補助金等を所管している国土交通省、農林水産省等の他の省が強く反対したからである。

 そもそも90年代以降の日本の経済情勢は悪化の一途をたどり、その結果、日本の中央政府、地方自治体の財政事情は、これまでにない厳しい状態に陥っている。このことが、地方財政制度に関する分権改革の実現を困難にしている最大の原因である。簡単にその状況を述べておくと、2003年度で、国の税収は約42兆円、地方の税収は約33兆円であるが、歳出の方は、中央政府の予算編成時に作成される地方全体の歳出見込みである地方財政計画では約86兆円、中央政府の一般会計の歳出は、約82兆円である。要するに、地方の歳出を、国と地方を合わせた税収でもっても賄えない状態にあるのである。

 地方自治体の歳出の多くは、国が法令で実施を義務付けていることから、地方の判断でそれを削減するわけにはいかない。そこで、所要額86兆円のうち、地方税収は33兆円しかないことから、不足分は、地方債および地方交付税そして補助金等で補填されているのである。他方、中央政府の会計に関していえば、その歳出のほぼ半分しか税収がなく、不足分は国債の発行によってカバーしている状態である。そして、現時点の中央政府と地方自治体を合わせた累積債務の額は、700兆円に到達しようとしている。これは、日本のGDPの1.5倍近くに相当する。

 この状態も将来的に経済が上向きになり、プライマリー・バランスが黒字化していく見込みがあるのであれば、それほど悲観的になる必要はないのかもしれない。しかし、現状はそうではなく、さらにいえば、これから生じる少子高齢化を原因とする人口減少は、現状でも相当額に及んでいる社会保障負担のさらなる増加と、将来の納税者の減少をもたらす。このようなトレンドの下で、現状の財政構造を維持することが不可能であることは明らかであり、そこから、大胆な構造改革が必要とされる。だが、こうした事態を改善するためには、大規模な増税か、行政サービスの水準の低下を伴う歳出構造の見直しが必要である。増税への抵抗が強いとしたら、後者の選択肢しか残されていないが、その場合、削減分をどこかどのような形で、どの程度担うか。これが、争点とならざるをえないのである。

 前述のように、地方分権の観点からは、地方の自立性を向上させるために、補助金等の削減が望ましい。しかし、それに対しては、補助金等で実施されている事業を所管している各省が、補助事業の必要性を主張して反対する。また、地方の必要額に対して、地方の税収では足りない分を補填する制度となっている交付税制度の問題点も指摘されているが、中央政府による事務の義務づけが存在する以上、財源保障は必要であるとして、総務省はその削減には消極的である。そして、総務省が主張する税源移譲に関しては、財務省は、中央政府の歳入減になることから、増税を前提にしない限り反対する。

 このようないうなれば「三すくみ」の状態が形成されており、この問題をどう解決するかが、分権会議を中心とする議論に委ねられることになった。

2)「三位一体改革」の課題
 このような状況下で、分権会議は、まず補助金等の削減に取り組んだ。これについては、総務、財務両省とも同じ見解であり、現行の財政状況の下で地方自治体の自立性を高め、税源移譲への道筋を付けるためには、最初にクリアしなければならないハードルだったからである。しかし、実際には、補助金等の削減は容易ではなかった。その半分近くは、これからの高齢化の進展によって増加が確実な社会保障負担であることもあり、大幅な補助金等の削減を前提にして税源移譲や交付税改革を考えることは困難に思われた。

 そのような「三すくみ」状態を打破すべく、2002年の6月に出されたのが、補助金等と、交付税、そして税源移譲を含む税源配分を「三位一体」として改革すべしという小泉首相の指示である。これ以後、改革への歯車は確実に回り始めたが、関係者間の対立は激化し、稀にみる政治抗争を展開することになった。

 「三位一体改革」とは、上述のように、補助金等、交付税、税源移譲を一体として見直し改革することであるが、この問題を解き、解決策を見出すには、次のような前提条件を踏まえることが必要であろう。

 その第1は、地方の自立を促すためには、地方が自由に使うことができ、受益と負担の関係が明確な財源を増やすことが必要であり、そのためには税源移譲を進めることが必要ということである。

 第2に、現在、そして今後の財政状況を考えるとき、長期的にみて財政の均衡化を図ること、そして持続可能な財政制度を構築することの必要性である。

 そして第3が、日本の場合、都市部の富裕な地方自治体と、農村部の財政力の弱い自治体との格差が非常に大きい。したがって、この格差について、是正する方向で配慮をすることも必要である。

