ラジオで落語を聴く機会も少なくなったが、
3週間ほど前であっただろうか、六代目春風亭柳橋の「笠碁」を
聴いた。○代目と言われてもピンと来ないが、
昔「とんち教室」に出ていた柳橋氏である。
おっとりとした語り口で「笠碁」も得意の演目の一つであるが、
私が一番好きなのは「こんにゃく問答」である。
囲碁が主役の落語としては他に「碁泥」があるが、
将棋が主役となると「将棋の殿様」が思いつくだけである。
山本亨介著筑摩書房刊「将棋とっておきの話」によれば、
他にも「鼻の上の桂馬」「助言」「のめる」と言う演目があるそうだが、
これらの演目も聴いたことはあるのかもしれないが、
現在ではどのような内容なのか覚えていない。
世間では「碁将棋」と言って一緒くたにされることが多いが、
囲碁と将棋とではその性格は大きく異なっている。
そして前記の落語では両者の性格を良く捕らえて構成されているのが興味深い。
以下大まかなあらすじを交えて紹介していくこととする。
先ずは「将棋の殿様」であるが、この噺は単純明快、
将棋好きな殿様に困り果てた家来が殿様を懲らしめる噺である。
城の重臣である三太夫が頭がこぶだらけの家臣を見て不審に思い、
その理由を尋ねると「殿様に将棋で負けて殴られた」と言う話である。
負けたら相手の頭を鉄扇で殴って良いという条件で将棋を指すのだが、
殿様は負けそうになると『待った』の連発で、
家来にすれば『待った』を認めざるを得ないので勝てる道理がない。
これはいかんと思った三太夫が殿様と将棋を指すが、
三太夫は殿様の『待った』を一切認めないので、
好きなだけでヘボ将棋の殿様が勝てるはずは無い。
三太夫は約束だからと言って殿様の頭を思い切り殴りつけ、
これに懲りた殿様は城内で将棋を指すことを一切禁じてしまう、
と言う噺である。
この噺は勝負の対象が将棋だからこそ生きてくる。
ヘボ同士の対局だから、恐らく王将を取られるまで指されたことであろう。
そして殿様が家来の王将を取った瞬間に「わしの勝じゃ」となり、
直ちに鉄扇で家来の頭を殴りつける。
これがもし囲碁であったらどうなるであろうか。
当然途中で投了することは無いであろうから、
最後まで打って地を数えてみるまでは勝敗は分からないことだろう。
打ち終えてしばらくしてから勝敗が分かると言う状態であるから、
殿様としても鉄扇で殴る手に手加減が生じることであろう。
そしてそれよりも重大なことは、
数えてみたら殿様の負けだったと言うことも十分にあり得ることである。
さすがにこの段階では殿様も待ったも出来ないから、
逆に家来に殴られてしまう可能性もあるのである。
やはりこの噺は将棋でなければ成立しないのである。
次は「碁泥」であるが、
噺の前半は省略して後半だけを紹介する。
深夜まで碁を打っている家に泥棒が入ったのだが、
家族は既に寝入っているし、碁に夢中の二人は泥棒に気が付かない。
泥棒は難なく仕事を終えて帰ろうとするが、
あいにくとこの泥棒もまた囲碁が大好きなので、
大きな風呂敷包みを背負ったまま盤側に来て観戦を始めてしまう。
両対局者は親しい間柄なので一手毎に雑談を交えて打っており、
最初は黙って見ていた泥棒であるが、
ご多分に漏れず横から口を出すようになってしまう。
しかし対局者は口を出すなとは言いながらも、それが泥棒だとは気が付かない。
やがて一方の対局者が泥棒が背負っている荷物に気付き、
「この辺では見掛けない顔だが、一体貴方は誰ですか」
と尋ねると、観戦に夢中の泥棒はうっかり
「へい、あっしは泥棒です」
と答えてしまうのだが、対局者の頭にあるのは「泥棒」の単語だけで、
「泥棒さん、景気はどうですか」
と更に対局と会話を続ける。泥棒もつられて
「お宅に伺ってこんなに頂いちゃいました」
と返答し、対局者である家の主が
「そいつは上手いことをやりましたなぁ・・・
それじゃあこれからちょいちょいいらっしゃい」
と言う落ちで噺は終了する。
この噺は勝負の流れが緩やかな囲碁だからこそ成立するのであり、
