奇襲と私掠船の活動Coups de main et guerre de course

 海軍の恒常性が保証されていないかぎり、停戦はその存在を再び検討の対象にするのに十分である。1389年の休戦以降、プランタジネット家は、その船を売り、ヴァロア家はその建設を止めた。それは15年続き、というのもランカスター家の即位がそのまどろみを振り払ったからなのだが、とにかく短かった。1405年に、32艘の船からなる艦隊が、ルーアンで再建造されたが、1408年の新たな休戦条約が、少なくともフランスにおいては、今一度の無為な局面に先立った。なるほどアンリ五世(ヘンリー五世)は秩序だった準備を行った。つまり、サザンプトンの刷新された造船所は時折トン数においては400や800を上回る、例えば「神の恩寵Grace Dieu」号や「三位一体Trinity」号、のような船を作った。これらは1400隻の大型船からなる艦隊の強力な中核であり、1415年八月十三日の午後にセーヌ湾の水平線に姿をあらわした。

アルフルーHarfleur

 フランスの側では、準備不足は全般的なものだった。どのような妨害の軍隊も、この大艦隊の侵攻途上には存在しなかった。どんな監視兵もこの大艦隊が接近しているという警告を鳴らさなかった。改善は遅れを埋め合わせるには足りなかった。英仏海峡の港にある予備役の大型船が派遣団により徴発された。(クロ)では、建造十年目の船の修理を急いで行っていた。新造の13隻のバレイニエが建設されたが、九月にその準備が整った時には全く手遅れで、ルーアンを出発した小艦隊によるイングランドの大艦隊への襲撃は殆ど自殺的なもので、役に立たない名誉の奮起でしかなかった。アルフルーが八月の十三日から九月の二十二日まで耐え抜いたことは、(この都市の)要塞化の質の高さを際立たせ、とくにこの世紀の初頭に建造された港の入り口の二つの塔のそれを強調する。アルフルーは(結局)占領され、追いたてられた住民達は、カレーで起きた様に、英仏海峡を超えてやってきた移民達にその場を譲らなければならなかった。イングランドの植民地になったアルフルーは(イングランドの)橋頭堡になり、そこには近いうちにアザンクールで勝利する事になる軍隊が殺到した。

 改革が遅れを取り戻さなかったのと同様、彼らが守ることが出来なかったもの(アルフルーの町)を再び獲得する事を許さなかった。アルフルーは陸からと同様海からもなされた努力にもかかわらず、三十年以上もイングランド側に留まった。オンフルーでは、そのエスチュアリー(三角江、三角州が沈降して出来た河口)の対岸にあたるのだが、アルフルーを見張り、八隻のジェノヴァのカラク船(武装商船)と、昔からの特権を享受してきた彼らの同郷人をイングランドが排除したので苛立っていたカスティリヤとの援助を、国王の六隻のガレー船が受けていた。38隻の同盟した大型船の艦隊は、少なくとも250隻と推定されるイングランドの艦隊がこの港に近づこうとするのを防ごうと企てた。海の上、コー地方、帆の下、あるいは接舷して人々はお互いに戦った。カラク船の能力は、まるで塔の上から撃ち下ろすような高さであったが、数の前に屈服した。それでもベドフォール(ベッドフォード公、ヘンリー五世の弟)は身を挺してアルフルーの港に侵入しなければならなかった。というのも彼の船は火矢兵器に取り囲まれてしまったからである。

 アルフルーを解放する代わりに、国王の海軍の内、残った艦隊の使命は、侵攻して来る艦隊の出撃基地であるサザンプトンを攻撃し、征服の拡大を妨げる事であった。昇進して提督になった、ロベール=ド=ブラクモンは九隻のジェノヴァのカラク船と26隻のカスティリヤの船との援助を受けて、その方向に進路を取ったが、不幸にもラ=ウーグ(コタンタン半島の要塞)の沖の海でイングランドの一部隊と遭遇してしまった。今回も以前として数の上では(イングランドが)優位だった。イングランド側は、トゥック(オンフルーより河口側の都市)を獲得し、上陸した部隊はモン=サン=ミシェルを除くノルマンディーのすべてを征服した。戦争の帰趨は、海上で決したのだ。

 歴史の皮肉は、無知によって説明され得るのだが、以前として英仏海峡の二つの海岸に分割された、それはこの戦争の特徴なのだが、二つの敵対する勢力を海軍が無い状態に陥らせた。大西洋岸では、《ブールジュの王》は、クロ=デ=ガレを奪われていたのだが、カスティリヤとジェノヴァの救援が集中していたラ=ロシェルを、スコットランド人の徴集兵を多少の危険を伴いながら運んだ様には、もはや自由には出来なかった。なるほど、もはや海軍は存在しなかった。はっきり言うと、ベッドフォード公はもはや海上ではヘンリー五世の治下と同じようではなかった。摂政(ベッドフォード公)は、恐らく、《フランス王にしてイングランド王》には艦隊が必要ないと思っていたに違いない。彼が両岸を支配するメール=ブリタニクム(ブリタニア海)を支配するためのその艦隊は恐ろしく費用がかかる物であったから。三十年もしないうちに、船の大部分は売られてしまった。両国の海軍は、一方はその力の一部を失ってしまい、他方はその殆ど全部を失ってしまった。

