早くも1359年に、王太子(シャルル五世)が知覚したのは、勇気の欠乏よりも主導権が取れないことに敗北の原因があると言うことだった。「我々は、失う一方だ」とラングドック三部会に手紙を書いている。「なぜなら、我々は敵の到来を待つだけであるからだ。それゆえ、これから良い戦争を行うためには、今までの様なやり方ではだめだ」と。それゆえ最上の防御手段は積極的になることによって敵の襲撃を予防するものだとわかった。十年後もたってから、『我々の王国を海上と地上の敵から守る常備軍』の必要と言うものが明確になった。そのとき、平和は既に破られていたが、彼の顧問官達は王と意見を共有することはなかった。オリビエ=ド=クリッソンは反対した。「我々にはイングランドに行く習慣はないしそこで戦争をやる習慣もない、まるでイングランド人が海を超えてフランスにやってくる様に」と。それゆえ、艦隊の再編成に関する主導権と功績は自発的に、シャルル五世のところに戻って来た。
エドワード三世が新たにフランスの王冠を要求してから、多くても五週間は、シャルル五世はルーアンに滞在していた、クロ=デ=ガレとアルフルーにおける海軍の準備を刺激させる目的で。「彼の仕事をより正確に理解するために」、フロワッサールは書いている、「王は滞在中の毎週二回か三回は彼の海軍を見に行きそれに対して大変な愛着を覚えていた」と。彼は「アルフルーの小港や、セーヌ川に浮かぶ大型船や平底船や帆船からなるとても大きな機関」を手に入れた。それは補給さえあれば、「プロイセンやエルサレムにさえ行けるほど大きい物」だった。自分の意見を納得させ、支出を正当化するという目的で、王は予算に同意してもらうためにルーアンに集められたノルマンディー三部会のメンバーをその作業場に招いた。しかしながら、海軍の為に用意されたお金の総額はそんなに大きなものではなかった。報告書が1372年に彼に支給したのは兵士たちの給料に割り当てられた合計額の六分の一つまり50000トゥール系リーブル中の8000リーブルであった。不安に駆られたエドワード三世は、機先を制して攻撃した。三箇月の間隔を置いて二回も。が何も得る所はなかった。フランス海軍の副提督であるエティエンヌ=デュ=ムスティエは、サンドイッチとポーツマスに対してすばやく反撃し、さらにウェールズに対しての牽制を企てたがこれは悪天候の為失敗させられた。
もっと良い結果を得る為、「東方」の資源を利用せねばならなかった、言いかえるなら、レニエ=グリマルディーに率いられたガレー船団であり、アラゴン生まれでフランスの提督になったフランソワ=ド=ペリジョスに約束されたカスティリアの40隻の船である。「時宜を得た同盟」というのも、戦場はブルターニュからスペインに国際的な航路により移動していたからだ。1371年八月にブールヌフ(シャラント県)の港で、イギリスがドイツの塩船を捕まえた。続く夏に、仕返しとしてサントンジュの諸港でシャルル五世と同盟しているカスティリアの艦隊が、今度は沖で、ある戦闘に勝ち、その結果は賭け金を上回った。
アンリ=ド=トラスタマラ(エンリケ=デ=トラスタマラ)はシャルル五世に約束していたが、延期されていた増援を送った。というのもこの(増援の)権利を保護してくれるペリジョスが1369年に死んでいたからだ。アンブロジオ=ボッカネラに率いられたカスティリア艦隊は、エドワード三世の婿だったペンブルック伯の艦隊と、1372年の六月の二十二日にラ=ロシェルの沖で遭遇した。どのくらいの規模だったかには、年代記作者の中でも対立があるが、幾つかの技術上の特徴の方が重要である。恐らくイングランド側は、35から36隻、カスティリヤ側は12から14隻であったろう。ボッカネラの艦隊は、フロワッサールによると、「イスパニアの船は、大きく、幅もあって、よく補強されており、比べる物もないくらいだった。」、という。また、とても高く敵の船を上から、「鉄や鉛や石の集中砲火」で撃ち下ろすことが出来た。そしてアーバレスト(大型の弩)に加えて大砲を持っていた。これらの攻撃の能力は、イングランドの射撃を無効化する装甲による防御装置により補完されていた。
