L'Atelier du médiéviste 2
Diplomatique Médiévale
Acte royal français(lettres sur double queue, 1367)

 

 シャルル、神の恩寵によりてフランス国王たる朕は、この手紙を見るものに対して敬意を表す。絹の紐と緑色の蝋にて封をし印をした朕の別の書状によって定めたように、朕は、朕の親愛にして最愛の弟であるベリーとオベルニュの公爵に、前述のベリーとオベルニュの公領に隣接しており、ボーケールのセネシャル管区以外のところに、六千リーブルの《収入の見込める》土地を、彼と彼の男性相続人の為に相続財産として与える義務があるので、それゆえ、朕の言う手紙の中で最も重要な部分を以下のごとく知らしめる、つまり、朕は前述の手紙によって約束しており、約束したのだが、朕の言う弟の良き思い出により、彼と彼の相続人たち或いは、彼の管理人か何かに、前述の、年六千リーブルの収入を得る事のできる土地、或いは、ここで言う年六千リーブルのような価値のある土地を、あるいは毎年そのような価値を彼に産む相続財産を、返し支払うと。それゆえその土地が、その地方の慣習によって取り決められたとしても、朕の最初の約束に一切付け加えることなく、また朕の言う兄弟或いは彼の相続人、彼は常にはここで言う取り決め、朕の言う別の書状の内容にしたがえば、前述の六千リーブルの土地に関する権利を常には要求する事ができないので、彼らに如何なる損害をも与えることのないように。朕の為した事を証明する為に、朕の印璽をこの手紙に押す。パリ近郊ルーブルにて、主の紀元1366年、そして朕の治世の第三年目の四月の第四日目に交付。

 

 顧問会議の諮問を受けた王により、ここにはあなたの署名を

 

 ゴンティエ


 この文章の理解のために。シャルル五世の弟であるジャンは、1356年にプワトゥーPoitouをアパナージュ《親王采。男系の子孫が途絶えると王領に編入される。フランクの分王国の名残とも言われる。》として受け取っていたが、この地をイングランド王に割譲するため《ブレティニ=カレー条約》に失ってしまった。そこで、ベリーBerryとオベルニュAuvergneを1360年に親王采として与えられた。何年もの間人質としてイングランドに預けられている《ブレティニ=カレー条約の結果ジャン王の身代金の支払いが済むまで人質になる》間、1365年から1367年の間に、彼は王《シャルル五世》から一連の贈与と年金を受け取ったがそれらは、プワトゥーの喪失を償うためにもっぱら使われるべきものであった。その期間中、1367年の二月のある法令、まさにこの文書にも引用されているそれが、「6000リーヴルの土地」つまり、一年に6000リーヴルの収入をもたらすとみなされる土地の集合体を彼に与えた。その土地は、王領地から取られるべきであったが、ボケールのセネショッセ《セネシャル管区》以外の土地であるべきことが、四行目のmise horsと言う言葉によって示されている。この土地は、ベリー公に固有財産として保有され、男系卑属に受け継がせることが出来た。この上記の法令は、贈与の実施の様式についても詳しく規定しており、もっと正確に言えば、この土地の割り当て《assiete》を延期、つまりその土地に関する決定が延期され、ベリー公に損害を与えずに、また、この決定を再び蒸し返すことの無いように(sanz innoverとは、すなわち、新しい要素を付け加えないと言うことである。)、一時的な代償として、6000リーヴルの年金の払い込みによって保証されると。

 日付について。二月の四日、はフランス国王の尚書局は復活祭基準暦を採用しているため、その古いやり方によって表現されていた。現在のやり方ならば、1367年とされるべきである。このことはシャルル五世の統治年、つまりジャン善良王の死の日付、つまり1364年の四月八日(統治の間隙というものは存在しない。つまり「王様が死んだ、王様万歳!le roi est mort, vive le roi」の言葉からも分かるように。つまり彼の治世の第三年目は、1366年の四月八日から、1367年の四月七日までである。)から起算する彼の統治年によっても確認できる。

 外部と内部の考察。「証書」との関連において、我々は窪みに嵌っている。壮大さは減少した。余白は依然として豊富だが、右端の行揃えは不確実である。念入りな字体は、冒頭の幾つかの大文字(第一行目の四つの文字だけ。《Charles, par La grace de dieu Roy de france, A touz ceulz...》)にしか施されなかった。永久性の表明は失われてしまった。もし、国王の大印璽(それはもはやFRANCORという文字で表される銘句のほんのわずかな断片しか存在していないが)を使うならば、羊皮紙の留め具の部分("double queue"《二本紐》とは、折り返しのスリットの部分に羊皮紙の細紐を通して、二枚分の厚さになったので、この名前があるのだが)に緑の蝋と絹の紐の変わりに「黄色いjaune」(これはしばしば、「白いblanche」とも呼ばれるが)蝋を使ったはずである。

 CharlesからFranceまでの上書き《suscription》ははっきりとその痕跡を残している。そのあとに、全般的な宛名と、a touzからsalutまでの挨拶が続いている。告知部《notification》はその永続的で全般的な性格を失っている。そしてsavoir faisonsと単純になり、Commeからcontenuまでの詳細な説明部とnous avons promisからautres lettresまでの本文《dispositif》との間に埋もれてしまっている。後者はもはや如何なる条項によっても増やされていない。En tesmoingからlettresまでの確認部《corroboration》は告知部と同じようにその永続的な性格を失っている。