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マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
Manfred von Richthofen
(1892〜1918)


 第一次世界大戦において、80機撃墜を成し遂げた伝説的撃墜王。プロシア貴族の長男として生まれ、騎兵将校だった父と同様、軍人となったリヒトホーフェンは第一次世界大戦が勃発すると、騎兵少尉として東部戦線へ出征、後に西部戦線へと移動します。が、華々しい戦いを望んだ彼にとり、硬直した塹壕戦は退屈極まるものでした。そこで、当時騎兵の一科と考えられていた航空隊へと転属を希望し、認められます。
 当初、短期間の訓練で飛行機に乗れる偵察員となり、東部戦線の第69飛行隊へ配属されますが、敵機とまみえる機会なく、1915年8月には西部戦線の『オステンド伝書鳩輸送隊(実態は史上初の爆撃隊)』へと転属します。敵機と遭遇する機会はあっても撃墜する事が出来ず、そんな時に出会ったベルケ中尉(当時4機撃墜。最終40機撃墜)との出会いが、彼にパイロットへの道を歩ませ、ベルケに誘われて、彼が編成した第二駆逐戦闘中隊(隊長ベルケ亡き後、ベルケ戦闘中隊と改名)に配属。9月17日に初撃墜を果たします。
 10月28日、戦闘中に僚機と空中衝突し、ベルケが戦死する中、スコアを伸ばしたリヒトホーフェンは第11駆逐戦闘中隊指揮官となり、“プール・ラ・メリート”勲章を拝受。この頃からリヒトホーフェンは真紅に塗った機体を駆り、“レッドバロン”の異名で呼ばれるようになります。後に第11駆逐戦闘中隊は全機赤く塗装され、『リヒトホーフェン・サーカス』の異名で呼ばれる事になります。
 皇帝との謁見後、第一戦闘航空団編成作業中の7月の哨戒飛行中に敵機と遭遇し、被弾。一命は取り留めますが、しばらく頭痛や目まい・吐き気と云った後遺症に悩まされます。
 80機撃墜を成したリヒトホーフェンですが、激戦続きで疲労の極みに有り、休暇を取る矢先の1918年4月21日の出撃で、イギリス軍のブラウン大尉駆るソッピース・キャメルに撃墜され、戦死します。
 イギリス軍は彼を手厚く葬り、その後、ドイツ軍陣地上空から“リヒトホーフェン大尉に捧ぐ”と記された哀悼の花輪を投下します。大量殺戮と化した地上の戦いと違い、第一次世界大戦の空は、華咲ける騎士道が残りし、最後の舞台でした。

補足

敵機と遭遇し、被弾=現在では、味方機が発射した流れ弾に当たったとする説が有力です。

第一戦闘航空団=
リヒトホーフェンの死後、“リヒトホーフェン航空団”と改名され、その最後の司令こそが、後にナチス・ドイツ国家元帥兼空軍総司令官となるヘルマン・ゲーリングでした。リヒトホーフェンの名はナチス・ドイツ空軍の第二戦闘航空団に冠せられ、多数の撃墜王を輩出することになります。

ソッピース・キャメルに撃墜され
=公式にはブラウン大尉の戦果となっていますが、リヒトホーフェン撃墜は対空機銃によるものだと地上部隊が主張した為に論争となり、この謎は現在に至るも解明されておりません。余談ですが、撃墜された日、リヒトホーフェンは飛行服の下にはパジャマを着て出撃していたそうです(本当?)。