この証拠は、ジャン、ローアン副伯である彼と彼の妻との為の、二通の書状の中に含まれており、これらは、1379年九月二十六日の日付が二通とも入っているのだが、証書局が慣行を徐々に入念な物にしていったことに関して示唆を与えてくれる物である。一通目には、日付に関する条文と、封緘方法に関する告知が混合している。つまり、『余の一般上訴法廷が開かれているヴァンヌにて、余の大印璽の下、余の署名と、余の手ずからによる飾り紐にて封緘の後交付。Donne a Vannes, nostre general parlement tenant, soubz nostre grant seel, avecques nostre signet et le passement de nostre main...』と書かれている。一方二通目の書状には、確認部分は次のようになっている。『このことを証明するために、彼らに、この書状を余の秘密の印璽の下、其処には、余の手ずからの署名と大印璽を、余の隣席の下、余の命令により、アンリ=フィリップ殿、余の従騎士にして、親愛なる顧問官殿に、それを捺印させて、と言うのも余の言うところの従兄弟殿(これがローアン副伯である)が余の印璽を保管しているのでだが、交付しており、交付した。これは、余の一般上訴法廷の開かれているヴァンヌにて交付…。pour tesmoing de ce, lour avons donne et donons ces lectres seellees soubz nostre signet secret, lequel nous portons, que nous avons appose et signe de nostre propre main, avec nostre grant seau que, en nostre presence et de nostre commandement, nous y feismes apposer par monseigneur Henri Phelippes, nostre bacheler et ame conseillier, pour ce que nostreddit cousin avoit la garde de nostre seau. ce fut donne a Vannes, en nostre general parlement tenant...』と。この時期のブルターニュ公の政治的な不安定さ(彼は三日後に作成された公的な証書で、これらの書状、ローアンに与えたばかりのこれらの書状或いはその他のこと、この証書局長が彼の意思に反して発給したに違いないそういう書状に対して、自らの権利を擁護している)が、文書の真正証明を確固たる物にする為に、より複雑な慣行を齎す事になった。ブルターニュ公の手書きの署名が、治世の最晩年に、大印璽の下、明らかに最も正式な類の書状や、外交的な文書以外にも、あらゆる文書に頻繁に現われるようになるにつれて、ブルターニュ公の慣行は、確かに、フランス国王やイングランド国王の証書局の発展と軌を一にして、いや、恐らく少し先行して居たに違いない。
ブランシャールは、書状の分類に応じたジャン五世の署名の様々な形態の間の違いを描写することが出来た。ジャン五世が、『ブルターニュ公によりPar le duc』と書いたのは、例えば、iの分類の時であり、『ジャンJehan』と書いたのは、幾つかの例外はあるが、iiの分類の時であり、そうすると、幾らか一貫性の無い所もあるにもかかわらず、iiiとivの分類には同じ差異が見出される。一本の末尾紐によってだけで封緘された書状や命令書(それは分類iiiなのだが)は、自署する時には、『ブルターニュ公によりPar le duc』と署名され、封印された書状(これが分類iv)の場合は、『ジャンJehan』と署名された。このような差異は、確かに、ブルターニュ公の分担する部分と言うのが、手書きの署名を二つの似たような署名、彼の息子の治世に規格化していった、それらに限定していった傾向が増大しているにもかかわらず、ジャン四世の治世の最晩年の慣行としては厳格すぎるように思われる。それゆえ、1370年代に起こった、『ブルターニュ公自身の手により裁可Passe par le duc de sa main』への署名の変化は、1390年代まで時々使われていたのだが、次第に、もっと簡単な署名、『ブルターニュ公によりPar le duc』に1387年ごろから変わり始めた。名前だけの『ジャンJehan』は、分類iiの書状の中で1397年ごろから時々用いられ始め、そのころ、より入念な署名が付け加えられ、1370年ごろから、分類iiとivとに属する証書の中で外交的な文書がこれに付け加わるようになった。
封緘方法の告知において、すでに記されている様に、最も公式な文書においてさえ、常に、ブルターニュの証書局は、どのような封緘方法が使われているかをはっきりというように気をつけていたわけではなかった。絹の紐の上に大印璽が押されている幾つかの書状のうち残存しているものを例に取ると、簡単に「余の印璽の下に交付donné sous notre sceau」とだけ書かれている。治世が後のほうになるにしたがって、このことに関してより頻繁に詳細に述べることが習慣となっていったし、このような種類の省略が、分類iの書状においては極めて稀になったが、普通ならば、大印璽の下に交付される分類iiの書状の中に、以下のようなことは想定できない、つまり、このようなやり方で封緘された書状が、少なくとも、確認の証拠がない限り、大印璽の捺印を備えている、ということは。それ以外に分類される書状において、印璽の告知部分に詳細さが欠如しているのと同様に、混乱を招くことがある。ブルターニュ公の秘密印璽は、証書局の管理する印璽ではないが、(もし、フランス王の証書局の慣習に従っていたのならば)、ブルターニュ公の侍従の一人によって持ち運ばれたそれは、恐らく、私印のうちでも最も重要な私印に分類される物の代わりとしてしばしば使用された。というのも、私印と秘密印璽との図案と大きさとは、極めて似通っており、こういった印璽の実際の捺印の後と、「余の私印の下に交付donné sous notre seacu privé」という告知部分とともに、実際の印璽に関する記述がなければ、恐らく極めて曖昧であるからであり、また、ブルターニュ公は時に、彼の秘密印璽のことを、私印として言及しているからでもある。
