秋山先生の話し



秋山先生の話し  日本医大に入学し何かのきっかけで、数学研究室に出入りするようになった。そ のころ、ようやく世の中に出始めたコンピューターに関心をもち、同級生と「数 理医学研究会」なる得体の知れないクラブを作り、授業をさぼってはキーボード 相手にプログラムを作っていた。
 その当時、日本医大の数学科には、近頃テレビ等に時々出演する異色の数学者秋 山仁先生がいらっしゃった。秋山先生は、学生の僕とは5才位しか違わなかった が、当時すでにグラフ理論という分野で、日本の数学会では頂点を究めていた。 もともと数学好きであった僕は数学研究室に足を運んでは秋山先生から、数学の ことや、人生感、学問のしかたなどを教えて頂いた。

 秋山先生はよく「コンピューターは数学ではない」とおしゃっていたが、秋山仁 先生の指導のもと「フォートラン講義」というコンピューターのプログラムの教 本を皆で書き(でっち上げたと言ったほうが良いかもしれない)出版したことも ある。その本が奇蹟的に売れて小額の印税らしきものが入ったが、新宿の飲み屋 で秋山先生と飲んでしまった。僕も秋山先生も無類の酒好きで、酒を飲み始める とほぼ歯止めなく朝の3時や4時まで、泥酔状態になるまで飲んだ。それから、 今となっては時効であるが100%酒酔い運転の秋山先生の愛車カローラに乗せ られ、戸越銀座の先生のマンションに連れていかれて寝た。
 仮眠をとって喉が乾き、酒のため頭痛がひどく目を覚ますと、秋山先生はもうと っくに起きて何やら仕事をしている。先生は何をしているのだろうか尋ねると、 1時間ばかり仮眠をとってから論文を書いているとのことであった。僕は二日酔 で午前中の授業はサボろうと、とっくに決めているのに、先生はわずか1時間ば かりの仮眠をとっただけでもう論文を書いていた。

 先生はそのころ月に2ー3編の論文を書いていた、これは今考えても驚異的なペ ースである。昼は授業や講演、夜はほぼ毎晩我々と酒の付き合いなどに忙しい先 生が、いったい何時論文を書いているのだろうか不思議に思っていた。我々が二 日酔いでぐたぐたしている時間に先生は論文を書いていたことがわかった。そん な事に感心していると、「じゃ大学に行くぞ」と言われてまたカローラに乗せら れ、途中で二日酔いと車酔いで吐きそうになりながら大学まで連れていかれた。  午前中の授業にかろうじて出席し、熟睡をとって元気になり、昼ご飯を食べて、 数学教室に顔を出すと、秋山先生は何時も紙に幾つか点を書いて、あっちの点と こっちの点を線で結んだり、消したりしていた。先生にそんなパズルのような事 をいい大人がして一体なんのためになるのでしょうかと尋ねると。「今はクダラ ナイ事のように見えるが10年後か100年後には何かの役にたつはずだ」と答 えていた。その時は点と点の結び方を考えるグラフ理論より、我々が医科大学で 学んでいる医学のほうが遥かに社会や人間のためになると考えていた。しかし、 後年アメリカに住んでいた時、アメリカ中に蜘蛛の巣のように張り巡らされてい る電話回線が、グラフ理論に基づいて配線されていることを知った。多数の点で ある電話の間に電話線を配線する方法如何によては電話線は何倍も必要となりま た効率も悪くなる。そこで電話間の電話線を最小で効率よく配線する方法にグラ フ理論が用いられている。なるほど数学というのは一見クダラナイ事のように見 えるが実は社会に貢献しているのだなと思った。

 元東大地球物理学教授の竹内均が「大陸が動くといって飯を食え」といった。大 陸が年に数センチ動くかどうかわかったところで、明日からの我々の生活に直接 変化は無いが、それが我々の生活に本当に意味をもってくるのは何十年後、何百 年後なのである。竹内均の言葉は、学問とはこのように明日の生活には関係ない が、遠い未来に意味をもってくる事実を探り当てるのものであり、学者はそのよ うな学問をしながら生活をするものだと言う意味なのだろう。
 大学生の頃は学問の意味は確固たるものとして自分の頭の中には無かったが、卒 業して15年、秋山先生の話を思い出すと学問の意味が何かはっきりしてくる。 クダラナイ事だが真理を追及するのが学問なのである。
 また秋山先生はよく「どんな小さな分野でもいいから一番になれ」とおっしゃっ ていた。先生は大学院生の頃、微分方程式という数学の世界ではメジャーな分野 の研究をしていたそうだが、その分野ではすでに世界的権威が沢山居てとても自 分が入って行くすき間の無いことがわかり、数学を一時断念しそうになった時期 があった。その時にまだ誰も手をつけていなかったグラフ理論という新しい分野 に出会い、一気にその頂点に上りつめ、数学者として大成功した。

 後年、僕も「心房細動のMapping」という仕事をしたが、これも誰もがやりたが らない分野の仕事で、こんな事を研究するのはちょっと風変わりな奴というレッ テルが貼られた。しかし、誰もやらなかった研究だけにほぼ独占市場で、いくつ か世界に通用する論文も書け、日本ではもちろん一番となったし、世界でもおそ らくこの分野に関しては3本の指には入るであろう。さらに、手術がたいしてう まくもない僕に時々あっちの病院こっちの病院から心房細動の手術に呼ばれるの も、研究している範囲は狭いが、自分以外の誰にもできない「心房細動の Mapping」という技術を自分で開発したためである。

 秋山先生はまた研究者であると共に教育に情熱をもっていた、しかし教育とは研 究以上に難しく、いつも頭を悩ませていたようだ。世界有数の頭脳を持つ先生で も人を相手とした教育にははなはだ手をやいていた。そして、よく居直ったよう に「こうなったら教育するなんて考えないで、オレの生き様を見せる以外にない な!」と捨て台詞のように言っていた。
 秋山先生はどのように思っているか知らないが、僕は先生に教育されて育ったと 思っている。学問に対する考え、朝早起きして論文を書く方法、研究の仕方、そ して教育のやりかた、これらは全て秋山先生の「生き様」を見て僕は学んだ。人 に自分の生き様を見せて教育をする人がおそらく最高の教育者なのだろう。最 近、読んだ本に感銘を受けた一節があり時々復唱する、  「教えること尊し、教えるとも知らで身体で教える人さらに尊し   導くこと尊し、導くとも知らで後姿で導く人さらに尊し」 教育の原点とはかく有るべき物なのだろう。



  30年前の数理医学研究会のメンバー
  日光で合宿した時のものです
 合宿といっても朝から晩まで
 酒を飲んでいたような気がします
 何を研究したかなんて何も覚えていません

 右から三人目の変なオッサンが秋山先生
 一番左が僕ですが小さく分からないですね