 しかし現実には、これらの3つの前提条件を満たすことは難しい。もし仮に第1と第2の前提条件だけならば、要するに、地方自治体間でそれほど大きな格差が存在していないならば、中央政府と地方自治体の財政をそれぞれ自己完結的なものにし、それぞれで均衡化が可能なように、国と地方の役割分担を明確にし、それに応じた税源配分を行うことが合理的であろう。それによって、理想的な分権型社会に近づくことができるはずである。

 しかし、現実は、今述べたように、自治体間で大きな格差が存在する。そのような歳入面での格差を是正することなく、すべての地方自治体が法令によって義務付けられた事務を含め、地域社会に必要な事務を実施することは不可能である。地域や財政力にかかわらず、一定水準の行政サービスを供給できるようにするためには、足りないところにはそれを補填する財政調整が不可避である。その程度にもよるが、この自治体間の大きな格差の存在が、財政面における分権を非常に複雑で困難なものにしている。

 その結果、税源移譲が分権の観点からは望ましいとしても、都市部と農村部で税源に偏在性があることから、一定以上の規模で税源を移譲すると、自治体間の財政力の格差は一層拡大する。国地方合わせて財出削減を図るという前提で、税源移譲すれば、財政力の弱い小さな自治体はむしろ歳入が大きく減少することになるのである。

 要するに、@歳出を減らすという前提の下で、税源移譲をすると、自治体間の格差は拡大する。A歳出を減らすという前提の下で、格差の縮小を重視し、財政調整を行うと、税源移譲は困難になる。そしてB税源移譲を行った上に、財政調整も行おうとするならば、歳出は膨張し、増税等による歳入増を図らない限り、財政は破綻へと向かうことになる。

 この一種のトリレンマ状態をどう解決するか。それが根本的な問題であり、それを一気に一体として解決しようというのが、「三位一体改革」の本当の狙いであるといえよう。

3)分権会議での審議と「三位一体改革」の政治的解決
 このような難問に、関係者の全員が同等に満足できるような解はない。それゆえに、より多くの痛みを受けるのは誰かをめぐって、政治的な激しい抗争が展開されたのである。分権会議は、そのような抗争の場となることを覚悟して、たたき台ともいうべき試案を提案したが、それは審議の素材としても受け入れられなかった。分権会議は、激しい議論を経て審議も紛糾したため、委員全員の合意を得ることを断念し、「三位一体の改革に関する意見」を小泉総理に提出したが、それ以前に抗争の舞台は、分権会議から、内閣ないし首相が議長を務め、政府の基本的な政策の方針を決定する経済財政諮問会議に移っていたともいえよう。

 結果は、9月の政権与党である自由民主党の総裁選挙を控えた小泉首相が、この問題に関しては沈黙したこともあり、関係省間で政治的交渉が繰り返され、最終的には、その結果である経済財政諮問会議の「基本方針2003」において、多様な解釈が可能な玉虫色の表現によって妥協が図られた。それでも、補助金等の削減額や移譲される税源の割合が具体的な数値で示されたこと、「基幹税の充実を基本とする」ことが明記されたことは、「一歩前進」と評価する声も多い。

 しかし削減対象の補助金や、移譲される税目、税額については不透明であり、今後の政治過程に委ねられている。要するに、問題は先送りされたにほかならず、秋の政治情勢と、年末の2004年度の予算編成期に再度の抗争が始まる可能性は高いと思われる。

5.分権改革の今後の課題と展望

 以上に述べてきたように、日本の地方分権改革は、まだ終わっていない。第1次分権改革では大きな成果をあげたが、第2次改革では同様の成果をあげることは難しいかもしれない。その理由は、課題の性質の違いや、あとで触れるような政治情勢の変化もあるが、やはり分権委がスタートしたころより財政事情が格段に厳しくなったことである。

 最後に、これから取り組まねばなければならない課題とその展望、そして、第1次と第2次の分権改革の戦略の違い、換言すれば、第1次改革の成功の理由と第2次改革が難航している理由について触れておくことにしたい。

 今後の日本の政治情勢については、上述のように不透明であるが、今後「基本方針2003」に定められた方向で税源移譲や補助金等の削減が進められるとするならば、日本の地方自治体には、大きな変化が生じることが予想される。まず、全般的な歳出削減と税源移譲は小規模の財政力の弱い自治体の存続を困難にする。短期的にはともかく、2006年以降始まる人口減少と高齢化の一層進展は、小規模自治体を窮地に追い込むことになりかねない。そのため、日本では数年前から、市町村の合併による自治能力の強化を推奨している。自主的な合併を原則としていることもあり、その進みは遅い。近年では、合併へ向けての動きは加速してきているが、それでも小規模自治体は多数残存することは間違いない。そのため、これからの論点は、そうした小規模自治体のあり方の検討を含めて、自立的な自治体の形態を模索していくことであろう。それには、市町村という基礎自治体制度だけではなく、都道府県も含めた日本の地方制度全体の再編へと向かうことになると思われる。これは、日本の歴史上はもちろん、世界的にみても大きな試みといえるのではないだろうか。

