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フランスにおける、より攻撃的な対外政策はシャルル五世の死の数年前からみることができる。ブルゴーニュ公フィリップ、はフランドル伯ルイ=ド=メールの義理の息子になったのだが(彼の娘マルグリットと結婚したので)、その結果この地域におけるブルゴーニュの権益を増大させることは予想できたことだった。アンジュー公ルイの場合、恐らくその過度の野望は、もっと明白だった。彼の計画はしばしば彼と王を対立させ、一三八〇年以前にもそうさせてきた。とはいえ、シャルルの死の前の二年間のアンジュー公の活動を考えてみよう。

一三七九年の九月十三日、シャルルはいつも通り、アンジュー公にフランク=フィエフ(franc-fief自由封土地)、amortissements(負債の減価償却、公債の償還)による資金調達と、そして公務執行中の免責特権を、彼の領土内に限り、その日付けから一年以内で彼に認めた。しかも以下のような条件が付いていた、将来において二度とそれを求めないと言う条件の下で。しかし、最後の条項は、先例を作らないために使われた一般的な手段で、一年という許可の期間は、一三七五年に与えられた時は二年だったがそれが減じられたものである。付け加えるならば、これら二つの日付の間に、税の徴収に関する王の監視は増大していた。一三七五年の例では、最初の布告から二ヶ月も王の監視が出しゃばってくることはなかった。一三七九年には王の徴税人が直接許可の中に明記されていた。

一三七九年の許可の少し後かほぼ同時に、シャルルはモンペリエの課税可能な竈の数を減じるように命令している。以下のことを明らかにした調査結果に基づいて、つまり実際その数はかなり減っているということを。アンジュー公や彼の代理人達は、彼らの担当地域、それはモンペリエを含んでいるのだが、そこにおいては王の意志を尊重しようという風には見えなかったし、税を減らす必要があるとする彼の試算に同意する風でもなかった。(更にアンジューは)王室用臨時税を十二フラン増すことを迫った、竈の数を減らすことによって重荷を軽くしようとするシャルルの意図にもかかわらず。この臨時税を徴収しようとする試みが、一三七九年の十月二十五日の流血を伴う暴動を導き、八十人の死者、その中にはアンジュー公の重臣五人が含まれていたが、それらの死者を出す原因となった。

シャルルは、その暴動が鎮圧される前ですら、税と臨時上納金の執行の改善をするように行動した。一三七九年の十一月二十一日、その地域的暴動から一ヶ月もしない内に、改善した長い勅令を公表し、以下の様に始めた、

 「朕は、朕の臣民を深い悲しみと抑圧から守り、彼らの損害を和らげたいと願う。なぜなら、彼らの善意、戦争や彼らを守るための税に対する彼らの気前のいい貢献、そして朕と朕の王冠に対して示されてきた愛情と服従を考慮するからであり、多くの強請、占有、強要、などが幾人かの悪い行政官や徴税人などによってなされ、彼らは苦しんでいたと朕は知ったからである………」

最初の反応は、徴税の執行を改善したことであった。二つ目は、暴動への刑罰を和らげたことである。一三八〇年の一月二十日に、アンジュー公は軍隊を伴ってモンペリエに到着していたので、六百人の市民を殺すと脅した。しかしながら、この野蛮な宣告は、恐らく処刑するために出されたと言うよりは体裁を整える目的で出されたのであろうと言うことができる。なぜなら、シャルルとアンジュー公は十一月の終わりには既に、寛大さを示すことを決定していたと我々は知っているからである。アンジュー公の性格通り、それらの罰は、彼の出費を補うための一二万フランの罰金に減じられた。