一手の失敗で形勢が大きく変わってしまう将棋では成り立たない。
まあヘボ同士だからそれほど厳しい手の流れにはならないかもしれないが、
それでも囲碁に比べれは将棋の流れは急である。
泥棒と会話しながらの対局は無理と言うものであろう。
気長な男と気短な男の会話を主題とした「長短」と言う噺があるが、
柳橋氏の語り口はこの話に出て来る気の長い男そのもののようにも思える。
柳橋氏はこの「長短」も得意としていたようであるが、
何事もスピードアップされている現在においては、
このようなのんびりとした噺を演じられる落語家はいないかもしれない。
最後になったが「笠碁」は次のような噺である。
囲碁の他には趣味が無い碁敵同士が、
対局中の『待った、待たない』で喧嘩になった挙句、絶交状態となってしまった。
しかし他には趣味の無い二人なので打ちたくて仕方が無いのだが、
実力の伯仲した相手は互いの相手だけであり、
他の人間とは到底打つ気にはなれない。
だからと言って相手に謝罪する気にもなれず、
碁は打ちたいのだがその切っ掛けがつかめない。
しびれを切らした一方の対局者が一計を案じ、
玄関を開けっ放しにして通りからでも見える所に碁盤を置き、
自分も盤側に座って相手を待ち受けた。
碁を打ちたいのはもう一方も同様であり、
雨の日にもかかわらず家の前を行ったり来たりしている。
双方ともに謝ることはシャクなので、
入って来いとも、碁を打とう、とも言えないのである。
誘ってもなかなか入って来ないことに業を煮やした一方が「ヘボッ」となじると、
家の前をうろついていた相手も「ヘボとは何だ」と言って入ってくる。
それでは勝負だ、と言うことで対局を始めようとすると、
碁盤の上に水滴が落ちてくる。
碁が打てることに大喜びをした相手が笠をかぶったまま碁盤の前に来たので、
濡れた笠から雨が水滴となって落ちてきたのである。
この噺は囲碁が将棋に変わっても成立するように思えるかもしれないが、
実はやはり囲碁でなければ後味の良い落ちとはなり得ないのである。
囲碁の場合には盤の前に座れば直ちに対局を開始出来るが、
将棋の場合には駒を並べると言う作業が必要になってくる。
対局を開始する前に一呼吸おくことになるので、
水滴が落ちてきた時の緊迫感が囲碁に比べて減少してしまう。
それでは最初から駒を並べた状態で相手を待ち受けていたらどうなるであろうか。
この場合には囲碁同様直ちに対局に移れる訳だが、
駒が並んでいる上に水滴が落ちてきたのでは絵にならない。
何も無い盤面に水滴が落ちるからこそ様になるのであり、
駒の上に落ちたのでは下品になるだけである。
囲碁だからこそ現在まで生き残った演目であり、
これが将棋であったら廃れてしまった噺ではないだろうか。
最近では落語家と称する人達も、
噺家ではなくてタレントと呼んだ方が相応しいように思われる。
古典落語をそのまま演じても理解出来ない若者が多いと言う話を聞いたことがあるが、
生活様式の変化に伴って情景を思い描くことが出来ないのが原因のようである。
典型的な例として「へっつい幽霊」を取上げてみても、
実物を見たことが無いのは当然のことかもしれないし、
肝心の「へっつい」と言う言葉そのものを知らない者の方が多い時代なのである。
「笠碁」に出てくる「笠」は頭に被る物であり、
現在主流となっているような手に持って差す「傘」のことではない。
民話の「笠地蔵」に出てくる「笠」であると言う説明が分かり易いであろうか。
勿論「笠」が「傘」になったのではこの噺は成立しない。
家の中に置いた碁盤が通りから見えると言うのも、
昔の平屋で一間の長屋だからこそ成立するのであり、
現在のマンションや一戸建ての家では到底表から家の中を見ることは出来ない。
尤もうっかり家の前をうろちょろしていたら、
自動車に撥ね飛ばされかねない時代でもあるのだが・・・
碁・将棋を題材とした落語を3話紹介したが、
意外と細かい所にまで気を配って作られていることに感心させられた。
やはり長く語り伝えられる作品にはそれなりの要素が含まれているようである。