このように、1368年のミクルマスから1375年のミクルマスまでの臨時課税による総徴収額は、大体690000ポンド程度であり、その内の54%は羊毛への臨時税、俗人からの税金は24%、聖職者からの税金は18%、そしてトネージ=ポンデージ《重量税》は4%であった。それゆえこれが示すのは、臨時収入は、大体18000ポンドほど、臨時の支出、それにはスコットランドとアイルランドのものを含むのだが、その支出の総額を上回っていた。
しかしながら、財務府によるそれ以外の幾つか収入が、1369年から1375年までの時期とそれよりあとの時期との両方にあったが、それには注意しなければならない。それは戦争による利益《おそらく身代金》である。これは強調されねばならないのだが、こういった利益は、国王大権に属する事項なので、その結果として、その受け取り高は、直接財務府に支払われる事はほとんどなく、それゆえ、追跡するのが極めて困難だ。しかしながら、1368年から1369年にかけての財務府の会計年度においては、宝物庫the Chamber《国王の個人的な資産の管理をするところ。身代金は国家の事業ではないのでここに納められたということか?》から、財務府the exchequerへの103254ポンド3シリング9ペンスの移動、これはフランス王ジョン《フランス王ジャン二世善良王》の身代金であったのだが、これとさらに8000ポンド、これはスコットランド王デーヴィッドの身代金であったのだが、この移動があった事を見る事ができる。こういった移動は、1370年のミクルマスまでに国王が、20万ポンドを超える金額を使ったり戦争での負債で蒙ったりしていたにもかかわらず、ただ教会からの十分の一税を一回だけしか得ていなかったと言う事を説明する。身代金として受け取った金額は113250ポンドの価値があり、臨時課税から得られるすぐに使える69万ポンドと合わせて、総額803250ポンドに達し、1368年から1375年までの臨時支出である671900ポンドを優に上回っている。それゆえ、身代金が専ら戦争への資金として専ら使われた事は明らかであり、財務府は、臨時支出の全てを賄う事ができるほど余裕があったということは明らかである。しかしながら、 この資金が特に戦争の為に割り当てられ、差引残高superplusagiaの集積が、財務府が一切それらの資金を戦争の為に現金としてとっておこうとは思っていなかった事を明らかにする。もう一回の身代金の支払いには注意を要する、つまり1379年八月の5000ポンドの財務府による受け取りは、ワレラン、サン=ポル伯《Waleran de Luxembourg、フランス大元帥、サン=ポル伯》である彼は1375年に捕虜になっていたのだが、彼の分割支払金である。
ここでの証拠は断片的でがっかりさせるようなものであるにもかかわらず、こういった身代金等の支払いを除いて、国王の戦争からの利潤による収益は、少なかったように思われる。国王が、ランカスターが受け取っていたようなやり方で「三分の一そして、三分の一の三分の一」をその時期のフランスにおける利益から受け取っていたかどうかは疑わしい。もしそうだったとしても、この時期の契約書や会計簿にそれらに付いての言及が全くないのは驚くべき事だ。たとえば、ランカスターの1369年六月二日の契約書は以下のように述べている、つまり、この公爵と彼の従者達は、フランス王や教会によって保有された占有地を除く、あるいは、「戦争の指揮官les chief de guerre」、彼らの為に十分な給与が支払われるのだがそれらを除いて、「その他の戦争による利益toutes autres advantages de guerre」を
得られるべきであると。1373年から1374年にかけてのランカスターの軍事行動とに関連する文書と、1380年から1381年にかけてのバッキンガムのそれとは、似通っているが、フランスの農村地帯から受け取った身代金も同様に国王の為にとって置かれていた。これらは給料に対して請求できるものであり、1373年においては書記官の一人ジョン=ハンブルトンが、この様な資金の受取人として指名されたのだが、それは以下のように叙述されている、つまり「古き《収入源としての》封に加えて、風習と習慣に従う従属的な受取人の職務antiqua feoda ad officium hujusmodi receptoris pertinentia secundum consuetudines et usus
」と。彼が受け取った額はランカスター公から109ポンド、ウォリック伯から126ポンド13シリング4ペンスに制限されていた。
