喧嘩が弱そうに見える



 喧嘩が弱そうに見えるのは男として腑甲斐ない。しかし、どう逆立ちしてみても 僕は喧嘩が強そうには見えない。見知らぬ町、特に外国に行った時などは、喧嘩 が強そうに見えると、自信を持って堂々と道の真ん中を歩ける。しかし僕のよう に、喧嘩が弱そうに見える(実際本当に弱い)人間は自信無さげに道の端っこを 歩き、前から見知らぬ喧嘩の強そうな人が歩いてくると思わず自分から避けて相 手に道を譲ってしまう。だが喧嘩が弱そうに見える事で得したこともある。
 それは僕が外科医になって2年生のころ船医をやっている時のことであった。南 アメリカ、ハワイ、タヒチの間の南太平洋に約200隻の日本のカツオ、マグロ 漁船が漁をしている。その漁船に燃料、食料などを洋上補給するタンカーに船医 として乗っていた。一航海は約40日でパナマかハワイのマウイ島に寄港する。 船医としての仕事が忙しいのは実際に漁船に洋上補給を行う20日間位で、この 時に漁船の船員に病人特に怪我人がいれば診察をすればよい、あとの20日間は 暇との戦いであった。
 僕がどうやって暇をつぶしていたかというと、まず朝ご飯を食べるとタンカーの 船首に行きボケーと海しかない風景を眺めている、ただ眺めているだけ何も考え ない。何も考えないのがコツでへたに考えると時間の長さにさいなまれる、ある 意味では海を眺めながら座禅をしているみたいなものだ。すると2時間に一回ぐ らい事件が起こりハッとさせられる。シーラに追われた飛び魚の群れが突然海か ら飛び出すのである。
 真っ青な空と海の間に3ー400匹の銀色の飛び魚が一気 に飛び出す景色は、一見静かに平和に見える海の水の下で魚たちが必死に生存競 争をしていることを教えてくれる。そして、飛び魚の集団飛行はそれを見たこと のある人にしかわからない驚きと感動を与えるてくれる。そんな風に時間をつぶ していると、「オーイドクター昼ご飯だよ」と声をかけられ、食堂に行き昼食を とる。そして午後は船尾に行き、タンカーのスクリュウでつくられた引き波をジ ーと何も考えず眺めている。すると「オーイドクター夕飯の時間だよ」といわれ て夕飯を食べに食堂に行くといった具合である。

 夜は毎晩必ずといってよいほど大宴会をやる、ビディオのような便利なものが無 い時代だったから、夜時間をつぶす手段としてはひたすら酒を飲むしかなかっ た。ツマミには飛び魚の干物がよく出てきた。夜中に明りをつけてタンカーが走 っていると、その光をめがけて飛び魚が飛んでくる。不幸にして甲板に着陸(着 船?)してしまった飛び魚は海に帰れず、翌朝拾われて干物とされてしまうわけ である。本当によく飲んだ。何しろ夕飯が5時に終りそれから夜中の2時3時ま で毎晩飲んでいるのだからウイスキーでいえばボトル一本ぐらいは平気で空けて しまう。それでも、2日酔いにならなかったのだから、あのころはやはり若かっ たのだろうか、今同じことをしたらさしあたり4日酔いは覚悟しなくてはならな い。
 タンカーが洋上で停泊している時はサメ釣りをする、マグロの切り身をひとつか み(日本の魚屋で一万円ぐらいしそうな量)海に投げ込むと5分もすれば、血の 匂をかぎつけてサメが寄ってくる、そこで金属のワイヤーにとんでもない大きな 釣針をつけてサメのいるあたりほうり込めばいとも簡単にサメが釣れるわけであ る。そしてその夜、フカヒレの料理となってまたまた我々の酒のツマミとして酒 宴を盛り上げてくれるのである。
 船員たちとマージャンもよくやった、だいたい船医はカモと決まっているが、時 間つぶしと頭の体操にはちょうどいいし、四方を囲む大海原を見ながらするマー ジャンは格別である、青い海を見ながらテンパイ・タバコをふかし(当時僕はタ バコを吸っていた)リーチ一発で上がると実に気持ちがよいのである。あとは時 間つぶしによく厨房を手伝った。コックの見習いのようになって、魚を焼いた り、ラーメンの麺をつくったり、盛り付けをしたりした。おかげで僕は何時も調 理師達と行動をともにすることになった。

