シャルル五世の最後の法律

一三八二年の暴動の背景
Harry A. Miskimin, Speculum 38, 1963

一三八〇年の九月十六日、フランス国王シャルル五世賢人王は、彼が最も信頼している侍従のビューロー=ド=ラ=リヴィエールの腕の中で死を迎え、フランスの王位は十二歳の少年であるシャルル六世に渡された。同じ日の朝シャルル五世は、有名な最後の法律を宣言した。その法律とは、fouagesつまり竈税を廃止するものである。それによって、国庫収入上の様々な困難を引き起こすことになり、その困難が最終的には、ルーアンのアレールのそして、パリのマイヨタン(木槌党)の反乱への直接的で即座の挑発を提供することになった。この法律は歴史家にとって説明が出来ないものとして長い間扱われてきており、彼らはエドワード=ペロワの以下のような意見に同調しがちだった。つまり「臨終に当たって、我々は不条理で賢明でない考えにとりつかれるといういい例だ。彼の臣民並に、王は恒久的な課税が必要だと理解していなかった。彼が自分の良心を開放し、ペンを動かした時、彼の後継者から統治の手段を奪った。」

この法律への弁護はほとんど見つけることが出来ない。機知を利かせてはいるが、最も控えめな弁護は、ドラシュネルの、ものでありそこで彼は、「それは単なる間違いだった、ただし華麗な間違いではあるが、歴史上まれで、彼独自のもので、そのような危険な前例を決して作ろうとしてはならないものだ」、と考えるように求めている。更に彼は、我々の時代の政治家がこの前例にならっているのを嘆きながら彼の弁明を終えている。

弁論を始める前に、いくつかの基準、その基準とは政治行動を評価する基準だが、それを作ることは意味があるだろう。最も簡単な方法は、それが最も洗練されているものではないにしろ、結果として起こった出来事の直接的な関係の中にある。つまり、その法律を、我々がその結果だと思っている範囲の中でだけ、賞賛したり、非難したり、することである。そうすることで、我々は二重の間違いを起こしていると私は思う。つまり、その法律がなかったら何が起こっていただろうかということについて考慮していない上に、その法が広がった瞬間と、我々がその影響を見つけようともくろんでる期間の間の外来性の(その法律以外の原因の)状況の変化を無視しているからだ。

起こっていたはずのことについて研究するのは歴史ではない。しかしながら、起こった出来事の隠された意味を考えながら代案を創作する(そうでなかった歴史について考える)ことは、結果として生じた歴史を豊かにする。ある法律と、いわゆるその結果と呼ばれるものの間に起こった変化は、歴史であり、それを知ることは、因果関係を説明するために必要だ。もっと言うならば、詳細な理由を付した結論や、正当な評価と言ったものがなされる前に、その法律の起源の状況についてよく知ることの方が必要なのである。シャルル五世の最期の法律についてこのように調査することは、以下のようなことに役に立つだろうと私は信じる。つまり彼の業績の再評価と、少なくともその後の暴動を導いた原因の内のいくつかを理解することとの、両方に役に立つと。


U

一三八〇年の後半にフランスの経済状況について調査していたシャルル五世は、残念ながらこの国が、一三一四年のフィリップ六世(シャルル五世の祖父)の死の時点にまでその状況を悪化させていることが分かったに違いない。人口について言えば、一連の人口統計学上の大破壊、つまり一三四八年に黒死病が最初に出現した時から続いており、それがシャルルが統治している間中フランスの破壊し続けたことによって、その多くが殺されてしまった。その衝撃は最初の出現からしばらく経っていても深刻な影響を与え続けた。例えば、モンペリエでは記録に残っている竈の数は、一三六七年には4520であるのに、一三七〇年には4421、一三七三年には2300になっている。ナルボンヌにおいてはこの減少はもっと急激で、1366年の2500が一三七八年には250にまで減っている。この人口の危機が全てのフランスの町で普通のことだったと信じる理由はいくらでもある。勿論、数字の大きさは誇張されている可能性は十分にあり得る。なぜならこの課税可能な竈の数というのは、経済の凋落を反映する要素になりうるので。他の資料を見ると、シャルルが死んだ時にはまだこの疫病がフランスで蔓延っていたことを知ることが出来る。シャルル六世とルイ=ド=ヴァロア(シャルル六世の弟のオルレアン公?)は葬式に出席するためにムーランを離れてはならないと警告された。なぜなら、この疫病がその時パリで猛威をふるっていたからだ。

