秋穂八十八ケ所の由来
風光明媚な秋穂の地にある、秋穂八十八ケ所開基の縁起について、福楽寺十一世住職賢恵亮厳法印の「秋穂八十八ケ所の由来」と田中穣編著の「秋穂町の史跡と伝説」を参考にしたものです。
開山の性海法印について
秋穂町下村地区の遍明院に秋穂霊場開祖の性海法印と言う学徳兼備の住職が居られました。
性海法印は、寛保2年(1742)に秋穂浦の伊勢屋に生まれられました。幼少の頃から仏心の志篤く、7〜8歳頃に遍明院の弟子となり、ひたすら修行を重ね、20歳の頃より高野山に登り真言密教の修得を積まれました。
帰郷して、朝日山真照院に住み真言宗の布教に努められていましたが
、遍明院住職恵淳法印の逝去により同院の8世の住職となられました。
性海法印の別府縁起
性海法印は、身体虚弱なので別府温泉に保養されました。ある日、別府の地獄湯の見物
に出かけられました。
所々の奇観に驚きつつ、地獄湯に行かれたとき、急に眠気を催され、その付近の青草の上に石を枕として暫く昼寝をされました。
やがて夢に現れたのは、その地獄の煮えたぎる湯の中に黒髪、紅顔の見覚えのある女人の生首が浮かび、押し寄せるように性海法印に救いを求める悲しそうな声に驚き目覚められました。
法印は、何と恐ろしい夢を見たかと思い、夕刻、宿に帰ってみると、多くの人々が騒然と
して葬式の用意をしていました。
法印は、不思議に思い尋ねましたところ、この家の女主人が頓死したと聞きました。
近隣の人々から聞くところに寄れば、女主人は如来・菩薩のよ
うに柔和を装うてはいたが、本性は邪見・貪欲で皆から嫌われる人であったとのことです。
法印も、旅情を痛められたので何とかして、滞在中に化導せんと思案して居られました。夢と現実を合わせ考えられ、「善悪因果の理法ただならざる事」また「造悪の者は堕ち、修善の者は登る」の法語通りであることを深く心に感じられ、いよいよ道心を堅固にして秋穂に帰られました。
霊場の勧請
別府から帰られて間もない天明三年(1783)今から二百十六年前に、それまで幾度となく四国八十八ケ所を巡拝し、衆生済度の念願に没頭されましたが、別府温泉の体験で悪業の因縁で地獄に沈む哀れな姿に深く心をうたれ、因果の大切さを悟り、あまねく一切の衆生を弘法大師に結縁して仏果を得させようと八十八ケ所の札所を秋穂に勧請する事を思い立ち、檀家である下村の戎屋作右衛門(後に遍明院の役僧善心法師)を伴って、四国巡拝に立たれました。
四国は一番札所霊山寺より、八十八番大窪寺を順次納め終わり、また逆に霊山寺まで逆に納め戻り法印は、大師の慈光に触れ霊感に打たれて、霊場ごとに、ご本尊の御符と境内の土砂を受け、徳島から大阪に渡られ、高野山に登られました。
高野山では、奥の院に参詣され、益々大師の霊鑑を受けられ、その霊光に浴されて、その土砂を頂かれました。
また大塔・金堂壇上の一々の浄刹を拝礼され、法悦歓喜の思いで秋穂に帰られました。
この地に霊域を定めて、秋穂・秋穂二島・名田島の向山を四国になぞらえて、衆生にあまねく大師と結縁させ仏果を得られるようにと発願し、時の庄屋,有志、寺院、住侶に応援協力を頼み、各地区の寺院、小社、家々の軒下と野原の浄きところに仮小屋を作って頂いてきた土砂を撒いて御符を奉祭され、ここに秋穂八十八ケ所霊場は初めて開設をされたのです。
一番の札所を正八幡宮の境内の御影堂(現在の大師堂)に、天田に釈迦堂から十一番まで順次安置し、大海峠を越えて六角堂観音堂に十二・十三番、それより赤崎から青江・花香・下村・中野・秋穂二島と回り、名田島岩屋山に八十三番、仁光寺・幸田に帰り宮の旦の観音堂に八十八番と順逆巡礼の便利をも考えられ配置をされました。
しかし最初の間は、釈迦に説法、弘法に筆の誤りと言うことわざのように他宗の迫害もあり、無理解な人々が尊像を取り捨て、札所を取りこわしたりしたが、発起者はねんごろにこれを元通り補修をし、大切に祭ってきました。
その熱意と努力が人々に認められ日を追い年が経つに従って反対者は崇信巡拝者となって立派な堂庵を建立し、或いは改築されて来ました。
やがて多くの人々が協力して、巡礼方々への接待をし、また宿を
貸したりして暖かく迎えるようになりました。
特に春の旧三月二十日二十一日は弘法大師御入定の正御影供には第一番霊場で行われ御大師様供養の行事で大変賑わいます。
性海法印は文化九年(1812)三月十一日に71歳を一期として遍明院で遷化され、戎屋作右衛門は仏門に帰依し善心法師と称し、一生涯霊場を護持し、巡拝を重ねられました。
この二人の像が造られて、今遍明院開山堂に祭られています。