十四世紀後半におけるフランスとの戦争にイングランドが費やした費用

J. W. Sherborne, Bulletin of the Institute of Historical Research, 1977

 百年戦争がイングランドの納税者とイングランドの財務府に課した重大な財政的負担は、歴史家達には良く知られている。この論文の目的は、まず第一に、十四世紀の紛争の限定された局面において何が最も大きな負担だったのかを検証し、次に、戦争の為に認められた課税への同意とそれらの費用を関係付けることである。選ばれた時期は、1368年のミクルマス(戦争が再開した年の会計年度の始まり)《ミクルマス、大天使ミカエルの日は、九月二十九日であり、イングランドにおける会計年度の始まりである》から、1381年のミクルマス、つまり、十四世紀において最後にフランスに送られたイングランドの軍隊が帰還した四ヶ月後までに広げられる。これらの期間における関係する財務府の文書を包括的に検証することほど良くわかるものは無いので、それがここでは試みられる。

 証拠はしばしば不完全であったり、解釈するのが難しかったりするので、不可避的に推量したり試算したりする必要がある。これらの期間に宝物庫の会計記録が無いことが意味するのは、恐らく宝物庫はあまり重要ではないのだが、特記しておかなければならない。それに加えて、調査する領域は、募集、召集、そして艦隊と軍隊への支払いにかかる経費を省く事にする、しかしそれらはあまり巨大なものではなかったが。海岸線の防衛と外交とにかかる支出も同様に排除される。概して、それらは従属的な支出でしかない。アイルランドとの戦争、そして時々騒然とするイングランドとスコットランドの国境での支出、は我々が言及する範囲の外に置かれるが、試算では、そしてその試算は決して決定的ではないのだが、これらの年間の非常時の支出の負担の全部の概数を出す試みの一部を為すに違いない。

 ここで研究される時期は、十四世紀におけるフランスとの間のイングランドの交戦状態が最も無視されてきた局面である。学者達は、敗戦の期間を研究する事にはあまり興味が無く、1360年までの時期、つまり短いながらもイングランドが勝っていた時期、に比べると関心が薄い。しかしその後すぐ、そして1369年から1381年の間の数年間は、事実上の大災厄の一覧表である。十二年間の戦闘、ほぼ110万ポンドが、ほとんどないか或いは全く役に立たないことのために費やされ、イングランドの人々は、破産寸前まで課税され続けたことに対して不平を述べていた。1381年のミクルマスまでに、使われた資金についてみるべきものがほとんど無い。カレーとボルドーそしてバイヨンヌはイングランドの手に残っており、それに加えてブレストとシェルブールがあった。しかしながら、ロワール川の南の広大な地域、つまり1360年以降《つまり、ブレティニ=カレー条約でフランスからイングランドに渡された広大な地域》イングランドに渡されていた地域は、フランスによって回復され、イングランドの保持するガスコーニュはしぼんでしまった。それゆえ、我々は、イングランドの統治者達が、その資源の配分をするために選んだやり方についていくらかの判断を推量によって下す必要がある。

 便宜上、この戦争の時期を二つに分割する、それは、1375〜1377年のブルージュの和約によって区切られる。また、支出を四つの分野に細分化する。一つ目は、北部フランスに対する遠征、二つ目はアキテーヌに対するそれ、三つ目は海戦、そして四つ目は、「外塁barbican」と呼ばれるカレーとその周辺、この「外塁」には後にブレストとシェルブールも加わるのだが、そこでの戦闘。