 ついつい、昔の船医時代のことが懐かしくなって余計なことを書いてしまった。 「何時も調理師達と行動をともにする」、実はここから主題の「喧嘩が弱そう見 える」話が始まるのである。
 40日の航海が終わってパナマに入港した、入港し ている期間は僅か2日間である。僕などは久しぶりに見る陸上の景色に感激し町 に出て行きたいのであるが、当時のパナマは町中でも治安が悪かった。公用語が スペイン語で全く言葉が通じないのも困る、タクシーは決められた料金は無く、 運転手と値段の交渉をしなくてはならない。僕は気が弱いし、とにかく喧嘩が弱 そうに見えるから、ついつい相手なめられて金をまきあげられるはめになる。 そこで僕は喧嘩の強そう見える、調理師たちと町に出ることにした。
 船乗りの調 理師たちは皆たくましかった。特にその中の一人Aは一見すればヤクザの用心棒 と間違えられそうな奴であったが、何故か彼が妙に航海中なついてきて、いろい ろな僕の知らない裏の世界の話を聞かせてもらいながら夜中まで酒を飲み交し た。世界中の港の話、ヤクザの世界、喧嘩の仕方などなど。そして「パナマに着 いたら、自分がボディガードと案内をするから、一緒に町を歩こう」と言ってい た。
 パナマの繁華街に4人ほどで繰り出した。たいした店もないのに、ものすごい人 ごみであった。スリが多いと聞いていたので僕は緊張しながら歩いていた。日本 で言うならさしあたり銀座4丁目といった所の交差点にはお巡りさんが何人か立 っていた。
 ここなら安全なのかと僕はお巡りさんの姿を見て少しホッとした。ち ょうど昼食の時間だったので我々は、交差点から少し入った所にある中華料理店 に行くことにした。交差点を曲がってほんの20メートルまだお巡りさんの姿が 見える所で、僕は自分のお尻に何か触れたのを感じた。事件はその瞬間に起こっ た。振り向くとパナマ人が僕のポケットから財布をとろうとしていた。とっさに 泥棒だと気がつき、僕はそいつの腹を思いきり蹴飛ばした。すると偶然にも僕の 蹴りは相手の腹に命中し、彼は腹をかかえて逃げていった。僕は獲られた物も無 かったので、追いかけもしなかった。
 自分に身の危険が無くなると、他の仲間は どうなったのだろうかと考える余裕ができた。10メートルほど先で、我々のグ ループの中では一番喧嘩の強いあのAが倒れていた。体のがっちりしたパナマ人 が2人がかりでAを抑えつけ、そしてなぐり合っていて、すぐに泥棒たちは取る べきものを取ってアッという間に逃げ去ってしまった。
 泥棒達が逃げ去るまで、 僅か1〜2分の出来事であったのだろうか。我々4人は呆然として、パナマの街 角で顔を見合わせた。
 被害が一番多かったのは、喧嘩が名実ともに強かったA であった、財布と船員手 帳(これは船員にとってのパスポート)を取られ、ズボンとシャツはズタズタに 引き裂かれ、顔のは殴られたあとのアザができていた。他の仲間もそれほどひど くは無かったが金を取られたり、服を切られたりしていた。全く被害が無かった のは喧嘩が一番弱そうに見える僕であった。みんなに「ドクターは運がいいね」 と羨ましがられた。
 何故、喧嘩が一番強そうに見えるAが一番被害が大きく、逆に一番喧嘩が弱そう に見える僕が何の被害もな無かったのか。僕なりの解釈のでは、おそらくAは喧 嘩が強そうなので泥棒たちも彼等の中で一番喧嘩の強い奴らがかかって来たに違 いない。
 いくら喧嘩が強そうに見えても2対1でかかって来られたら勝負は泥棒 達が勝つに決まっている。それに対して、僕は喧嘩が弱そうに見えていたものだ から、おそらく泥棒達の中でも一番力の無い奴が僕を襲う係になったようだ。だ から僕が蹴りを一発入れたら、おじけずいて何も取らずに逃げて行ってしまっ た。

 結果的には、僕は喧嘩が弱そうに見えたため(もちろん一番弱い)、弱い相手と 戦い被害が無くすんだ。それに反してAは喧嘩が強そうに見えたものだから、敵 の最強軍団と戦うはめになり被害が一番多かったことになる。ちなみに、その時 一番現金を持っていたのが僕であり、Aは殆ど現金を持っていなかった。僕の財 布を狙えば、良かったのに、馬鹿な泥棒達だねなどといっても何の意味もない捨 て台詞みたいなものだろうか。
 「人間は認識されたがる動物である」という言葉をどこかで聞いたことがある。 頭のいい人間は頭がよいと、手術のうまい外科医は手術がうまいと、喧嘩の強い 奴は喧嘩が強いと、皆に認められ認識されたがっている。
 人間はそんなに背伸びしてまで、自分を高く評価してもらう必要はない。馬鹿だ とか、無能だとか、喧嘩が弱そうだとか思われているほうがはるかに気が楽で自 分のためになっていることが多いのである。
 僕がよく捨て台詞に使う言葉がある「どうせ僕は、ドジでのろまで馬鹿な亀です から」。どこかのテレビドラマにでてきた言葉である、そんなものでいいんです よ、他人にはそう思ってもらっておいたほうが。