死後、つまりは死んだ後の事ですが、当たり前の事として話し始めるのは困難です。
大別して『ある・ない』に分かれるし、さらに『ある』のなら、一体そこは、それは、どんなものなのか。
まさに、十人十色な価値観が存在するでしょう。
しかし、ここは私の心内を吐露する場所ですので、私がどう考えているのか、から始めましょう。
「ある、と好いなぁ。」という半端な感じですかね(^_^;
UFO等もそうなんですが、ないよりゃ在った方が面白いじゃん。というスタンスなんです。
実際、自らは霊体験がないので、経験則から『ある』とは言えない。
だが、怪談やら怖い話やらは大好きである。
完全なフィクションだと思っていないのが、好きな理由の1つ。
疑いを残しておくのが、娯楽に対する姿勢でもある訳です。
決して否定せず、です。
まぁ、死や霊に関しては、心臓がバクバクする程の恐怖を感じる。という本能によって、否定出来かねる面もある訳ですが……(^_^;
さて、一応でも『ある』とするなら、それはどんなものなのだろう。
まず第一に、極楽浄土とか三途の川、地獄に天国、天使に悪魔。
そういった、宗教色の強いものは却下です。
私は、無神論者ですから。
世の代表的な宗教は、その全てが『人心掌握術』だと思っています。
どう考えても『人間の都合』に合わせた文句ばかりです。
しかし、自然への畏敬が、自然現象を神格化させたタイプの民間信仰には否定的ではないです。
それを転じて、妖怪狐狸の類は大好きで、「いて欲しい。」
さらに転じて、幽霊もいそうだと考えると、彼らは脳や心臓に、観念的には在って科学的にはない“魂”の事だろうか。
医学的には説明出来ていない“臓器の記憶”も、未だこの世に在る魂が、生き続ける自らの肉体に引かれ、移植者に影響していると考えると納得してしまう。
ただ、魂が在り“死後も生き続ける”となると、成仏や転生といった宗教的なものに行き着いてしまい、元の木阿弥である。
要するに、解らないのである。死んだ事ないしねぇ(^_^;
では何故、あって欲しいと思うのか。
それを示す為にも、『ない』とした場合も考えてみよう。
死後など『ない』とするなら、具体的にはこう言う事か。
肉体が死に、走馬灯も観終わったら、眠る様に、気を失う様に、意識がブラックアウトする。
………まったく想像出来ん。
自らの意識下で、一切の時間も感覚も失う事など経験出来まい。
完全な闇と無音の世界でなら、時間と感覚の喪失を感じるそうだが、失っている、と感じている自我そのものは存在し続ける。
喪失感ではなく、本当に全てを喪失する……『無』とは何だろう?
夢も見ない睡眠。痛みも感じない麻酔状態。
そんな『無』は、後に覚醒下で知覚しているにすぎない。
本当の『無』。
それを理解出来ない。それが訪れる事が解らない。
自我の喪失。
その、想像もつかない事柄の、何と恐ろしい事か。
そして、死とはその入口であり、その先へは、一方通行なのだ。
生きる糧もなく、生に意味も意義も持たない小さいオノレが、何故に迷惑を省みず生き続けるのか。
それは、死によってもたらされるであろう自我の喪失を、ただただ、恐れるからである。
そして願うのだ。死後よ『あれ』と。
私にとっての死後。
それは、誰にも必ず訪れるが、受け入れ難く避けえぬ死を、それでも何時か享受する時に残される最期の希望。
皆さんにとってはどうですか?
あなたは、死後が『ある』と思いますか?
それとも、死後など『ない』と思いますか?
死後が『ない』のに、死ぬ勇気、ありますか?
死。
こればかりは、必ずあなたにも訪れます。
え、まだまだ先の話ですって?
本当にそうでしょうか。
ほら、振り向いてご覧なさい。
そこで手招きをしているのは、もしかしたら………
って、何で最後だけ物語風やねん(^_^;
記、04/11/20(土)
|