 北部フランスへの遠征は、1375年までに、四つの大規模な遠征が在り、それ以外にも小規模な遠征が一回あった。エドワード三世は1369年自らが軍隊を率いる計画を立てたが、実際の指揮権はランカスターに渡され、彼は自分の兵隊を率いて、カレーからアルフルーまで移動し、そこでほんのちょっと守備隊を試した後、カレーへと引き返していったが、その行軍の後には略奪と破壊とがもたらされた。この遠征の明白なる利益は、イングランドを略奪するために集められていたフランスの軍隊を牽制できたことである。残っている史料によればこの作戦行動は、いつも通り略奪品が豊富ではあったが、、そしてそれは、1360年代の騎馬略奪行《chevauchée》の特徴だったのだが、それにかかった費用は、少なく見積もっても、74934ポンド6シリング10ペンス《一ポンド=20シリング=240ペンス》であり、これには兵隊とその馬の往復の費用が含まれるのだが、これならば投資としてあまり魅力の無いものである。イングランド軍の目的は依然として曖昧なままだが、少なくとも武力の示威にはなったし、それが、ノルマンディーにも《エヴルー伯として》付属的な領土を持つナヴァール王シャルルと、ブルターニュ公であるジャン=ド=モンフォール《モンフォール伯ジャン。シモン=ド=モンフォールの子孫》との思い付きを捕らえたに違いない。エドワード三世は期待に満ちた目で彼らを見た、と言うのも彼等の助力があれば、ロワール川以北の彼の影響力が強くなるからである。1369年から1375年までのイングランドの戦略パターンは、以下のような可能性があったことを示唆している、つまり、エドワード三世は依然として北部を制圧しようという野望を持っており、それはおそらく、パリを攻撃し、最終的にはフランスの王位を得ようとしていると言うところまで拡大される野望であった。しかし、1369年のようなやり方の軍事力の示威は、協力者を得る可能性が低かった、とくに、よくあることなのだが、フランスがランカスターに抵抗する準備を何もしていなかったような時には。

 1370年の遠征は、それには、最も古参の隊長としてロバート=ノールズ卿Sir Robert Knollesが帯同しており、三ヶ月の間、強奪と略奪をしたが、イングランドの統治者達ははるかに巨大な期待をかけていたので、この手の作戦行動としては全く失望するような成果しか挙げられなかった。この軍隊は、二年間の勤務の契約があった。王権は最初の九十一日間は34864ポンド12シリング(それには輸送代金の3549ポンド10シリング3ペンスが含まれるのだが)の費用を調達した。そしてそれ以降は、この軍隊は略奪と身代金そして占領した地域からの収穫物で自分で資金調達することが意図されていた。結局この軍隊は三ヵ月後に混乱が勃発した。ノルマンディーはその最初の目標として計画されていたが、ナヴァール王シャルルとの長々とした交渉がノールズの出航前までに終わらなかったので、そしてその結果、この軍隊はライ及びウィンチェルシーから、カレーへとわたった、本来はサザンプトンからノルマンディーに渡るように計画されていたのに。

 1372年には、エドワード三世は、もう一回北部フランスに軍隊を率いる計画を立て、サザンプトン及びポーツマスに軍隊を集結させたと言う決断は、ブルターニュか、(可能性は低いのだが)ノルマンディーが彼の上陸を予定した地点であるということを強力に示唆している。ブルターニュに上陸することを望んだと言うことを示唆しているのは、1371年十一月からのモンフォール伯との追加の交渉なのだが、それらの交渉はまたもやイングランド側が期待していたのより長引き、それは1372年七月十九日の、つまり同盟自体は少なくとも締結されたが、エドワード自身が海軍による遠征を行うことになった。王は、実際は、彼自身の見込みを七月の十九日以前のある時点よりは疑いを持っていた。1372年の五月の十六日に、彼は、ネヴィル卿ジョンと契約を交わし、ブルターニュにおいて、600人の兵隊とともに仕えさせるようにしたが、この計画自体が、七月の条約の存在を示唆する。一方で、エドワード三世本人が到着したならば、モンフォール伯が1000人の兵隊とともに彼に味方する約束があった。ネヴィル卿は結局1372年の十月にブルターニュに到着し、彼自身の指揮下の兵が財務府に与えた負担は12000ポンドは超えなかった。

