セントバレンタインデーの思い出



 人間には長い一生の中で何人かの人に出会って、人生の方向転換をする事があ る。自分も少なくとも3人の人に出会い自分の人生感を大きく転換させられた。 その一人はテレビに時々顔をだす変な数学者秋山仁先生、他の二人はアメリカ留 学中に出会った電気生理学のボイノー先生、そしてこれから話をしようとしてい るクリストリーブ先生である。

 昭和59年の9月に自分は心臓電気生理の勉強をするために、セントルイスのワ シントン大学心臓外科に留学した。日本人留学生が誰しも直面する問題「言葉の 壁」に自分も例外に漏れず大変悩まされた。何しろ自分は計画的に留学した訳で はなく、半分思いつきでアメリカに行ってしまったので、英語の勉強はほとんど していなかった。もともと努力や忍耐が必要な語学の勉強は自分の最も不得意と するものであったので、その語学の劣悪さにおいては歴代の留学生の中ではまさ にナンバーワンであった。自分の喋れる英語といえば「YesとNoとGood morning そしてGood by」これしか喋れない、そんな日本人がアメリカに留学して相手に される訳がないのは当然の事であった。
 仕事をする上で、まず何時、何処に行って何をすれば良いか何回聞いても判らな い。たまたま行く場所がわっかても、今度はどうやってその場所にたどり着いた ら良いのか判らない。いつも相手に待ちぼうけをくらわすか、待ちぼうけをくら わせられるかのどちらしかない。だから誰からも相手にされず、何の仕事も与え られなかった。 そんなこんなで、ただぶらぶらと半年が立ってしまった。その間自分がやった仕 事といえば犬の実験室の掃除ぐらいなものである。毎日その日に実験に使われた 犬の死骸を片付けること、床の掃除をすること、これらが自分の仕事であった。 毎日モップを持って床掃除をしては自分は全体何の為にアメリカに来たのだろう と考えこんでしまった。

 その当時自分は入局して5年が経っていたので医局にいれば、ちょっとは偉そう にできる学年となっていた。その自分が留学とは名ばかりでアメリカに来て実験 室の掃除が唯一つの仕事とは全く誰にも見せられない有り様である。 三カ月の留学のはずが何の仕事もせずにあっという間に半年がったてしまった。 何の成果もなく唯漫然とアメリカに半年も居ることは、誰しもが無意味なことで あると思うに違いない、それでも自分は日本に帰らなかった。いや、帰れなかっ た。その理由はいったん留学してしまうと何もせずに日本には帰れなくなってし まった、というのが正直なところの本音なのである。 大学では留学から帰ってきた職員に対して留学中の成果を講演することが義務ず けられている。その席でまさか実験室の掃除ばかり半年間してきましたとは言え ないのである。何か仕事をせねばと焦るのであるが、英語が話せず自分のやりた いことを表現できなかった。「言葉の壁」のあまりの厚さに愕然として鬱状態に なったこともあった。そんな時は同時期にアメリカに留学した医局員や、大学の 他の医局の先生方に電話をし気分を紛らわせようとした。しかし、大抵は自分達 がどんな仕事をしているかが話題になり、何もしていない自分は何時も置いてき ぼりになったような寂しさ感じていたものである。

 ところで、自分が留学したワシントン大学心臓電気生理学研究室のCox教授は 元々はノースカロライナ州にあるデユーク大学の心臓外科の助教授で、ここで不 整脈外科の世界的権威となった。そして弱冠42才にして、セントルイスにある 医学の名門ワシントン大学の胸部心臓血管外科の主任教授に抜擢された人であ る。確かに優秀な人ではあったが競争の激烈なアメリカの心臓外科社会を勝ち抜 き成功してきただけに、自分の利益になるものと、ならないものをはっきり見定 める人であった。 Cox教授が赴任して、行った事の一つは、自分の利益にならない人の解雇であっ た。僕が留学した当時、心臓外科の研究室にはクリストリーブ助教授がいらっし ゃった。このメキシコ大学出身の50才をちょっと過ぎた、温厚な助教授はそれ までに数々の業績があったにもかかわらず、新任のCox教授とは意見が合わず大 学を退職せざるを得ない立場にあった。そんな事情にもかかわらず、研究室で顔 を会わせると英語の話せない自分にも気軽に話し相手になって下さった。
 留学して半年が過ぎ、何も仕事をしていない事に気付いた自分は、何をどうして いいのか自分でもわからず途方に暮れ、ただ時間だけが無意味に過ぎって行っ た。自分に親切にしてくれたクリストリーブ助教授もあと数週間でワシントン大 学を退職し、ピツバークにある研究室に越していかれる事になっていた。何もわ からないアメリカで唯一人だけ親切にしてくださった人が研究室を去る、これは 自分にとっては本当に心細い限りであった。

