証書の性格と公文書学

Michael Jones, Recueil des actes de Jean IV, duc de Bretagne(1364-1399), 2 vol., Paris(1980 1983), pp. 23-34

 ブランシャールは、『ジャン五世の書状』Lettres de Jean Vにおいて、その物理学な性格と、書式についての綿密な描写の上に、15世紀前半におけるブルターニュの証書局に関する必要不可欠な基礎としての公文書学を確立した。ジャン四世の治世における原本の研究を手がかりにし、ブランシャールのそれに関する完璧な解説を参考にすると、証書局の慣行は、父と子との二つの長い治世の間さほど大きくは変わらなかったということが出来、また、ブランシャールの見つけた、ジャン五世の治世の初期の幾つかの特異点は、すでに、ジャン四世の治世の最晩年に、慣習として行われていたのである、ということも出来る。ジャン四世の証書局の公文書学的に完璧な取り扱いは、そのような気持ちにはさせない。つまり、もう一度言うが、多くの特徴、それは、ジャン四世の治世に特徴的であり、ブランシャールの注記によって補足されたのだが、議論の為に選ばれたのである。様々な形態の書状は、封緘のやり方によって(それはつまり、書状の内容と目的とに直接関係しているのだが)、ブランシャールの区別したそのやりかたによって定義されたのだが、それはここでも維持されている。その分類方法は以下の通りである。

  1. 正式な証書、絹の紐によって封緘されている。
  2. 半正式な証書、羊皮紙の末尾部分に切れ目を入れて作った二本の紐によって封緘されている。
  3. 命令書、ならびに普通の証書、単に末尾に切れ目を入れて紐を作っている
  4. 密書や通信文、その印璽は金メッキされている。

 ジャン四世の現存している証書のうち、iに分類される物は、ブランシャールがジャン五世の治世に関して注記した物理的な特徴を全て示している。これらの証書は、黒のインクで、大きな羊皮紙に念入りに書かれており、時には最後に線が引かれており、絹(緑や赤の絹糸であることが多いが、時には、多彩な色を持った絹糸)の紐によって封緘されており、ジャン五世の治世における似たような書状との最も大きく対比される点は、装飾が珍しい点と、大きさの点である。全ての分類においてジャン四世の書状で、ブルターニュ公の称号に(Jehanの頭文字であるJを魚を意匠化した文字にすることはこれ以後伝統になるのだが)を飾り文字で構成した書状は僅かしかない。このような飾り文字が大きく制限されるのが、iiに分類される正式な贈与や外交的な文書である。さもなければ、原本の多くは結合され、ブルターニュ公の称号と文章の幾つかの部分は制限されているので、iに分類される証書と同じ様に、単語の慣用と文章の形式が、証書局員の筆跡による影響力はより確実でよりハッキリしている。四つの分類のすべてにおいて、ジャン四世の治世における原本の書状は、それに続く治世のそれと比べるとわずかに小さい、大きい書状を作ることが出来るように、羊皮紙を何枚も縫い合わせているにもかかわらず、そして、たとえば、1368年の六月十五日のそれは、それ以前に、ウォルター=ヒューWalter Huetの名前の下に発行された様々な書状の最初の物を全て確認しているのだが、それは少なくとも三つの原本が存在しており、それぞれ、567×1215mm、548×1114mm、555×1165mmの大きさであった。ブランシャールは、iに分類される証書の中で、緑色の蝋以外の色で封緘された痕跡のある、絹の紐で綴じられた証書の例を見つけることが出来なかったし、それは普通は、《書状の中の》ある一節の中で告げられているものであった。例えそれが、ジャン四世の治世におけるiに分類される書状の封緘の普通のやり方になっていたとしても、矛盾は明らかである。つまり、ヒューのために与えられた書状は、ブルターニュ公とヒューによって別のやり方で封緘されており、印璽は単純に「余の印璽」によって、と告げられているだけである。そして、もしブルターニュの証書局が、大印璽の下に発給された文書と相容れないものだったとしたら、しばしば沈黙を保っているより小さな印璽の下に発給されたそれらの文書はもっと少ないはずである。当然、ブルターニュ公の教育はイングランドで行われていたので、そして、彼の経歴における様々な政治的機会により、彼の名前で発行された幾つかの文書は、イングランド人の役人によってあるいは、イングランドの証書局自身が発給したものもある。ブルターニュの証書局は、数多くある、限られた条件の下、ある一つの非常に実用的な文書の形態つまり、「インデンチュア」(分割された証書。)《歯dentのようにギザギザをつけて文書を二つに分けて切り離し一つづつ両当事者が持つ形態の文書》として知られる形態を選ぶこともあったが、それは、特にブルターニュ公がイングランドとの外交交渉を取り扱う時であった。しかし、現在では、以下の事に関する充分な証拠があるつまり、ブランシャールの時代から、なされてきた研究によりブルターニュの証書局で使われていた慣用の起源として最も多いのは、フランス国王の証書局の慣行の中に見出すことが出来、国王の証書局の慣行をより意識した性向を反映した、ジャン四世の治世の間に、証書局の規則が適用され、より文章の定式化が進んだという証拠がある。