バッキンガムの軍隊における指揮官達は、こういった財源に全く計上していない。重要な捕虜を生み出すような戦争がなかったことを、1373年から1374年までと、1380年から1381年までとの証拠が示しているように、それを前提とするならば、フランスの農村部からの身代金は少ないか、あるいはまったく存在せず、国王の利益は最小限であったと考えられる。しかしこの結論は、家臣達が略奪品から収入を得ていた可能性を否定するものではない。我々は、略奪品が舟に積み込まれたのを思い出すだろう、どのような船かと言えば、1369年のノルマンディーの海岸沿いへの彼の襲撃にランカスターといっしょにやって来た船である。しかしながら、海上における戦争の場合、国王が給料を払った業務のような時には三分の一から四分の一ほどの略奪品を王が自分の為にとって置く事ができた。海軍の産み出した資金の証拠は少ないが、戦争の予算に何らかの衝撃を与えるほど十分大きな資金を生み出したと言う証拠は何処にもない。
戦争時の政府に特徴的なのは、担税者がもたらすよりも早く資金を必要とするという事である。それゆえ、俗人と聖職者とのそれぞれからの臨時の課税同意を見越して使うことが必要となる。春や夏の月には冬の季節より大きな額の借金をする事が習慣的になっていた。例えば、1370年六月八日、政府はその緊急の必要性を公表した、その必要性とは、ランカスターと、ロバート=ノールズ卿の遠征の資金を調達する為に100000マルク《1マルクは13シリング4ペンス》の借金をする必要があるという事だった。ロンドンは5000ポンドを求められ、その数日後(つまり六月の十七日)には、カンタベリー大司教とコバム卿ジョンLord Cobhamへの手紙の中で、国王は8000ポンドの借金を申し入れている。彼の作戦が必要としていたのは、「とてつもなく巨大な額の支出の発露であり、そう言ったものは、可能な限り朕の王国の歳入とイシューに課す事ができない」ものである。実際、33000ポンドが1370年の復活祭の季節から借りられ、その金額は1369年から1381年までの間の期間でそれを上回ったのはその出発が1375年まで延期されたブルターニュへの遠征の為の資金として42500ポンドが借りられた時だけである。他の例を引用すると、1373年の復活祭の時期、20000ポンドを超える額が借りられた。総計すると、1368年のミクルマスから1375年のミクルマスまでの時期の強制借入金は、約15万ポンドほど集められ、1376年のミクルマスから、1381年のミクルマスまでの強制借入金は6万ポンドであった。 1368年の九月二十九日《ミクルマス》から1381年の同日までの強制借入金の徹底的な分析は、1368年から1369年《1368年九月二十九日から1369年九月二十九日までが会計年度の一年。以下同様》から1380年から1381年《つまり会計年度の1380年まで》までの間の借金の総計が21万ポンドを遥かに超える数字になる事はないように思われる。二つの点を指摘せねばならない。こういった規模の借金であっても、この戦争の初期におけるエドワード三世の放蕩で、しばしば無節操な強制借入金の繰り返しと比べると小さなものであった。二つ目は、借金は戦争の回転力を早め、他の手段よりも早くしたということである。ある時期においては、つまりそれは1379年の冬も遅くなってからの借金であるが、次の春における海軍による冒険事業を可能にした。
資金源としての王権への、貸付金は興味深い。1369年から1370年そして1379年の冬の間、王権はその網を広範囲に打ち、その結果として、多くの貸主が現れた。前者の期間の間は、貸主は250人から300人の間ほどいたが、10ポンドの金額からその下以下の貸主は一般的ではなかった。しかしそれ以降、1375年までは、借入金は、そのほとんど全てを幾人かのロンドン市民あるいは、ロンドンの市民による貸付組合による、あるいは、アランデル伯、リチャード=フィッツアラン、彼の裕福さは良く知られていたが、彼らによって貸付けられた大規模な資金に制限されていた。アランデルからの貸付け金は四回の資金であり、1370年五月二十五日から1371年四月十五日までの、総計24666ポンド13シリング4ペンスにのぼる資金、それに加えて、1372年八月十六日(この時エドワード三世は海上兵力による遠征を準備していたのだが)の5333ポンド6シリング8ペンス、1374年六月四日の10000ポンド、そして九月十八日の同額である。他のどのような臣民もこの様な規模で貸付けした事は無い。確かにロンドン市民達は、それよりいくらか多く貸付けていたが、この町の資産は広く分散していた。例えば、1371年二月一日、には八十三人のロンドン市民が国王に4600ポンドを貸付けている。ジョン=パイルJohn Pyelは1372年八月十六日の10000ポンドの国王への貸付けの仲介業者である事は確かなように思われる、丁度パイルとリチャード=リオンズRichard Lyonsが1374年の八月二十三日、その時20000ポンドがバルディ《イタリアの金融業者。エドワード三世に貸付けて破産》やその他の業者に対して払い戻されたり、国王に渡されたりしたが、どのくらい多くの市民達の代わりにこれらの人々が行動したのかを知る事はできない。
