文化的に入浴して



 僕は休日には、伊東で朝、昼、夕そして夜と一日に4ー5回も風呂に入ってい る。天気の良い日に、温泉につかっているいるとストレスが解消されるし、頭を 痛めている問題の解決策がふと浮かんでくることもある。アメリカに住んでいる 時は自宅にシャワーしかなく、風呂に入ることを夢見ていたものだ。こうして日 本で温泉につかっていると、自分は日本人なのだと自覚させられるわけだ。
 ところで「風呂に入る」という行為は、日本人の誰かが遠い昔に発明したのだろ う。そして、何時の間にか「風呂に入る」という行為が日本人の間に広がり伝播 され、子孫に受け継がれ「風呂に入る」という習慣が日本では伝統的に現在まで 維持されているに違いない。このように、発明(発見)、伝播(学習)、伝統、 (継承)による動物の習得的行動を、京都大学霊長類研究グループは「文化」と 定義している。我々が日常、何の気無しに風呂に入る行為は実は「文化」の一つ であったことになる。
 そういえば、もうずいぶん昔に、サルが温泉につかっているテレビのコマーシャ ルがあった。あれは確か高崎山のサルに起こった現象で、あるとき若いオスザル が偶然温泉の中にはいったら気持がよいことに気がつき、入浴という行為を発見 したのである。そこでこの気持のよい行為、つまり入浴を、自分の同年代や自分 より若いサルたちに教え他のサルに教え学習させた。最初は他のサルは恐る恐る 温泉につかったが、やがて入浴の良さを知り、自分の子供達にも教えて子孫に入 浴する行為を継承し、入浴を彼等の文化とした。興味あることに、入浴を発見し たサルより年上のサルたちが入浴をすることは決してなかったそうだ。人間の世 界でもサルの世界でも、年寄りたちは若人が新たにつくった文化にはそっぽをむ く習性があるようだ。
 文化というものが発明、伝播、伝統によりささえられている行動であるとするな らば、文化というものは何も高尚な物ではないことになる。我々が日常行ってい る「風呂に入る」、「御飯を食べる」、「トイレで用をたす」といった行為のほ とんどは「文化」であることになる。服装、言語、宗教、芸術はもちろん文化の 最も文化らしいものである。

 ところで、文化とは学習や伝統が伴うものであるから、ある程度の個体数がない と文化は成立しない、そして同じ文化を共有する個体群を民族というのではない だろうか。つまり極めて大ざっぱには「民族」=「同じ文化を共有した人間の集 団」ということになる。地球上には現在3000以上の民族が存在するといわれ ているが、一民族が一国家を形成していれば、現在地球には3000の国がある ことになる。
 ところが、アトランタ・オリンピックが開催された時点で世界には 200弱の国があるといわれていたから、一つの国が平均約15の民族を持って いて、15の文化の異なる人々が一つの国をつくっていることになる。そう考え ると日本は極めて特殊な国であり、少数のアイヌ民族がいるとはいうものの、世 界でも稀なほぼ一民族一文化国家である。この、日本一民族一文化国家が善い意 味でも、悪い意味でも日本の特徴である。よく日本の経済は一流、国際外交は三 流と言われるのも、一民族一文化国家で純粋培養された日本人は他民族や他文化 との接っしかたがへたなためであろう思われる。
 アメリカに住んでいると、色々な民族や文化に触れることができる。よく、アメ リカは「民族のるつぼ」と表現されるが、「るつぼ」とは溶けて混ざり合ってい ることである。しかし僕の印象では決してアメリカに住んでいる多くの民族や文 化は溶けて混ざり合っていない。ドイツ人、イタリア人、フランス人、日本人、 中国人、韓国人、皆アメリカに住んでいるとはいうものの、各々の民族は自分た ちの文化をかたくなに守り、混ざりあうことはない。アメリカに住んでいる多民 族は職場では一応表面上は協調するが、家に帰れば各々の民族に特有な文化に従 って生活している。アメリカのような多民族国家に住んでいると、かえって自分 の民族意識や文化意識が強くなってくるようである。

 自分の民族、文化を大切にするのはけっこうなことであるが、問題も生じてく る。「人間とは自己認識したがる動物である」という言葉があり、民族は自己の 文化を認識したがるために、自分達の文化をかたくなに守るのであろう。「自己 の文化の認識」を裏返して考えると、「他民族の文化と異なる」ことをなんらか の方法で確認することである。ところが人間とは愚かなものでいつのまにか「異 なる」ことを確認するどころか、他文化に対する不信や嫌悪に発展してしまう。
 たとえば、風呂に入る行為は我々日本人には何の抵抗もなく受け入れられるが、 アメリカ人の多くシャワー浴を好み入浴を毛嫌いする。逆にシャワーは日本に紹 介された頃は、日本人特にお年寄りに毛嫌いされた。これが、風呂の問題に止ま っていればよいのだが、それに言語や宗教が入ってくると、他文化への不信、嫌 悪は他民族への差別や敵対心に発展してゆく。身近な問題としては、我々の病棟 の診療体制も一つの文化とみなすことができる、ある日、新人の医師がはいって くると、彼は我々の方法とは異なる診療をおこなう。すると、ある看護婦が僕の 所にきて「あの先生のやり方はおかしです」とケゲンナ顔をして僕に訴える。こ れも文化の違いによる摩擦のようなものである。

 前に「人種差別」という言葉はおかしいと書いたことがあるが、我々が日常人種 差別といっているものは実は民族差別であってその根本は文化差別である。多数 民族と少数民族がいれば、差別を受けるのはほとんど少数民族に決まっている。
 差別を受けた少数民族が或る地域に固まって住んでいれば、差別から逃れる簡単 な方法は独立することである。20世紀後半には多くの小さな国が独立した、ほ とんどが「民族自決」などとそれらしいスローガンをたてるが、実際は苛めに会 った少数民族の逃避的処置に過ぎない。
 ところが独立しようと思っても独立できない民族もいる。今アメリカがミサイル を使用して国際情勢を騒がせているイラク問題があるが、これは多数民族のイラ ク人とクルド人という少数民族の間で起こった問題にアメリカが軍事介入をした のである。クルド人はイラク、イラン、ロシア、トルコの4国の国境付近に住ん でいる。このため独立国を造る為にはこれらの4国から同時に独立しなければな らない。ところがこれら4国とも民族も宗教も異なるため、足並みをそろえてク ルド人の独立を認めることはまずない。クルド人はまず永久に一つの独立国を造 れない非運な民族ということになる。
 21世紀にはおそらく、独立可能な一民族一国家はすべて独立して、国の数は3 00位になるかもしれない。しかし、ほとんどの国は多民族国家のままで、地域 的には独立できない民族が自決を訴え、内乱が絶えない時代となるかもしれな い。戦乱の絶えることの無いボスニア・ヘルツエゴビナの問題はそのほんのはし りに僕には思えるのである。温泉につかりながら、文化の問題から出発し21世 紀の世界についてまで考えてみた。