 証書の中でどのような定式が使用されたかと言うことを短く討論する前に、上で述べた分類の最初の三つの分類に属するジャン四世の治世におけるブルターニュ公の書状の全ては、羊皮紙に書かれていたということを注記できるだろう。紙に書かれた文書は、ivの分類で見つけることが出来るが、便宜性の理由から今回の出版で付け加えられた様々な文書のなかにも見つけることが出来るだろう。ジャンの名の下に、紙で書かれた書状のうち、原本のまま存在している物の中で最も古い物は、1364年の四月二十一日の日付がある。しかしながら、羊皮紙と比べると、紙と言うものは、長持ちする物ではなく、従って、ブルターニュ公の非常に親密な人との通信や秘密の通信の大部分はこのような理由で失われたと推定されル。そして、現在も残っている書状がこのような性質の消失をよく教えてくれる。証書局の規則にのっとって作成された書状は不可避的に、しばしば個人的な関係や、通信文に特徴的な即時性を欠いている。また、全てのブルターニュ公の書状において使われている言語は、フランス語であるが、二つの例外がある、それは、まだ未成年のブルターニュ公が、1361年の一月十九日に、エドワード三世に対して、リッチモンド伯領と伯の地位を引き渡すことを確認した開封書状であり、それは、イングランド人の書記官によって作成されラテン語で書かれているものであり、もう一つは、1374年の十月の五日の書状であり、それは、ネヴィル卿ジョンに年金を与えた書状である。それ以外の文書で、ラテン語で書かれたような史料は、ここに記録された公的な証書以外には、ビラbillaと呼ばれるイングランドの証書局に提出された、ブルターニュ公に仕える人々を保護する為の書状の交付を要求した物だけである。それと同じく、ブルターニュ公がラテン語を使うことを求められた時がある、それは、彼の遺言状の下書きと遺言補足状として残っており、あるいは、教会のための特権認可状のなかであるのだが、フランス語の方が好まれた言語であり、彼の息子の時代にそうであった野と同じ様に彼の時代でもそうであった。

 ジャン四世の書状の中で祈願文が用いられたのは極めて稀である。1385年の日付が入っているブルターニュ公の遺言状は、以下の言葉で始まっているつまり、『父と子と聖霊の御名においてEn nom du pere et du filz et du saint esperit...En nom du père et du fils et du saint esprit...》』、それ以外には、祈願文は幾つかの教会関係の施設の設置に関する書状に必要最小限に限られていた。最初の三つの分類に所属するブルターニュ公の書状の大部分で使われているしきたりでは、名前かブルターニュ公の持つ称号で始まる。時と場合により、その各項目は、余Nousに先行したり、通告部である『現在のこの書状を見聞きすることになる全ての者に対して、ジャン…A touz ceulz qui ces presentes lettres verront et orront, Jehan...』、『皆の者に知らしめる…Sachent touz...』と言う句に先行したりする。ブルターニュ公と同格あるいは、その上位者に対して送られた通信文においては、通告部は、より私的で特別な物になり、公の称号は普通は使われることはなかった。つまり『親愛にして最愛の従兄弟…trescher et tresame cousin...』や、『国王陛下へ…Au Roy...』、『その畏怖すべき主君へ…A son tresredoubte seigneur...』と言う風に続いた。ブルターニュ公の役人たちに送られた極めて限られた書状の中では、より正式な見出しが使われた。『ブルターニュ公により…De par le duc...』、『ブルターニュ公は…Le duc de Bretaigne...』、『公は…Le duc...』、これらには普通は呼びかけが続いた。つまり『余のカンペール=コランタンの受取人へ…Nostre recevour de Kamper Corantin...』や、『余のレンヌの守備隊長…Nostre capitaine de Rennes...』などである。実際は、ブルターニュの証書局は、ここでは普通のフランス語の形態を使っていた。