1369年から1370年にかけての無数の借入金を除くと、その内の幾つかはリチャード二世の治世の初期に目立っており、国王の借金は秩序だった、そして短くつまり比較的短期の期間の借金の仕方になった。巨額の貸付け金は大抵羊毛にかかる特別税によって返済を保証されていた、例外的には俗人或いは聖職者からの臨時税も例外的に使われたが。額の大きな借金は、そしてそれがもっとも支配的なものだったが、一年以内に、あるいはしばしば数ヶ月以内に返済された。1374年九月十八日のアランデル伯からの借金は、1375年の一月三十一日と六月五日の二回の分割払い込み金に分けられて支払われた。同じような例は容易に引用できる。1371年二月のロンドン市民達による4660ポンドの貸付け金は、1371年五月十日までには返済されていた。
勤務によって蒙った負債は場合によっては、言及されている。陸上におけるものであれ、海上におけるものであれ、六ヶ月からそれ以内の期間の勤務契約は、勤務に先立って、賃金や厚意の支払いを規定するのが普通であった。しかしそれより長い期間に対しては、段階的に払うことが必要だった。例えば、1373年の、ランカスターとその属僚との契約は、勤務期間一年と定められていたが、軍隊が乗船する前に、各司令官は現金で6ヶ月分の前払い金、つまり三ヶ月分の賃金と、保証された次の三ヶ月分の割当を受け取るべき事、が約定されていた。六ヶ月後、国王は、指揮官達の間で分配されるべき12000ポンド、その一部分はその年の後半の支払いの為のものだったのだが、それを送金すると約束していたが、契約満了の一ヶ月前になっても、国王が払うと約束していたものは未払いのままであった。実際フランスには一切資金は送金されず、イングランドに帰ってきても一切の支払いは為されなかった。それどころか、1374年十二月五日のバセット=オヴ=ドレイトン卿Lord Basset of Draytonラルフに対して支払われた737ポンド2シリングを除いては、1374年十月から、1380年の二月までの如何なる日付においても、如何なる傭兵隊長も、それ以上の金を彼らが自分の業務を完了する時までに、財務府から受け取る事は無かった。彼らが業務を終えるまでに傭兵隊長たちに対して負った負債は19861ポンド15シリング11ぺンスであり、その内の約半分である9642ポンド6シリング6ペンスはランカンスターに対してのものだった。ランカスターは既に莫大な金額を1370年から1371年までのガスコーニュにおける彼の遠征の為に負債を負っていた。その内の4000ポンドは彼に対して1372年の二月から三月の間に支払われたが、彼が自分の業務を完了した時から数ヶ月経った1372年七月の十九日においても 12455ポンド1シリング2.5ペンスが依然として未払いのままであった。この手の差引残高は、恐らく、分割金として支払われるのが一般的であり、1373年一月二十五日から1373年五月十三日までにランカスターは4666ポンド13シリング4ペンスに達する三回の支払いを受け取った。同じようなやり方で、1378年九月から1379年の九月までの間、国王の財貨や宝石それは4469ポンド18シリング10ペンスの価値があったのだが、1373年から1374年にかけての負債に対しての支払いとして受け取った。1380年から1381年にかけての遠征による総負債額は16228ポンド10シリングだったがその内の7182ポンドはバッキンガムに対してのものだった。この負債の清算は、行われたり行われなかったりで、王の叔父《バッキンガムは後のグロスター公となるトマス=オヴ=ウッドストックでリチャード二世の叔父である》を喜ばせるようなものではなかった。重要なのは、1388年の無慈悲議会Merciless Parliamentの期間中彼は1828ポンド13シリング4ペンスに達する五回の支払いを受け取ったが、その中には、ド=ヴィア《オックスフォード伯Robert de Vere、アイルランド公》によって没収された635ポンド6シリング8ペンスの価値のある財貨が含まれていた。この種の負債に対する支払いの遅れは習慣化してしまった。例えば1385年の十二月ウォリック伯は380ポンド13シリング4ペンスを払われたが、1373年から1374年の間の軍事奉仕に関しての負債の一部はまだ未払いだった。王権が最終的のその負債を完全に返済したかどうか、と言う重要な問題は、未だに答えが得られていない。その為には、未だ試みられていない支払い表を通しての追跡調査が必要だからだ。