 ネヴィルのブルターニュへの到着は、モンフォール伯とフランス王シャルル五世との関係を急速に悪化させ、その結果として1373年の四月に、ブルターニュ公はイングランドに避難する事になった。彼が到着したとき、イングランド王は、既にランカスターをブルターニュに派遣しブルターニュ公の財産をを保全することを計画していた、そして、十分に考えられることなのだが、その後は全てがうまくいけばブルターニュ全体に作戦は拡大されるはずだった。しかしながら、五月には、イングランドの統治者達は、考えを改め、カレーを上陸の港として選んだ。この変更の理由はハッキリしていない。一つの可能性としては、エドワード三世が、当面の間ブルターニュでの希望を捨て去ることを決断したと言うものである、その理由としては、モンフォール伯がブルターニュ公領において急速にその運勢を悪化させていたからである。もう一つの仮説は、イングランドの統治者達が、1381年にやったように、北に上陸することによってブルターニュを急襲しようと決断したのではないかと言うものがある。もしたとえそうだったとしても、この計画はうまくいかなかっただろう。ランカスターは、東に留まり続けた、あるいはフランスの軍隊によって留まらされていたのかもしれないが、とにかくブルターニュに攻撃を加えるにはあまりにも東に居た。少なくとも、我々は、ランカスターの上陸と、それに続くボルドーまでの騎行は、始めの計画とは違っており、なんら戦略的価値の無いそして王権に82250ポンドの負担を与えた物であるということが出来る。結局、実効力のあるブルターニュへの侵攻が具体化したのは1375年のことであり、それには55927ポンド(それには1258ポンドの帰還費用が含まれるのだが)のお金がかかった。この遠征自体は、モンフォール伯ジャンの怒りによって始まったものだが、ブルージュの和約により突然終了させられたが、本来は一年間のあいだ続き、六ヵ月後には自分で資金調達をするように意図されていた。 ブルターニュの地域主義《モンフォール伯がブルターニュ公としてフランス王の影響力を公領から排除しようとする動き?》を利用することは金のかかる出来事だった。結局、イングランドのロワール川の北側での1369年から1375年までの費用は少なくとも258600ポンドであった。

 アキテーヌを防衛するための戦争は、困難かつ魅力に乏しいものだった。例えば、交渉によって獲得した土地は、イングランド側お得意の荒廃させる戦術による嫌がらせによっては決して従順にならないものであった。ロワール川より南の地域での戦争は、根気強い忍耐と、防御的に戦うための準備を必要とする上に、軍事的な冒険のための戦争ではなかった。一体誰の忠誠心が信用できるのか。次にフランス軍が攻撃してくるのはどこか。フランス軍のロワール以南への進軍を防ぐためには資金と人員が必要なのは明白だった。しかし期待できるものは十分ではなかった。もっとも大きな障害は、ガスコーニュ以外から入ってくる財源はあっという間に使われてしまい、ガスコーニュそれ自体は財布が無いような地域であったということである。財務官僚の筆頭である、ボルドーの大元帥constable of Bordeauxの収入は、常に低いものだった。大元帥の一人であった、ジョン=ルダムJohn Ludham(1372年十月五日から1373年十月二十日まで)のそれは、1000ポンドより少し多いぐらいであったし、ウィリアム=ロリングWilliam Loryng(1379年十一月十七日から1381年十月五日まで)はたった2325ポンド16シリング7ペンスでしかなかった。勿論、これよりも状態の良かった年は何年かあるのだが、休戦のときでさえ、2000ポンドを超えることは少なかった。

