メモリー



 アメリカ合衆国の大体真ん中にセントルイスがある。ここは僕が3年3ヵ月間暮 らした町で、僕にとっては第二の故郷ともいうべき場所である。その町の真ん中 にフォレスト・パークという世田谷区ぐらいの大きさの公園があり、その中に約 5万人の観客を収容できる大きな野外劇場があって夏になると毎夜ミュージカル が見られる。
 アメリカの田舎町でこれといった娯楽もないので、夏には、ちょくちょく足を運 び、有名なミュージカルは殆ど全て観させていただいた。野外音楽堂でのミュー ジカルは大体夜の9時に開演され、終わるのが12時近くであった。 ミュージカルを見ながらふと夜空を見上げると、空気と水の奇麗な公園に生息す る無数の蛍が、野外劇場の上空を飛んでいて大小の光を放っている、まるで銀河 宇宙の流星群の中でミュージカルを見ているような錯覚に陥る。
 中でも、皆さんご存知のキャッツの主題歌「メモリー」を聞いた時は本当に神秘 的な心境になった。その歌に「When the dawn comes, tonight will be a memory, too」と言う一節がある。「今宵の楽しい出来事は、夜明けという未来 が来れば、思い出という過去のものとなってしまう」という意味である。楽しい 出来事(正確には楽しかった出来事)は常に過去のものとなる。
 看護婦さん達が「昔はあんなに楽しかったのに、どうして今はこんなにつまらな いのだろうか」と喋っている場所に出くわすことがよくある。そんな時は、リン ドバーク夫人の随筆「海からの贈物」の「よかった過去の日々は余りにも遠く て、最近の過去は余りにも悲惨なものであり、未来はどんなことになるのか全く 解らない」という一節が妙に頭の中に蘇って来る。自分でも遠い昔はなんであん なに楽しかったのだろうかと考えることは確かにある。ところが、よかった遠い 過去も、悲惨な最近の過去も全て今という時間を通りこして作られたものである 事に気がつくと、今と過去と未来の関係について考えざるをえない。

 当り前と言われれば当り前の事なのであるが、時間には未来と現在と過去があ り、この三者が連続という定義のなかでつながっている。我々の意識の中で未 来、現在、過去とはどのように捕えられているのだろうか。未来とはこれから起 こる事で、何が起こるか分からない不確定な事象である、過去とはすでに起こっ たことで確定された事象である。さてその不確定な事象(未来)が確定された事 象(過去)になるためには狭間の現在(今)を通り抜けなければならない。では 現在とは全体何なのであろうか、不確定なものなのであろうか、確定されたもの であろうか。我々が今と考えている事象は常にもう過去の事象である。シヤッタ ー速度が500分の1秒でとられている写真には0から0.002秒の間にの事象が写 っている、一枚のフィルムのなかには一瞬の今と0.0019999999.....秒間の過去 が写っていることになる。
 ここで、理論物理学者のよくやる思考実験をし、仮に感光度が無限大に良いフィ ルムを想定して、シャッター速度を無限に0秒に近づけてみると、おそらくある 一瞬の今という事象のみを撮影することができるはずである。しかし、実際にそ のような写真を撮るためにはシヤッタースピードを光速まで早くしなくてはいけ ないが、シヤッタースピードが光速に近づくにしたがって相対性理論では時間が 無限大に延びていくので、いくらシヤッタースピードを早く切っても時間はどん どん過ぎていくことになる。そうして撮った写真にはおそらく何も写っていない か、もしくは光の光子が一つだけしか写っていない奇妙な写真となっていて、今 と言う一瞬は不確定な事象と認識されるに違いない。
 そうすると「今」という事象は何か物理学の一般法則を超えた不思議な、そして 不確定な未来と確定された過去の通り道ということになる。宇宙空間には、今と 同じように物理学の法則を乗り越えた物体が存在している、それがブラックホー ルである、ブラックホールは全てのものを吸収し、それらの物質を別の宇宙また は我々の想像もできない別世界にホワイトホールと言う出口をつかって吐き出し ているとされている。今という事象は過去から見ればブラックホールのようなも のであって、未来からみればホワイトホールのようなものになるかもしれない。 いずれにせよ、人間は今という不確定な一瞬に生き、過去という確定されたもの を作りながらいきている生物らしい。そう考えて見ると、今だに意味の良くわか らなかった小林秀雄の「無常ということ」の最後の一節「上手に思い出すことは むずかしい、それは過去から現在にむかって延びた青ざめた餅のようなもの で・・・」が何となく理解されて来るような気がする。そんな事を考えながら、 未明の医局でワープロのキーをたたいているとやがて夜明けが来た、そしてまた 僕が考えて書いたこの文章も、キャツの主題歌「メモリー」のように思い出や過 去のものとなってしまったようだ。