自由と平等とは言うけれど

平成15年10月26日



 平成16年の大ニュースの1つはイラク戦争ですよね。イラク戦争の主役は2人 でアメリカのブッシュ大統領とイラクのフセイン大統領でしたが、ブッシュ大統領 は別としてフセイン大統領は今何処で何をして居るんでしょうか?フセイン大統領 に関しては死亡説と逃亡説の二つがあるようです。もしも生きていたら、アメリカ から多額の懸賞金をかけられて世界中を逃げ回る生活をしながら大統領時代とはう って変わった不自由な生活をしていることと思います。フセイン大統領とその直属 のバース党の党員たちはイラク戦争前は何一つ不自由の無い生活していたと思いま すが、戦争に負けて一旦権力を失うと自由は何一つない不自由な生活に陥れられる ことになりました。
 アメリカのイラク戦争の作戦名は皆さんご存知のごとく「イラクの自由」でした が、真意は別として、うたい文句はフセイン政権に抑圧されたイラク人民に自由を もたらす為の作戦名であったはずです。戦争はアメリカの圧勝に終わり、予定通り に抑圧された人民は解放されて自由を獲得し「イラクの自由」は達成されたことに なります。ところが、その反面今まで自由を満喫していたフセイン大統領とその一 派は自由を失い逃亡生活を余儀なくされることになりました。

 戦争とか革命の大義名分は「自由の為に」が多いと思いますが、戦いの結果は今 まで自由を束縛されていた人たちが自由を獲得する反面、それまで自由を満喫して いた人達が自由を奪われる事になります。他人に不自由を強いねば、自分の自由が 獲得されないそれが自由という物なのでしょうか。

 話はぐっと身近になって日常生活で、「電車の中で足を投げ出して座っている人 」、「人混みの中で大声で携帯電話をかけている人」、「我が物顔に道路をバイク や自動車で暴走する人」などなどの光景によく遭遇します。こういう事をやってい る人たちが注意をされると「自分の自由だから他人にとやかく言われる事はない」 と切り返してくることが多いようです。彼らが自由に振舞うということは、その廻 りの人たちの自由を奪い取っていると言う事になるんです。「自由である事」を美 徳として、「自由」を奨励する戦後の教育に欠けているものは「他人に不自由をか けないと、自分の自由が獲得されない」という「自由」の不自由さを理解させる事 なのではないでしょうか。

 さて「自由」と同様にもてはやされる言葉の代表は「平等」ですが、平等も自由 と同じに問題点が多いですね。たとえば、兄弟を平等に育てるのが教育方針だとか 聞きますが、兄弟おのおの個人差があるのに平等にしても本人たちは平等とは受け 取らないのが現実でしょう。同じ年令と経験をもつ二人の会社員に同じ給料を払っ ても、能力の有る方の人は「自分の方が有能で実績も上げているのに自分より能力 の劣る人と同じ給料では不平等だ」と考える事になります。平等に扱うと言う事は、 扱われる人たちに不平等を強いる事になります。
 衆議院が解散され選挙も近くなり「自由と平等」と言ううたい文句を時々耳にす るけれど、「自由と平等」を成し遂げるにはいつも「不自由と不平等」が付いてま わる事を理解しなくてはいけないんじゃないかと思います。