カスティリア人達は自分たちの戦術の才覚を証明した。彼らの艦隊はラ=ロシェルのまえで双投錨して、プリモースからやって来たイングランド艦隊のラ=ロシェルへの接近を禁じた。双方がアーバレストを撃ち、また、スペインの側では大砲が火を吹いた。しかし、ひとたび夜が来ると、ペンブルック伯は、上陸用の小船を町(ラ=ロシェル)まで急派する事(物資を届けること)なしに、輸送用の艀を放棄して、引き潮とともに撤退していった。彼は次の潮を待って投錨した。ボッカネラはすぐにでも戦おうとする部下達を制止しなければならなかった。次の日、黎明から潮が満ち始め、カスティリヤの提督は「風の助けを受け」、全艦隊を動かし、イングランドの船を包囲した。戦闘要員は携帯用の火矢を相手の舷側に向かって撃ち、舷側には船倉がありそこには馬が積み込まれていたので、その馬が火により狂乱させられ、後ろ脚を蹴り上げ、水の侵入口を開け三隻の船で沈没を招いた。カスティリヤ人達は他の船には接舷乗船で襲い掛かり、その中にペンブルック伯を含む捕虜の頭数を増やした。ペンブルック伯は、その時攻撃開始の機会を待っていたので、大変驚かされた。彼らは完璧に潰走した。彼らの艦隊は消滅させられ、アキテーヌへの援軍は殲滅させられ、一年分の俸給にあたるお金が水の底に沈められてしまった。更に屈辱な事には、多くの騎士が捕虜となりスペインに連行され、彼らの資力より大きい身代金を強制された。
この戦いの重要さは、過大評価されてもいけないし、過少評価されてもいけない。輸送船団の壊滅は、イングランド海軍の壊滅をもたらさなかったし、それでもその威信を揺るがし、彼ら自身にそれに不信を抱かせた。エドワード三世は失望したので、フランスへの侵入の計画を延期し、彼の艦隊を強化し、ラ=ロシェルへの移動を計画した。住民の忠誠心を再び繋ぎとめる事を期待して、というのも、フロワッサールによれば「(彼ら=住民は)決して自然にはイングランドを愛していない(=強制されてイングランドに好意的なふりをしている)」からだ。ブルターニュにおいても監視の目を強くした。それとは反対に、この勝利は彼らの敵に自信を取り戻させた。シャルル五世を刺激して、彼の海軍を再編成させた。クロ=デ=ガレでは1373年一月十三日の勅令の対象となり、その管理が無視されている状況を改善する様に命じられた。具体的には、ふさわしくない取り扱い、在庫品の破損、盗み、横領などである。その時以来、三つの業務が、つまり武器の製造・修理・供給であるが、クロ=デ=ガレの責任者により指揮された。しかし、期待された結果はすぐには現れなかった。前の管理者である、ロベール=ド=ブリュマールが、腐り切っていたかあるいは怠慢だったか、行政官によってせっかちに置き変えられた。彼は召喚された。しかし彼に与えられた猶予が全てを遅くし、その思いつきは高価な犠牲を払いつづけた。しかしながら、王が自ら「クロ」の監察を何回も行い、また、アルフルーの外港を大きくし整備させた。
以前と同じように、修理や、商船の武装化、の方が船の建造に対して優っていた、というのもクロ=デ=ガレには二隻か三隻分以上の作業場を持っていなかったからだ。大型船といっても数も種類も正確には知られていない。「ガレ(小ガレー船)」は、「地中海のガレー船」に似たある特定の外見をもち、早く移動できる様に意図された船のように思われる。しかし、たいていは独特の帆によって推進されていた。「ガリオット船」は同じ様に「ラン」から導き出された船である。もっとも頻繁に作られたのはバルジュ(平底船・艀)やバルゴットであり、新しく「バレイニエ(鯨の形の船)」も作られたが、それらは全て「コッグ」船から生まれたものである。1369〜1371年の戦争の再開と軌を一にした最も活発な時期には、ジャン=ド=ヴィエンヌの作戦において、1376年には十隻、1377年には三十五隻、1379年には21隻の新造艦が使われ、結局それらは1385〜1386年の大艦隊の準備をした。1389年の休戦は1405年まで新造艦の建造を止めた。その後の再開は脆弱なものだった、というのも1418年にルーアンが陥落し、クロ=デ=ガレも荒廃したからだ。(そのせいで)あまりお金を掛けずにしかも迅速に、商船に檣楼やその他の上部構造を備え付けさせ、戦闘向けに改造させる様にした。
