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 持ち時間

 チェスクロックの普及に伴い、 アマチュアの間でも持ち時間制の対局が増えているようである。 私自身はそう言う将棋は嫌いなので、チェスクロックは使用したことがない。 パソコンの将棋ソフトでも持ち時間の設定が出来る製品もあるが、 これもあまり短い時間に設定したことは無い。
 ゲームセンター等に置かれていた将棋のゲームは、 将棋自体よりも時間との戦いが主体となってしまう。 振り飛車戦で駒の取り合いが多くなってくると、駒を取る時は良いのだが、 駒台から盤面に駒を打つ時には貴重な時間が浪費されてしまう。 対局で負けることは無く、全て時間切れでゲームオーバーとなってしまうのである。 あれはとても将棋の対局と言えるものではない。
 
 持ち時間制度(規則と言う表現は不適当と思われる)が確立したのは、 それほど古いことではないと思う。 秒単位にまで考慮時間の対象を広げるのであれば、 それに見合った精度の時計が必要であるからだ。 砂時計でも不可能ではないだろうが、そのためには多種多量の砂時計と、 それを操作する複数の人間とが必要となるであろう。
 砂時計でふと思いついたが、1個の大きな砂時計を使い、 互いに指し終えたら砂時計をひっくり返すと言うのはどうだろう。 つまりチェスクロックのボタンを押す代わりに、砂時計をひっくり返すのである。 勿論対局開始時には、砂が同量となるように調整しておく必要がある。 この方式で対象となる消費時間は固定されたものではなく、 相手との消費時間の差が一定時間に達した時に、砂が落ち切って負けとなる。 消費時間に差がなければ、持ち時間は無限と言うことにもなる。 手数が長くなった場合でも、いわゆる「切れ負け」と言うものは発生しない。 ただし余り重い砂時計では操作が負担となる恐れもあるので、 砂時計自体にも工夫が必要であるが。
 
 将棋の規則は少しずつ改善されながら現在に至っている。 新しい規則はどんなものでも当初は敬遠され、 対局が増えるに連れて徐々にその優秀性が認められ、 現在にまで至っているものと思われる。 持ち時間制度と言うものも、 制定当時は奇妙なものとして受け取られていたのではあるまいか。 持ち時間と言うものは将棋の本質とは無関係なものであり、 盤外での都合によって定められたものであるからだ。
 将棋本来の目的から言えば、考慮時間を制限されるのはおかしな話である。 将棋の原型は戦争を模したものであり、 実際の戦争においても作戦に要する時間は無制限ではない、 と言う考え方も存在するかもしれないが。 何れにしても持ち時間制度が、 時間と密接している報道機関等の影響を受けていることは間違いないだろう。
 アマチュアの場合には、昔は大会でも持ち時間制度はない場合が多かったと思う。 特別に長い勝負があった場合のみ、対局者の了解を得て秒読みが開始された。 対局者も状況を良く理解しており、秒読みに反対する人を見た記憶はない。 最近は大会に参加したことも無いので詳しい状況は知らないが、 参加者が増えるに連れて大会を運営する時間も増し、 予定された時間内に大会を終わらせる必要に迫られ、 必然的に持ち時間制度が採用されることになったものと思われる。
 大会に参加し、対局を有利に進めるためにはチェスクロックに慣れておく必要がある。 私なんかはチェスクロックを使ったことがないので、 押し忘れる可能性は極めて高く、たちまち時間が無くなってしまうことだろう。 そんな状態に陥らないためにも、 町道場等の対局でもチェスクロックが必要となってくるのであろう。 パソコン対局でも持ち時間の制限を設けることが出来るが、 こちらは自動的に計測してくれるのでチェスクロック操作の訓練にはならない。
 