我々の分類による戦争の第二の時期が始まるのは、1377年六月のエドワード三世の死の数日後であり、その時には、フランスの艦隊が、カスティリヤのガレー船の助けを借りて、イングランドの南の海岸に上陸したときである。彼らは夏の間中全く抵抗を受けずに行動する事ができ、彼らが享受した自由は、リチャード二世の治世の不幸な始まりに心理学的な影響を与えた。政府は不意打ちを食らったが、しかし、完全に準備をしていないというわけでもなかった、というのも早くも1377年二月には、海上兵力の召集を始めていたからで、その月から1377年のミクルマスまでには、少なくとも6750ポンドが乗組員への前払い金や賃金として使われた。しかし、乗組員の数は極めて僅かであり、九月までには150隻の船が強制徴発され、テームズ川に集められたにもかかわらず、どれ一つとして海上に出発する準備のできているものは無かった。1376年から1377年までの会計年度の間に、約54350ポンドが、羊毛にかかる臨時税からと1377年一月に同意を与えられた俗人への人頭税からとによって集められたと試算できる。そのうち比較的僅かな額(14500ポンドと試算されるが)が1377年九月までに戦争に使われていたが、この時点までに王権は財政上の困窮に陥っていた。15000ポンドを海軍による遠征の為に借りていたのでその為に史料がすぐに作られた。こういった状況はある疑問、つまり戦争の資金調達に致命的な疑問と関係がある。つまり、議会なり聖職者会議なりで与えられた課税同意による資金はどれだけ排他的に戦争の目的の為にとって置かれたかという事である。この疑問は、特に羊毛に関する臨時税との関係の中で問われねばならない。
1377年の一月と十月の議会の開会中、庶民院はその態度を詳細に述べている。1275年と1303年の関税は説明無しに国王に払われている。しかし、木材にかかる臨時税は、直接的そして専ら戦争の為にだけ使われ、その他の一般の会計とは別にその手続きが記録されている。1377年の十一月、この要求は見とめられたが、この庶民院に対する譲歩が、良心的に遵守されたかどうかは疑わしい。
敵《フランス》のほうが、海上における戦闘(これが、1377年から1381年までの時期における我々の分類による最初の支出項目なのだが)の価値を理解していたと言うことはほとんど疑えない、そしてこの認識《海戦は重要ではない》がその後何年にもわたってイングランドの戦略を規定した。1377年夏に、敵が海岸沿いの襲撃をしてきた時の最初の判断を誤った反応は、フランスとカスティリヤの艦隊が冬の停泊地に戻った後随分経ってからの、そして1377年十一月から1378年一月までのあいだは、天候が良かったので海上にいたバッキンガムの率いる艦隊の派遣であった。これには約25000ポンドがかかり、その唯一の結果はといえば、最後の月にブレストに交代のための小規模の守備隊を配置しただけだった。1378年には、53000ポンドが海戦に使われ、我々が扱っている時期においては、1372年の海戦のための支出ぐらいしか匹敵するものは無い。この資金のほとんどは、ランカスターによって率いられた艦隊の為に使われた。彼の遠征は、いつものようにサン=マロに対する不成功に終わった攻撃と関係していた。しかしながら、ここで最も重要なのは、この攻撃が、1377年の出来事を繰り返すことを妨げるより大きな目的に依存していたということである。1379年における海軍の作戦がおこなわれたことに関する典拠となる資料は、彼らは非常にきつい予算でやりくりしていたので《絶対数が少ないので》、見出すことが難しい。十分ではないのだがしかし、約15000ポンドほどの金額が考えられる。それ以後は、これに続く数年のあいだ海軍の作戦行動というものはなかった。1380年のバッキンガムの軍隊を運ぶ小規模な輸送船団は1600ポンドかかった。1380年には、事実上政府の資金の全てが軍事作戦のために使われ、その結果、英仏海峡の艦隊や、ナロウシーズ《英仏海峡とアイリッシュ海the Narrow seas》の小艦隊など全てが海上から姿を消し、敵は、様々な公然たる侮辱を行いながら、テームズ川からグレーブゼンド《Gravesendケント州北西部。テームズ側沿い》まで船を進めることが出来た。