提督職の復活は、クロ=デ=ガレのそれに一月も先行していた。1373年十二月七日の勅令そしてそれを、1377年のものが補完したのだが、それが彼の職務と権限を規定し、彼の職が他の宮廷の高官のなかで王軍長(コネターブル)と同格に位置付けられ、高等法院での宣誓の後任じられるとされた。彼の役割は、軍事的なものに加えて、海上での王国の主権の行使を委任された。具体的には、海上や海岸でなされた不法行為つまり座礁や拿捕の取締りや、海岸の防備と警戒などである。こう言った裁判権は、地域的に彼の副官に委任された。(逮捕されると)ターブル=ド=マーブル(大理石の卓)まで召喚された。財政的には、彼は固定の年金、押収品の十分の一、戦艦や外国の船の登録手数料、港毎の徴税人が受け取った税金、を享有していた。提督はその司令部に外見的にわかる特徴を備えていた、つまり作戦移動指揮の警笛や、錨、自分の紋章の上に白百合の紋(フランス王家の紋章)をあしらった紋章などである。
これらの規定にしたがって定義される最初の提督はジャン=ド=ヴィエンヌである。1373年の十二月二十七日に、彼の補佐のエチエンヌ=デュ=ムスティエとともに任命された。ムスティエの副提督としての在任期間は1359年から1384年であり例外的な物である。歴史家は一番最初の人間については良く知っているのに、二番目の人間に付いて知らなくて良いと言うことはない。ムスティエは、アルフルーを25隻の船の指揮官として防備に当たり、副提督とルールの司令官とになる前に、カレーの包囲の後の艦隊の再建に参加した。セーヌ川河口の安全は彼にかかっていた。1369年には艦隊勤務の状態であったので、1374年のクロ=デ=ガレの綱紀粛正からは逃れた。ヴィエンヌは彼に多くを期待していた。国王もまた同様であったので、彼を自分の顧問官にした。
ジャン=ド=ヴィエンヌはフランシュコンテ(ブルグント伯領、神聖ローマ帝国領ブルゴーニュ)出身で、海軍の軍人としての素質を持っているわけではなかった。しかし東方でそしてフランスで戦争を経験し、彼の戦術の才覚、戦術の主導権の取り方、指揮の技術が成長した。ブリュージュでの休戦による安全な期間、ジャン=ド=ヴィエンヌは時にはガスコーニュ湾(ビスケー湾)から北海を通ってスコットランドまで渡る作戦に従事したり、時には外交官として特にスペインに派遣されたりした。海戦の話とヴィエンヌの逸話は混ざっていてそれを分けると味気ない物になってしまうだろう。フランスとイングランドの年代記作者は、ある混乱した状況について書き記しているが、それは年を追って、両国の海岸に対する奇襲が警戒を発していたと。幾つかのものはすぐに繰り返された。年老いたエドワード三世の統治の疲弊と、1373年の改革に刺激され、カスティリヤの支援に勇気付けられた、年齢の力による若いフランスの活力が対比される。1377年には海上の主導権はフランスの側に移った。
危険はイングランドの側を去らなかった。1378年十月二十二日、下院でエドワード三世政府のセネシャルが、緊急の財政上の出費、それは、カレーやシェルブールやブレストやバイヨンヌなどを守ったり奪ったりする目的の出費だが、その根拠を説明した。彼が言うには、それらはイングランドの外堡(銃眼付きの防塁)であると。彼らの側からすると、フランス人は敵の(=イングランドの)海岸線の最も弱い所を知っており、そこに向けて侵略の艦隊を差し向けるのだった。彼らは勝手気ままに攻撃を仕掛けていたわけではないのだ。ノルマンディーやブルターニュの海岸に受けた蹂躙への復讐の意志は、イングランドの海岸、1377年にはワイト島やライやウィンチェルシー、三年後れてポーツマスやヘイスティングス、そしてロンドンの近くのグレーブゼンドへの掠奪となって現れた。ジャン=ド=ヴィエンヌにとっては、大きな目標はカレーの再征服であった。
1377年に、海上と陸上で連携した作戦がイングランドの南東部の港への急襲によって準備された。イングランド南東部とは、植民地(カレーのこと)がそこからの援軍を受け取ることが出来るかもしれないところだった(=イングランド南東部からしか援軍をもらうことが出来なかった)。一番最初のカレーの防衛は失敗し、ジャン=ド=ヴィエンヌの艦隊はその手前に停泊した。しかし、包囲は突然解除された。つまりイベリア半島の艦隊が彼らの慣行にしたがって冬の停泊地へ引き返して行ったからだ。それに加えて、フロワッサールによれば「強くて激しい、そして荒れた風」が起こり、嵐が「危険な状態になった」、という。ヴィエンヌは急いでセーヌ川まで撤退した。勿論、彼がこの町、彼の伯父が丁度四十年前に不幸にも統治の責任を負わされていたこの町、を解放するのをあきらめたのは、いやいやながらである。
