大山を見る構え



 僕は朝、車に乗って病院に来る時、ちょっと遠回りをして大山を正面から見える 道を通って来る。晴れた春には新緑がとても目に眩しく、また寒い冬の日には雪 で薄化粧をした大山を朝見ているとなんとも清々しく、これから一日仕事をする ぞーと勇気が湧いてくる。
 さて僕の車での通勤路から眺めると、海老名総合病院の後ろの背景として大山が 見える。ボーと大山を見ていると、何故か近くの総合病院がより鮮明に自分の視 界の中に焼き付いてくる。どうしてこんな不思議なことがおこるのであろうかと 考えているうちに、学生時代に剣道の練習をしていたことをふと思い出した。

 僕はスポーツが嫌いなくせをして、医科大学に入学すると何故か剣道部に入っ た。わが母校の剣道部の師範は小沼宏一先生とおっしゃて当時師範7段、泣く子 も黙る警視庁機動隊の剣道の師範であった。機動隊員を相手に朝から晩まで剣道 の稽古をつけている小沼師範が、僕のように遊び半分で剣道をはじめた人間に稽 古をつけるのはおそらく本意ではなかったと思うが、先生はまったく手抜きせず 我々に稽古をつけて下さった。剣道の稽古は、やった者にしかわからない、異様 な恐怖感を伴う。小沼先生に稽古をつけて頂くときはいつも同僚に「死んできま す」と捨て台詞をのこして稽古をつけて貰いにいった。稽古は本当に厳しく、意 識が無くなりそうになる、「もうこれで意識が無くなる」と思った瞬間「そこま で」と言われ地獄の稽古は終了となる。
 小沼師範は稽古が終わると、ガラットと態度が変わって冷たいビールを飲みなが らいろいろな話をして下さった。そのなかに「剣道の構えは、中段にとり、大山 を見るように構えるものだ」と話して下さった。それでは「大山を見る構え」と は何であろうか。剣道とは竹刀と竹刀の戦いであるから相手の竹刀の動きに神経 を集中すべきであるが、竹刀ばかりを見ていては心が狭くなり、相手の動作を知 ることができない。背景をも含めて広い視野にたちながら相手の動きを観察し、 しかも神経を相手の竹刀に集中するというのが「大山を見る構え」なのであろ う。

 剣道に限らず、仕事も日常生活も広い視野に立ちながら物事をみたり、考えたり することが大切である。アメリカで手術をしているとき同僚のアメリカ人レジデ ント(研修医)がなかなかうまくいかず「何かうまい方法があったら教えてく れ」と僕に聞いてきた。その時、彼は手術がうまくいかないものだから、自分の 手元を見ようと、眼が術野につきそうな位に近づいていた。僕は「もっと遠くか ら見ればうまく行くよ、専門家とは小さなものを遠くから見れる人のことをい う、君が今やっているいることは小さな物を近くからみているこれは素人と同じ で、専門家ではないよ」と言った。そこで彼は姿勢を正し、大山を見る構えとな り、なんとか急場を乗り切る手術をしてくれた。
 よく病棟で点滴が入らないと看護婦さんが困っていたり、若い研修医が挿管がで きなくて困っているので助けに行くことがある。そんな時現場にかけつけると、 大抵は点滴をいれようとしている血管に顔が付きそうなくらい近くで見ていた り、患者さんの口の中に自分の顔が入ってしまいそうになりながら喉の奥を覗き 込んでいる。こんな時はまず「大山を見る構え」を思い出し、背中を延ばして姿 勢を正し、なるべく遠くから相手を見てから点滴を刺したり、挿管をしてみたら いかがでしょうか。



  剣道をしていた学生時代
  剣道をしている写真はこれ一枚しか有りません
 僕のコテが入ったような入らないような    
 どう考えても手前の渡辺君のメンが入っています
 まあ、強い剣道はできなかったから
        この程度の写真でしかたないでしょう