その反乱を鎮圧する前と鎮圧されている間、多くの都市でラングドック三部会を開く努力がなされていた。この集団が集められた時、王によって招集されたわけではないが、それ故厳密には三部会という集まりではないが、シャルルによって招集されたのと同じ扱いを受けた。代表が一三八〇年二月十五日にパリに着いて、王に対してラングドックのより良い統治のための苦情と要求とを列挙した表を系統立てて、提出した。王の反応は、二十六の項目それぞれに従い、実際にその要求を政策と命令に反映した。第一の項目は、王に対して、諸侯に関連した出費とその特権からこの国を自由にして欲しいと求め、彼らの地域を守る指揮官のようなものを設置して欲しいと求めている。第三の項目は、王に対して二倍のガベルを申し出ている。アンジュー公の権力を停止させることとの引き替えに。王はガベルの監督をコミューンにゆだねることに同意し、以下のようにも発言した、「五月の第一日より、アンジュー公に認められた特権は停止される」と。第四の項目は竈一つにつき三フランの課税を王に認めている。第二十五項は、王に対して、アンジュー公が彼の権威で課税している外国からの品に対する関税を廃止して欲しいと求めている。王は同意した。

五月には、アンジュー公は自分の罷免に懲りた。そして彼はアヴィニョンに行き、そこで教皇クレメンス七世と会談し、恐らく一月から続くナポリのジャンヌ女王のもつ王位への彼の要求に関する会話を続けたに違いない。ジャンヌ女王はアンジュー公を将来の相続人として養子にしようとしており、その代わり、アンジューに対して彼女を守り、彼の資産を彼女が自由に扱えるようにして欲しいと求めた。一三八〇年の六月二十九日に、この趣旨で条約が取り決められ、それゆえ長くそして不幸な一連のイタリアにおけるフランスの格闘が再開された。最も最初の不幸の一つは、一三八四年のイタリアにおけるアンジュー公の死であった。

ドラシュネルは、首尾良くシャルル五世からこの条約に関する責任を取り除き、彼がこの条約の存在を知っていたかどうかに疑問を呈してさえいる。恐らく彼が不満を示すことは予想できたと言うことから彼に対してこの条約は隠されていたことを考慮したので。この後者の疑問は、どっちの立場に立っても証明は出来ないが、やはり、シャルルがこの条約について知っていたかどうかといえば、恐らくシャルルは交渉について気付いていたように思われる。彼らが最終的な条約を結ぶ六ヶ月も前から、シャルルが支援している教皇と、モンペリエの反乱に関して打ち合わせていた教皇特使、彼が彼の次男ルイの結婚によって保証されることを求めてきたナポリ女王とその遺産が結びつけられていた。私の意見ではシャルルは恐らくアンジュー公のナポリでの策謀について確かに知っていなければならなかった。

もしそうであるのならば、シャルルはアンジューが王国を新しい対外戦争に巻き込むのではないかという恐れる原因を持っていた。一三八〇年六月二十九日の条約を知らなかったとしても、シャルルがアンジューの攻撃的な態度について関心を持っていたと信じるに足る理由がある。一三七四年十月の二つの勅令は、死の恐怖にさらされたシャルルによるものだが、彼の息子が十四歳になるまでの摂政を置くことを決めたものだが、そこでも幾つかの不信がはっきりと表れている。摂政としてのアンジュー公と、保護者としての王妃とブルゴーニュ公との間とで権力が分担されるように、責任は分割されている。(保護者と摂政としての)二つの機能をその身に結合させている唯一の人物は、筆頭侍従のビューロー=ド=ラ=リヴィエールであり、彼は最も卑しく、それ故恐らく王の叔父の二人の公の両者より信頼に足る人物だった。彼は、全ての資金に対して責任があり、例えそれが防衛や守備そして王国の統治に必要だとされアンジューに支払われるべきものであったとしても、アンジューは年間会計報告書を間違いなく彼に対して提出する必要があった。フランスの軍隊の状況に関連する我々の議論の中で注目に値するのは、アンジュー公はフランスを新しい戦争、それが避けられるものならばどのような手段を使っても避けることで、それに巻き込まないことを誓うことを強制させられた。さらに、彼は王の財産を、それは若い王のためのものだが、それを守ることを誓わなければならなかった。王妃とブルゴーニュ公に委ねられた王子の身柄の保護については、ビューロー=ド=ラ=リヴィエールがここでも重要な役割を果たした。司教や大修道院長、官吏達、彼らは部分的に若い王子の身柄の保護を分担していたのだが、彼らの長い名簿のあと、以下のような注記が付されていた、つまり、「ビューロー=ド=ラ=リヴィエールとの協議や、彼の助言なしに、前述の社団、個人、或いは集団は、彼らが私の前述の息子に責任があったとしても、彼らの統治あるいはその他の彼らの財産にかかわる切実な要望にかかわることであっても、如何なることもなす事は許されない。」と。さらに、彼は王の宝石や皿、食器やその他の宝物について個人的に責任があった。実際、ビューロー=ド=ラ=リヴィエールは統治の全ての部署に権力を行使することが出来る唯一の人間であり、シャルル六世の統治や、アンジュー公の会計報告書に対して拒否権を発動することによって。この取り決めは極めて異例であり、シャルル五世が、彼の兄弟の賢明さに対する昔からの不安を増大させていたことと、彼らの間の権力を均衡させようという考えを抱いていたこととを示しているように思われる。アンジュー公がナポリとモンペリエで一三七九年から一三八〇年の間にやったことは、この疑いを少しも減らしたりするものではなかった。