 持ち時間の長さは名人戦の9時間から、NHK杯戦の25分まで、 棋戦によって様々であり、一定していない。 名人戦と竜王戦の決勝七番勝負では2日制となっているが、 封じ手も含めて2日制の勝負に疑問の声が出ていることは確かである。 何事にも迅速化が優先かつ尊重されている現代において、 2日もかけて勝負を争うのは時代にそぐわない、と言う理由が殆どのようである。 だが本当にそうなのだろうか。 以下、持ち時間に関する私の持論を紹介することとする。
 持ち時間制度が将棋の純理論とは無縁に制定されたこと既に述べてあるが、 では最適の持ち時間と言うものは存在するのだろうか。 9時間を長過ぎると言う人に対しては、 では最適の持ち時間と言うものは存在するのか、と問い質したい。
 5時間でも将棋は指せる。その通りである。
 3時間でも将棋は指せる。これもその通りである。
 25分でも将棋は指せる。これまたその通りである。
 だが、30秒でも将棋は指せる。10秒でも将棋は指せるのである。
 10秒将棋なんて将棋じゃ無い、と言う人がいるかもしれない。 それならばその人は、考慮時間を制限される将棋なんて将棋じゃ無い、 と思っている人に対してはどう答えるのであろうか。 持ち時間と言うのはその都度定められた制度であり、将棋の共通した規則ではない。 対局者はその棋戦で定められた制度にのっとり、 将棋の規則に従って対局するしかないのである。
 2日制の対局なんて古すぎる。 半分の5時間でも将棋は指せるのだから、9時間なんて長過ぎる。 あるいは持ち時間が5時間でも4時間でも、1時間程度の違いなら大して変らない、 と思っている人もいるかもしれない。 しかしそう思っている人でも、相手の持ち時間は5時間、自分は4時間だとしたら、 恐らく同意する人はいないだろう。 それは持ち時間が違うのは不公平だ、と言う単純な理由からではなく、 やはり5時間の将棋と4時間の将棋とは違うものであることを、 心の中では知っているからであろう。
 将棋と言うゲームは異なる個性を持った駒によって構成されている。 王将と他に1種類だけの駒しかなかったとしても、ゲームとしては成立する。 しかし面白みは全く無いものとなってしまうであろう。 性能が異なる駒が混在しているからこそ、複雑なゲームとして楽しまれているのである。
 2日制の将棋にも、直ぐに秒読みとなってしまうような将棋にも、 それぞれに個性があり、文化が存在する。 封じ手も食事の休憩時間も、それぞれが文化であり、その使い方は対局の一部でもある。 王将戦の七番勝負も指し込み制が廃止され、各棋戦共個性が無くなってきた。 対局のシステムについてはそれぞれ工夫しているようであるが、 将棋そのものに関しては持ち時間が違うだけで本質は変らない。 ここで各棋戦の持ち時間までもが同じになってしまえば、 単にスポンサーが違うだけの対局となり、 どの棋戦も似たようなものになってしまう恐れが強い。
 
 ところで持ち時間と言うものは、実際にどれ位の価値があるのだろうか。 突飛な考えかもしれないが、指し手の価値、 あるいは駒の価値に換算したらどうなるか、と言うことである。 将棋よりも囲碁の方が説明し易いので、碁を例に挙げて説明して行く。
 例えば持ち時間が5時間の対局において、一方が持ち時間を1時間減らす代わりに、 何目かのコミを貰えるというルールである。 双方が宣言したら単に持ち時間が減るだけの勝負となってしまうので、 選択権は一方(例えば白番)のみが有するものとし、 コミの値を宣言して相手が了解すればその条件で対局開始となる。 両対局者の好みによってコミの値は変るので、 現状よりも更に複雑なゲームになると思うのだが。 もちろん全ての対局に適用するのではなく、 賛同する対局者同士で適用すれば良いローカルルールである。
 将棋の場合でも色々な変則ルールが存在し、詰将棋にも適用されている。 現在の時点ではそれらのルールは公式に認められたものではなく、 あくまでもマニアの間でのローカルルールに過ぎない。 しかし駒の再使用を認めた現在の将棋も、 発案当初はローカルルールに過ぎなかったのではないだろうか。 面白いルールは生き残るが、つまらないルールは廃れて行く。 この原則は時代が変っても不変のものであろう。
 
 私自身は町道場へ行くことも少なくなり、実戦の機会は著しく減少した。 幸か不幸か、チェスクロックのお世話になったことは無い。 親しい者であれ見知らぬ人であれ、 余計な事に気を使わずに指せる将棋なら何時でも指したいものである。

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