ジャン四世の証書集利用に当たっての一般注記

Michael Jones, Recueil des actes de Jean IV, duc de Bretagne(1364-1399), pp. 11-15, Paris (1980 1983)

 ルネ=ブランシャール《René Blanchard》によって編纂された『ブルターニュ公ジャン五世の書状と命令書』(Lettres et mandements de Jean V, duc de Bratagne, Nantes 1889-95)の華麗なる五分冊が、中世の最後の時期におけるこの公領の歴史を後に研究した者全てに与えた利点は計り知れない。最後の刊の発行までには、二十五年かかったのだが、ブランシャールの手本はブルターニュ公の証書の体系的な編纂には一切見習われなかった。レオン=メートルLéon Maîtreは、極めて不完全な『シャルル=ド=ブロアの治世における証書の分析目録』Répertoire analytique des actes du règne de Charles de Bloisを1904年に出版したが、一方で、ほぼ三十年遅れでジャック=ルヴロン《Jacques Levron》は、ブルターニュ伯ピエール=ド=ドルー《Pierre de Dreux》に関連する幾らかの短い分析をつけた証書を集めた同じ様な目録を作った。ローゼンツヴィッヒ《Rosenzweig》の紛い物の作品、『カルチュレール=デュ=モルビアン《モルビアンの特許台帳》』cartulaire du Morbihanの本を再検討する時に、トマ・ラクロア《P. Thomas-Lacroix》は、28の書状をジャン四世の証書局によって作られたものだと校訂した。その他の私的な証書は、修道院の特許台帳の編纂において正当性を証明する証拠として出版された。そういった時代の終わりごろ、ブルターニュにおいても他の地域と同じ様に、集合的な視点、たとえば、全ての知られている証書を、治世ごとに或いは、修道院ごとに、もしくは家系ごとに再分類ことによって得られるかもしれないそういった視点を与える必要が強調された。それゆえ、ブルターニュ公領の歴史を始めるに当たって基礎となる重要な作品は、ギヨテル《H. Guillotel》の『ブルターニュ公の証書集、944-1148』Recueil des actes des ducs de Bretagne, 944-1148であり、目下のところ15世紀の終わりにおけるブルターニュの証書局の帳簿による分類に従事している。14世紀に関しては、そのような帳簿が存在せず、それゆえ、まさにこの証書集が、ブランシャールの『ジャン五世の書状集』と比肩しうる、ジャン四世の名の下に発行された書状に関する手引きを与えようと努力している。それゆえ、この証書集は、この作品から多くの着想を得ている。

