平成8年10月、三千院にて




 京都に行くと足が向くのは、月並ではあるが大原の三千院である。先日もアメリ カから来た友人を、京都案内しながら真っ先に三千院に行った。まだ紅葉にはち ょっと時期が早かったが、秋の日差しが清々しい絶好の観光日和であった。こん なに天気がいい秋晴れの日に三千院を訪れのはおそらく20年ぶりのことだろう か。

 20年前の学生時代、僕は秋休みを利用して友人数人と初めて三千院を訪れた。 10月下旬の秋晴れで、中庭に植えられたモミジが紅葉し目に眩しかった。まだ 今ほど俗化していなかったので訪れる観光客は少なかった。我々は本堂の縁側で 日向ぼっこをし、皆で並んで座禅の格好をしながら写真をとった。それから、中 庭にある仏殿で阿弥陀如来を拝んで、お坊さんの説法を聞き妙に感心させられた 記憶がある。何の説法であったか憶えていないのが僕のいい加減なところであ る。夜は一泊二食付3000円位の民宿に泊り、安酒を買ってきて大宴会をしな がら人生討議を真夜中までしたものだった。僕は「学問がしてみたい」とか「世 のため、人のために仕事がしたい」などと小学生のようなことをわめき、同僚の 梅森君に「子供みたいな綺麗事を言わず、世の中をしっかり見てみろ」と意見さ れた。僕の夢物語と彼の現実論は常に対立し、終り無い議論が続いた。その梅森 君が今年の4月に急死した、自分の喧嘩相手に急にいなくなられ僕は悲しさと寂 しさのどん底に落とされたような気になった。

 今日、20年前と同じような秋晴れの日に三千院を訪れている。昔と何一つ変わ りない本堂の縁側を歩くと、皆で写真を撮った光景がまるで昨日のことのように 思い出された。中庭に降り、仏殿を訪れると、そこに若いお坊さんが座ってい た。「実は、20年前に友人達と、ここで説法をきいて感動したのですが。今も 説法を聞かせて貰えるのでしょうか。」と尋ねると、お坊さんは「では、今すぐ に説法をお聞かせしましょう」といって心よく特別に説法をして下さった。天国 とは何か、地獄とは何かなどの説法を聞かせて頂いたあと、仏様を拝んでその場 を去った。



 25年前に三千院で撮った写真
 右手から梅森真理(まこと)さん
 医大では同級生ですが、早稲田大学を卒業してから
 医大に入学したので、5歳以上年上でした
 平成8年4月に突然永眠してしまいました
 隣は真面目な安東君、
 真ん中は不真面目な僕、
 左から二番目は会津の剣豪渡辺君
 左端は天才大内君、写真を撮ったのは林君


 歩きながら、「自分はこの20年いったい何をしてきたのだろうか?」と自分に 問いかけていた。「一隅を照らすは国家の宝なり」とは三千院の宗派である天台 宗の言葉である。その意味は、天から自分に与えられた仕事、たとえそれがどん なに小さなものであっても、やり遂げる人は暗い世の中の一隅を照らす光を放っ ているかの如くである。そして一隅を照らす人が正に国家の宝であって、国宝と は決して高価の物ではない、と解釈する。一生懸命働いたとは言うものの、自分 はこの20年間に一隅を照らしたのだろうか?答えは「否」である。「学問がし たい」と言い、アメリカにまで留学してした仕事も中途半端になっている。「世 のため、人のため」とわめいてみたが、世の中の迷惑になったことは多々した が、「世のため」になったことはあまりなく、人の世話にはなりっぱなしだが、 「人のため」になったこともあまりない。20年前「現実をみつめろ」と忠告し てくれた友もこの世にはいなくなってしまった。そんな風に20年を振り返る と、忙がしいことだけに満足し、がむしゃらに働いてきた自分、夢を掲げたが何 も達成していない自分に寂しさを感じざるをえなかった。
 「20年か、無駄な時 間をずいぶん使ってしまったな」と思いながら中庭を眺めていると、ふとさっき 拝んだ仏様の顔が脳裏に浮かんできた。仏様の顔姿は20年前と全然変わってい ないではないか。ということは、がむしゃらに働いて20年の歳月を過ごした僕 の姿もまた仏様から見ればあまり変わっていないのかもしれない。つまり、20 年前の自分と同じ自分がそこに立っているのだろうか。20年という長い時間 は、僕にとっては長かったが、仏様の前では限りなく一瞬に近い時間でしかない ものなのだろう。

孫悟空は自分の力で精一杯遠くまで飛んでみても、お釈迦様の手の中にしかない 自分に気がつき「空」を悟らされた。僕は今、20年と言う時間を精一杯使って みて、三千院の阿弥陀仏の前に返り、その短さに驚かされている。さしずめ、 「時」を悟らされ、孫悟時になったような錯覚に陥らされた。
 「学問」や「世のため、人のため」も、20年という一瞬では実現できなかっ た、またこれから20年かかって僕が思い描いていたようにはならないだろう。 しかし諦めてはいけない、もう20年頑張って働いて見よう、たとえそれが見果 てぬ夢であってもと思った。そう考えると、先ほどまでの寂しさは、いつの間に か雲間が切れるが如く頭のなかから消え去っていった。ただ優しくそよぐ秋風 と、木々の間をぬうこもれ日、そしてそれに照らし出された苔の緑が清々しかっ た。そんな光景を僕の目の前で展開する時空の一瞬に自分の心が清められていく ような気がした。また20年後の秋の日にここを訪れ、自分を見つめようかと心 に決め三千院を後にした。

字あまりではあるが思い浮かんだ三句

  「寂寥を 嘆いて拝む御仏に 時を知らされ三千院」
  「あすの夢 みはてぬものと知りつつも 心に宿す三千院」
  「秋風に こもれびさやか 緑映え 心清めし三千院」