 ジャン四世の所有している土地の性格が変わるので、公の称号も幾つかの修正が加えられた。残存している物の中で最も古い彼の書状の形式は、『ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯である余はJehan, duc de Bretaigne, conte de Montfort』であり、その時期は、彼はブルターニュの所有を巡ってシャルル=ド=ブロワと争っており、またフランス国王は、彼のモンフォール=ラモリMontfort l'Amauryの伯領の彼の所有の権利を取り上げていた時期であった。この伯領は、1360年のブレティニ=カレー条約の後、ジャンの手に返還され、その条約において、係争中の公領に関する決定は、調査の為の特別委員会に報告されることになっていた。その合間に、ジャンは、この形式を使い続けるか、あるいは、軽率にも次のようなより長い形式、つまり『ヨハンネス デ モンテフォルティ、 デュークス ブリタニアエ エット コメス デ モンテフォルティJohannes de Monteforti, dux Britanniae et comes de Monteforti《ジャン=ド=モンフォール、ブルターニュ公にしてモンフォール伯》』を使い続け、1362年夏の彼のブルターニュへの帰還の少し後から更に付け加えて、『ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯、リモージュ副伯Jehan, duc de Bretaigne, conte de Montfort et viconte de Limoges』とした。ところが実際には、ブルターニュ公は厄介ごとを再開した、それによって、モンフォール家が、ブルターニュ公であったジャン三世の全ての称号と土地とを受け継ごうと努力するものであるが。この形式は、1364年九月二十九日のオーレでのブルターニュ公の勝利の後まで使われた、というのも、『ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯Jehan, duc de Bretaigne et conte de Montfort』という短くなった形に1365年の4月になったからであるが、それは、第一次ゲランド条約、の条項に従ったためであり、この条約は、彼の従姉妹であるジャンヌ=ド=パンティエーヴルのために彼のリモージュ副伯領に関する権利をブルターニュ公が放棄する物であったからである。次の変化が起こったのは、リッチモンド《フランス風に読むとリッシュモン》伯の称号と伯領とを受け継いだことに起因し、それは1372年の夏にエドワード三世との間で彼が結んだ取引の条約の一部を成していた。その少し後の、1372年の十二月二十八日にフランス国王シャルル五世宛の手紙に以下のように署名しているつまり、『貴方様のものである、ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯Le vostre, Jauhan, duc de Bretaigne et comte de montfort』と、しかし、これには充分な理由がある、というのも、ブルターニュ公はこれにより、フランス国王がエドワード三世との間で結ばれた条約について知られたくないと願っていたからである。しかし、1372年の十二月三日に、ブルターニュ公の証書局は新しい形式での書状を公然と発給している、つまり、『ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯、リッチモンド伯Jehan, duc de Bretaigne, conte de Montfort et de Richemmont』と言う形式である。これは、1390年代初頭までの一般的な形式であったし、その時、モンフォール伯という称号がブルターニュ公の称号から省略されたのは、この伯領が彼の長男に与えられて以降のことである。にもかかわらず、そうするうちに、彼の管理下にある特別な直轄地の役人に宛てて贈られた書状の中では彼はより長い形式を使うようになっていた。それは以下のように書かれていた、つまり、『ジャン、ブルターニュ公にして、リッチモンド伯そして、サシックス伯領に存在する、レープ=ド=ヘイスティングズの領主Johan, duc de Bretaigne, conte de Richemond et seigneur de Rape de Hastyng' el conte de Sussex』と言う1377年の日付のある二つの書状の中にあるもの、あるいは、『ジャン、ブルターニュ公にしてモンフォール伯、リッチモンド伯、そして、レの領主Jehan, duc de Bretaigne, conte de montfort et de Richemont et sire de Rais』、つまり1383年から1384年におけるいくつ物書状の中に見られるものである。さらに、1390年一月以降、わずかな変化があり、ブルターニュ公の証書局は、最も正式な証書の中でさえもブルターニュ公の称号の一部を省略し、以下のように簡素に短縮したつまり、『ジャン、ブルターニュ公Jehan, duc de Bretaigne』と。『余、ジャンは…Nous, Jehan...』と言うiiとiiiに分類される書状の中での形式は、1383年以降は見られなくなった。

