就職活動


 大学生活を続ける中で、私はいわゆる「普通の生活」にあこがれるようになっていました。普通に大学を卒業して、普通に会社に勤めて…みたいな平凡な生活って意味ですけどね。周りの人たちはといえば、
 「せっかくここまで努力してきたのに、そんな平凡な生活ではもったいないよ」
って言うんです。そんな特別何かが際立っているわけでもない私にね。
 大学4年になると、皆就職活動に走り回ります。はっきり言って授業なんかそっちのけって感じですよね。私もいくつかの企業に電話をしましたが、まるでお話になりません。こちらが障害者であることが分かったとたん言葉を濁してやんわりと断られる。実際に会ってくれる会社なんて一つもありませんでした。どうしようもないので、障害者を対象にした集団面接会に出かけました。でも結果は同じことでした。障害の軽い人二人を雇えば、重い人一人を雇ったのと同じに見なしてもらえる。実態はそんな感じですね。翻訳など、何か英語を使ってやれる仕事がしたくて、可能性のありそうなところへはどんどん話に行きました。ある会社の人事担当の人は言いました。
 「あなたくらいの英語力がある人は、うちの会社ではもったいないですよ。ぜひ外資系企業にお話にいってごらん。」
たいしたことないのに、これは断る口実だなと思いつつも、とりあえず紹介された企業の人に話しに行く。すると今度は
 「ふ〜ん。あなたは自分の英語力を過大評価してますね。それくらいの人なら、うちの会社にはいくらでもいるんですよ。その他に何かセールスポイントがなくちゃ無理ですね。」
なんだか心をもみくちゃにされたみたいで、疲れてきました。
企業で働きたいと思っていたけれど、一方で私は大学の教職コースも受講していました。両親が教員免許は取っとけと言っていたし、私もそれを受講することで得るものは大きいだろうと思っていました。高校あたりまでは、将来仕事するなら教師かなと思っていた私ですが、だんだん自分自身を見つめていくうちに、あまりにも性格的に教師向きではないことを自覚していました。人前に立つことも、自分の考えを述べることも、人をリードしていくことも、すごく苦手でした。実はこの点今でもあまり変わっていません。
 コースは取ったものの。やはり教師になるのは無理だろうと思っていた私に、突然教員採用試験を受けるというチャンスがおとずれたんです。当時の宮崎盲学校の校長先生の働きかけで、宮崎県での教員採用試験点字受験が認められたんです。勉強してないし、面接でこの仕事に相応しいかどうかもチェックされるんだし、受かりっこないよと思っていましたが、何をどう間違えたものか、合格してしまいました。一方では何箇所回ってもまともに面接さえ受けさせてくれない企業の態度にうんざりもしてきていました。
 やっぱ先生になるほうがいいのかな…
 秋が深まると、さすがの私もそちらに気持ちが傾いていきました。ただ、4年間の生活ですっかり好きになった福岡を離れることは、耐えがたいほど辛いと思いました。中学以来離れてしまった宮崎には、ただ一人の友人もいないのです。想像するだけで涙が出ました。が、それ以上事情は変わらず、1994年3月26日、私は12年ぶりに宮崎県民に戻ったのでした。 今になって思えば、教職の道のみが開かれ、他全部が閉ざされたということは、まるで神様のご計画であったのではないかという気もするのです。あのままどこかの企業にうまく採用されていたとしても、その後数年で持病を悪化させ透析患者になってしまった私は、とても仕事を続けることはできなかったでしょうから。競争の激しい民間企業が、毎日フルタイムで働くことのできない重度の二重障害者を使い続けてくれるほど寛大であるとは到底思えないからです。
 というわけで、以来10年余、私は優しい同僚の先生方に囲まれて、なんとか仕事を続けています。
 Amiの生い立ちのお話はここまでです。


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