ロンドンでは警報が何度も町を騒然とさせた。蹂躙されるという恐怖が、それが本当の侵略でないにしても、まるで強迫観念の様に人々を支配した。彼らの不安は、エドワード三世の死の後はさらに増大したが、現実の不安となって現れた。フランスの艦隊が常に出現するので、その証拠に1380年にバッキンガムはブルターニュを目指した徴集兵をあえてラ=マンシュ(英仏海峡)を渡らせてさしむけたり、それをカレーまで移動させたりしようとはしなかった。ウォルシングハムが『ガレーガス=オブセルバント=マリース』に書いたところによれば、「敵のガレーが止むことなしにパトロールしていた」そうである。イングランドの不安は1385年から1386年にその最高潮に達した。
シャルル五世の死は、勢いをとめることはなかった。クロ=デ=ガレでは死に掛けの王とノルマンディー三部会が決めた税務上の制約にもかかわらず、八隻のバルジュを修理し、他にも作業場で三年前から二十七年前の古い船と取りかえるための仕事をなし終えた。ジャン=ド=ヴィエンヌとオリヴィエ=ド=クリッソンはイングランドから、カレーへの入り口に当たるトネ=シャラントとグラヴリーヌとを取り返した。新しくフランドル伯になったフィリップ豪胆公(ル=アルディ)は、ブルゴーニュ公でもあるが、エクリューズを作戦の基地にすることを提案した。シャルル六世は結局、十五歳と若かった上に、ローズベックで自分の拍車を金メッキし直してくるほど騎士の武勲と言う物に無中になっていただけではなかった。自分の船のうちの一つに乗って、次のような言葉を残している。「誓って言うが、自分の船に乗ってみて、海の仕事を大変気に入った。そして私は良い船乗りになるのではないかと思った、なぜなら、海の所為で気分が悪くなったりしないからだ。」詩人たちはその時一斉にその言葉に反応して、作品を仕上げている。例えば、ユースタッシュ=デシャンは船乗りに敵意をもち、航海を毛嫌いしていたが、その大胆な草案に勇気付けられて、次のような詩を作った。
1385年には、大変な兵站上の手段を要求する巨大な計画が、英仏海峡のイギリス側の海岸への上陸と、それと同時のスコットランドにおける二つ目の戦線の開始を準備した。約180隻の船がセーヌからツウィンへ運ばれた。ジャン=ド=ヴィエンヌは、1340年のベユーシュの様に途中で邪魔されない抜け目のなさを持つと同時に、北西の強い風にもかかわらず、イングランド艦隊の前を横切ることを強制し、やり遂げる大胆さも持っていた。イングランド艦隊は、戦闘を拒否し、テームズ川が脅かされると思われたので、それを守る為に撤退した。ヴィエンヌは激しい雨風が叩き付ける中、北へ向い、ダンバーやリース(スコットランド南東部forth湾に臨む海港、エディンバラの一部)で、兵士を下ろし、スコットランド軍に武器と装備を渡した。それでも、作戦は期待に答えず、スコットランドとの連携は失敗した。にもかかわらずロンドンでは恐怖にとらわれたままだった。ランカスター公は、アキテーヌでの作戦をあきらめた。それは、フランスとスコットランドの混成軍の抵抗を受けとめる為だった。フランスの海軍がフランドルの海岸に集結したという警報の為に、南部の海岸は騒然となり、何処が攻撃されるか解らないまま、状況は切迫したと判断されていた。ジャン=ド=ヴィエンヌはニューカッスルまで約三十キロという所までやって来た。彼はまだ来ていない、「大艦隊」の上陸を待っていた。
