カラオケと石と個性と



 最近、病棟の歓迎会や送別会に出席すると、二次会はほぼ100%カラオケに行 くはめになる。若い看護婦さんも医者も皆本当にカラオケがうまい。僕はカラオ ケというものが嫌いで、その場に居ても滅多に歌うことがない。その最大の理由 は僕が歌おうとしている曲のメロディーと、カラオケのメロディーが違っている からである。だから僕がカラオケのメロディーに合わせて、歌を歌うと当然ちぐ はぐなものとなってしまう。世の中ではこのような現象を「音痴」という言葉を もって表現されてる。確かに、歌がうまい訳ではないが「音痴」と表現されて は、ちょっと僕の豊かな個性がかわいそうな感じがするのですが、いかがなもの でしょうか。まあそれは歌が下手な、僕なり言い訳として、カラオケ文化に直面 すると何か個性が尊重されず、平均化された人間を造りだしている日本の現象を ひしひしと僕は感じるのです。
 カラオケというのは曲目を選び、入力すれば同じ曲が何度でも、同じように出て くる。それに合わせて、歌うわけだから誰が歌ってもそこそこ同じ節回しにな る。たとえば最近流行しているXという歌手の歌を歌う時は、みんなカラオケの リズムに合わせて、Xの歌と同様に歌う。型にはまったリズムに合わせて、もっ とも平均的に常識的にXの物まね的歌いかたができた人がカラオケがうまい人と いうことになる。
 音痴どころではなく、これまた超ヘタクソなのであるが、時々ギターを持ち出し てきてガチャガチャやりながら歌を歌っていることがある。ちょっとメロディー やギターコードを変えながら、自分の楽器で自分の好きな音を出せばカラオケに はない歌の楽しみ方ができる。なによりもカラオケのように型にはまらず、自分 の個性に合わせてといっては大げさだが、自分流に歌が歌えることができる。他 人に聞かせて不快感を与えさえしなければ、自分なりの個性で自由に歌が楽しめ るというものだ。以上が型にはまることが嫌いで、自由な個性が好きな僕のカラ オケ感なのであったのだが、正直なところ僕は音楽に関しては個性的ではなく、 やはり音痴と表現されるほうが適切なようだ。

 先日京都の瑳我野に行き、久しぶりに大河内山荘を歩いていた時、庭の道に敷か れてあった石の配列が妙に美しく感じられた。石の種類、大小、色形はさまざま で一つ一つの石はまさに個性の塊であるが、それをうまく配列することによって 趣のある道ができていた。現代の建築様式ならば、同じ種類、大きさ、色の石を 集め、これら切って同じ大きさにし整然と石を並べ道を造る方法が取られること が多いだろう。石の個性などは無視をして、中途半端な色、形、大きさの石はど んどん捨てられて平均化してしまう。
 そういう現代的な方法は、道を造る人達にとっては作業が楽である違いない。  平均化するとか型にはめるとかいうやり方のほうが、個性を尊重することより か遥かに簡単なのである。平均化して型にはめるというやりかたは、建築にした ってカラオケ文化にしたって、いたるところでこの現象をみることができる。た てまえだけは「個性を尊重する」などといっている日本の教育を見てみると、よ り平均化された人間をどんどん造りだしているような気がしてならない。今自分 の足元に二又路があり左は同じ形の石が整然と並べられ、右はさまざまな色形の 石が並べられているとしよう、歩き易いのは明らかに左の路であるが、僕は自分 の性格から多分右の路を歩いて行きそうな気がする。