 戦争が差し迫っていると言う噂が、1368年の終わりごろガスコーニュからエドワード三世のもとへ達すると、ウェールズ大公《エドワード黒太子》は、彼の父親《エドワード三世》に、シャルル五世のアキテーヌ(我々の支出の項目においては二番目のものだが)に対するたくらみに対抗して防御を固めるべきだと警告した。その結果として、41536ポンドの資金が、ガスコーニュへの兵隊を輸送する費用とその兵隊への賃金として使われたり、1369年の一月から六月までの間に現金として作戦に資金を供給するために送金されたりした。1370年には、ウォルター=ヒューイット卿Sir Walter Hewittとランカスター公が増援とともにボルドーに派遣された。全部で、1300人の兵隊であり、この時期にガスコーニュに送られた軍隊としては断然多いものだった。ヒューイットの軍隊は4000ポンドに達するような経費だったと思われるが、ランカスターの使命はそれよりも大きなものだったので、32380ポンド、それには往復の費用と、行方不明になった201頭の馬の補償費用を含めるのだが、それだけの経費がかかった。ランカスターは1371年の十一月にはイングランドに帰還した。この時期までにガスコーニュの支出あるいはガスコーニュがこうむった負債は、ブルージュの和約までのあいだの、イングランド全体のこの公領《ガスコーニュはアキテーヌ大公領ともよばれる》に対する債務の75%に達していた。1372年に、イングランドの統治者達は、ペンブルック伯の管理下に12000ポンドを引き渡すことによって、そして、3000ポンドを彼と彼の随員の移動のために使うことによって、最後の財政的に重要な働きかけをアキテーヌに対して行った。この時点で、ロワール川より南の1369年から1375年までの間に使われた支出の89.5%が使われた。

 ペンブルック伯が1372年にラ=ロシェル沖で敗北したあと、イングランドの統治者達は、数年のあいだガスコーニュに対する関心を事実上失ってしまった。このことは、ほかの事にこの資金を使うことを選んだと言うことである。その結果は、支出が北部への遠征のために使われたお金の半分よりも減ったと言うだけではない。これはまた、海上における戦争に使われるお金よりも、カレーの防衛のために使われるお金よりも少なくなったと言うことである。8764ポンド7シリング9ペンスをトーマス=フェルトン卿Sir Thomas Felton、ガスコーニュの会計役に対して、彼の1372年の十月から1374年の四月までの彼の勤務に対する報酬として負っていたのだが、彼がイングランドに帰ったとき、まだ7000ポンドが未払いのままだった。1372年七月から1375年四月までの間にガスコーニュに送られた唯一の資金は、全部で1178ポンド14シリング9ペンスであり、ロバート=ウィックフォードRober Wykford、つまり1373年の三月から五月までのあいだボルドーの大元帥constable of Bordeauxだった彼に送られたものである。これらの数年間のイングランドの戦略に対してある批判が当然ながら加えられる、つまり、ロワール川の北と南とで全く違う目標を追求することは非現実的である、と。北においては見るべきものは全く無い。南においては、1375年の休戦の年においては、イングランドの統制化にある地域は目に見えて減ってしまった。辛抱強く続くフランスからの圧力は、不確実な忠誠心を利用する彼等の熟達したやり方と一緒になって、イングランドにボルドーとバイヨンヌそしてその周辺のわずかな地域を残すのみとなり、35万ポンドを超える軍事的な支出、(カレーについてのそれは除くのだが)の成果の後は、それらの地域しかなかった。内在的な、そして証明されたようにイングランドの戦略における自滅的な二股は、イングランドの統治者が自分達の目標を限定することが出来なかったことをはっきりと示す結果となってしまったように思われる。