六世紀経った今からみると、ジャン=ド=ヴィエンヌが自分自身での副次的で間接的な作戦の舞台に特権を与えていることに驚くに違いない(=自分で作戦全体においては、副次的なスコットランドでの作戦に従事していることに驚く?)。恐らく彼は、そちら(=スコットランド)の方が微妙だと試算したに違いない。彼が居なくても、嘆かわしい状態ではなかったが、七月の半ばに、、レクリューズにほど遠くないダムの港でアルテフェルデの元同僚のフランソワ=アッカーマンによって率いられた奇襲が侵略の艦隊の出航準備を妨げた。彼は一箇月かそこらで、イングランド艦隊の増援が来ると期待していた。シャルル六世は自らそこに現われた、というのも海に出る前に、反乱の火の元を鎮圧する必要があると判断したからだ。彼はようやく八月の二十三日にそこに到着した。時間だけが過ぎていった。九月十二日から始まった嵐が、艦隊の崩壊を巻き添えにし、更にカレーから来たイングランド軍が執拗に攻撃をしかけて来た。休戦が次の夏までの出費を中断した。
1386年まで、努力は続けられた。船や物資や兵員をレクリューズまで運ぶことは不便だったにも関わらず。クロ=デ=ガレでは人々が忙しく立ち働いて居た。つまり、ノルマンディーでの森の伐採、パリからの武器の注文、リエージュの大砲製造の専門家の雇用、城砦に侵入するための「橋」、つまり板だが、それの製作、ひっきりなしの(それらの=武器製作の?)契約の調印などである。最も独自性の高い特徴は、「森の都市」の製品つまりノルマンディーやブルターニュであらかじめ作られた部品が、72隻の船でレクリューズまで運ばれて、そこでイングランド、そこでそれらの製品を侵略の軍隊が戦場で使うのだが、に向けて積みこまれるのを待つために。
1386年の夏の半ば、集められた全ての種類の大型船は、フランス、ブルターニュ、カスティリヤ、そしてオランダ(ホラント)、からやって来ていた。その数は年代記作者によって誇張されている。フロワッサールは900隻以上だと、推定している。もっとも、王の財政は過大な出費を支えられなかった。約20年後、1404年にある専門家がイングランドに一回上陸する為の出費を1212500リーヴルだったと推定している。
ともかくその出来事は、年代記作者だけを驚かせたわけではなく、フランス人には称賛を、イングランドには、ショックを与えた。争いとは関係の無い、部外者も驚きの声をあげている。アルルからプラート(フィレンツェの北西、トスカーナ州)にいたトスカーナの大商人であるフランチェスコ=ディ=マルコ=ダティーニに宛てられた手紙のなかで、以下のように示されているのを読むことが出来る。「パリから来た知らせが届いたのですが、それによると、フランス王は今まで見たことがないような立派な艦隊を準備したとの事です。」と。この手紙は九月十八日のものである。その日はまだ全ての参加者がレクリューズに到着していたわけではない。遠征の隊長は、ベリー公、王の伯父であるが(ジャン二世の三男、ベリー公ジャンである)、彼は十月の十四日まで到着しなかった。それ(=到着の遅れ?)がすべてを決めてしまった。秋の嵐が始まってしまったのだ。出航の準備は放棄される必要があると示された。
その次の年つまり1387年に、今度は十一月の十九日、フランチェスコ=ダティーニの代理人は、彼の雇い主に宛てて、「パリからの知らせによると、『フランス王はまさにイングランドに渡ろうとしている。』と。………しかし、誰も正確には、渡ったかどうかを知らないと言っています。彼が渡る事が出来たかどうかに付いては多いに議論の余地があると言われています。」と書いている。実際、この計画は再び具体化し、そして二つの地点が乗船と上陸と場所として予想された。一つはジャン=ド=ヴィエンヌの指揮の下、アルフルーからオーウェルへ、もう一つは、オリヴィエ=ド=クリッソンの命令の下、トレギェ(ブルターニュの都市)からドーヴァーへ。しかし、ブルターニュ公ジャン四世(ジャン=ド=モンフォール、ブルターニュ継承戦争に勝ちブルターニュ公位を認められる。)のフランス側からの離脱、彼は再びイングランド側に戻ったのだが、がこの作戦を再開させなかった。続く1389年に休戦が成立し、ジャン=ド=ヴィエンヌは地中海での作戦、続いてマグレブ地方(北アフリカ、モロッコ・アルジェリアなど)、最終的には東方まで行ってしまい、ニコポリス(イオニア海沿岸)で彼は死んでしまった。フランスの海軍の特筆すべき歴史の時代は彼の死とともに終焉を迎えた。
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