 この原本の概観が明らかにすることは、ジャン四世は、「神の恩寵によりてPar la grace de Dieu」という文句を自分の言葉遣いの中に入れなかったと言うことだが、この規則のはっきりとした例外が起こったのは、1368年三月八日の、サン=ジルダス=ド=リュイSt-Gildas-de-Rhuysの修道院の為に偽造された文書だけである。さらに、時代の違う他の文章形式が、封緘の条項のところに包含されていると言うことは、この文書は、ジャン四世の他の真正の証書に起源を持つというよりは、他の性質に基づいて書かれており、荒っぽく言うと、1430年から1440年代のジャン五世の書状の形式に似ている。おそらく、サン=ジルダスの修道士達が、この書状の内容のような特権を本当に申し分なく所持していたのだが、ブルターニュ公から授けられた本物の証書を紛失してしまったので、彼らが持っている他の真性の証書を参考にしながら、今現在残っている証書を再生産したのであろうと推定することができる。にもかかわらず、いつこの偽造が行われたかについては、多少なりとも謎が残っている。恐らくそれが行われたのは、15世紀の半ばであるのだが、それより遅い可能性も十分にありうる。

 普通、ブルターニュ公の称号の後に続くのは、告知部と、極めて厳粛な証書のために構想された一般的な言い回し、或いは、ブルターニュ公の役人あて或いは他の目標宛ての特別な言い回しでの宛て先である。告知部には挨拶が続く。普通、それは、『サリューsalut』という単語一つだけの形式を取るのだが、1361年には、『サリュテム イン ドミノsalutem in domino《主における魂の平穏を》』という文句が使われたし、1362年には、ウィンチェスター司教が、『我等が主におけるen nostre seigneur』と言う文句をつけられた手紙を受け取ってはいるが。1374年から1377年のブルターニュ公が亡命している間に公によって作成された書状は、『サリュテム イン ドミノ センピテルナムsalutem in domino sempiternam《主における永遠の魂の平穏を》』あるいは『神におけるen dieu』と言う文句によって宛名が飾られている。シャルル六世とその代理人との1380年の交渉に携わる為の使節を任命する書状には『平穏と愛情をsalut et dilecion』と言う文句を含んでおり、その一方で、サン=トーバン=デュ=コルミエの特権を確認する証書の中でも、『我等が主の永遠の愛と魂の平穏をdilection perpetuelle et salut en nostre seigneur』と言う風に祈願されている。