フランス全体の取引について直接的に示す統計の値を獲得することは難しい。おそらく、最も良い代役は、国際的取引の一般傾向について言及することだろう。十四世紀の最も低い値はジェノヴァで、一三八〇年に起こった。まだフランス領ではないマルセイユが一三六〇年から一四一〇年にかけて一貫して凋落傾向にあるにしても。暴落は同じようにその時期のフィレンツェとイープルにおける衣服の生産高にも反映された。この二つの例のどちらとも、一三八〇年の衣服の生産量は四十年前に到達した値の三分の一以下であった。一三七六年の五月十六日の勅令で、少なくともアルフルーの町については経済の状態について知ることが出来る。それによると、「戦争と朕の敵、彼らは長い間この王国に居座りこの前述の港湾都市(アルフルーはルーアンの外港)とその住民を苦しめ、傷つけてきたのだが、彼らによる妨害の所為とで、或いはいろいろな状況による死の所為で」慣習上の取引は大いに減退した、と。似たような文書は引用できるが、その証拠はフランスに限られている。しかしながら、百年戦争の舞台になったこの国は、国際的取引が明らかに減退した他の国より良い生活を送っていたに違いないと思うことはおそらく出来ないだろう。

農業の面から見ると、その状態は有意なほどに良いとはたぶん言えないだろう。七十年代前半に飢饉の年が続いた後、この十年の後半では豊作の年がやってきた。一三七八年には小麦の値段は約一世紀も前の水準まで落ち込んだが、一三八〇年が近づくにつれて急激に上昇し始めた。恐らく一三八〇年には、一三七八年の五倍の値を付けたに違いないが、この最も高い時期でさえ、一ヘクトリットルに対して五百六十四リーブルでしかなく、一三六一年から一三七〇年の十年間の最も低い時期よりも十分に安いものだった。一四世紀後半の農業の利益のよく知られている様式はこれらの数字からも明らかである。

別の統計に目を向けて、鋳造された金属の量をみると、凋落はここでも明らかである。一三七二年から一三七四年までの三年の間に、フランスの鋳造所における銀の年間生産量は平均で5800マルク(一マルクは八オンス)にのぼると記録されている。一三七五年から一三七七年まででは、その平均はたった1550である。一三七八年から一三八〇年においてはさらに減少し、その前の年の五〇%以下の年平均700マルクであった。七〇年代の十年間における金の年平均生産量の場合は、その前の十年における年平均の三分の一である。過去二十五年間で最も低い年生産量を記録したのは、一三八〇年である。硬貨鋳造の数字は、たとえそれが直接には経済の状況を表してないとはいえ、一般的にはそれを反映してると言えるだろう。繁栄が増大しているなら、商取引の要求を満たすために、正金の量の増加を必要とするはずだからである。外国交易が好ましく行われているならば、金塊と硬貨を輸入し、それらはフランスの法の下で、強制的に鋳造所へ持ち込まれるはずで、その後鋳造所の生産高の数字として表れるものだが、それらを供給するはずである。貨幣鋳造のこのような低い水準は、恐らく外国貿易の衰退を反映しているだけではなく、国内貿易の発展にブレーキの役割を果たしたに違いない。

もし今、今まで行われてきたように仮定するならば、つまりこの経済状態は決して黒死病の後より好都合ではないと仮定すると、フランス王の経済の経済状態と、彼の王国の経済の状況とを比較するのに有効だ。シャルル五世は最終的に、一三五六年のポワティエの戦いで、彼の父であるジャン二世善良王が、捕らえられ結果として捕虜になったことを最大限利用した。三百万エキュという身代金の支払いの手段としての税金は恒常的なものになり、しかも王国の全てに適用された。身代金の総計は支払われずに残っているのに(シャルル五世は身代金の支払いに充てる目的で新税を作ったが、それを対イングランド戦用の費用として流用し、身代金は未払いのままにしておいた)。一三六九年以降、エード(援助金;と言う名の税)とフアージュ(竈税=人頭税、戸別税)は、シャルル五世の死まで定期的で恒久のものになった(本来は臨時で一時的)。

イングランドとの戦争が一三六九年に再開したことは、ある部分は、イングランド支配下のアキテーヌの貴族である、アルマニャック伯ジャン一世とアルブレ卿アルノード=アマニウーとがイングランドの課税に対して上訴した(アキテーヌ公は名目上フランス王の封臣)結果であるが、シャルル五世の歳入に重い要求としてのしかかってきた。戦争の到来により竈税を取り続けることは正当化され、まだ残っていたジャン善良王の身代金の支払いを停止することも同じように正当化された。この支払いは一三六七年まで続けられ、フランスに回復するための平和な時期を与えた。しかしながら、竈税と正常な形での援助金に加えて、他の支出からの予算を流用することでも戦争に必要なお金は足りず、シャルルは皿や食器などを鋳直して彼の兵士たちに支払う金を供給せねばならなかった。