封緘の告知部の詳細が、より明白なのは、ある印章が、その書状が作成される時に、特別な形態で正当性を与える為に普段は使われる印璽が無い時に、使われていた時である。 ブルターニュ公は、フィリップ六世やシャルル五世が使っていたような、印璽が無い時のための特別な印璽を持っては居なかったが、より身近な手の届くところに在るような印璽を使っていた。それゆえ、1362年のブルターニュ公領へのジャンの帰還から、1364年のオーレの戦いまでの激動の時期の間、ブルターニュ公は、ただ一度だけ、「余の印璽nostre sceau」が無いので、彼の認印を使ったことがある。1365年に、認印は、「余の印璽」が無い時に、再び使われ、今度は三回使われたのだが、1364年の十一月十七日の時には、大印璽が無い時に使われたのだが。これより後、治世の後半になるにしたがって手元に無い時に使われる印璽の使用は少しだけ頻繁になる。 1372年の十一月に、少々驚くべきことだが、ブルターニュ公とエドゥアール三世《イングランド国王エドワード三世》との間の同盟の確認の為に、私印と、認印が、大印璽の代わりに添えられていた。印璽の保管役は、ユーグ=ド=モントルレHugues de Montrelais、サン=ブリウーSt-Brieucの司教である彼であったが、ブルターニュ公の政策を支持していなかったのである。1379年のジャンの帰還の後の激動の時期の間には、その他の印璽がなかったので、シャンブル=ド=コント《会計法院》の印璽によって封緘された物もあるし、1380年にも、私印が全く同じ理由で使われたこともある。 これよりも後の、ブルターニュ公の固有の秘密の印璽の使用の例も見つけることが出来るし、私印や、「小petit」と記述される印璽、は、秘密印璽であれ、私印であれ、認印であれ、大印璽の代わりの印璽であれ、「余の印璽notre sceau」や大印璽のない場合は、その文書に法的効力を与えることができた。 しかし、このようなやり方で封緘された文書の数は決めて限られている。
また、封緘形式におけるその他の例外を多数挙げる事も出来る。つまり、ブランシャールは、1407年十二月二日の特許状、つまり、二本の末尾紐と赤い蝋で封をして、ジャン五世が最初に大印璽を捺印して封緘されたそれは特別だといっているが、それは、同じ紐の下のほうに、もう一つの印璽が添えられ、その紐はこういった作業を許す為に垂直に二箇所切れ込みが入れられていた。この特権状が確認していたのは、書状の分類を考慮するとiの分類に入れられる特権に似ている物であった。この手順は、幾分、この書状の為に、適応させたそれ以外の書状、つまり1381年九月二十九日の、イングランド王とナヴァール王とに対抗する為にシャルル六世と結んだ協定における言い回しをジャン四世は拡大した。 これらの書状は、まず、二本の末尾紐によって封緘されているのだが、「余の大印璽と認印nostre grant seel et signet」の下に、交付されている。 それ以外にも、同じように、二本の尻尾上の紐をつかい、赤い蝋の上に大印璽を捺印して封緘した特権状や、特権確認状は多くあるのだが、それらは、証書局の一般的な規則、つまり、永久に権利を移譲する場合には、絹の紐と緑色の蝋によって封緘するというその規則に逆らっているように思われる。 二つ目の印璽を添える慣習は、それが、絹の紐の上であれ、羊皮紙の末尾を切り取って作った二本の尻尾の上であれ、この治世の全ての時期においてみることが出来る。一般的に、二つ目の印璽は、ブルターニュ公の印璽ではあるが、我々は、大印璽と、証書局のその他の印璽とによって封緘された幾つかの文書の例を知っている、ただし、後者は、判別できるものではないとは言え。大印璽grand sceauが緑色の蝋の上に捺印されている時は、必ず、代理印contre-sceauが伴われているが、赤い蝋の上に捺印されている時には、代理印は、存在しない。
頻繁に引用される最初の三つの分類に分類される証書は、一般的に日付に関する問題は少ない。ブルターニュ公の書状の残存している物のうち一番最初の物で使われている書式は、「レンヌにおいて、キリスト紀元の1356年、一月の五日交付。Donne au sege de Rennes le quint jour de janvier lan de grace mil ccc cinquante et six」といった物である。また、残存している物の内、全体の一番最後の日付が書かれているものでは、「余の町であるヴァンヌにて、上述のキリスト紀元の1399年、上述の月である五月の第八日に交付。Donne en nostre ville de Vennes le viije jour dudit mois de May en lan dessus dit mil ccc iiiixx dix neuf」である。