朝日山 真照院縁起
朝日山真照院は観音山の中腹にあり、その山号の「朝日山」で広く世間に知られております。
五十九代宇多天皇の寛平八年(896)近江国石山寺観賢僧正の開祖と伝えられております。
真言宗御室派に所属し仁和寺の末寺です。初め朝日山正観寺千光院と号しました。
秋穂の庄が七十七代後白河天皇の皇女宣陽門院の荘園であった頃、播磨の国の住人、備前
守大江恒義の子息案主大夫長義が秋穂の庄の代官として天福年中(1233−1234)当地に
赴任の時、子息千壽丸及び庶子長時が亡くなりましたので禁中より追弔のため三河の僧正行
遍阿闍梨、仁和寺三条院大納言了遍の両僧正が御下向になり二島の浜に葬い柏木の森に墓
を立てその側に祠を立て江の宮と名付けました。両僧正一行は善城寺を宿舎としました。
この頃秋穂の寺院はすべて天台宗でしたが、田代山善城寺・平原山戒定院及び朝日山千光
院を取り立てて真言宗にされました。この因縁から秋穂の寺院の殆どは真言宗に改められ
仁和寺の末寺になったと伝えられております。北条時宗の時代と考えられます。
当時の千光院は七堂伽藍整い真言秘密伝法潅頂の道場でありました。
ところが天正14年(1586)火災に遭い堂宇が消失したため、称宜部落(現二島小学校付近)
にあった(真)新善坊という寺院に合併し朝日山千光院正観寺の山号「朝日山」も(真)新善坊
に移りました。
そのうちに貞享(1684−1687)の頃、千光院の旧跡に毎夜霊灯の奇瑞が見られました。
そこで新(真)善坊住職快憲が一宇の観音堂を立てました。これが現在の朝日山真照院の
ある場所と考えられます。
称宜(現西京スタイル付近)に遍照寺という寺がありました。開山は不明ですが寺名を五智
日輪山遍照寺といい、東光坊の古跡であったという記録があります。
東光坊が、いつ頃、存在したかは分かりませんが中興の開山は空遍という上人で、この寺に
入ったのは寛永八年(1631)で入寂は延宝三年(1675)となっております。
明治三年(1870)亮純法印が遍照寺を合併して朝日山真照院と改号しました。
明治二三年(1890)真応法印が千光院跡に本堂、通夜堂などを改築、真言秘密伝法潅頂の
道場として往時の盛観を思わせるものがありましたが不幸にも、昭和十七年(1942)本堂、
通夜堂、寺宝などすぺて焼失いたしましたが本尊千手観音は無事搬出されましたことは仏徳
の加護という他ありません。
尚、大正六年(1917)新築の庫裏は消失を免れました。
昭和三十八年(1953)山口市最古の鉄筋コンクリートの本堂が完成、神秘の中に近代美を
ただよわせ、秋穂八十八ケ所中心霊場としての法城の偉容を誇っております。
本尊千手観音は安産、開運、厄除けの霊験により、参拝者が跡を絶ちません。
秋穂八十八ケ所第五十八番の札所に当たり、他に山内には、第五十四番・六十九番(奥の院)
があり、また西国三十三番の観音様が三十三体奉祠され当山の鎮守妙見様も奉祠されており
ます。
朝日山の管轄札所は十八ケ所あります。山内からの眺望は極めて良く、晴天には周防灘を隔
てて遠く九州、四国まで望見できます。
吉南平野は、法城「朝日山」の庭園といった感じでその景色は雄大で変化に富み、調和を得て
いることは遠く人工の庭園に及ぶところではありません。
山内には千古の霊気が漂っているとは参拝者の等しく口にされるところです。