 海上における戦争に関する支出(これは我々の分類における三番目の項目だが)、は、海を越えて軍隊を輸送する必要性と、イングランドの海岸と、海上におけるイングランド商人を防御する必要性とによって指図されるものである。もし統治者達がこれに失敗したなら、特に最後の二つの項目において失敗したなら、議会、課税への同意が求められたときに、なかなか簡単には認めないところなのだが、そこにおいて耳障りな声が発生しただろう。文書の性質が、1369年から1375年までの海軍への支出に対する納得できる正確な数値を試算することを困難にしている。1369年そしてそれは1370年についてもそうなのだが、これらの年の総額は不確かである。その一方で、約15300ポンドと言う金額は1371年の実際の数値に近いのではないかと思われる。総額で、25000ポンドと言う規模が、1369年から1371年の金額として恐らく提示される。その一方で、1372年には、エドワード三世がフランスへの侵攻を計画し、海軍による作戦行動を始めたので、海軍にかかる費用は61000ポンドを超えるほど飛躍的に伸びた。1373年には、海軍の活動にかかった経費は最低でも38750ポンドであり、1374年においては、この年は文書記録がほとんど残っていないのだが、2000ポンドは使われたのではないだろうか。それゆえ、1369年から1374年までの間の135000ポンドに上る巨額の海軍への支出のうち、約119550ポンド(つまり大体83%)が1372年から1374年までの三年間に使われた。1375年には、ブルターニュへの遠征のために委託された金額が莫大であったために、海軍の艦隊へ回す金などどこにもなかった。

 カレー(我々の分類によれば四つ目の項目だが)は、恒久的に、そして大体一定の金額がかかった。そしてその金額はまた高くつくものでもあり、これらの年においては、毎年議会から与えられる御用金の半分を超えるほどであった。その一方で、包括的な請求金額から控除される裁判収入もあった。1371年から1372年にかけて、それらの裁判収入は、850ポンドに達したが、1376年以降のこの収入より低かった。1371年から1372年と言う年は、カレーは、イングランドの統治者達に20264ポンド2シリング9ペンスの負担を強いた。その一方で、1368年から1369年までと1374年から1375年までとの裁判収入の平均を毎年2000ポンド程度(勿論この数字は後になるにつれて適正範囲になるのだが)だと仮定すると、1368年から1375年までにかかった総額は、127750ポンドだと言う結論に到達する。

 それゆえ、この我々の分類による各分野の試算額は(各分野の全体に占める割合とともに示すのだが)、このように示すことが出来る。支出の総額は、634900ポンドであり、これは以下のように支出された。まず、北部フランスにおいて258600ポンド(これは全体の41%に当たる)、アキテーヌにおいては104000ポンド(16%)、海上における戦闘に対して、144550ポンド(23%)、そしてカレーに対して127750ポンド(20%)と言う風にである。二つの点が強調されねばならぬ。まず第一に、これらの数字はこの論文の最初のほうで言及しておいた費用が除かれていると言うこと。次に、証拠は概数を出すことを許したが、しかしこの数字は証拠が許す限り正確だと信じられる程度のものであると言うこと、である。我々はこの試算から導き出された費用の総額に、スコットランドとアイルランドにかかったと考えられる額を付け加えねばならないがその額は、1368年から1375年までの間に約37000ポンドであったと考えるのが妥当である。この計算を行うと、総支出額は約671900ポンドになり、そのうち少なくとも94%がフランス戦に使われていたと言うことになる。

 それゆえ、どのようにして国王は七年もの期間にわたって、年平均約96000ポンドもの年間支出をやりくりしていたのだろうか。明らかに、王の通常収入だけではそのことは成しえないし、というのも、その通常収入というのは全般的に、あるいはほぼ全般的に前もって認められるものであり、それが一年に30000ポンドを超えるなどと言うことはありえそうにも無い。必然的に、戦争は、議会からの課税同意及び、カンタベリーとヨークとの聖職者会議からの課税同意を必要とした。それゆえ、一体いくらすぐに使えるお金を持っていたのだろうか。そして、国王はどのようにして兵士や水夫に対して、契約上の委託金を払うための金をそれが契約書によるものであれ、強制徴発によるものであれ、帳尻を合わせることが出来たのだろうか。国王の借入金は戦争の資金調達においてどれほど重要だったのだろうか。