 海上において、百年戦争の最後の段階が奇襲による混乱の中に溶け出していった。つまりどちらかが主導権を取る、重要さをもたされた開始地点は殆ど無く、情勢の流れるまま始まった。十五世紀の初頭の間は、幾つかの地域が、幾つかの作戦に専心していた。対照的なのは、例を挙げれば、両半島地方は、英仏海峡の間で向き合って、イングランド艦隊とフランス艦隊との改革の原因を、彼らの海に相互に与えていた。つまり、フランスはウェールズの失地回復運動の再開を何度も支援し、イングランドは、ブルターニュ公の気まぐれを利用してブルターニュに侵攻した。ブレスト(ブルターニュの都市、フィニステール県)は、サン=マロが頑強にフランス側に留まっている間に、争点となり続けた。作戦の最終局面では、争点の一方は、ブルゴーニュ公の手の中にあるフランドルの諸港であり、他方は、より激しく争われていた、ジロンドとロワールの間の地域であり、そこは政治的急進派を介して、間接的にであれ、直接的にであれ、争われ続けた。1406年以降、ブルギニョン党はカレーと和解し、オルレアン公ルイの軍隊はジロンドに居た。将来、ブラクモンは、カスティリアの援助を受けて、かつて1372年に獲得した成功をサントンジュの海岸で繰り返すだろう。

 事実、この時期の海上の戦いを支配していた物は、私掠行為である。なぜならそれこそが国家に代わって実際の海戦の手段を実行していたから(国家は船を売り払って居た)である。時には、公式なものと私的なものが混合した性格を持つこともあったが。十五世紀の初めというのは、ビスケー湾から北海まで、ドン=ペドロ=ニーニョや、シャルル=ド=サヴォワジ、時折イングランドに対する公式な軍事行動の様相を呈する私掠船の企ての協力者達によって、フランス人とスペイン人の混じった冒険好き達による企ての絶好の機会であった。しかしその大部分は、奇襲攻撃であり、海上における海賊行為に都合がいいそれであった。海賊の疑いを晴らさずに、それは私掠活動に似ているので、また、海賊と区別し私掠船を巻き添えにせず、類似した活動の中でその区別は曖昧なままであった。しかし、君主の権力は利益と同時に損害も引き出した。利益に関して言えば、こう言った戦争の形態は、敵にとって有害であり、出費もせず拿捕により利益が引き出せるので国家にとって経済的だった。それにも増して、私掠船の作戦は、急速な旋回運動の為に艤装されたトン数の小さな船が、海上における戦いの機動の為の訓練を乗組員に許した。損害について言えば、戦争の一種の民営化により国家の統制を離れてしまうと言う事だ。

 こう言った状況を再び請け負ったと考えられていたのは、海軍提督職への尊敬の念である。勿論それは時には、ブルギニョンとアルマニャックの間で争われていたが。ピエール=ド=ブルバン、細目(Clignet)と仇名されていたが、彼は、ルイ=ドルレアンのおかげでルノー=ド=トリエを1397年に受け継いだが、1408年にジャン=サン=プール(ジャン無怖公)の忠臣、ジャン=ド=シャティヨンの利益になるように、罷免されてしまった。高等法院(パルルマン)は、提訴されて、双方とも1414年に解雇し、クロ=デ=ガレの前の守備隊長、能力を欠いた管理人である男に一時的に職を任せた。幸運にもカスティリヤと協定の交渉人であったロベール=ド=ブラクモンにとってその職が返ってくるのは極めて遅く、時間が少なかった。

 君主の権威の衰弱は、沿岸の領主達とりわけ彼らの領地の隣接の海域も支配すると言い張り、国王の提督に抵抗している領域君主達の利益となった。イングランドの支配するギュイエンヌに加えて、王国の外であるプロヴァンス(神聖ローマ帝国領)、ブルゴーニュとブルターニュなどは、彼ら固有の艦隊を持ち、ライヴァル、時にはフランス国王の海軍の敵としてあらわれる艦隊をもっていた。つまりかれらは、国王の物をモデルにして組織した独自の海軍本部をもっていた。越権行為・侵害・競争に対抗して粘り強い戦闘が、国王の海に関する権利の回復と発展の為とその海の復活の為との必要性の到来を予想させた。