 そうした改革の構想はともかく、それを実現するためには、政治的な舞台設定と入念に練られた戦略が重要である。機関委任事務制度の廃止を実現し、中央政府と地方自治体との関係を「上下主従」の関係から「対等協力」の関係に転換させた第1次分権改革の推進主体であった分権委が採用した戦略は、その点大いに学習に値するであろう。

 その戦略を整理してみるならば、第1に、前述した政治の追い風を上手に利用したことである。第2に、推進派の委員を中心に、それを支援する研究者集団を組織し、それらと影の推進主体ともいうべき総務省(旧自治省)が緊密な連係プレーを行い、委員会の審議を主導していく体制を形成したことである。第3には、それと呼応する形で、分権改革の受益者であるはずの地方自治体を動員するとともに、それを報じるマスメディアの好意的な支持を獲得したことである。第4に、重要な点であるが、これまでの地方自治、地方分権に関する英知を結集して、権限移譲や分権に消極的な各省の理論武装に対して対抗する理論構築をしっかりと行ったことである。地方自治体の協力も得て、充分な資料を集め、それに基づいて憲法論から分権の必要性と正統性を論証していくという戦略をとったのである。第5にその点とも関連しているが、改革を確実なものにするために、地方に対する規制権限を有している省庁と交渉し、改革について相手方の同意を得たことである。分権委が首相に提出するのが、内閣が尊重義務を負う「勧告」であったこともあり、合意された改革案はそのまま実現に繋がったといえよう。しかし、このことは、相手方省庁がどうしても合意しなかった事項については、改革案として提言することが難しかったことにほかならない。要するに、合意を調達することで、一定の確実な進歩は得られたものの、それは他の合意を得られなかった事項についても決着済みということを意味したのである。

 このような戦略が奏効して、少なくとも5回の勧告のうち、第4次勧告までは大きな成果を得た。内閣へ提出した勧告は、地方分権推進法に従い、ほぼそのまま地方分権推進計画として閣議決定され、それに基づき、地方分権一括法によって数百本にも及ぶ関連法令の一斉改正へと繋がっていったのである。

 しかし、こうした戦略は、第1の点についていえるように追い風という幸運の存在に支えられたことは否定できない。また、相手方各省庁の担当者にとっては、このような形での交渉による改革は初体験であったこと、権限移譲や関与の縮減などは法制度に関する改革であったために、他に地方に対する統制手段が存在する場合には、ある程度分権という正義に譲歩しても、実質的な影響は大きくないと彼らが判断したこともあったと思われる。

 しかし、こうした条件が満たされない場合、さらに経験による学習が相手の戦略を変えた場合には、古き成功例、古き手法は役には立たない。分権委の場合も、補助負担金の改革に取り組んだ第5次勧告についていえば、それまでの成功を支えた前提条件を欠いたために、結果は惨敗であった。これは、各省の生命線ともいえる補助金を改革の対象としたこと、相手方各省庁が、これまでの敗戦の理由について学習し、交渉そのものを拒否する戦術をとったことが主たる理由といえよう。

 歴史的な改革を達成した分権委も、後半にはこのような現実があり、その分権委が解決できなかった税源移譲という課題の解決を委ねられたのが分権会議である。勝利によって利益を得た勝者の側は、改革の継続、さらなる成功を戦いの担い手に期待する。しかし、敗者は学習するのであり
、これまでと同じ戦略で勝利を得ることは容易ではないといえよう。

 最後に、現在、韓国で進められている分権改革について、日本での経験から一言述べておくことにしたい。日本と韓国とは、統治構造が異なるため、同じレベルで比較したり、論評することはできないし、また、歴史的背景や財政事情も異なる。しかし、都市と農村との格差の大きさや大都市への過度の集中、自治体の中央政府への依存の強さは、急速な成長を遂げた先進国として、日本と共通した問題を有している。このような現実の下で、どのような自治体のあり方が望ましいのか。それについて、韓国は日本の経験から学ぶ必要があろうし、また、日本も韓国から日本にはない経験を学ばなければならない。


(註)森田朗「分権化と国際化」『岩波講座:自治体の構想1「課題」』(岩波書店、2002年)および森田朗「「自治体」のイメージとその変化」森田朗編著『自治と分権のデザイン──ガバナンスの公共空間』[新しい自治体の設計1](有斐閣、2003年)参照。

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