 臨時の補助金《臨時税》には以下のものが含まれる、つまり(1)羊毛にかかる臨時税、(2)俗人達によって議会において承認された十分の一税と十五分の一税、(3)1371年に課された、小教区ごとの税、(4)聖職者によって承認された十分の一税である。1377年以降、新規を好む風潮があり、特にそれは3番目の分類に入れられる、悪名の高い人頭税《Poll Tax》の場合がそうだった。1375年以前は、トン税とポンド税《Tonnage, Poundageは、沿岸の防備の為に議会の承認無しに王が課す事のできた税。それぞれ重量ごとにかかる。》が数年にわたって課されていた。1368年のミクルマスから、1375年のミクルマスまでの臨時の課税による収入の総額は、実際には試算額を上回り、恐らくは、戦争にかかった費用すらも超過したのではないだろうか。

 羊毛に課せられた臨時税は、十四世紀後半まで、臨時の財源の中で最も規則的で実りの多い収入源であった。マルトート《Maltotes》と言う形でのその起源は、1360年までにさかのぼり、議会が結局は定着させたが、但しそれは同意を必要とする形でであった。しかし、戦争と言う緊急事態を理由に始まったこの税は結局1360年から1368年まで続き、平和時にも徴収された。国王は、それは議会も認識していたのだが、それ無しにはやりくりできないようになっていた。ある課税同意の後に別の課税同意が続き、1362年から1381年までの間に10回の臨時税への課税同意が与えられた。1362年の九月二十九日から六年後のその日までの臨時税の徴収額の概算(徴収にかかる小額の経費は無視するが)は、289700ポンドであり、年平均の徴収額は約48250ポンドである。これは、28073俵に及ぶ羊毛の年平均輸出量にかかる関税を変えることによって得られたものである。1368年から1369年にかけての財務府の会計年度における《この羊毛にかかる》臨時税の率は、36シリング8ペンスに固定されていたが、そのとき、43シリング4ペンスに引き上げられた。この数字は1369年から1381年を通して残り続けたが、勿論、1368年から1375年にかけての年平均輸出量は25204俵にまで落ち込み、結局総徴収額は373000ポンド程度であり、年平均の徴収額は53200ポンドにまで落ち込んでいたとは言え。

 如何なる形でも、伝統的な形式での俗人への臨時税、1334年の査定に基づいているものは、1357年から1372年までの間一切課される事はなかったが、恐らくこの種の税は約37800ポンドの収入を産むと期待されていた。1373年に課税同意がある俗人への臨時税に与えられ、また、1374年から1375年にかけての徴収のときにその二倍の臨時税が賛成された。これらの総収入は合わせて、約113540ポンドに上った。カンタベリーとヨークの聖職者に対して課された十分の一税の徴税額は未だに正確には確立していないが、両地域からの総収入額が約18000ポンドであるという事は妥当な試算だと思われる。聖職者への十分の一税は、1370年に三年間に渡って同意が与えられ、1373年にも一年間だけ認められた。その総収入額は大体72000ポンド程度であった。それに付け加えて、1371年に、聖職者達は、さらに50000ポンドの課税に同意したが、それは王国の防衛と教会の保護とのためであり、その結果、1370年から1375年までの彼らの貢献の総計は、約122000ポンドにまで達し、その85%は、1370年の四月から、1371年の五月までの間に同意が与えられ、1372年の九月二十九日《ミクルマス》までに徴収されるものとされた。この時期までに、俗人の側では、1371年の教区ごとの課税、これは政府の計画では精々50000ポンド程度しか収益が得られないと考えられていたのだが、それだけしか課税同意を与えていなかった。明らかに、この初期の時代の俗人達は、教会に対して多大な重圧を行使し続けていた、というのも、俗権の方が以下のように信じていたからなのだが、つまり、教会の貢献が、俗人達が教会が服従することが正しいと信じていた状態まで完全に到達するべきであると。これらの年における、歳入の財源の内、最後のものは、1371年から1375年の間に徴収された、トネージ=ポンデージ《重量税》である。これは、約3000ポンドの税収があったと考えられる。


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