一三六九年のその時点では、彼の王国を三分の一も占領しているイングランド人を追い出す試みのために、王は彼の財宝を使い果たしてしまっていた。一三七四年までに、デュ=ゲクランの力を借りて、イングランド人達を二つの狭い地域に、それはボルドー周辺とカレー周辺だが、そこに押し込めることに成功した。再征服によって彼の財政状況は急速に改善した。彼の莫大な財宝は一三七九年の目録によると、3879マルクの黄金の板金、6184マルクの金メッキした銀、6127マルクの洋銀(銅・ニッケルなどの合金)等からなっていた。その重量が明らかでない様々な大量の板金を除いてさえ、一三七四年から一三八〇年の間に貨幣鋳造所の生産高総計の、銀は約二倍、金は三分の一の量であった。この財宝に加えて、シャルルは彼の借金の支払いに関する勅令の中で、金貨二十万フランが彼のヴァンセンヌの森の中の城(サン=ポル館?)に隠してあると触れている。これらの印象的な貨幣と地金のコレクションの他に、この財宝はルビー、サファイア、ダイアモンド、エメラルド、真珠、金糸や銀糸の衣、水晶や絹、そして数十の冠と小冠(ティアラ)を含んでいた。もしこれらの高価なコレクションに、本や衣服や寝具等々、と言った少し価値の劣る品々を付け加えたなら、シャルル五世が死んだ時には、彼は貧乏にさせられていたと議論することは難しい。しかしながら、宝物は一三六九年には、彼の軍隊への支払いのために使い果たされて、そのために彼の皿を鋳直して、それは芸術的な価値を失わせるものなのだが、それ故にそれは(食器の処分は)最終的に貨幣を使い果たした時の最後の手段であるが、そこまで使い果たされていたと言うことを我々は知っているので、一三六九年に続く数年間の間に、戦争が再開していたにもかかわらず、彼はその財宝の最も良い部分を獲得したと想像することが出来る。フランスはこの時期予算の余剰を享受できたに違いない。しかし、なぜこの余剰が生み出されたのかを問わねばならない。二つの仮説がある。一三六九年から一三七四年のフランスによる再征服がイングランドに向かっていた戦利品の流れを逆流させ、それをフランスに向かわせたのではないか。一三七四年以降以下のように結論づけることは妥当であると思われる、つまり、徴税は政府の支出よりも十分に多く補ってあまりあるほどで、というのも竈税をフランス全土に適用できたからであり、それは七十年代前半の軍事的成功の結果、課税できる地域が1.5倍になったからである。「賢者」というあだ名に値する王が彼の宝物庫が満杯になった時、彼の臣民が惨めで、彼の予算は均衡しているどころではない時に、税金を軽減したと仮定することはもっともらしいと思わないだろうか。


V

一三八〇年には王室の財政が十分に豊富であったと予想できる一方で、シャルルの個人的で家庭的な出来事はその繁栄を享受していなかった。彼の家庭を立て続けに死が襲った。王妃のジャンヌ=ド=ブルボンが一三七八年の二月六日に、それに極めて近い一三七八年の二月二十三日に彼の娘が、それぞれ死んでしまった。恐らく最も深刻だったのは、政治的な見地からするとだが、一三八〇年の七月十三日に、ベルトラン=デュ=ゲクランがシャトーヌフ=ド=ランドンの城壁の前で死んだことであり、その結果その地を包囲していた王の軍隊の全体士気が下がってしまった。この信頼されていた将軍の死が、フランスにおけるイングランドの保有地を再生服する彼の役割により尊敬されていたので、王の目には最も深刻な損失だったに違いない。

イングランドに対する戦争は、七〇年代前半は順調に進んでいたのだが、後半には鈍ってしまった。一三七七年までに、アンジュー公ルイとデュ=ゲクランの軍隊が一緒になり、ガスコーニュの外で立ち止まり、それに続く年のブルターニュでの作戦の失敗と一緒になって、それがフランスの拡大を止めてしまった。彼の人生の最後の数年間、シャルルはイングランドとの和平を求め、実りの少ない格闘を終わらせるためアキテーヌの問題に関してかなりの譲歩をする準備が出来ていた。それらの申し出にもかかわらず、交渉は失敗し、一三八〇年の五月まで、バッキンガム指揮下のイングランドの軍隊が再びフランスを縦断した。

イングランドの小集団による、フランスの侵略は破滅をもたらしたと考えなくても良い。この手の「シュヴォーシェ」(騎馬による略奪)は過去にも起こったし、実際シャルルが最も成功していた時期にさえよく起こった。戦列を整えた戦いを避けるフランスの戦略、また、クレシーとポワティエの戦いの所為で、イングランド人達にフランスの国内を横断させることを許していたのだが、強固な拠点を押さえることは不可能になり、それ故、意味のある征服は不可能だった。

その結果軍事的には手詰まりだった。シャルルは、彼が死んだ年には、彼の敵を自分の国における彼らの最後の足がかりから追い出すことが出来なかった。その一方で、彼が大きく負けないかぎり、イングランドの側は勝つことが出来ない。彼らの何度も続いた侵攻は、誤魔化しだと証明され、何ら政治的意味を持たない海賊のような侵入でしかなかった。シャルルの受け身の態度は提督ジャン=ド=ヴィエンヌの下の海軍の成長によって更に拡大された。一三七七年までに、海軍はイングランドの海岸を略奪することが出来たし、フランスに対する侵入への抑止力として働くことが出来た。言い換えると、もし彼の政策が続いていたら、シャルルは、彼の息子に極めて拡大した王国、しかも実際にイングランドの再征服に対して抵抗力を持つそれを、授けることを期待できたに違いない。しかしながら、アザンクールの戦い(ヘンリー五世にシャルル六世の軍が大敗した戦い)を避けることが必要だったが。


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