ノコギリとカナヅチ



 僕の苦手な夏が去って、大好きな秋がきた。9月のある日いつもの通り家を出 て、車で海老名高校の前を通った。今日は文化祭らしく高校の正門には海老(ザ リガニ?)をデザインしたアーチがかかげられていた。なかなかよくできたアー チだなと思いながら、ふと25年以上も前の自分の高校時代を思い出した。

 僕は東京の港区にある芝学園で中学高校生活を送った。中学に入った時本当は剣 道部に入りたかった。しかし小学校の時代病弱であったため、体力に自信がなく 文化系の技術工作部というクラブに入った。技術工作部というと耳慣れない人も 多いと思うが、一言で言えば模型を作るクラブなのである。模型といっても所謂 プラモデルをつくるのではなく、設計図を自分で描き、材料を調達し世界で一つ しかない自作の模型をつくるクラブなのである。そこで僕は中学高校の6年間に 実にいろいろな模型や本物をつくった。僕のつくる模型は、すごくユニークでク ラブの仲間からは、変な作品と思われていた物が多かった。たとえば、飛ばない 飛行機、走らない車、前進すると海中に潜っていてしまう船などまるで本来の目 的にかなっていない模型が多かった。本物のゴーカート、ホーバークラフトも作 ったが、6年間の集大成はヨットであった。中学3年から高校3年まで4年かか ってデインキー型のヨットをつくった、このヨットは僕が高校3年の夏に浜名湖 で一回航海をしたのが最初で最後であった。


  海に潜って行くプロペラ船です
  文中にある海に潜ってしまうプロペラ船です。
 潜水艦ならまだしも、プロペラ船で海に潜ると
 最低なんです、ちょっと重心の計算を間違えて
 そうなりました。
  左手の船は3年かかって作ったディンキー型
 のヨットです、高校の3年間をすべてヨット作
 りで精一杯でとうとう乗るところまでたどり着
 けませんでした。


 我々、技術工作部には毎年、課題が課せられる、それは秋の文化祭の正門にアー チをつくる作業である。毎年夏休みはほとんどアーチの作成にかりだされ、ほぼ 夏休みというものがなかった。ベニヤ板、角材を相手に先輩の作った設計図をに らみながら、ノコギリとカナヅチをもって毎年8月を暮らした。高校2年の時、 僕はアーチの制作責任者になってしまった。僕は持ち前のユニークな性格からユ ニークなアーチをデザインし、夏休みをほぼ全てアーチ作りに費やした。ベニヤ 板、角材、ノコギリ、カナヅチ、カンナそしてラッカー、シンナーとともに約に 2カ月を過ごした。トレーニングパンツで仕事をするが、瞬く間にラッカーで汚 れてしまい、よく同級生からは「乞食」などと呼ばれた。しかし、自分はアーチ を作っているという名誉ある仕事をしているという自負心にささえられながら、 頑張るのであった。

 やがて9月初旬の文化祭の時、ぼくの作ったアーチは校門に掲げられたが、予想 通り、「変な格好をしたアーチだな」という評価は得たが、「素晴しいアーチ」 といって誉められはしなかった。文化祭が終わると、アーチの前で記念写真をと り、約2カ月かかってつくったそれを取り壊す。その後は、うち上げとなる。僕 らは同じクラブの仲間数人と新橋にくりだし、大衆酒場に制服をきたまま堂々と 入っていった。二階の席でビールで乾杯し、周りのサラリーマン風の人達からは 「学生たち大丈夫かね」などと言われたが調子にのって飲めや歌えの大宴会をや ってしまった。文化祭の前2ー3日間はほぼ徹夜続き、そして空腹でビールと日 本酒、なお悪いことに煙草まですってグテングテンに酔っ払ってしまった。やが て僕は気分が悪くなりトイレに駆けこみ便器にしがみつくはめになってしまっ た。トイレで自分の吐物と格闘していると、突然、荒々しくドアをノックする奴 がいた。「学生さんこんな所に隠れていてもだめだよ出てきなさい」と叫ぶ。隠 れているとは失礼な、僕は気分が悪くなったから用をたしているだけだ、文句が あるなら喧嘩の相手になってやるかと酔いも手伝って、勢いよくトイレから出る と、そこにはなんとお巡りさんが二人たっていた。...まずい「万事休す」。
 後から聞いた話では、仲間の一人が僕がトイレに入っている間に気分が悪くな り、トイレに駆けこもうとしたがどこもトイレはいっぱいで、しかたなく酒場を でて大通りで吐いてしまったそうだ。そこにたまたま巡回のお巡りさん来て、学 生服で酔っ払っている我々は全員現行犯でご用となった次第である。

 そのあと、新橋の駅の横にある交番に連行され、たっぷりと絞られた。当時、 我々の高校は校則が厳しく、修学旅行で酒を飲んだだけで退学になった奴もいた ので、我々も学校に通報されれば良くて停学、悪いと退学もありかねない。連行 された一人に、浪人をしている先輩(今では建設会社の結構お偉いさんになって いる)がいて、彼は「こいつら、高校生を連れてきて酒を飲ませたのは、私で す。罪は全部僕がかぶりますから、今日のところは何とか勘弁してやって下さ い。こいつらが退学にでもなったら、ご両親に僕は何といって謝ったらよいかわ かりません。みんな自分が悪いんです」と涙をこぼしながら許しをこうた。「し ょうがない学生さんたちだね、親の職業はいったいなんなんだ」と質問された。 外交官の息子、東大教授の息子、僕の親も医科大学の教授をしていた、警官は親 の職業を聞いてちょっと態度をかえ「親御さんは、みんな立派な人達じゃない か、今回だけと約束するなら親御さんに免じて、学校には通報しないことにして おく」と情状酌量してくれた。親には反抗することあれ、感謝したことがあまり あなかったが、この時は多少親の職業に感謝をしたものだ。

 翌日は二日酔いで苦しみながら、高校に行き後片付けをした。昨夜のメンバー は、顔を合わせると、一様に「もうあんな馬鹿なまねはよそう」と異口同音にい った。その後我々は職員室に呼び出されることもなかったので、警察官は約束を 守って学校には通報しなかったようだった。
 しかし...文化祭が終わって約10日、来年の文化祭の計画をねった後、我々 は学校のすぐ裏のお好み焼屋にいた。「先輩、ビールは本当にうまいですね」と いいながら学生服でビールを飲んでいるのは僕であり、その前にすわっているの は先日、新橋の交番で涙ながらに謝罪をしていた先輩であった。要するに反省な ど全くしていなくて、全然懲りていないのである。

 あれから25年がたった、今ではノコギリやカナヅチを摂子、持針器、メスに持 ち替え技術工作部員と大して変わらない外科医を職業としている。今でこそ大酒 は飲まなくなったが、懲りない性格は変わらず、手術がうまくいかなくてどんな に打ちめされても、一夜あければまた同じようなことをやっているのである。

  出てきました、その時の証拠写真が!
  新橋の酒屋Fで30年前の写真です、
 高校の制服を着て、酔っ払って目がうつろ
 タバコを吸って、気分が悪くなり、この後
 すぐに警察につかまりました、証拠写真と
 して学校に提出されれば、その当時は停学
 でした。