1378年の、ブレストとシェルブールの獲得は、《イングランドの》外塁の維持のための恒常的な戦費をかなり増大させた。この戦争の我々の区分による第二の時期におけるカレーの維持の為の費用は、毎年少なくとも23500ポンドは必要だった。1378年一月九日から、1381年六月二十四日までの、ブレストの維持費用は、19639ポンド5シリング0ペンスに達し、その一方で、1378年九月十一日から、1380年十二月二十日までのシェルブールの維持費用は、19786ポンド7シリング10ペンスだった。これに加えて、糧食と、軍需物資の費用をいくらか付け加えねばならないだろう。上記の数字をもとに、我々は、1376年のミクルマスから、1381年のミクルマスまでの五年にわたる期間の膨大な支出を想定することが出来るが、それは恐らく171000ポンドに上る。この数字は、毎年平均2750ポンドほどのカレーからの裁判収入によって相殺され、また恐らくブレストからは隣接した地方からの身代金収入と、海上での拿捕による収入がわずかながらもあった。ブレストからの収入は、一定の割合で傭兵達の指揮官と山分けであった。こういったイングランドの外塁における正味の支出は約157250ポンドと言う風に試算できる。ブレストやシェルブールに対して使われたお金が、その価値のある投資だったかどうかに付いては今や疑問にさらされている。つまりこういった外塁が、1378年の十月に王権によって主張されたように、敵の海軍による攻撃に対する防御の第一線としての役割を果たしたと言う証拠は何処にも無い。それどころか、ブレストは1380年のバッキンガムの軍隊の上陸拠点にすら使われなかった。結局、こういった外塁が1376年から1381年の間では最も高くついた負担だった。
北部フランスに目を転じると、イングランドは、再びブルターニュの分裂した政局に1379年から1381年まで没頭し、新しい治世の初期の数年間にアキテーヌに使われたお金の二倍がこの地域に費やされた。1378年の十二月、シャルル五世は、ブルターニュを国王が没収する事を宣言し、その結果として1379年にジャン=ド=モンフォール《モンフォール伯ジャン、イングランドに亡命していた》がフランスに帰還した。彼を助ける為の、ジョン=アランデル卿に率いられた遠征は、1379年十二月に悪天候によって挫折させられた。その経費はおよそ15000ポンドである。1380年から1381年の間の運の悪いバッキンガムの軍隊は、これに続く数年の間北部フランスに上陸した唯一のイングランドの軍隊である。モンフォール伯とフランス王の関係に付いて誤った情報を与えられたイングランドの統治者達は、ブルターニュの防備強化の為に前払い金の形で払われた9350ポンドが1381年の三月から四月にかけて費やされた。 モンフォール伯ジャンとの同盟から得られるはずの利益の為のイングランドの探索の程度は以下の通りである、つまり、北部フランスへの投資(守備隊の経費は除く)の50%がこのブルターニュに費やされ、その北部フランスへの投資は1368年から1381年までに費やされた全体の費用の少なくとも35%には達していた。こういった投機事業はなんと無益なものだったと証明されただろうか。1381年の夏10000ポンドにも達しようかと言う金額がケンブリッジ伯のポルトガルへの冒険とその輸送の為に費やされた。
我々はついに四つ目の項目、つまりアキテーヌにたどり着いた。しかしこれは今まで、ほぼガスコーニュに付いてのことを言うのと変わらない。1377年の四月の終わり頃、5775ポンド15シリング0ドゥニエがボルドーの大元帥のもとに送られた。この事が証明するのは、いや少なくとも期待できる事は、全体的に不適切な額であり、強力なフランスの攻撃の前に財政的な逼迫が席巻していたという事だ。もっと詳しい話が明らかにするのは、フェルトンにはわずか350人ほどの兵隊しかおらず、重要な町でもわずかな守備兵(リブルンヌには30人、サン=テミリオンには20人)しか置けず、都市の防御を助ける為のわずかな額の臨時税しかなかったということである。ベルジュラックが陥落すると、フェルトンは捕らえられ、フランスの軍隊はボルドーまで十二マイルのところまで迫った。しかしながら、1378年になると、国王の顧問会議は、ガスコーニュに対して大規模な行動をすべきだという事に気付いた。ネヴィル卿ジョンは、国王の代理として七月に派遣され、1381年の二月まで彼が勤務している間、失った土地のいくらかをとり返した。彼が連れていった兵隊は、ガスコーニュで採用されたガスコンの兵隊一緒になって、その他の支出は34948ポンド15シリング5ペンスかかった。その他の取り巻きは更に3500ポンドがガスコーニュの防衛の費用に付け加わる事になり、結局総計が44224ポンド10シリングになる。我々は展望を保つ為に、1378年のランカスターの海上の遠征はかなり大きく、1380年から1381年までのバッキンガムの遠征に使われた費用の二倍であった事は特記しておかなければならない。