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さて、我々はやっとシャルル五世に竈税を廃止させたに違いない動機を思索できる位置に立った。フランスは、疫病と戦争、そして抑圧が一緒になったものに苦しめられていた。それにもかかわらず、「フランス」という領域は拡大し続け、全く同じ税がより広い地域に適用され、それが新しい収穫を生むことができ、シャルルはかなりの量の財宝を蓄えることが出来ていた。王の財宝が存在していることは、政府のそれが余剰していることを暗に意味しており、おそらくいくらかの減税を許すことが出来るほど十分だったに違いない。竈税、それはもはやフランスの人口や富と言ったものの本当の状態を反映していなかったのだが、というのも疫病と悪政の所為なのだが、それが廃止の第一候補だった様に思われる。これらが廃止されたのは死の床における憐憫の所為であるという意見は廃されねばならない、というのも、一三七五年から一三八〇年のあいだにも(つまり、死ぬ五年も前から)、五十六回の竈税の縮小をフランス中の様々な町や地域に対して適用することを命じている(モンペリエに対して行われたように課税可能だとされる竈の数を減らすこと?)からである。シャルルはそのとき竈税の縮小の必要と可能性の両方に気付いていた、イングランドを駆逐した大規模な計画が終わった時から。

その時竈税は歳入全体の中で一部を占めるにしか過ぎず、かつ廃止可能な唯一の税金だった。ガベルつまり売上税や領域内の定期収入、その他の様々な臨時上納金、などを含む残りの税は、フランスの領域の拡大により恩恵を同じように被っており、それらだけで平和時の適切な歳入をまかなうことが出来たし、もし竈税と一緒になれば、戦争時にも余剰を生じさせることが出来た。シャルルは平和を望んでおり、アンジューにいかなる犠牲を払ってでも戦争を避けると誓わせた、が戦争が始まったとしても、この竈税の廃止は若い王を無防備のままにはしておかなかった。王所有の財宝は、一三六九年の先例に従って、兵士達への支払いに使うことが出来た。それに加えてアリエール=バン(バンは封建制に基づく家臣の招集令、アリエール=バンは陪臣つまり直接の家臣以外の招集令)の権利はまだ存在しており、それは、侵略により彼自身の身が危険になった時は、王国内のどんな人間でも招集することを王に許すものであるが、その他にも、ラングドックにおいては軍事指揮官に竈あたり三フランの竈税の自発的供給を申し出たことを論拠に、明らかに必要な税については払う傾向があったとさえ断言することが出来る。

