はじめに



 僕は体力もなく、たいして手先が器用でもなく、 頭が良かった訳でもないが、医科大学を卒業する と体力、器用さ、頭脳を求められる心臓外科の医 局に何故か入ってしまった。入局した昭和54年 頃は心臓外科の成績は現在のように安定したもの ではなく、手術をしても患者さんが助からないこ とが多かった。

 毎日、助手として手術に入れられ、先輩の先生 方からどなりちらされる。10時間以上におよぶ 手術の後は寝の番をさせられてここでもまた点滴 の速度が悪いだとか、呼吸器の設定が悪いだとか 言われては怒られまくる。くたくたになって明け 方うとうとし、ふと気がつくと患者の状態は悪く なっていてまた怒られる。そして数日後には、努 力のかいなく患者さんを病院の裏門から送りだす。 そんなことが入局した当時は多かった。

 新入医局員としてこんな生活を送っているうち に、手術というものが怖くなってきてしまった。 気が小さく、おっかながり屋の僕は段々手術から 遠ざかり、手術に参加しなくてもよい集中治療室 に勤務するようになった。そのころ人前ではちょ っと洒落たイメージで「手術をしない外科医」な どと自分の事を話していたが、実のところ「手術 がおっかなくて逃げ回っている外科医」というの が正直なところであった。そういう「手術を恐れ る外科医」である自分を見ていると、本来空を飛 ぶべきなのに高い所を怖がっている「高所恐怖症 の鳥」のような感じがしたものであった。

 そんな臆病な僕が、30才から三年間アメリカ のセント・ルイスにあるワシントン大学の心臓外 科に留学し、そこでさまざまな出来事、多くの人 と出会って人生修行のようなものをした。この留 学が自分の自己改造のきっかけとなり今でも、「 臆病な自分」を「強い自分」にする自己改造は進 行中である。

 35才から海老名総合病院の循環器科の長とな り、医者は僕一人、看護婦さんは10人足らずと いうおそらく日本一小規模な循環器科をスタート させた。病院から200m位しか離れていない家 にはほとんど帰らず、病院で寝泊りする生活をし ているうちに、朝日が昇り始めるころ医局でワー プロ相手に雑文を書く習慣ができてしまった。

 僕の留学時代の体験を書き綴ったのがきっかけ であった。そして留学の思い出以外にも、苦労し た時に出会った人、道を歩いている時ふと思いつ いたこと、怒ったこと、美しかったこと等々が僕 にこんなに沢山の雑文を書かせてくれた。この本 に収めた雑文の多くは、一編づつ海老名総合病院 循環器病棟の看護勤務室の机に置いておき、看護 婦さん達に読んでもらった。そして僕と言う人間 が何を考えているのかを知ってもらうのと同時に、 自分の経験を基に彼女らに人生の知恵みたいなも のを与えたつもりである。

 この雑文集は、平成8年4月に自費出版した「 高所恐怖症の鳥の随筆」を基にした続編のような ものである。今回は「随筆」ではなく「高所恐怖 症の鳥が書いた雑文集」とした。それは自分の書 いている文章が「随筆」などという格調の高いも のではなく、単なる雑文であると気がついたから である。僕の文章はまぎれもなく悪文であるが、 文章自体が僕に文章を書く楽しさ、苦しさを教え てくれた、そして自分の書いた文章が僕自身に「 おまえは実はこんな事を考えているんだよと」と 語りかけ自己発見をさせてくれたことが何とも喜 ばしかったのである。