 導入部と各条項の部分の性格に関する規約は、それぞれの証書の正規の手続きに従って、ジャン四世の書状の規格化にあたっては、既にブランシャールがジャン五世の治世のそれらについて書いたものとほぼ同じ形式が選ばれて、居ることが提示されているので、以下のように、証明部分に関するものと、文書の様々な有効性の保証方法だけで手短に済ませることができる。ジャン五世の治世においては、その公表が最も公式な物の時(iに分類されるような証書)には、ブルターニュの証書局では、大印璽(絹の紐の上に押されているそれ)と、その色(例外なく緑色の蝋)とで封緘の形態を告げることが、ほぼ日常化した慣行になっていた。ブルターニュ公自身の署名を告知する条文、それは、印璽の告知より先行するのだが、それは一貫性があるとは言えなかった。同じく、ジャン四世の治世に付け加えられた手続きは、やはり、一貫性が少なかった。例えば、1366年十一月十四日の、大印璽の痕跡が残っている最古の書状の中では、有効性の証明の条文は以下のように読める封緘方法に関する条文と一緒になっている、つまり、『そして、このことを確実で、確固たる物にするために、余は、絹の紐と緑色の蝋でまさにこの書状を封緘し、余の大印璽をそこに捺印させた。Et que ce soit ferme et estable nous avons fait mettre nostre grant seel en laz de saye et cire verte a ces presentes lettres...』。しかし、恐らく同じ日付の、土地の譲渡を永久化する別の書状では、もともと大印璽は捺印されていたが、このような形式の文は省略されていると言うことが証明された。大印璽の捺印は述べられても、絹の紐の存在は必ずしも書く必要がなかったのである。時には、簡素に、『余の印璽』とだけ呼ぶこともあったし、あるときは、それを述べることがいっさい禁じられている時もあった。にもかかわらずこのような省略はこの治世の間は、極めて稀な物になっていった。

 ブルターニュ公の署名と自署に関する極めて整然とした変化を発見できる時期がある。ジャン四世の手による署名がある文書の中で最古の物が現われるのは、1372年のエドワード三世との極めて機密性の高い外交交渉の中であり、1372年の二月にトマ=ド=メルボルンThomas de melbourneにエドワードとの交渉に関する権利を授ける二通の証書と、1372年十一月二十二日の条約を確認する書状の中である。前者の二通の書状は、『ブルターニュ公により裁可Passe par le duc』との署名があり、後者には、更に『自らの手でde sa mien』という部分が加わって構成されている。次の自署は、シャルル五世に宛てられた手紙の中に存在しており、それは既に言及されたが、ここで、もう一度言うが、ブルターニュ公が書状の内容に極めて重大な重要性を与えたことを示す為に、手書きの署名による補完を行ったに違いない。ブルターニュ公による自署を含む、1370年代の書状の次のものは、同じ様に、外交的な文書で、極めて機密性の高い性格を持つ物か、極めて重大な結果をもたらすような種類に分類される物である。有名な、シャルル五世に送られた挑戦状などが良い例を示してくれる。ここには、『ブルターニュ公にしてモンフォール伯、リッチモンド伯が自らの手で書けりLe duc de Bretaigne et conte de Montfort et de Richemont, de ma main escript』と署名されており、少し無作法だとしても、自らが、書状の背の部分にブルターニュ公が自らの手で『私の親愛なるご主君、フランス国王陛下へA mon trescher seignour le roy de France』と宛名書きをしている。ブレストBrestの城をイングランドに与えることを批准した、1378年四月の条文では、ブルターニュ公は、『そして、このことを望み、既に上で書かれた事柄を遂行する為に。余が手ずから裁可。Et ce voullons et outre james avons parfornysant les choses desous escriptes. Passe de nostre main.』と付け加えている。ブルターニュ公の署名を含み、外交に関係のない書状のうち存在しているものの中で最も古い物は、1383年の二月十六日に発行されたものであり、サン=ミシェル=ドーレSt-Michel d'Aurayの礼拝堂に600リーヴルの賃料を払う為の書状である。この確認は以下の部分によって説明されている、つまり、『そしてこのことを確実にする為に、…、余は余の大印璽をこの現在の書状に捺印し、余に属する、余の秘密の署名と、飾り紐を余自らの手で封緘する。et que ce soit ferme... nous avons faict mettre nostre grant seel a ces presentes lettres o le signet segret de noz chevances et le passement de nostre main.』と、そして、折り返しの部分に『余自らの手によって裁可、確固たる意思を持ったブルターニュ公。Passe par nostre main, le duc. a mere fermete』と署名されている。しかしながら、我々は、同じく、ブルターニュ公領への1379年の八月の彼の帰還以降、ブルターニュ公が手書きの署名を、公領における内政に関係する重要な文書に使い始めたということを知っている。


次のファイル(n)