エイブラハム・リンカーン |
Abraham Lincoln (1809〜1865) |
アメリカ合衆国第16代大統領。建国の父、ワシントンと並び、国民に最も愛された大統領の一人。 ケンタッキー州の貧しい農家に生まれたリンカーンは、独学で法律を学び、弁護士となります。 北部と南部の経済基盤の違いと、それに伴う奴隷制度の是非を巡っての南北の対立は、1820年のミズーリ協定で一旦妥協されますが、その協定を反故にする、カンザス・ネブラスカ法が成立されると、奴隷制拡大に危機感を覚えた人達が共和党を結成。リンカーンは上院議員選挙に出馬しますが、惜しくも落選します。 共和党の大統領候補に指名されたリンカーンは、1860年11月6日、第16代大統領に51歳で当選しますが、奴隷制反対を唱えるリンカーンの当選に危機感を感じた南部7州は連邦から離脱し、ジェファーソン・デイヴィスを大統領とする、南部連合を結成します。 これに対し、リンカーンは連邦制維持を第一に考え、その為なら奴隷制存続も止む無しと考えてました。 |
1861年4月12日、南軍がサムター砦へ攻撃を開始し、南北戦争が勃発すると、連邦に留まっていた4州が連邦から離脱、南部連合に加わりました。 北軍不利な戦況の中、奴隷解放宣言のタイミングを見計らっていたリンカーンは、アンティータムの戦いでの勝利を機に、1862年9月23日、『奴隷解放宣言(予備宣言。翌年1月1日に本宣言)』を公布します。これにより、戦争は奴隷制廃止の戦いと位置付けられ、独立戦争として諸外国からの支援を期待していた南部連合の(そして介入を見計らっていた諸外国の)意図を挫く事になりました。 1863年11月19日。ゲティスバーグにおける国立墓地献納式において、リンカーンのわずか3分間の短いスピーチは“ゲティスバーグ演説”として後世に残る事になります。 1864年11月、大統領に再選。翌4月9日、リー将軍がグラント将軍に降伏。それから間もない4月14日、首都ワシントンのフォード劇場にて観劇中に、狂信的南部主義者に狙撃され、9時間後に不帰の客となりました。 |
補足
ミズーリ協定=ミズーリが州に昇格する際、奴隷制を容認する代わりに、北緯36度30分以北は以後、奴隷容認州になる事を認めないとするもの。 カンザス・ネブラスカ法=カンザス、ネブラスカが州に昇格する際、奴隷州になるか自由州になるかを、住民投票で決定するというもの。両方ともミズーリ協定での“北緯36度30分以北”にあたり、これによりミズーリ協定は無効となりました。ちなみにカンザスは1861年に自由州として連邦に加入し、ネブラスカは南北戦争後の1867年に加入しました。 第16代大統領=リンカーンは大統領になるまでは髭を伸ばしていませんでしたが、ある少女からのファンレターに“顎髭を付けたほうが立派に見える”と書かれているのを読んで、顎髭を伸ばしました。 連邦制維持=「奴隷を一人も自由にせずに連邦を救う事が出来るなら、そうするだろうし、全ての奴隷を救う事で連邦を救えるのならば、そうするであろう」 『奴隷解放宣言(予備宣言。翌年1月1日に本宣言)』=これは「反乱状態にある地域の全ての奴隷は自由である」と云うものであり、連邦に忠誠を誓った奴隷容認州である、デラウエア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリや、既に北軍が占拠した地域は対象外とされました。これは、連邦に留まった奴隷容認州(いわゆる境界州)を刺激して敵に回らないようにする為の、苦肉の策でした。 |