再び、別々の項目ごとに、試算された支出を検証してみよう。少なくとも437200ポンドにも上る全体の支出、そこからは既にカレーから得られた裁判収入は除かれているのだが、その全体の内、約124350ポンド(28%)が北部フランスの為に支出され、44225ポンド(10%)がガスコーニュの為に支出された、そして101350ポンド(23%)が海戦の為に使われ、約157250ポンド(36%)が、カレー、シェルブールそしてブレストの為に使われた。そして、ポルトガルへの遠征は更に10000ポンド(2%)を付け加える。これによって、1368年から1381年までのフランスとの戦争に使った支出の総計(ポルトガルの分は除かれるのだが)、1061750ポンド、それは以下の表のように使われたのだが、それを与えてくれる。
北部フランス | 38,2950ポンド(36%) |
---|---|
アキテーヌ | 14,8225ポンド(14%) |
海戦 | 24,6050ポンド(23%) |
カレー、ブレスト及びシェルブール | 28,5000ポンド(27%) |
もし我々が、1376年から1381年の間の項目を、1369年から1375年までのそれと比較するならば、特記せねばならない二つの重要事項がある。その最初のものは、守備隊の経費の増加であり、その二つ目は、ロワール川より南の地域への支出の減少である。こういった事実は、これらの年間のイングランド側の戦略のパターンを示している。つまり、主要な目標は北部フランスである。もしイングランドの主要な狙いが1360年にイングランドに割譲された領域を守る事であったならば、戦争は恐らく違うように戦われたであろう。確実なことはいえないのだが、様々な戦略が、この時期のこの様な前途の無い結論を出すのを少なくとも遅らせたに違いない。連続するイングランド政府の「アキレスの踵」ははっきりとそして首尾一貫して彼らの軍事的な目標が何かを定義する事に失敗したということである。
1376年から1381年までにスコットランドとアイルランドとにかかった費用は、恐らく暫定的にだが、約30000ポンドだったと試算できる。これに1376年から1381年の間のフランスへとポルトガルへとの遠征の費用を加えると、我々が臨時の支出の総額だと考える額に達する事ができるが、それは467000ポンドを超える。もう一度言っておくが、この額は、これらの年間の臨時の収入との関係において考慮されねばならない。収入の総額はほぼ50万ポンドであるが、その内羊毛にかかる臨時税が217000ポンド(つまり43%)を産み出し、1377年そして1379年と1380年の俗人からの臨時税と人頭税とが、219000ポンド(つまり44%)を、聖職者達からの十分の一税と、同じく人頭税が64000ポンド(つまり13%)を産出した。
1376年から1377年までの年度と、1380年から1381年までの年度との間はそれより前の時代と比べて財政上の窮乏の総額は極めて少なかったにもかかわらず、以前のように、統治者達は借入金によって収入を期待する必要があった。もう一度、王権は、契約状の支払い義務を履行する事ができなかったが、1380年から1381年までの作戦行動におけるバッキンガムとその配下の指揮官達への負債が、唯一の事実上の不履行であったように思われる。1376年のミクルマスに続く五年間に課税によって得られた額は、およそ33000ポンド程度であったが、臨時の支出よりも遥かに多いものだった。しかしながら、我々の言及の外にある様々な追加的な支払いがあったということや、1376年から1377年の年度の臨時的な収入のほとんどが戦争に使われなかったと言う証拠があった。1377年の11月以降、庶民院は、彼らが同意を与えたときに作られた約束の範囲を超えて、どんどんと資金がつぎ込まれているのではないかと言う持続した疑いによって混乱させられていた。恐らく彼らの考え方自体は正当化されるものだったが、必要とされていた資金はもしそれがあったとしても、恐らく決して巨額のものであるはずがなかった。恐らくもっと有り得そうなのは、国王が何度も繰り返す支払能力の無さの訴えに反応して出された庶民院からの疑いは、政府が課税同意を濫用しているという疑わしい兆候のどれよりも、1376年の模範議会から続く疑念の集積の所為であった。