分類iの文書の中では、日付の項目は、一般的にきわめて精確であり、それに関わる、交付の場所、状況(たとえば、「余の上訴法廷にて」、など)、日付、月、そして年(これらは全体がローマ数字か単語で書かれていたが)、が書かれていた。フランス国王の証書局の慣例にしたがって、ブルターニュ公の証書局も、一年の初めを復活祭Pâcquesで始めることにしていたが、この方式の唯一の困難は、この祭日に近い日付のある文書、つまり、復活祭の前なのか、復活祭の後なのかを精確にすることが難しいということであり、そしてこの二つの方式が原因でそれには幾らかの疑問が残っている。ジャンの名前の下で、イングランド人の官僚たちが作成した文書の大部分において、エドゥアール三世《イングランド国王エドワード三世》やリシャール二世《イングランド国王リチャード二世》の統治年を正確に記述しているとは言え、ブルターニュ公はその日付の項目に自分の統治年を含めることはしなかった。分類i以外の書状は、日付に関する項目は、精確さが少し落ち、しばしば、発給地が省略されてはいえるが、発給年が省略されているのは、内密な書状だけである。一般的な日付記載の方法の例は、次のようなものである、つまり、「カンペルレQuimperléにて作成、六月の四日Escript a Kemperle le iiij jour de Juigne」。それゆえ、時々、前後の文脈が何の助けにもならない時は、正確な日付を割り出すことが難しいことがある。また、残存している幾つかの指令書や、外交上の条項に日付が記されて居ない場合にも、他の史料からの参照によって近似的に日付を出す必要がある。
分類iに分類される書状における一般的な慣行では、下署《末尾に置かれる同意の署名》は、折り返しに書かれる事になっていた。また、ブルターニュ公の自筆の署名、ただしそれが在るならばだが、それから以下のような定型文、つまり「ブルターニュ公自身の命令によりPar le duc de son commandement」、それから、もし、その書状がブルターニュ公の顧問会議において討論された後であれば、より入念な表現が、そして、日付、立会人たちのリスト、それは、あなたvousと書かれている証書局長によって始められ、状況の正式さに応じて様々な数の立会人たちが列挙されているリスト、そして最後に、その書状の発行に責任のある書記官の名前が、その上に現われる。一方でこういった書式の中で不変の物などなく、また、折り返しの部分に現われるとも限らなかった。時には、こういった書式の構成要素の内の一つ或いは複数の物が、折り返しの内側にあることもあったし、最も正式な分類に属する書状の中でさえ、それを作成した秘書官や書記の名前が省略されることもあった。分類iiiに属する文書、それは、一本の紐によって封緘されるのだが、その中でも、署名や、《賛同を示す》下署が、iやiiの分類に属する文書の折り返しの部分と同じやり方で配置されているのを見つけることが出来る、ただし、それが、羊皮紙の表面の部分や、本文の下に書かれている場合は除くのだが。ときには、書記官の署名は、紐の部分に書かれていることがある。こういった署名は、通信文の全てに一般的に見出される物ではない。少なくとも一つはこの規則《通信文には署名が無い》に例外があるとは言え。
幾つかの証書の中に見られる外見上の特徴のうち最後のものを記しておかなければならない。ブランシャールが既に発見していたように、幾つかの証書、特に分類iiiに分けられる証書に特徴的なものなのだが、少なくとも分類iに分けられる、原本の残っている証書(685)にも一通だけあるのだが、その裏側に、「R」の文字を見ることができる。これはジャン五世の治世における慣行の類推から、これは恐らく、Registrata、恐らく発給のときにこの書状が記録されたと言う事を意味しているのだが、その省略に違いない。13世紀の終わり頃から、書状の裏側へのその他の加筆も、ブルターニュの証書局がそういった書状を登記していたことを仄めかす。Scriptaという単語は、1275年以降のジャン一世の書状に現われるがし、その種の例としては、1381年十二月二日の日付の入ったジャン四世の書状がある。原本が残っている書状のうち、裏側にRの文字が入っているそれの一番古いものは、1386年の十月三日の日付が記されているとは言え、1365年には既に、登記の形式を固定したと言う幾分軽い証拠は存在する。登記簿は、確かに会計法院la Chambre de comptesで利用された、但し、その時期の登記簿は一切存在していないが。登記が行われたことを証明する原本が残っている書状の数は決して多くない、つまり、九通だけがハッキリと「R」の文字を備えているが、そういった場合でも、登録は少し時間が経ってからしか行われなかったかも知れず、恐らく最初に発給されてから数年の後であったに違いない。ジャン四世の治世の間に証書局から発給された文書が、その文書の内容に応じて分類された上で、登録されることが正規の慣習になったのかどうかを知ることは、解決されねばならない問題として残っている。このような発展は、極めて自然かもしれない、ブルターニュ公にとてもなじみのあるイングランド王家やフランス王家の慣習の為になるようには。 また、ブルターニュ公の文書館が持つようになった利点、それは、、ジャン四世の治世の末期ごろに明らかになり、そしてそれは特に、エルヴェ=ル=グラン修士Maître Hervé le Grantの仕事と、証書局の職員の段階的な拡大と専門化とに関係があったのだが、それにも適応しているかもしれない。