 現在、文書の原本を出版するに当たっての原則は、広く知られていることだが、全体の中の個別的な基礎を目録としてつくり、編纂することである。しかし、そのような体系が、恐らく効果的なのは、原本の性質を維持している文書館、それゆえ其処では、時には数世紀にもわたる長い連続した文書を分類することが可能なのだが、そういうところだけでしかない。ロンドンの公文書保存局の年次目録Calendarsやヴァチカンの文書館で作業をしている幾つかの集団においてよい例を見つけることが出来る。フランスの特許状と国王の証書局の帳簿との宝庫を分類することは、人々がそれに財政上の第一の関係を与えているのに、同じ様に几帳面ではない。しかし、1404年から1407年の時期の日付の入った三つの証書局の帳簿以外には、フランソワ二世(位1458〜88)の治世までブルターニュ公領に関するこのような種類の全集は一切見つけることが出来ない。それゆえ、後者のような作品は構成に関して選択の問題が生じる。ブルターニュ公の名前の許に証書局によって発行され、その印璽を捺印された全ての書状は、機械的に含まれている。また、会計院の仕事の中で、或いは、ブルターニュ公に極めて近い側近、彼らは、会計簿の到る所で、チラッとしか現われて居ないのだがその仕事のなかに出てくる命令書に関しても同じである。一方で、公式文書、或いは、役人の文書の選択は、極めて主観的である。同じく、この全集の中で幾つかの数の文書は、その大部分が幾人かの他の君主の名前の許に発行された外交的性質をもつ文書であり、それに対する、ジャン四世の返事のほうは残存していない。それに対して、その他の、外交的な文書は、より大きな問題を提示する、特に、誰の仕業かはっきり分かっているこの治世における、重要な条約などの場合そうである。つまり、第一次と第二次のゲランド条約(1365年と1381年)や、エドワール三世《英国王エドワード三世》やリシャール二世《英国王リチャード二世》との予備交渉の為の数々の条約から、ブルターニュ公とその敵対者との間の深刻な内部対立、例えば、クリソンの領主オリヴィエや、パンティエーヴル伯ジャン=ド=ブルターニュとの間の対立の決着をつける条約までである。このことは、合意の最終条文がしばしば、ブルターニュ公の証書局ではなく、その他の証書局によって発行された書状に含まれているという事実からも説明できる、それゆえ、ブルターニュ公の名前のもとに発行された、特権確認状や、返事の痕跡が全くないのである。こういった条約は既に多くのそして、数多くの反復、たとえば、アルジャントレArgentréの作品や、ロビノーLobineau、モリスMoriceのブルターニュの歴史に関する作品の中や、もっと最近の他の著作物にそれが現われているのだが、それによって公刊されて与えられているので、そういった条件を考えると、論文や、今日に至るまで校訂を受けて居ない外交的な文書、それらは、ブルターニュ公の側近によって発行され、様々な交渉に関連しているのだが、それらを、公表することは、私にとって好ましく思われる、 似たような種類の手続きのやり方が、ジャン四世の特別の慣行と関連して採用された、つまり、公証人(そういった公証人の多くはブルターニュ公に正規に雇われていたのだが)によって作成された公的な原本を、特別なブルターニュ公の行動や決断や、証書局に由来する普通の書状の中にはめ込まれていた表明された意見を明白に与える為に、時たま使用した。 幾つかの事例で、ブルターニュ公は、自分の印璽をこういった証書に添えるか、さもなければ、ブルターニュ公領におけるその他の重要な人物により、証明され、封緘されあるいは、作成の責任を負わされた幾人下の書記官の、公証人としての証明により、いつものやり方にしたがって、認証される。こういった文書は、その重要性と、印刷の形態に基づく入手のし易さによって分類される。勿論、理想としては、現在において入手できる、あるいは、既に出版されているものであれ未だの物であれ、ブルターニュ公の全ての書状のそういった文章全てを完全な形で出版するのが望ましい。しかし、量が嵩張る上に高価な出版物を企画して成功を収めるのは財政的に不可能である。それゆえ、ブランシャールの例に基づいて、私は、既に出版された幾つかの書状の内容を、分類したうえで、省略することにした。同時に、地方でしか手に入らない雑誌や、その他の資料に由来する、時に入手が困難な幾つかの文書は含めようとしたが。こういった文書の選択において、私は、倹約に関する配慮とより深く掘り下げなければならない私の研究の性質とを調整せねばならなかった。この出版の目的は、ジャン四世に関連する全ての文書の原本の目録を提示することではなく、証書局や会計院に由来する、今だ手付かずの書類、さらに既に引用された文章と、ブルターニュ公のために他の党派によって発行された幾つかの書状がさらに付け加えられるのだが、それらを手がかりにして出来るだけ完全な形でのブルターニュ公の活動の様子を提示することである。しかしながら、こういった全集は、ブルターニュ公の書記官によって製作された文書の総数のごく一部分しか代表していないということは強調したことにする。恐らく、完全な全集の代わりを完全に務めることは出来ない。こういった欠落の理由のなかでも重大なものの一つに、教会関連の機構に関連した書状が、俗人貴族や、都市住民に宛てて出された物より保存状況が良いように思われる。約2700の証書を、ジャン五世の治世に関してブランシャールは校訂したのだが、彼は、恐らく約90000通のこの手の文書が発行されたに違いないと見積もっているが、これは、控えめに考えても一日に六通から七通の書状が作成されていたということを意味している。そもそも、ジャン四世の治世における残存している証書の比率が、存在している物の中でより重要な部分の代表であると信じる理由は少ししかない。同じくブルターニュの証書局が彼の長い人生の間低調なままだったということも証明されて居ない。その全体の数の中における1200通の証書という数字と、その不完全な形態での残存数は、十四世紀の終わりから生じたに違いない、著しい遺失を簡単に教えてくれる。また、ブルターニュにおける内戦の間、その時期の世論は、以下のようなことを教えてくれる、つまり、証書局の謝礼が、シャルル=ド=ブロア、その金額の総計を正確に言うことを頻繁に省略していたので彼の聖性が証明されたのだが、その彼にとって重要な収入源であったということを。おそらく、その活動が、聖職に関するものに限られたのは、多くの者が自分達の特権を更新してもらったり確認してもらいたがっていたので、極めえ平和的な雰囲気が再び確立した後でしかなかっただろう。エドワード三世による1362年の六月二十二日のジャンの成人宣言の後で、最も間隔が開いたのは十ヶ月(1375年の九月二日から1376年の七月十八日まで)であり、それは、1370年代にブルターニュ公がイングランドに亡命していたことによって説明される。1364年九月二十九日のオレの戦いでの勝利の後のブルターニュ公の治世においては、毎年、少なくとも一枚は書状を発給している。書状と命令書との数が最も多いのは、1392年に関連したものであり、一方で、一日にもっとも多くの書状が発行されたのは、私が証拠を掴んだ限りでは、1387年の七月の二十三日に出された九通の書状である。1380年代後半の日付と1390年代初期の財政上の会計簿の数が増加するに従って、それらの年間に由来する一年の総量は極めて増えたように思われる。ブランシャールがジャン五世の治世が始まってから五年間、その期間の間は、ブルターニュ公が、その母とブールゴーニュ公フィリップの後見の下に在ったのだが、その間を自分の目録から省いているのは、妥当な理由があるにもかかわらず、私は、ジャン四世の未成年期の日付のある幾つかの文書、それらは彼の名前の下に発行されたのだが、それらを、含めている。1356年の八月十八日、ランカスター公ヘンリーがブルターニュ公領において、若い公位要求者の名前で幾つかの文書を発給したのはその日付だけでしかない。しかし、何ヶ月か後の「レンヌの包囲陣」においてジャンは、我々の知る限りでは、今日まで原本が残る幾つかの書状の内の最初の物を発行した。