以上のことから分かる減税の誘因の他にも、シャルルは重税が分裂の原因になることを経験していた。一三六九年にイングランド側の貴族であるアルブレ卿とアルマニャック伯のイングランドの課税に対する不満を利用して、そしてそれを南フランスの再征服の口実として使った。また、もし彼がアンジュー公の過大な要求に刺激された、彼が死ぬ数ヶ月前にモンペリエでおきた反乱を見ていなかったとしたら。不人気で貪欲なアンジュー公に支えられた彼の十二歳の息子が、全国的な課税に対する反乱、それは一三六九年に彼がうまく利用したように、絶好の機会を今度はイングランドに与えるだろうが、それに直面するだろうという可能性が、課税水準に関するいくつかの穏健な考えをシャルルに与えたのではないだろうか。

減税に関する肯定的な議論が強力だった。他の残った税金で平和な王国の統治をするには十分なお金が利用できた。非常事態は、封建的軍隊の権利で十分間に合っただろうし、もし必要ならば、ビューロー=ド=ラ=リヴィエールの慎重な管理下にある財産を利用して用立てることも出来ただろう。その一方で、ブルゴーニュ公やアンジュー公の個人的な野心を満たす戦争、それは潜在的にフランスに大損害を与え、若い王子の王座をも危うくさえする性格のものだったが、その戦争を彼らに許すだけの量はなかった。


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シャルルの死の後の出来事について、レオン=ミロ、彼は一三八二年の暴動を研究をしている歴史家だが、彼が顛末を語ってきた。ブルゴーニュ公やアンジュー公と言った王族達が、新しい治世がほぼ始まると同時に、自分たちの役割について口論を始めた。アンジュー公は自分が先に生まれたことを理由に、彼の以前の宣誓にもかかわらず、また、王の最後の勅令にも反して、シャルル六世の保護者としての権利を主張した。ブルゴーニュ公は一三七四年の勅令を根拠に彼の権利を主張した。対立する両者の軍隊がパリの廻りに集められ始めた。この初期の混乱した状況の間、人々は竈税の廃止より重大な譲歩を要求した。一三八〇年の十月にサン=カンタンで税に対する反乱が勃発した。この間アンジュー公は、シャルル五世が残した財宝の一部を横領した。それを守るべき役割の、ビューロー=ド=ラ=リヴィエールは、摂政による統治が始まって数ヶ月の間は、パリを離れてしまうのが賢明だと思っていたのだ。

十一月までに、ラング=ドイーユ(オイ語圏、北フランス)三部会が招集され、その月の十六日パリで暴動が始まったので、アンジューとマイルズ=ド=ドルマンに、他の臨時上納金が認められるという条件で全ての税を廃止させることになった。ミロによれば、三部会は資金が欠乏したので招集されたといっている。シャルルの死の時の財宝の規模を考えると、驚くべき結論である。更に一三八一年一月の更なる勅令が、全ての税の撤廃を確固たるものにしたが、三月には新しい臨時上納金が承認され、資金は一年中すぐ使えるようになった。七月にはアンジュー公ルイは、イタリアにおける彼の作戦に必要だったので、十一万フランの新しい税を追加徴収した。一三八二年の一月には、一三八〇年の十一月に廃止されていた種々の間接税を再び確立しようとした。この試みはルーアンのアレールの反乱とパリのマイヨタンの反乱、そしてフランス中の他の数え切れない反乱を引き起こした。


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これらの出来事はシャルル五世が避けようとしていたことそのものではないだろうか。アンジュー公とブルゴーニュ公の口論、一三七四年の勅令の無視、は彼らを弱くした。アンジュー公が彼の誓いを無視して、公金を使い込んだことは、政府に財政上の不安定さをもたらし、三部会の招集を余儀なくさせた。これらのへまにもかかわらず、人々は必要な税については喜んで払い続けたし、一三八一年までずっとそうだった。一三八二年になって初めて、というのも再びシャルルの意志を無視して、イタリアでの彼の作戦を維持するためにかなりの増税をアンジュー公が求めたためだが、このとき初めて反乱は危険な状態になった。シャルルは彼の息子を守るために賢く行動した。しかしながら、貪欲と野望を法律で押さえつけることは出来なかった。