 昭和60年のセントバレンタインデーの日、これから自分はどうすれば良いか教 えを頂こうとクリストリーブ助教授の部屋を訪れた。「自分の今置かれている状 況とか、これからクリストリーブ助教授が居なくなった後自分はどうすれば良い のだろうか?」とたどたどしい英語で話をすると「わかった、今は引越の準備に 忙しいから2時間後にまたいらっしゃい」と助教授は答えられた。  ぶらぶら時間をつぶして、約束通り2時間後に助教授の部屋を再び訪れると、 「ドクターハラダの言いたいことは大体わかっている、最大の問題点は、君が弱 い人間だという事だ。英語がわからないからと言って、留学して半年もぶらぶら しているような弱い人間はこの国アメリカでは必要としていない。君が強くなれ ないならば今すぐ日本に帰るべきだ。」といつも優しい助教授にまず一喝され た。「今日は、セントバレンタインデーなので、自分はこれから家族にプレゼン トを買いに行く、ついてはあまりドクターハラダに付き合っている暇が無いので これを読んでおきなさい。」といってレポート用紙を僕にさし出し部屋を出て行 かれた。

 助教授室に一人ぽつんと残されて、レポート用紙を開いてみると何と7枚にびっ しりとクリストリーブ助教授の忠告が書かれてあった。その要旨は人間は強く生 きるべきであること。自分の才能を信じて物事に立ち向かうべきこと。そして最 後に人生の勝者になるためにファイトFightingする必要性が書かれていた。 Fightingとは問題に立ち向かう姿勢のことである。Fightingとは正しいことを正 しいと言える力である。Fightingとはいつも前向きに仕事に取り組む事であり、 決して人を押し退けたり、他人に勝とうという態度ではない。Fightingすれば人 生の勝者になり、人生の勝者はFightingした者なのだ。怠け者はFightingを決し てしない。だからいつもFightingすべきである、ずーといつまでも。 おそらく自分が何処かでぶらぶら2時間暇を潰している間に、クリストリーブ助 教授は引越の準備に忙しいのに、この手紙を書いてくださったのだろう。一人助 教授室でこの手紙を読んでいるうちに、クリストリーブ助教授の優しい心遣いが 骨身にしみて涙がでてきた。
 その日はー20。C程の大変寒い日で外は大雪だった、窓の外にこんこんと降る 雪を見ながら、手紙を一字一句噛みしめながら読み返しているうちに、無気力で 弱っかた自分に気がつき、何か勇気が出てきてその場で自分が生まれ変わって行 くような錯覚に捕われた。あの日、クリストリーブ助教授室からみたワシントン 大学の雪景色は心が洗われるようにきれいで、しかも僕の心には優しく暖かかっ た。その時の窓の外の雪景色とクリストリーブ助教授の人間愛溢れる顔、そして 一人助教授室で自分が手紙を読みながら涙を流している光景は10年以上経った 今でも鮮明に自分の脳裏に焼きついていて、おそらく一生忘れない事であろう。

 やがて買い物を終えたクリストリーブ助教授が部屋にもどってきた。「手紙を読 んで、少しはわっかたかね。もしもドクターハラダがこれからアメリカに残って 本気で仕事がしたいというのなら手助けをするよ」といわれた。自分は即座に 「Thank you very much for your kind advise. I will do my best, let me try」と答えた。そしてこの時から3年3か月におよぶアメリカでの研究生活が スタートしたのである。 それから、数週間後、クリストリーブ助教授に手助けして頂いて完成した研究計 画書をCox教授に提出し、研究をする許可がようやく得られた。その報告とお礼 を言いにクリストリーブ助教授の部屋を訪れた。もう引っ越しの準備がほとんど 完了しガランとした助教授室で、話しをするとクリストリーブ助教授は自分の事 のように喜んでくださり、「Fightingだよ」とおっしゃった。そして「ドクター ハラダなら世界中で通用する心臓電気生理学者になるはずだからFightingしなさ い」と言って励ましてくださった。

 暫くしてクリストリーブ助教授はピッツバークの研究施設に引っ越していかれ た。自分は強い味方を失い心細い思いをしたが、机の中にいつもクリストリーブ 助教授が僕に書いてくださった手紙を忍ばせ、読み返してはFighting 、Fighting と自分に言い聞かせながら仕事をした。そしてFightingしながら、 結局自分はアメリカにいる間に6編の論文を完成し、これらは非常に幸運なこと に、全て一流といわれる英文雑誌に掲載された。 あれから10年が経った現在、残念ながら電気生理学を継続することができず、 東京近郊にある海老名市で総合病院に勤めている。今でもクリストリーブ助教授 のくださった手紙は大切に机の中にしまってあり、自分がなにか挫折しそうな時 は読み返し、自らを奮起させている。考えて見れば論文を書いたなどということ は、アメリカに留学した副産物なのである、留学した最大の成果はFightingとい う意味を、クリストリーブ助教授からあの雪の降るセントバレンタインデーに教 えて頂いたことなのだろう。

      Keep on fighting all the way !!



クリストリーブ先生が書いてくださった「Keep on fighting」です
Only Losers do not fight
If you are a winner  -  you fight
If you fight  -  you are winner
So....  Keep on Fighting.......
            all the way--------